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【第三章 パン屋の正体】願いは儚く
願いは儚く(5)
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──今です。
リヒャルトの足に力が込められる。
飛びかかって妹の手から刃物を奪おうという体勢だ。
しかしマリア・カタリーナの手を凝視したまま、リヒャルトはその場を動けなかった。
彼が腕をのばすより一瞬早く、灰色の女の手から刃のきらめきが奪われたからだ。
「これはお前の短剣だな、リヒャルト」
リヒャルトの頭上にため息が落ちる。
そこにいたのは、こんな所に来る筈のない一人の武人であった。
「あっ、えっ、私の剣……」
今更ながら、リヒャルトがあたふたと自身の腰のあたりを探る。
身に帯びていた短剣がない。
鞘のみが間抜けに残っているだけだ。
いつの間にか、マリア・カタリーナに盗られていたようだった。
その剣を手元に弄びながら、室内を見回して大袈裟にため息をついたのは兄妹の父、シュターレンベルクであった。
大柄な身体が部屋に入りきらないといった様子で、出入り口を塞いでいるグイードも一緒だ。
シュターレンベルクの視線は刃の上に伏せられ、それからおもむろにグイードを睨む。
「どう考えてもおかしいだろうが。この三人がお前に歌をせがむなんて。下らん策に乗せられてどうする」
「す、すまぬ。おれが迂闊だった。声を褒められてつい……」
「お前の声にも歌にも、褒める要素なんて一つもないだろうが。怪しいと思え。まんまと間諜を逃がすところだった。まったく、どいつもこいつも」
まぁグイードの下手すぎる歌のせいで、陵堡で見回り中だった俺の所に兵士からの苦情が殺到してな。
おかげでこいつらの企みにも気付けたわけだがと、指揮官は従弟に対して回りくどい嫌味を投げている。
「す、すまない。兄上」
良い気持ちで歌っていたグイードの姿を思い出すにつれ、申し訳ない気持ちでリヒャルトの胸はいっぱいになる。
人除けのために自分の音痴が利用されたのだと悟り、歌手志望のこの武人は傍目にもはっきり分かるほど落ち込んでしまっていた。
「か、間諜は貴様一人ではなかろう。仲間がいる筈だ」
結局。グイードの苛立ちは、この場の弱者たるアウフミラーへ向けられることとなる。
しかし巨漢の武人の姿など、目に映ってすらいないかのようにアウフミラーの視線はグイードを通り越して宙をさ迷っていた。
「お父さま、ナイフを返してちょうだい」
マリア・カタリーナの目も、ずっとこの不実な男に注がれたまま。
駄目だとシュターレンベルクは短く遮る。
「返せばどうする。こいつを刺すのか」
「それは……それは、もちろん……」
「お前に死体の処理ができるのか? しかも刺殺体の。血はなかなか止まらないぞ。いつまでも転がしておくと階下に漏れて騒ぎになる。止血に成功したとしても、死体を抱えて階段を降りられるものか」
「処理……」
明らかに傷付いたように俯く娘。
とにかくお前ら三人ここから出ていけと、追い払うように手を振る仕草を繰り返す父。
「ヒドイよ、そんな言い方ッ!」
噛みついたのはフランツである。
マリア・カタリーナの硬直した背をさすり、そしてシュターレンベルクを睨み付ける。
「お前、誰の味方なんだよ」
「そ、そんなの……僕はいつだってシュターレンベルクの味方だよ。知ってるでしょ!」
「……そうは見えんがな」
フランツの大きな双眸がたちまちのうちに潤むのが分かる。
どうしたら良いか分からず、リヒャルトは半歩だけ足を踏み出した体勢のまま黙って立ち尽くしていた。
自分の今の状態がかなり間抜けに見えるであろうことは察せられる。
だが何を言えば、どうすれば良いか分からず、フランツが妹を慰めるている姿を見つめるだけ。
