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【第二章 黄金の林檎の国】鉄壁
鉄壁(8)
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発砲を繰り返すうちに、黒色火薬の発する濃い灰色の煙が徐々に視界を覆っていく。
敵の姿は煙の向こう。
ぼんやりとした黒い影となって見えるだけ。
「バーデン伯、撃てるか?」
片手で目を擦る彼の姿に、シュターレンベルクは発砲の号令を疑問形に変更した。
「あ、ああ……撃てる」
焦るな、ゆっくりでいいとシュターレンベルクはフランツから装填済みの銃を受け取った。
腰だめに構え、走りくるセルゲンティティの影に狙いをつける。
引き金は引くのではない。
指先にゆっくりと力を込めるのだ。
だが、それを遮るように若造が叫んだ。
「う、撃てる。邪魔するんじゃねぇよ。わたしが……撃つんだ!」
焦り故か、震える手は火薬の半分を地面にばらまき、慌てた様子で撃鉄を半分起こす。
火皿に残りの火薬を入れる際にも派手に零してしまい、それでも何とか撃鉄を完全に起こし、ようやく発砲準備が整った。
「だ、駄目だ。撃つな、バーデン伯!」
ガゥン──発砲の際の激音に鬘の毛先まで震わせ、しかし伯は射撃に対する成功体験に頬を紅潮させた。
同時にシュターレンベルクも一発放つ。
既に半分まで引金を引いた状態から戻すわけにはいかなかったから。
「も、もう一発だ……」
若造は、先程よりは落ち着いた様子で新たな装填を完了させた。
「撃つな、バーデン……!」
バーデン伯は、今度は指揮官の叫びを明白に無視した。
煙の向こうの声と影に向かって、引金に指をかける。
発砲の瞬間、銃身が大きく揺らいだ。
何事か叫んで、シュターレンベルクがバーデン伯の前に躍り出る。
腕ごと強引に引き寄せられる感覚に、バーデン伯は目を見開いた。
伯にとって実に忌々しいことに、シュターレンベルクが横から彼の銃をわしづかんでいたのだ。
じゃ、邪魔をするなぁ、叫ぼうと口を開きかけた瞬間。
彼の眼前で火花が散った。
一秒前に手元にあったマスケットの銃身が、破裂して宙を舞っている。
鋭い破片が指先を掠め、バーデン伯は慌てて手を引っ込めた。
何が起こったというのだ。
「……一発目が不発だった。気付いてなかったか?」
シュターレンベルクの押し殺した声。
「ふ、不発だと!」
語尾が怒りに跳ね上がる。
確かに銃声は聞こえた。
いや、聞こえた音はシュターレンベルクの発砲音だったのかもしれない。
手に残っていた銃の持ち手を地面に投げ捨てる。
ちらと見上げた指揮官の表情は大きく歪んでいた。
これは激しい怒り故か?
「……不発に気付かずに二発目を装填すると、火薬量が多くて暴発する」
気を付けろとの声に、バーデン伯は顔面を強張らせた。反論するために開きかけた口が、しかし一瞬ビクリと震える。
「す、すまねぇ、腕を……」
反射的にシュターレンベルクは自身の右腕を押さえる。
そこに赤いものが幾筋も流れていることに、バーデン伯に気付かれたのだ。
あの態勢のまま二発目を撃っていたら多すぎる火薬は薬室を弾き飛ばし、そのまま後方に向けて炸裂していただろう。
つまり、バーデン伯の顔目がけて。
とっさにシュターレンベルクが銃身をつかんで、その方向を変えたためにバーデン伯は助かったのだ。
代わりにそれは指揮官の腕を抉った。
「大したことはない。一発目の火薬をほとんど地面にばらまいてくれてたからな。おかげで大きな暴発にはならなかった」
市長ほどではないが若干感じられた嫌味に、しかしバーデン伯は今度は噛みつくことができないでいる。
「わ、わたしは……」
うまく出てこない言葉をどうにか絞り出そうとしているのだろう。
顔が赤い。
しかしそれを待っていられるほどの余裕はシュターレンベルクにも、もちろん敵兵にもなかった。
徐々に退く防衛方につられるように街路へ踏み込み、オスマン帝国軍の先頭集団はほんの七、八歩先まで迫っている。
──このままでは崩れる。
敗走どころか──そもそも逃げる場所もない──死すらありうる。
もっと狭い街路へ誘い込んで、何とかそこで一人ずつ仕留めるべきか。
一瞬、この場からの撤退という考えが脳裏を過った。
「駄目だ」
ここは野外ではない。
神聖ローマ帝国首都への蹂躙を、これ以上許すべきではない。
「くそっ、援軍はまだか!」
「シュターレンベルク!」
背後にくっついて懸命に装填を繰り返していたフランツの悲鳴。
「もう火薬の包みがないよッ!」
最後の一発をバーデン伯の隣りの兵士が撃つ。
だが、敵兵が倒れた気配はなかった。
万事休す、か。
シュターレンベルクは、熱を帯びたマスケット銃のを銃口を地面に下ろした。
まずはこいつらを逃がして、アム・ホーフまで撤退。
そこで迎え撃つか?
