クロワッサン物語

コダーマ

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踊る炎

踊る炎(3)

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     ※ ※ ※

 これは、防衛指揮官らが市壁内に炎を認めた数十分前の出来事である。

 薄暗く沈む路地に溶け込むように、ひとりの青年の姿が認められた。
 所在なさげと評しようか、あるいは自信なさげといえばよいか。
 おどおどと歩を運ぶのは、防衛司令官の長男リヒャルト・フォン・シュターレンベルクであった。

 ともすればふるふると震えそうになる手のひらを見つめ、彼は深く息を吐いた。
 自分の手が頼りないとは思わない。
 上着に刺繍された青豹に右手を重ねると、いつも不思議と自信が満ち溢れる。

 今だって、きっと──リヒャルトは首に力を込めた。
 うなだれていた頭をしゃんとあげて、小さく丸められた背を伸ばすのですと己に命じたつもりだった。
 ウィーン防衛司令官の息子として。

 だが、依然として視界に入るのはウィーンの石畳。
 そしてグラシの泥に汚れた靴と貧弱な足。
 たちまち不安感が押し寄せてきた。

 胸元に、袖に。
 特徴的なシャイブラー紋が縫い付けられている。
 金の角を持つ猛々しい青豹の周囲に「成長」を表すという炎を飾った、それはオーストリアの名家シュターレンベルク家の紋章であった。
 名門貴族の自負という炎に囲まれた豹は、我が身を焼き尽くすことはあるまいか。
 熱くて熱くて息もできないでいるのではないだろうか。

「ボォー……っ」

 間延びした牛の鳴き声。
 そんなものにさえビクリと身を震わせたことに、リヒャルトは己を恥じた。
 お、思いのほか近くで聞こえたからですと小声で言い訳する。
 周囲に誰一人として居ないというのに。

 狭いウィーンの市壁内。
 日中は住人や兵士、避難民で街路は溢れ返っている。
 しかし陽が落ちると、そこは別世界であった。
 治安に対しての気遣いから篝火はあちこちに置かれているが、人の姿はほとんどない。
 無用の混乱や偶発的な事故を防ぐため、夜の間は兵士以外は屋内へ留まるよう告げられているからだ。

 空には赤い三日月。

「牛だって、夜になったら眠るべきです」

 家畜相手であるが、せめて一言と毒づいてみせる。

 都市には常ならぬ家畜が放し飼いにされていた。
 オスマン帝国軍が迫る前にと、周辺の町村から牛や豚をできるだけ市内へ移したのだ。
 つまり、食料として。

 壁の中──もとより狭いウィーンの市壁内は建物がひしめき合っていて、そこに更に膨れ上がった数の人間と家畜が詰め込まれている。
 空気が澱んでいて、獣の体臭に侵食されてしまいそうだ。
 鼻をつまんでも臭いは喉の奥に張り付いているようで。
 時に糞尿の臭いが生々しく入り混じり、耐えられなくなってしまう。

「ぐあぁ……っ」

 まさに今それが近くで起こって、リヒャルトは人知れず悶絶する。
 牛が便を垂れ流したか、或いは住居の窓から人が自らのそれを道へ流したかだ。
 貴族の坊ちゃんの繊細な神経は打ち震え、そして死んだように反応を失う。
 リヒャルトの背は憐れなまでに丸くなった。

 都市の宿命といえよう。
 ヨーロッパの都市では、家庭の排水が道路の溝に流れ出る仕組みになっていた。
 桶に溜めた汚物を道へ捨てることも日常であり、道の端にそれらが固まり、極めて不衛生な状況を作っていた。

 汚物を食べる豚を所々で放し飼いにしている以外に、特別な対策はなされていない。
 さすがに王宮へつづくグラーベン通りは常に清掃がなされているが、今リヒャルトがいる街の外れともなると、洗い流すのは雨任せというありさまだ。

 ドナウの恵みのおかげで水には困らないのだから、毎日交代で道を洗えばいいのにといつも思う。
 そう、せめて籠城中だけでもそうすべきではないですかと明日にでも父に……いや、市長殿に進言しようと決意する。

「まずは……うぷっ。立ちション禁止から始めてほしいものですね」

 頭の右側面が痛む。
 いつもの片頭痛であった。
 早く家に帰りたい──お坊ちゃんのリヒャルトは普段ならその考えを実行に移している筈だ。

 だが今は──。
 手で口元を覆いながらも、リヒャルトは耐えた。

 帰るべき屋敷が避難民に提供されてしまっているから?
 父のように王宮に個室を与えられているわけでもないから?
 駐屯所となっている王宮広間には多くの兵がいて居心地が悪く、仕方なく身を寄せているカプツィナー教会には妹のマリア・カタリーナがいてそれはそれで気まずい?
 陰気なマリアと陰口を叩かれる妹から、きっと昼間の嫌味の仕返しをされるに決まっているから?

 そのどれでもない。
 こんな夜遅くに。しかもこんな街外れに彼がいるのは。

 ただ一点を見据えるその視線は強さや鋭さよりも、執念深さのみを表していた。
 彼が捕えて放さないのは、一人の男の背。
 身長があり、逞しいその背中は、リヒャルトが持ち合わせていないものであった。
 ルイ・ジュリアスである。

 陽も落ちたという頃合いにその背を見かけ、リヒャルトは瞬時に不穏な気配を感じ取った。
 こそこそと、一体どこへ向かおうとしているのだろうか。

 自分でもいかがなものかと思うのだが、天敵──一方的な認識であることは哀しいかな、自覚している──の弱みに関しては鼻が利くのだ。
 お行儀の良い好青年、父の気に入りの騎士の尻尾をつかんでやりましょうと。
 そしてリヒャルトはルイ・ジュリアスの後をつけた。
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