一瞬遅れた。
本来なら彼女に声をかけ、そして父を諭しているのは自分である筈だったのに。
「あの、マリア・カタリーナ……」
おずおずと呼びかける。
この間抜けさ。
大丈夫ですか、なんて言いかけたその時だ。
女が顔をあげた。
疲れ切ったその表情、しかし灰色の目だけがギラギラ輝いていて。
それは直感、であろうか。
嫌な予感に襲われてリヒャルトは口を開きかける。
その瞬間、灰色が翻った。
「死体の処理なんて経験済みよ! お父さま、それをよこしなさいよっ!」
シュターレンベルクの右腕に、マリア・カタリーナが飛びかかったのだ。
両手でわしづかむように腕を捻りあげると、父は呻き声をあげて短剣を取り落とした。
それを素早く拾い上げたのも、また彼女の執念であったろう。
皇帝に仕える武人が三人もいる中、灰色の小娘は愛しい男目がけて刃を振り上げた。
「駄目だよッ!」
この局面でマリア・カタリーナの腕にしがみついたのはフランツである。
「放しなさっ……!」
小柄な身体を、ともすれば振り回されながらも決して放さない。
「そ、そうです。駄目ですっ!」
我に返ったリヒャルトも妹の手を押さえにかかる。
が、怒りに駆られた女の力は凄まじいもので、なかなか短剣を奪いとれない。
「あ、貴方、お逃げなさい!」
せっかく庇ってやろうとしているアウフミラーも、表情を変えることなくその場を動かない──尤もこの場合、リヒャルトが庇ってやっているのはアウフミラーではなく妹の方であるのは確かだが。
「放しなさいよっ!」
「駄目です!」
「落ち着いてよッ!」
男二人でマリア・カタリーナの腕に取りすがってジタバタしているうちに、背後から近付いてきた巨漢の手が短剣を簡単に取り上げてしまった。
グイードである。
短剣を指揮官に手渡し、マリア・カタリーナを見下ろす視線には怒りと憐れみが入り混じる。
激しい呼吸音以外、誰も声を発しない。
氷のような静けさに、部屋は沈んでいた。
リヒャルトの足に力が込められる。
飛びかかって妹の手から刃物を奪おうという体勢だ。
しかしマリア・カタリーナの手を凝視したまま、リヒャルトはその場を動けなかった。
彼が腕をのばすより一瞬早く、灰色の女の手から刃のきらめきが奪われたからだ。
「これはお前の短剣だな、リヒャルト」
リヒャルトの頭上にため息が落ちる。
そこにいたのは、こんな所に来る筈のない一人の武人であった。
「あっ、えっ、私の剣……」
今更ながら、リヒャルトがあたふたと自身の腰のあたりを探る。
身に帯びていた短剣がない。
鞘のみが間抜けに残っているだけだ。
いつの間にか、マリア・カタリーナに盗られていたようだった。
その剣を手元に弄びながら、室内を見回して大袈裟にため息をついたのは兄妹の父、シュターレンベルクであった。
大柄な身体が部屋に入りきらないといった様子で、出入り口を塞いでいるグイードも一緒だ。
シュターレンベルクの視線は刃の上に伏せられ、それからおもむろにグイードを睨む。
「どう考えてもおかしいだろうが。この三人がお前に歌をせがむなんて。下らん策に乗せられてどうする」
「す、すまぬ。おれが迂闊だった。声を褒められてつい……」
「お前の声にも歌にも、褒める要素なんて一つもないだろうが。怪しいと思え。まんまと間諜を逃がすところだった。まったく、どいつもこいつも」
まぁグイードの下手すぎる歌のせいで、陵堡で見回り中だった俺の所に兵士からの苦情が殺到してな。
おかげでこいつらの企みにも気付けたわけだがと、指揮官は従弟に対して回りくどい嫌味を投げている。
「す、すまない。兄上」
良い気持ちで歌っていたグイードの姿を思い出すにつれ、申し訳ない気持ちでリヒャルトの胸はいっぱいになる。