いや、無理だ──考えている間に敵の武器(ヤタガン)は眼前に迫った。
白い流線がきらめく。
三日月みたいな刀身だな──脳の奥が弛緩する。
こいつが俺の血を吸って赤い三日月になるのか。
空で鈍い光を湛えてたあの夜の月のように。
ガチッ。
眼前に散る光。
身にしみついた動きでシュターレンベルクは敵兵のヤタガンをマスケットの銃身で受け、第一撃は何とか逸らす。
別方向から走り寄ってきた新手に対しては、刀を振り上げた瞬間をついて腹を蹴り飛ばし、次いで接近する三人目は喉を狙って銃底で殴りつける。
四人目は──無理だ。確認することすらできない。
好機とばかりに、数人がシュターレンベルクに向かって一斉に刀を振り下ろした。
エルミアの姿が瞼の裏にぼんやり浮かぶ。
自分が眼を閉じているのか、開けているのかすら分からない。
目の前は真っ白だ。
遠くで誰かが叫んだような気がした。
その瞬間。
目の前の刀が弾かれた。
シュターレンベルクの正面に突っ込んで来た敵兵が、背中をぐにゃりと曲げてのけぞっている。
そのまま地面に倒れた。
顔面に黒い塊が張り付いている。
何だ、これは。一度フランツにやられたパン生地の爆弾に似ているが、しかしパン屋はここにいる。
その時だ。
暴風のもたらす唸り声が街路に大きく反響した。
敵の姿は煙の向こう。
ぼんやりとした黒い影となって見えるだけ。
「バーデン伯、撃てるか?」
片手で目を擦る彼の姿に、シュターレンベルクは発砲の号令を疑問形に変更した。
「あ、ああ……撃てる」
焦るな、ゆっくりでいいとシュターレンベルクはフランツから装填済みの銃を受け取った。
腰だめに構え、走りくるセルゲンティティの影に狙いをつける。
引き金は引くのではない。
指先にゆっくりと力を込めるのだ。
だが、それを遮るように若造が叫んだ。
「う、撃てる。邪魔するんじゃねぇよ。わたしが……撃つんだ!」
焦り故か、震える手は火薬の半分を地面にばらまき、慌てた様子で撃鉄を半分起こす。
火皿に残りの火薬を入れる際にも派手に零してしまい、それでも何とか撃鉄を完全に起こし、ようやく発砲準備が整った。
「だ、駄目だ。撃つな、バーデン伯!」
ガゥン──発砲の際の激音に鬘の毛先まで震わせ、しかし伯は射撃に対する成功体験に頬を紅潮させた。
同時にシュターレンベルクも一発放つ。
既に半分まで引金を引いた状態から戻すわけにはいかなかったから。
「も、もう一発だ……」
若造は、先程よりは落ち着いた様子で新たな装填を完了させた。
「撃つな、バーデン……!」
バーデン伯は、今度は指揮官の叫びを明白に無視した。
煙の向こうの声と影に向かって、引金に指をかける。
発砲の瞬間、銃身が大きく揺らいだ。
何事か叫んで、シュターレンベルクがバーデン伯の前に躍り出る。
腕ごと強引に引き寄せられる感覚に、バーデン伯は目を見開いた。
伯にとって実に忌々しいことに、シュターレンベルクが横から彼の銃をわしづかんでいたのだ。
じゃ、邪魔をするなぁ、叫ぼうと口を開きかけた瞬間。
彼の眼前で火花が散った。
一秒前に手元にあったマスケットの銃身が、破裂して宙を舞っている。
鋭い破片が指先を掠め、バーデン伯は慌てて手を引っ込めた。
何が起こったというのだ。
「……一発目が不発だった。気付いてなかったか?」
シュターレンベルクの押し殺した声。
「ふ、不発だと!」
語尾が怒りに跳ね上がる。
確かに銃声は聞こえた。
いや、聞こえた音はシュターレンベルクの発砲音だったのかもしれない。
手に残っていた銃の持ち手を地面に投げ捨てる。
ちらと見上げた指揮官の表情は大きく歪んでいた。
これは激しい怒り故か?
「……不発に気付かずに二発目を装填すると、火薬量が多くて暴発する」
気を付けろとの声に、バーデン伯は顔面を強張らせた。反論するために開きかけた口が、しかし一瞬ビクリと震える。
「す、すまねぇ、腕を……」
反射的にシュターレンベルクは自身の右腕を押さえる。
そこに赤いものが幾筋も流れていることに、バーデン伯に気付かれたのだ。
あの態勢のまま二発目を撃っていたら多すぎる火薬は薬室を弾き飛ばし、そのまま後方に向けて炸裂していただろう。
つまり、バーデン伯の顔目がけて。
とっさにシュターレンベルクが銃身をつかんで、その方向を変えたためにバーデン伯は助かったのだ。
代わりにそれは指揮官の腕を抉った。
「大したことはない。一発目の火薬をほとんど地面にばらまいてくれてたからな。おかげで大きな暴発にはならなかった」
市長ほどではないが若干感じられた嫌味に、しかしバーデン伯は今度は噛みつくことができないでいる。
「わ、わたしは……」
うまく出てこない言葉をどうにか絞り出そうとしているのだろう。
顔が赤い。
しかしそれを待っていられるほどの余裕はシュターレンベルクにも、もちろん敵兵にもなかった。
徐々に退く防衛方につられるように街路へ踏み込み、オスマン帝国軍の先頭集団はほんの七、八歩先まで迫っている。
──このままでは崩れる。
敗走どころか──そもそも逃げる場所もない──死すらありうる。
もっと狭い街路へ誘い込んで、何とかそこで一人ずつ仕留めるべきか。
一瞬、この場からの撤退という考えが脳裏を過った。
「駄目だ」
ここは野外ではない。
神聖ローマ帝国首都への蹂躙を、これ以上許すべきではない。
「くそっ、援軍はまだか!」
「シュターレンベルク!」
背後にくっついて懸命に装填を繰り返していたフランツの悲鳴。
「もう火薬の包みがないよッ!」
最後の一発をバーデン伯の隣りの兵士が撃つ。
だが、敵兵が倒れた気配はなかった。
万事休す、か。
シュターレンベルクは、熱を帯びたマスケット銃のを銃口を地面に下ろした。
まずはこいつらを逃がして、アム・ホーフまで撤退。
そこで迎え撃つか?
いや、無理だ──考えている間に敵の武器(ヤタガン)は眼前に迫った。
白い流線がきらめく。
三日月みたいな刀身だな──脳の奥が弛緩する。
こいつが俺の血を吸って赤い三日月になるのか。
空で鈍い光を湛えてたあの夜の月のように。
ガチッ。
眼前に散る光。
身にしみついた動きでシュターレンベルクは敵兵のヤタガンをマスケットの銃身で受け、第一撃は何とか逸らす。
別方向から走り寄ってきた新手に対しては、刀を振り上げた瞬間をついて腹を蹴り飛ばし、次いで接近する三人目は喉を狙って銃底で殴りつける。
四人目は──無理だ。確認することすらできない。
好機とばかりに、数人がシュターレンベルクに向かって一斉に刀を振り下ろした。
エルミアの姿が瞼の裏にぼんやり浮かぶ。
自分が眼を閉じているのか、開けているのかすら分からない。
目の前は真っ白だ。
遠くで誰かが叫んだような気がした。
その瞬間。
目の前の刀が弾かれた。
シュターレンベルクの正面に突っ込んで来た敵兵が、背中をぐにゃりと曲げてのけぞっている。
そのまま地面に倒れた。
顔面に黒い塊が張り付いている。
何だ、これは。一度フランツにやられたパン生地の爆弾に似ているが、しかしパン屋はここにいる。
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