60 / 87
【第三章 パン屋の正体】願いは儚く
願いは儚く(6)
しおりを挟む
「……なんだ。どうせなら、マリアの手で殺されたいって言ってるのに」
沈黙を破ったのはアウフミラーであった。
笑っているつもりか、顔を大きく歪ませて。
「安心しなよ。マリアは悪いことはしてないって。火種を用意しただけ。火をつけて火事を起こしたのも、オスマン軍に情報を流したのも全部オレだよ」
黙ってなさいよと叫ぶマリア・カタリーナを一瞥して、アウフミラーは「そうそう」と付け足した。
「市門を開けたのもオレだよ。マリアの服を借りてね。この女、異様に大きいから、オレの変装だって気付かなかったろ?」
「あ、あたし、父の居所をあんたに教えたじゃない。あんたが敵に流すだろうって分かってたっていうのに……」
シュターレンベルクが舌打ちし、同時にアウフミラーが笑う。
「閣下がシュテッフルにこもってるのは町のみんなが知ってることだろ。市長の居所だってそうだ。そもそも一般市民と同じ所に避難してるとか迂闊すぎ」
彼がさりげなくマリア・カタリーナを庇おうとしているのだということに、リヒャルトは気付いた。
ちらと見上げた父の表情は、それを察したか苦いものである。
「アウフミラーといったな。お前、しばらくここに居ろ。誰とも接触するな」
それで──と、指揮官は続けた。
「救援軍が来るか、オスマン帝国軍が包囲を解いて帰るか、或いはウィーンが陥ちたら……お前はその混乱に乗じて市を出ろ。どこへ行っても構わんが、二度と戻って来るな。娘にも会うな。いいな」
指揮官の、それは恩情であったろう。
敢えて無罪放免とするわけにもいかないが、何も処置を下さず混乱の中で本人の姿が消えれば、あとは忘れるだけだ。
この街でアウフミラーのことを知る者は多くない。
居なくなった画家など、誰も思い出したりはしない筈だ。
「ま、待ってください」
しかしそこに異を唱えたのはリヒャルトである。
「その前に、一つだけはっきりさせなくてはなりません。ルイ・ジュリアス殿を殺したのは貴方ですか!」
「ルイ・ジュリ……」
父の肩がピクリと震えたのが分かった。
その鋭い視線がリヒャルトを貫き、マリア・カタリーナを過ぎ、そしてアウフミラーの元で止まる。
あの時、炎の中でルイ・ジュリアスが倒れ、マリア・カタリーナが現れた。
リヒャルトは咄嗟に妹が犯人だと思い庇ったのだが、この期に及んで己の軽率な言動を恥じる。
どんなに性格が悪く根性が曲がっていたとしても、我が妹が人を殺すなどありえないではないか。
なぁ、そうだろうと視線を送る。
しかし手の中の武器を失ったマリア・カタリーナは、ぼんやりと宙を見つめていて、その表情から感情を読み取ることは不可能であった。
思い出せ。
あのときも妹はこんな顔をしていなかったか。
あのとき、リヒャルトはルイ・ジュリアスの後をつけた。
ルイ・ジュリアスはマリア・カタリーナを追っていて、そしてマリア・カタリーナはアウフミラーに付いて歩いていたに違いない。
火が上がってルイ・ジュリアスが撃たれ、そして彼女が現れた。
マリア・カタリーナは彼の死体を前に呆然としていたではないか。
──さっき見たんだ、リヒャルト殿の……。
ルイ・ジュリアスの言葉は銃弾に途絶えた。
リヒャルト殿の妹が火を付けたんだ──あの時は咄嗟にそう考えて妹を庇う真似をしたが、今はそれが誤りであったと分かる。
さっき見たんだ。
リヒャルト殿の妹のそばにいた男が、街に火を──ルイ・ジュリアスはそのように告げようとしていたに違いない。
アウフミラーは俯いていて、今どんな顔をしているか伺うことはできない。
醜く歪んだ口元だけが見えて、リヒャルトを不快にする。
その唇が唐突に動いた。
「……マリア」
愛しい男に名を呼ばれ、彼女は全身を震わせる。
「これ、マリアにあげるよ。オレが持ってても、もう描く機会はないだろうからね」
差し出されたのは彼愛用の帳面であった。
捕えられた時でさえ手から離さずにここまで持ってきたものだ。
反射的に受け取ってから、マリア・カタリーナはアウフミラーの言葉に衝撃を受けたかのように彼の方を見やる。
「それを貸せ」
グイードが彼女の手から粗末な冊子を奪い取ろうと手をのばした。
絵と見せかけて仲間への暗号や秘密が隠されているのではと勘ぐったのだろう。
させじと胸に抱え込んで、それを守るマリア・カタリーナ。
沈黙を破ったのはアウフミラーであった。
笑っているつもりか、顔を大きく歪ませて。
「安心しなよ。マリアは悪いことはしてないって。火種を用意しただけ。火をつけて火事を起こしたのも、オスマン軍に情報を流したのも全部オレだよ」
黙ってなさいよと叫ぶマリア・カタリーナを一瞥して、アウフミラーは「そうそう」と付け足した。
「市門を開けたのもオレだよ。マリアの服を借りてね。この女、異様に大きいから、オレの変装だって気付かなかったろ?」
「あ、あたし、父の居所をあんたに教えたじゃない。あんたが敵に流すだろうって分かってたっていうのに……」
シュターレンベルクが舌打ちし、同時にアウフミラーが笑う。
「閣下がシュテッフルにこもってるのは町のみんなが知ってることだろ。市長の居所だってそうだ。そもそも一般市民と同じ所に避難してるとか迂闊すぎ」
彼がさりげなくマリア・カタリーナを庇おうとしているのだということに、リヒャルトは気付いた。
ちらと見上げた父の表情は、それを察したか苦いものである。
「アウフミラーといったな。お前、しばらくここに居ろ。誰とも接触するな」
それで──と、指揮官は続けた。
「救援軍が来るか、オスマン帝国軍が包囲を解いて帰るか、或いはウィーンが陥ちたら……お前はその混乱に乗じて市を出ろ。どこへ行っても構わんが、二度と戻って来るな。娘にも会うな。いいな」
指揮官の、それは恩情であったろう。
敢えて無罪放免とするわけにもいかないが、何も処置を下さず混乱の中で本人の姿が消えれば、あとは忘れるだけだ。
この街でアウフミラーのことを知る者は多くない。
居なくなった画家など、誰も思い出したりはしない筈だ。
「ま、待ってください」
しかしそこに異を唱えたのはリヒャルトである。
「その前に、一つだけはっきりさせなくてはなりません。ルイ・ジュリアス殿を殺したのは貴方ですか!」
「ルイ・ジュリ……」
父の肩がピクリと震えたのが分かった。
その鋭い視線がリヒャルトを貫き、マリア・カタリーナを過ぎ、そしてアウフミラーの元で止まる。
あの時、炎の中でルイ・ジュリアスが倒れ、マリア・カタリーナが現れた。
リヒャルトは咄嗟に妹が犯人だと思い庇ったのだが、この期に及んで己の軽率な言動を恥じる。
どんなに性格が悪く根性が曲がっていたとしても、我が妹が人を殺すなどありえないではないか。
なぁ、そうだろうと視線を送る。
しかし手の中の武器を失ったマリア・カタリーナは、ぼんやりと宙を見つめていて、その表情から感情を読み取ることは不可能であった。
思い出せ。
あのときも妹はこんな顔をしていなかったか。
あのとき、リヒャルトはルイ・ジュリアスの後をつけた。
ルイ・ジュリアスはマリア・カタリーナを追っていて、そしてマリア・カタリーナはアウフミラーに付いて歩いていたに違いない。
火が上がってルイ・ジュリアスが撃たれ、そして彼女が現れた。
マリア・カタリーナは彼の死体を前に呆然としていたではないか。
──さっき見たんだ、リヒャルト殿の……。
ルイ・ジュリアスの言葉は銃弾に途絶えた。
リヒャルト殿の妹が火を付けたんだ──あの時は咄嗟にそう考えて妹を庇う真似をしたが、今はそれが誤りであったと分かる。
さっき見たんだ。
リヒャルト殿の妹のそばにいた男が、街に火を──ルイ・ジュリアスはそのように告げようとしていたに違いない。
アウフミラーは俯いていて、今どんな顔をしているか伺うことはできない。
醜く歪んだ口元だけが見えて、リヒャルトを不快にする。
その唇が唐突に動いた。
「……マリア」
愛しい男に名を呼ばれ、彼女は全身を震わせる。
「これ、マリアにあげるよ。オレが持ってても、もう描く機会はないだろうからね」
差し出されたのは彼愛用の帳面であった。
