15 / 87
【第一章 ウィーン包囲】パン・コンパニオン
パン・コンパニオン(11)
しおりを挟む
「兄上?」
グイードの訝しむ声。
「腹をどうされた?」
「………………」
ギクリとする。
エルミアに刺された傷は、肉の表層を傷つけたにすぎない。
布を巻いてきつく押さえているので、ほとんど痛みも感じないくらいだ。
しかし無意識のうちに庇っていたのだろう。
武人であるグイードは、背を叩かれた瞬間に従兄弟の頬に走った一瞬の歪みに目ざとく気付いたようだ。
「……ちょっと、腹が痛くてな」
「ム? 兄上、変な物でも食べたんじゃあるまいな」
「……まぁな」
すると背後から甲高い抗議の声が。
「僕のパンはヘンじゃないよ!」
ややこしいから黙っていろと言いたいところをぐっとこらえる。
このパン屋、下手に構うと面倒臭さが倍増するに違いない。
少々変わり者というのは分かるが、明るいのは良いことだと考えることにしよう。
ちら、と視線を走らせる。
ルイ・ジュリアスの背後で、ずっと俯いたままのリヒャルトを見やったのだ。
馬の歩みに合わせてゆらゆらと、生気を失ったように一点を見詰めている。
黙りこんだままだ。
先程オスマン兵の標的にされたことを、足を引っ張ったと気に病んでいるのだろう。
さっきから何度か声をかけようとして、しかしかける言葉を思いつかずやり過ごしていたのだ。
これでは敵と剣を交えることなど不可能だし、責任ある仕事を割り振ることも難しい。
口を開きかけ、結局今回もシュターレンベルクは息子から視線を逸らせたのだった。
「グイード、報告を聞こうか。市長が何だって? あんなのは待たせておきゃいいんだ。急いで帰ったところで、結局嫌味を言われるだけだ」
目の前の現実から逃れるための問いであったが、皮鎧の大男は弾かれたようにこちらを振り返った。
「い、いかにも。兄上に何点かご報告が……」
この男にしては珍しく言いよどむ様子を見せ、しかし意を決して一言。
「誘拐され申した」
「誘拐? 誰がだ?」
「マリア・カタリーナです。兄上の娘だ」
「は?」
馬の足取りが乱れる。
背後でパン屋がバランスを崩しかけ、慌ててシュターレンベルクの背にしがみついた。
「馬鹿な。娘は他都市に避難したはずだ」
ルイ・ジュリアスの背に顔をもたせたままのリヒャルトの口が「あっ」と小さく動いたのを視野に捉え、シュターレンベルクは嫌な予感が背に這い上がるのを感じた。
「おれもそう思っていた。兄上の奥方やお子らは、とうに避難したものと。だが、マリア・カタリーナだけこっそりと街に残っていたようだ。さきほど市長殿の元に脅迫状が届いた」
そこには、最高司令官シュターレンベルクの娘を誘拐した旨、解放してほしければ降伏してオスマン帝国軍にウィーンを明け渡せという要求が書き連ねてあったという。
「……それは、何とも胡散臭いな」
唸る指揮官と、頷く副官。
「兄上、それからもう一点」
なんだと問われ、グイードの野太い声が一瞬詰まる。
次に口を開いた時、この男にしては珍しく声が掠れていた。
「逃げ申した」
「今度は誰が?」
「それが……」
早々に言うべきであった。
兄上が襲撃を受けたというからついそちらの話が気になって……と言い訳ともとれぬことを小さく呟く。
「誰もおらぬ。諸侯ほぼ全員だ。アーレンベルク公も、クレーフェ公も……。今朝早くに市の東側から逃亡した。オスマン帝国軍の一隊が彼らを追撃し、ドナウ艦隊が応戦、壊滅したとの報が」
「なに……っ」
落馬よりも強い衝撃が全身を貫く。
挙げられた名は頼みにしていた諸侯らのものだ。
彼らは今朝方、唯一の脱出方向である東に向かったらしい。
配下の兵を残して単身、或いはごく少数での脱出というから彼らの本気の程が伝わってこよう。滅びる都市と運命を共にするものか、と。
「陛下の元へ駆けつけるから留守を頼むと家中の者に言いおいたとの話だ。報告が入ったのが昼過ぎで、急ぎ兄上に知らせようとしたのだが」
兄上の姿が市壁内になかったから手間取ったと言いたかいらしい。
どちらにしても手遅れである。
もう対処は出来ない。
秘密裏に脱出した諸侯らのことも、ドナウ艦隊のことも。
レオポルトの元へ行くなど、そんなものは口実に過ぎない。
皇帝に見捨てられた首都でどれほど活躍したところで、自身の評価など得られやしない。
利に敏い連中の行動を予測しておくべきだった。
それにしても奴らの言い草が余計に腹が立つ。
勝手に領地に帰るというなら反逆として責めることもできようが、皇帝の元へ馳せ参じると言いおかれては、一介の家臣たる自分には処分を講じることもできない。
何より痛いのは、秘策としていたドナウ艦隊が巻き込まれたことだ。
貴族たちが逃亡の足として使ったのだろう。
少数で機能する隠密部隊が姿を晒すことになってはまずい。
攻撃され、為す術なく壊滅した。諸侯らが逃亡に成功したか、艦隊と共に沈んだかは今は確かめようもない。
今朝の時点で唯一開いていた東とて、既にオスマン軍が布陣しているだろう。
ウィーンはオスマン帝国軍によって完全に包囲された。
一六八三年七月十六日のことである。
グイードの訝しむ声。
「腹をどうされた?」
「………………」
ギクリとする。
エルミアに刺された傷は、肉の表層を傷つけたにすぎない。
布を巻いてきつく押さえているので、ほとんど痛みも感じないくらいだ。
しかし無意識のうちに庇っていたのだろう。
武人であるグイードは、背を叩かれた瞬間に従兄弟の頬に走った一瞬の歪みに目ざとく気付いたようだ。
「……ちょっと、腹が痛くてな」
「ム? 兄上、変な物でも食べたんじゃあるまいな」
「……まぁな」
すると背後から甲高い抗議の声が。
「僕のパンはヘンじゃないよ!」
ややこしいから黙っていろと言いたいところをぐっとこらえる。
このパン屋、下手に構うと面倒臭さが倍増するに違いない。
少々変わり者というのは分かるが、明るいのは良いことだと考えることにしよう。
ちら、と視線を走らせる。
ルイ・ジュリアスの背後で、ずっと俯いたままのリヒャルトを見やったのだ。
馬の歩みに合わせてゆらゆらと、生気を失ったように一点を見詰めている。
黙りこんだままだ。
先程オスマン兵の標的にされたことを、足を引っ張ったと気に病んでいるのだろう。
さっきから何度か声をかけようとして、しかしかける言葉を思いつかずやり過ごしていたのだ。
これでは敵と剣を交えることなど不可能だし、責任ある仕事を割り振ることも難しい。
口を開きかけ、結局今回もシュターレンベルクは息子から視線を逸らせたのだった。
「グイード、報告を聞こうか。市長が何だって? あんなのは待たせておきゃいいんだ。急いで帰ったところで、結局嫌味を言われるだけだ」
目の前の現実から逃れるための問いであったが、皮鎧の大男は弾かれたようにこちらを振り返った。
「い、いかにも。兄上に何点かご報告が……」
この男にしては珍しく言いよどむ様子を見せ、しかし意を決して一言。
「誘拐され申した」
「誘拐? 誰がだ?」
「マリア・カタリーナです。兄上の娘だ」
「は?」
馬の足取りが乱れる。
背後でパン屋がバランスを崩しかけ、慌ててシュターレンベルクの背にしがみついた。
「馬鹿な。娘は他都市に避難したはずだ」
ルイ・ジュリアスの背に顔をもたせたままのリヒャルトの口が「あっ」と小さく動いたのを視野に捉え、シュターレンベルクは嫌な予感が背に這い上がるのを感じた。
「おれもそう思っていた。兄上の奥方やお子らは、とうに避難したものと。だが、マリア・カタリーナだけこっそりと街に残っていたようだ。さきほど市長殿の元に脅迫状が届いた」
そこには、最高司令官シュターレンベルクの娘を誘拐した旨、解放してほしければ降伏してオスマン帝国軍にウィーンを明け渡せという要求が書き連ねてあったという。
「……それは、何とも胡散臭いな」
唸る指揮官と、頷く副官。
「兄上、それからもう一点」
なんだと問われ、グイードの野太い声が一瞬詰まる。
次に口を開いた時、この男にしては珍しく声が掠れていた。
「逃げ申した」
「今度は誰が?」
「それが……」
早々に言うべきであった。
兄上が襲撃を受けたというからついそちらの話が気になって……と言い訳ともとれぬことを小さく呟く。
「誰もおらぬ。諸侯ほぼ全員だ。アーレンベルク公も、クレーフェ公も……。今朝早くに市の東側から逃亡した。オスマン帝国軍の一隊が彼らを追撃し、ドナウ艦隊が応戦、壊滅したとの報が」
「なに……っ」
落馬よりも強い衝撃が全身を貫く。
挙げられた名は頼みにしていた諸侯らのものだ。
彼らは今朝方、唯一の脱出方向である東に向かったらしい。
配下の兵を残して単身、或いはごく少数での脱出というから彼らの本気の程が伝わってこよう。滅びる都市と運命を共にするものか、と。
「陛下の元へ駆けつけるから留守を頼むと家中の者に言いおいたとの話だ。報告が入ったのが昼過ぎで、急ぎ兄上に知らせようとしたのだが」
兄上の姿が市壁内になかったから手間取ったと言いたかいらしい。
どちらにしても手遅れである。
もう対処は出来ない。
