クロワッサン物語

コダーマ

文字の大きさ
上 下
58 / 87
【第三章 パン屋の正体】願いは儚く

願いは儚く(4)

しおりを挟む
「……マリアさん、大丈夫かな」

 フランツが小声で呻いた。
 マリア・カタリーナとアウフミラーをちらちらと交互に見ては困ったように首を振る。
 のどかな口調ではあるが、どうやら二人を心配しているのは確かなようだ。

 あらためて思う。
 このパン屋、実に不思議な存在だと。
 何せあの防衛司令官の懐に簡単に入っていった。
 それは息子である自分には到底近付けない距離だ。

 父のことを考えたせいだろうか。
 リヒャルトの胸にふつふつと込みあげる思い。
 妹を押し退けるようにしてアウフミラーに向き直る。

「あ、貴方はご自分が何をしたのか分かっているのですか。市内にいる者は皆ウィーンのために戦っているのですよ。理由があって兵士として働けない者だって、土木作業や雑用に従事して互いに支え合っている。それなのに貴方ときたら妹をたぶらかして……オスマンからいくら貰ったのです。言いなさい!」

 妹が何も話さないならばと口を開いたのだが、言葉は次から次へと迸る。
 怒りだけではない。
 悔しいのだとリヒャルトは悟った。
 この男のせいでウィーンもルイ・ジュリアスも市長も妹も──。

「ここにいるからって、何故ウィーンに生命も財産も精神まで捧げなきゃならないんだ」

「あ、貴方は……!」

 喉の奥が裂けそうに痛む中、尚も声を張り上げかけたときのこと。
 ポンと肩を叩かれた。
 細い指だ。
 マリア・カタリーナの手だと気付き、振り返ろうとするリヒャルトは、しかし勢いよく後方に引き倒された。

「あいたっ、何をするので……」

 見上げた先に灰色の背中。

「あんた、言ったじゃあないの。オレは絵を描きたいんだぁなんて。兵役を免除してもらえて、お父さまには感謝しているんだよぅって。全部……全部嘘だったのね!」

 低い声。
 女の声とは思えない。
 それは地の底から響く地鳴りのように聞こえる。

「敵のテントがどうとか言ってたけど、あれは敵の様子を見てきたんじゃあないわね。逆。こちらの情報を伝えに行ったんだわ」

「……そうだけど」
 一瞬、黙り込んだもののアウフミラーは吐き捨てた。
「それを言うならマリアだってオレを裏切ったろ。結局そっち側なんだよな。父親に告げ口するんだもん。まぁいいよ。心底あてにしてたわけでもないし」

「あ、あたしはあんたを信じてたわ……」
 女の声は低く、空気をびりりと震わせる。
「信じてた。でも、あの女……絵の中のあの女は誰なのよ」

 嫉妬の感情に顔を歪める灰色の女。

 マ、マリア・カタリーナ──叫ぶようにその名を呼んだ己の声の悲壮さに、リヒャルトは驚いてしまった。
 妹があまりにも不憫で?
 それとも、アウフミラーの物言いに憤って?

「マリア・カタリーナ。あ、あの……」

 しかし、よびかけの先をどう続ければ良いかは分からない。
 妹もこちらを振り返りもしない。
 それでも……と、リヒャルトが口を開きかけた時だ。

 グイードの歌が、不意に途切れた。
 曲が終わったわけではなく、唐突に止んだのだ。
 これは何かあったのだろう。
 もしかしたら怪しまれたのかも。

「そ、そろそろ……」

 引き揚げましょうかという提案は、しかし途中でかき消えた。
 マリア・カタリーナの手に銀色の輝きを認めたからだ。
 場に緊張が走ったのが分かった。
 自分がそれに乗り遅れたことも。

「マリアさん、駄目だよッ!」

「うるっさい! 放っておいてちょうだい。ねぇ……あんた画家になりたいだの彫刻家になりたいだの好き放題言ってたけど、全部嘘っぱちだったっていうのね。ルイの言うように、市内の様子を敵に報告するために絵を描いていたのね」