捕えられた時でさえ手から離さずにここまで持ってきたものだ。
反射的に受け取ってから、マリア・カタリーナはアウフミラーの言葉に衝撃を受けたかのように彼の方を見やる。
「それを貸せ」
グイードが彼女の手から粗末な冊子を奪い取ろうと手をのばした。
絵と見せかけて仲間への暗号や秘密が隠されているのではと勘ぐったのだろう。
させじと胸に抱え込んで、それを守るマリア・カタリーナ。
10
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
毛利隆元 ~総領の甚六~
秋山風介
歴史・時代
えー、名将・毛利元就の目下の悩みは、イマイチしまりのない長男・隆元クンでございました──。
父や弟へのコンプレックスにまみれた男が、いかにして自分の才覚を知り、毛利家の命運をかけた『厳島の戦い』を主導するに至ったのかを描く意欲作。
史実を捨てたり拾ったりしながら、なるべくポップに書いておりますので、歴史苦手だなーって方も読んでいただけると嬉しいです。
西涼女侠伝
水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超
舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。
役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。
家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。
ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。
荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。
主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。
三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)
涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。
朝敵、まかり通る
伊賀谷
歴史・時代
これが令和の忍法帖!
時は幕末。
薩摩藩が江戸に総攻撃をするべく進軍を開始した。
江戸が焦土と化すまであと十日。
江戸を救うために、徳川慶喜の名代として山岡鉄太郎が駿府へと向かう。
守るは、清水次郎長の子分たち。
迎え撃つは、薩摩藩が放った鬼の裔と呼ばれる八瀬鬼童衆。
ここに五対五の時代伝奇バトルが開幕する。
旅路ー元特攻隊員の願いと希望ー
ぽんた
歴史・時代
舞台は1940年代の日本。
軍人になる為に、学校に入学した
主人公の田中昴。
厳しい訓練、激しい戦闘、苦しい戦時中の暮らしの中で、色んな人々と出会い、別れ、彼は成長します。
そんな彼の人生を、年表を辿るように物語りにしました。
※この作品は、残酷な描写があります。
※直接的な表現は避けていますが、性的な表現があります。
※「小説家になろう」「ノベルデイズ」でも連載しています。
漆黒の碁盤
渡岳
歴史・時代
正倉院の宝物の一つに木画紫檀棊局という碁盤がある。史実を探ると信長がこの碁盤を借用したという記録が残っている。果して信長はこの碁盤をどのように用いたのか。同時代を生き、本因坊家の始祖である算砂の視点で物語が展開する。
【受賞作】小売り酒屋鬼八 人情お品書き帖
筑前助広
歴史・時代
幸せとちょっぴりの切なさを感じるお品書き帖です――
野州夜須藩の城下・蔵前町に、昼は小売り酒屋、夜は居酒屋を営む鬼八という店がある。父娘二人で切り盛りするその店に、六蔵という料理人が現れ――。
アルファポリス歴史時代小説大賞特別賞「狼の裔」、同最終候補「天暗の星」ともリンクする、「夜須藩もの」人情ストーリー。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる