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【第二章 黄金の林檎の国】鉄壁
鉄壁(1)
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クズル・エルマ──それは「黄金の林檎の国」という意味を持つ。
オスマン帝国歴代の皇帝は、聖戦のシンボルとして「クズル・エルマ」を語った。
彼らにとって、それは全ヨーロッパを指す言葉なのだ。
黄金の林檎の国──広大なヨーロッパを我が手にする。
クズル・エルマを征服するまで、彼らは戦いを止めない。
異教徒の世界を全て支配するのがオスマン帝国にとっての悲願だった。
そして彼らにとってヨーロッパへの玄関口がここ、ウィーンである。
ウィーンはかつて一度オスマン帝国軍による包囲攻撃を受け、それを退けている過去がある。
シュターレンベルクらが活躍するより百五十年ばかり前のことだ。
以降、更なる強化を図った市壁は──改築は予算の都合で遅々とした進み具合ではあったが──一六八三年の現在、市民が誇りに思うに相応しい威容を誇っていた。
再びまみえるオスマン帝国軍との激突に備えて。
全長四キロメートルに及ぶ市壁は、深さ三メートルの空堀に囲まれていた。
高さ四メートルの強固な壁の上には、兵士が移動するための巡視路が巡らされている。
さらに巡視路の要所には、防衛の拠点となる陵堡が十二も備えられていた。
籠城戦といっても城や砦に籠るわけではなく、ウィーンという都市そのものが要塞として機能しているのである。
数か月の準備期間があったため備蓄が万全であるので、市民生活も常とさほど変わらないものであった。
聳え立つシュテッフルの塔、それを囲む城塞都市は壮麗にして勇壮。
数倍の兵力に、二か月は耐えられよう。
※ ※ ※
黄金の林檎の国──ヨーロッパは決して肥沃ではない。
しかも歴史のほとんどを戦争に費やしてきたという過去を持つ。
無辜の民の血で染められた大陸に何の価値があるものか。
心ある者ならそう思うに違いあるまい。
だが壁の中の彼らにそんな余裕は、さすがにない。
壁の中に残ったのは一万二千。
皇帝から預かったハプスブルク守備隊と、ウィーン市民による義勇兵だ。
この一万二千という人数は戦うためにわざわざ残った精鋭のみかと思いきや、実際のところそうでもなかった。
避難しなかった者──それは自らを戦力たりうると自覚する、つまり兵士。
それから、避難できなかった者に分けられる。
主に体力、財力が原因で避難の強行軍に加われなかった者も多くいるわけだ。
すべてを含めての市民である。
それでも、残った者たちの都への愛着は非常に強い。
勇敢な兵士たち、そして毅然とした市民の姿は、防衛司令官にとって大いなる強みであった。
市街最大の広場アム・ホーフは、兵馬や彼らの詰所、更に避難民のためのテントでごった返している。
そこにいる彼らの顔が一様に不安げに沈んでいるのは、先程までオスマン帝国軍楽隊(メフテルハーネ)の演奏が鳴り響いていたせいだ。
毎日毎日飽きもせず下手くそな音楽会をよくやるよと軽口を叩き合いつつも、敵の威圧的な音楽はジワジワとこちらの気力を削ぐ効果を持っていた。
オスマン帝国との戦争に慣れているシュターレンベルクら古参の将はともかく、都市で不安げに防衛準備に勤しむ市民らに与える影響は、やはり大きいのだろう。
声をかけて安心させてやるべきだと考え、総司令官シュターレンベルクは自らここまで足を運んだ。
「ムグ……じゃがいも植えて、小麦植えて……モグモグ。収穫までどのくらいかな。半年はかかるか。いやいや待てないよ、そんなの! 気の長い話だよ!」
自称ウィーンの食事当番であるパン職人フランツが、煎餅のようなものをポリポリ食べながら気楽な様子で付いてくる。
小麦粉を焼いて塩をまぶしたものらしい。
兵らの食事を用意する合間に作ったのだとか。
さらに、手には失敗作と称するパンを持っている。
「まったく、見事なクロワッサンだったよ」
「はぁ?」
「クロワッサン、知らないの? フランス語だよ。ドイツ語に訳すと、えっと……そう、三日月って意味!」
「ああ……」
シュターレンベルクも、この時代のヨーロッパ貴族としてフランス語は教養として解している。
「クロワッサン」が三日月を意味する仏語であることなど、わざわざ解説してくれなくとも結構だ。
二言目には「クロワッサン」と、ちょくちょくフランス語を挟んでくるパン屋が、若干鬱陶しい思いだ。
そういえば、皇帝レオポルトはフランスを毛嫌いしていたっけ──シュターレンベルクは、首都から遠く離れた都市で援軍工作をしている皇帝に思いを馳せた。
西の大国の巨大な首都や壮麗な宮殿が羨ましいだけかと思っていたが、成程。
自慢たらしい物言いが鼻に着くという理由があったのかもしれない。
「んっ? どういう意味かって?」
さも聞いてほしそうにしているので、何が三日月なのかとフランツに問うてやる。
するとパン屋は、思わせぶりに市壁の向こうに視線を送る仕草をしてみせた。
ウィーンを囲んで布陣するオスマン帝国軍の軍容、その形がきれいな三日月形をしていたと言いたいらしい。
兵士にパンを届けに行った際に市壁の上を通る巡視路に上がらせてもらったと。陵堡から、敵軍の威容を眺めたのだと言う。
「まぁまぁ、シュターレンベルクも食べてみてよ。ピピッと思いついた創作パンだよ。三日月をイメージして作ったんだ」
先ほど自ら「失敗作」と評したモノを、口元にグイグイ押し付けてくる。
「僕が作りたいのはね、シュターレンベルクのウィーンの人たちも、敵の兵隊さんも、みんなが美味しいって言ってくれるパンなんだ。だって、美味しいものを食べたら争いなんてなくなると思わない? ホラ、遠慮はいらないよ。食べて、シュターレンベルク」
「いらん、いら……ムググっ」
オスマン帝国歴代の皇帝は、聖戦のシンボルとして「クズル・エルマ」を語った。
彼らにとって、それは全ヨーロッパを指す言葉なのだ。
黄金の林檎の国──広大なヨーロッパを我が手にする。
クズル・エルマを征服するまで、彼らは戦いを止めない。
異教徒の世界を全て支配するのがオスマン帝国にとっての悲願だった。
そして彼らにとってヨーロッパへの玄関口がここ、ウィーンである。
ウィーンはかつて一度オスマン帝国軍による包囲攻撃を受け、それを退けている過去がある。
シュターレンベルクらが活躍するより百五十年ばかり前のことだ。
以降、更なる強化を図った市壁は──改築は予算の都合で遅々とした進み具合ではあったが──一六八三年の現在、市民が誇りに思うに相応しい威容を誇っていた。
再びまみえるオスマン帝国軍との激突に備えて。
全長四キロメートルに及ぶ市壁は、深さ三メートルの空堀に囲まれていた。
高さ四メートルの強固な壁の上には、兵士が移動するための巡視路が巡らされている。
さらに巡視路の要所には、防衛の拠点となる陵堡が十二も備えられていた。
籠城戦といっても城や砦に籠るわけではなく、ウィーンという都市そのものが要塞として機能しているのである。
数か月の準備期間があったため備蓄が万全であるので、市民生活も常とさほど変わらないものであった。
聳え立つシュテッフルの塔、それを囲む城塞都市は壮麗にして勇壮。
数倍の兵力に、二か月は耐えられよう。
※ ※ ※
黄金の林檎の国──ヨーロッパは決して肥沃ではない。
しかも歴史のほとんどを戦争に費やしてきたという過去を持つ。
無辜の民の血で染められた大陸に何の価値があるものか。
心ある者ならそう思うに違いあるまい。
だが壁の中の彼らにそんな余裕は、さすがにない。
壁の中に残ったのは一万二千。
皇帝から預かったハプスブルク守備隊と、ウィーン市民による義勇兵だ。
この一万二千という人数は戦うためにわざわざ残った精鋭のみかと思いきや、実際のところそうでもなかった。
避難しなかった者──それは自らを戦力たりうると自覚する、つまり兵士。
それから、避難できなかった者に分けられる。
主に体力、財力が原因で避難の強行軍に加われなかった者も多くいるわけだ。
すべてを含めての市民である。
それでも、残った者たちの都への愛着は非常に強い。
勇敢な兵士たち、そして毅然とした市民の姿は、防衛司令官にとって大いなる強みであった。
市街最大の広場アム・ホーフは、兵馬や彼らの詰所、更に避難民のためのテントでごった返している。
そこにいる彼らの顔が一様に不安げに沈んでいるのは、先程までオスマン帝国軍楽隊(メフテルハーネ)の演奏が鳴り響いていたせいだ。
毎日毎日飽きもせず下手くそな音楽会をよくやるよと軽口を叩き合いつつも、敵の威圧的な音楽はジワジワとこちらの気力を削ぐ効果を持っていた。
オスマン帝国との戦争に慣れているシュターレンベルクら古参の将はともかく、都市で不安げに防衛準備に勤しむ市民らに与える影響は、やはり大きいのだろう。
声をかけて安心させてやるべきだと考え、総司令官シュターレンベルクは自らここまで足を運んだ。
「ムグ……じゃがいも植えて、小麦植えて……モグモグ。収穫までどのくらいかな。半年はかかるか。いやいや待てないよ、そんなの! 気の長い話だよ!」
自称ウィーンの食事当番であるパン職人フランツが、煎餅のようなものをポリポリ食べながら気楽な様子で付いてくる。
小麦粉を焼いて塩をまぶしたものらしい。
兵らの食事を用意する合間に作ったのだとか。
さらに、手には失敗作と称するパンを持っている。
「まったく、見事なクロワッサンだったよ」
「はぁ?」
「クロワッサン、知らないの? フランス語だよ。ドイツ語に訳すと、えっと……そう、三日月って意味!」
「ああ……」
シュターレンベルクも、この時代のヨーロッパ貴族としてフランス語は教養として解している。
「クロワッサン」が三日月を意味する仏語であることなど、わざわざ解説してくれなくとも結構だ。
二言目には「クロワッサン」と、ちょくちょくフランス語を挟んでくるパン屋が、若干鬱陶しい思いだ。
そういえば、皇帝レオポルトはフランスを毛嫌いしていたっけ──シュターレンベルクは、首都から遠く離れた都市で援軍工作をしている皇帝に思いを馳せた。
西の大国の巨大な首都や壮麗な宮殿が羨ましいだけかと思っていたが、成程。
自慢たらしい物言いが鼻に着くという理由があったのかもしれない。
「んっ? どういう意味かって?」
さも聞いてほしそうにしているので、何が三日月なのかとフランツに問うてやる。
するとパン屋は、思わせぶりに市壁の向こうに視線を送る仕草をしてみせた。
ウィーンを囲んで布陣するオスマン帝国軍の軍容、その形がきれいな三日月形をしていたと言いたいらしい。
兵士にパンを届けに行った際に市壁の上を通る巡視路に上がらせてもらったと。陵堡から、敵軍の威容を眺めたのだと言う。
「まぁまぁ、シュターレンベルクも食べてみてよ。ピピッと思いついた創作パンだよ。三日月をイメージして作ったんだ」
先ほど自ら「失敗作」と評したモノを、口元にグイグイ押し付けてくる。
「僕が作りたいのはね、シュターレンベルクのウィーンの人たちも、敵の兵隊さんも、みんなが美味しいって言ってくれるパンなんだ。だって、美味しいものを食べたら争いなんてなくなると思わない? ホラ、遠慮はいらないよ。食べて、シュターレンベルク」
「いらん、いら……ムググっ」
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