 パン屋に向かって怒鳴って、それからはアウフミラーに対しての静かな口調。
 その声に危うさを感じながらも、しかし誰も動かない。
 陰気なマリアの本領発揮か。
 恨み言を口にしながら、その手には短剣を握り締めていたのだ。

「あんたなんて死んでしまえばいいんだわ」

 切っ先が少しも震えていない様が、彼女の静かな怒りを表していた。

「そうよ。あんな女に奪われるくらいなら、あたしが首を刎ねてあげるわよ。その方がずっとマシ!」

「マリアっ……!」

 リヒャルトが叫ぶ。
 止めなくては。
 いや、しかしどうやって?
 下手に刺激しては余計にまずいことになろう。

 不本意なことに、フランツに向かって縋るような視線を送ってしまった。
 しかし、パン屋も同じ目をしてこちらを見ていることに気付く。
 一瞬、二人して困ったように見つめ合ってから、これでは埒が明かないと我に返る。

「マ、マリア・カタリーナ……落ち着いて、この兄の言うことを聞くのです」

 説得をしようとした時だ。
 静かな笑い声。
 僅かに空気を震わせるだけの声だが、兄の身体を凍り付かせるには充分であった。

「いいよ、マリア。殺してくれて」

「そ、そうよね。どうせあんたは死刑になるって決まってる……」

「かもな。知りもしないウィーンの兵士に殺されるなら、マリアに殺された方がずっといい。オレだって最後まで誇り高くいたい」

「あ、あんた一人を死なせやしないわ。あたしもきっと……」

 初めて短剣の切っ先が揺らいだ。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

腐れ外道の城

詠野ごりら
歴史・時代
戦国時代初期、険しい山脈に囲まれた国。樋野(ひの)でも狭い土地をめぐって争いがはじまっていた。 黒田三郎兵衛は反乱者、井藤十兵衛の鎮圧に向かっていた。

毛利隆元 ~総領の甚六~

秋山風介
歴史・時代
えー、名将・毛利元就の目下の悩みは、イマイチしまりのない長男・隆元クンでございました──。 父や弟へのコンプレックスにまみれた男が、いかにして自分の才覚を知り、毛利家の命運をかけた『厳島の戦い』を主導するに至ったのかを描く意欲作。 史実を捨てたり拾ったりしながら、なるべくポップに書いておりますので、歴史苦手だなーって方も読んでいただけると嬉しいです。

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

永き夜の遠の睡りの皆目醒め

七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。 新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。 しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。 近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。 首はどこにあるのか。 そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。 ※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

朝敵、まかり通る

伊賀谷
歴史・時代
これが令和の忍法帖! 時は幕末。 薩摩藩が江戸に総攻撃をするべく進軍を開始した。 江戸が焦土と化すまであと十日。 江戸を救うために、徳川慶喜の名代として山岡鉄太郎が駿府へと向かう。 守るは、清水次郎長の子分たち。 迎え撃つは、薩摩藩が放った鬼の裔と呼ばれる八瀬鬼童衆。 ここに五対五の時代伝奇バトルが開幕する。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

旅路ー元特攻隊員の願いと希望ー

ぽんた
歴史・時代
舞台は1940年代の日本。 軍人になる為に、学校に入学した 主人公の田中昴。 厳しい訓練、激しい戦闘、苦しい戦時中の暮らしの中で、色んな人々と出会い、別れ、彼は成長します。 そんな彼の人生を、年表を辿るように物語りにしました。 ※この作品は、残酷な描写があります。 ※直接的な表現は避けていますが、性的な表現があります。 ※「小説家になろう」「ノベルデイズ」でも連載しています。

【受賞作】小売り酒屋鬼八 人情お品書き帖

筑前助広
歴史・時代
幸せとちょっぴりの切なさを感じるお品書き帖です―― 野州夜須藩の城下・蔵前町に、昼は小売り酒屋、夜は居酒屋を営む鬼八という店がある。父娘二人で切り盛りするその店に、六蔵という料理人が現れ――。 アルファポリス歴史時代小説大賞特別賞「狼の裔」、同最終候補「天暗の星」ともリンクする、「夜須藩もの」人情ストーリー。

処理中です...