人除けのために自分の音痴が利用されたのだと悟り、歌手志望のこの武人は傍目にもはっきり分かるほど落ち込んでしまっていた。
「か、間諜は貴様一人ではなかろう。仲間がいる筈だ」
結局。グイードの苛立ちは、この場の弱者たるアウフミラーへ向けられることとなる。
しかし巨漢の武人の姿など、目に映ってすらいないかのようにアウフミラーの視線はグイードを通り越して宙をさ迷っていた。
「お父さま、ナイフを返してちょうだい」
マリア・カタリーナの目も、ずっとこの不実な男に注がれたまま。
駄目だとシュターレンベルクは短く遮る。
「返せばどうする。こいつを刺すのか」
「それは……それは、もちろん……」
「お前に死体の処理ができるのか? しかも刺殺体の。血はなかなか止まらないぞ。いつまでも転がしておくと階下に漏れて騒ぎになる。止血に成功したとしても、死体を抱えて階段を降りられるものか」
「処理……」
明らかに傷付いたように俯く娘。
とにかくお前ら三人ここから出ていけと、追い払うように手を振る仕草を繰り返す父。
「ヒドイよ、そんな言い方ッ!」
噛みついたのはフランツである。
マリア・カタリーナの硬直した背をさすり、そしてシュターレンベルクを睨み付ける。
「お前、誰の味方なんだよ」
「そ、そんなの……僕はいつだってシュターレンベルクの味方だよ。知ってるでしょ!」
「……そうは見えんがな」
フランツの大きな双眸がたちまちのうちに潤むのが分かる。
どうしたら良いか分からず、リヒャルトは半歩だけ足を踏み出した体勢のまま黙って立ち尽くしていた。
自分の今の状態がかなり間抜けに見えるであろうことは察せられる。
だが何を言えば、どうすれば良いか分からず、フランツが妹を慰めるている姿を見つめるだけ。
一瞬遅れた。
本来なら彼女に声をかけ、そして父を諭しているのは自分である筈だったのに。
「あの、マリア・カタリーナ……」
おずおずと呼びかける。
この間抜けさ。
大丈夫ですか、なんて言いかけたその時だ。
女が顔をあげた。
疲れ切ったその表情、しかし灰色の目だけがギラギラ輝いていて。
それは直感、であろうか。
嫌な予感に襲われてリヒャルトは口を開きかける。
その瞬間、灰色が翻った。
「死体の処理なんて経験済みよ! お父さま、それをよこしなさいよっ!」
シュターレンベルクの右腕に、マリア・カタリーナが飛びかかったのだ。
両手でわしづかむように腕を捻りあげると、父は呻き声をあげて短剣を取り落とした。
それを素早く拾い上げたのも、また彼女の執念であったろう。
皇帝に仕える武人が三人もいる中、灰色の小娘は愛しい男目がけて刃を振り上げた。
「駄目だよッ!」
この局面でマリア・カタリーナの腕にしがみついたのはフランツである。
「放しなさっ……!」
小柄な身体を、ともすれば振り回されながらも決して放さない。
「そ、そうです。駄目ですっ!」
我に返ったリヒャルトも妹の手を押さえにかかる。
が、怒りに駆られた女の力は凄まじいもので、なかなか短剣を奪いとれない。
「あ、貴方、お逃げなさい!」
せっかく庇ってやろうとしているアウフミラーも、表情を変えることなくその場を動かない──尤もこの場合、リヒャルトが庇ってやっているのはアウフミラーではなく妹の方であるのは確かだが。
「放しなさいよっ!」
「駄目です!」
「落ち着いてよッ!」
男二人でマリア・カタリーナの腕に取りすがってジタバタしているうちに、背後から近付いてきた巨漢の手が短剣を簡単に取り上げてしまった。
グイードである。
短剣を指揮官に手渡し、マリア・カタリーナを見下ろす視線には怒りと憐れみが入り混じる。
激しい呼吸音以外、誰も声を発しない。
氷のような静けさに、部屋は沈んでいた。
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