秘密裏に脱出した諸侯らのことも、ドナウ艦隊のことも。
レオポルトの元へ行くなど、そんなものは口実に過ぎない。
皇帝に見捨てられた首都でどれほど活躍したところで、自身の評価など得られやしない。
利に敏い連中の行動を予測しておくべきだった。
それにしても奴らの言い草が余計に腹が立つ。
勝手に領地に帰るというなら反逆として責めることもできようが、皇帝の元へ馳せ参じると言いおかれては、一介の家臣たる自分には処分を講じることもできない。
何より痛いのは、秘策としていたドナウ艦隊が巻き込まれたことだ。
貴族たちが逃亡の足として使ったのだろう。
少数で機能する隠密部隊が姿を晒すことになってはまずい。
攻撃され、為す術なく壊滅した。諸侯らが逃亡に成功したか、艦隊と共に沈んだかは今は確かめようもない。
今朝の時点で唯一開いていた東とて、既にオスマン軍が布陣しているだろう。
ウィーンはオスマン帝国軍によって完全に包囲された。
一六八三年七月十六日のことである。
10
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
剣客逓信 ―明治剣戟郵便録―
三條すずしろ
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞:痛快! エンタメ剣客賞受賞】
明治6年、警察より早くピストルを装備したのは郵便配達員だった――。
維新の動乱で届くことのなかった手紙や小包。そんな残された思いを配達する「御留郵便御用」の若者と老剣士が、時に不穏な明治の初めをひた走る。
密書や金品を狙う賊を退け大切なものを届ける特命郵便配達人、通称「剣客逓信(けんかくていしん)」。
武装する必要があるほど危険にさらされた初期の郵便時代、二人はやがてさらに大きな動乱に巻き込まれ――。
※エブリスタでも連載中
永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
幕府海軍戦艦大和
みらいつりびと
歴史・時代
IF歴史SF短編です。全3話。
ときに西暦1853年、江戸湾にぽんぽんぽんと蒸気機関を響かせて黒船が来航したが、徳川幕府はそんなものへっちゃらだった。征夷大将軍徳川家定は余裕綽々としていた。
「大和に迎撃させよ!」と命令した。
戦艦大和が横須賀基地から出撃し、46センチ三連装砲を黒船に向けた……。
if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
シンセン
春羅
歴史・時代
新選組随一の剣の遣い手・沖田総司は、池田屋事変で命を落とす。
戦力と士気の低下を畏れた新選組副長・土方歳三は、沖田に生き写しの討幕派志士・葦原柳を身代わりに仕立て上げ、ニセモノの人生を歩ませる。
しかし周囲に溶け込み、ほぼ完璧に沖田を演じる葦原の言動に違和感がある。
まるで、沖田総司が憑いているかのように振る舞うときがあるのだ。次第にその頻度は増し、時間も長くなっていく。
「このカラダ……もらってもいいですか……?」
葦原として生きるか、沖田に飲み込まれるか。
いつだって、命の保証などない時代と場所で、大小二本携えて生きてきたのだ。
武士とはなにか。
生きる道と死に方を、自らの意志で決める者である。
「……約束が、違うじゃないですか」
新選組史を基にしたオリジナル小説です。 諸説ある幕末史の中の、定番過ぎて最近の小説ではあまり書かれていない説や、信憑性がない説や、あまり知られていない説を盛り込むことをモットーに書いております。
戦国三法師伝
kya
歴史・時代
歴史物だけれども、誰にでも見てもらえるような作品にしていこうと思っています。
異世界転生物を見る気分で読んでみてください。
本能寺の変は戦国の覇王織田信長ばかりではなく織田家当主織田信忠をも戦国の世から葬り去り、織田家没落の危機を迎えるはずだったが。
信忠が子、三法師は平成日本の人間が転生した者だった…
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
時代小説の愉しみ
相良武有
歴史・時代
女渡世人、やさぐれ同心、錺簪師、お庭番に酌女・・・
武士も町人も、不器用にしか生きられない男と女。男が呻吟し女が慟哭する・・・
剣が舞い落花が散り・・・時代小説の愉しみ
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる