クロワッサン物語

コダーマ

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【第三章 パン屋の正体】願いは儚く

願いは儚く(3)

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 同じような小部屋がいくつも並んでいるが、扉の下の狭い隙間から灯りが漏れているのは一部屋だけだ。
 そこにアウフミラーがいることは明らかであった。
 元は使用人の部屋。
 いちいち鍵など付いてはいない。
 妹が取っ手に手をかける。

 そのまま数秒──動きが止まってしまった。
 見張りの兵士が毛布から顔を出す前に、早くそこを開けなさいとリヒャルトは心の中で叫ぶ。

 しかしマリア・カタリーナは動かない。
 ちらりとフランツがこちらに視線を送ってきた。
 マリアさん、どうしたのかなと目で問うている。
 そんなの知りませんよと返してから、リヒャルトは妹の様子をちらと盗み見た。

 顔色が悪く、白粉の色が異様に浮いて見える。
 大方アウフミラーと顔を合わせるのが怖いのだろう。
 自分が密告したということが知られているかもしれないと怯えているのかもしれない。

 彼女が扉を開ける前に、もしかしたら引き止めるべきかもしれない。
 ルイ・ジュリアスが死んだあの時から、ずっと心に燻っているもやもやした感情。
 疑問とやりきれなさが不意に蘇る。
 今こそそれらの感情を言葉にすべき時だったのかもしれない。

 ──いいですか、よく聞きなさい。マリア・カタリーナ、貴女を罪には問わせません。ただ、事情を聞かせなさい。この兄に。

 一人で何度も練習した台詞を声に出そうと口を開くも、喉がからからに貼り付いてこの期に及んで声が出ない。

 ──あの時、あの火事の時、ルイ・ジュリアス殿を殺して火を点けたのは貴女ではないのでしょう。アウフミラーが一人でやったに違いない。ならば、何故言わないのですか。自分は騙されていただけだと。

 総司令官の令嬢が敵と通じて市内に火を点け、連隊長を射殺し、あげくに市門を開けて敵軍を市中に引き入れたなどあってはならないことだ。
 そのうえ、父や市長の居場所を敵に流し、おかげでシュテッフルとカプツィナー教会が爆撃を受けた。
 結果、市長は重体に陥ってしまった。

 思い返せばあの時、おかしいと気付かなかった自分が情けない。
 カプツィナー教会に避難している筈の妹が、その時ちょうど外に出ていて難を逃れていたなど都合が良すぎるではないか。

 もしこの女がウィーン防衛司令官の娘でなければ、アウフミラーと共に捕えられていたのは間違いない。
 もしかしたら処刑されていたかも。
 あの父が娘を庇って罪を見逃したのは意外だったが、咄嗟の判断に情が絡んだのであれば、リヒャルトとしてはほんの少し安堵の感情が沸きあがるのを止めることはできない。

「マリア・カタリー……」

 振り絞った勇気は、しかしあえなく潰えた。
 リヒャルトの震える声を打ち消すように、マリア・カタリーナが低い声を絞り出したからだ。

「フランツ、何であんたはあたしのためにここまでしてくれるのよ。あたしはアウフミラーと一緒にこのウィーンを裏切ったのよ……」

「理由なんてないよ。口には出さないけど、シュターレンベルクはマリアさんを心配してる。僕はシュターレンベルクの役に立ちたいだけなんだ」

「あんた一体……?」

 リヒャルトの元からも、パン屋の邪気のない笑顔が見える。
 妹の戸惑いの表情も。
 取っ手を握るマリア・カタリーナの手は震えている。
 その手にそっと自分の手の平を重ね、フランツはゆっくりと扉を開けた。

 小さな窓から差し込む月の光と、蝋燭の灯かりだけの薄暗い小部屋。
 だが、目は暗がりに慣れている。
 簡素な寝台に腰かけた長身の男の姿はすぐに認められた。
 マリア・カタリーナを騙し街に火をかけ、ルイ・ジュリアスを殺めた男だ。

「さっきから聞こえるある下手くそな歌は何だ」

「あ、あの……」

 マリア・カタリーナは固まっている。
 見張り兵がいつ正気に戻るか分からない以上、三人共さっさと室内に入り、扉を閉めてしまいたい。

 屋根裏部屋の中は寝台と小さな机があるだけの狭い空間だから、そこに三人が入り込むと中の人物と顔を突き合わせるという形になる。
 寝台に座っているアウフミラーの視界に、マリア・カタリーナが入っていない筈がない。
 しかし彼は、まるで彼女など目に映っていないかのごとく視線をさ迷わせている。

「お邪魔しますよ。さ、貴方たちも早く……早くお入りなさい」

 見張りの兵に見つかりはしないかと気が気ではなく、リヒャルトは棒立ちの妹の背をグイグイ押して室内に入れ、ようやく扉を閉めた。
 幸いなことに頼みのグイードは悦に入って、今尚唸り声をあげている。
 そのため、見張りの者もまだこちらには気付かない様子。

 さぁ、今のうちですよ──マリア・カタリーナに目配せするが、本人は唾を呑み込んだり唇をなめたりするだけで一向に口を開こうとしない。
 何をやっているんですか、貴女は緊張するような性格でもないでしょうと叱責してやりたくなる。
 こうなると自分がしっかりしなくてはならないとの思いに、どうしても胃がキリキリと。
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