クロワッサン物語

コダーマ

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【第一章 ウィーン包囲】パン・コンパニオン

パン・コンパニオン(1)

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 ウィンドボナ──それは「白い町」というケルト語だ。
 意味は清廉と純潔。
 それがウィーンという都市の起源であった。

 一二七八年、スイスの一領主であるハプスブルク家のルドルフ一世がこの地を自領とする。
 十五世紀半ばよりハプスブルク家は神聖ローマ皇帝位を世襲するようになり、ウィーンは帝国の中心都市となった。

 パリと並び、ヨーロッパの主要都市の一つとして繁栄を極めたのは、首都を通るドナウ河の水運によるものである。
 それから当時隆盛を極めた琥珀の、主要産地と各都市を結ぶ琥珀(アンバー)ロードの起点の地であったことだ。
 更にボヘミアで鋳造されたグロシュ銀貨、隣国ハンガリー王国のフォリント金貨という信頼性の高い金貨、銀貨の流通の中心地となった為でもある。

 戦乱に明け暮れたヨーロッパでは、小都市であっても堅固に要塞化して周囲に壁をめぐらしているものだ。
 パリが何度も市壁を取り壊しては放射状に街を拡大していったのと対照的に、ウィーンの面積は小さい。
 直径で二キロメートル弱。
 堅牢な造りの市壁周りを歩いても、大人の足で一時間程度のものである。
 規模といえば市というより、街という表現の方がしっくりくるであろう狭い空間だ。

 グラーベン、ケルントナー大通り、ウィーン大学にカプツィナー教会、それから王宮(ホーフブルク)や諸侯の館が、市の中心に聳えるザンクト・シュテファン大聖堂──市民らは親しみを込めてシュテッフルと呼ぶ──の高い塔を中心に立ち並んでいる。
 無論、平時においては市壁の外にも簡易造りの店舗、小規模な集落、畑は点在しているが、現在はそれらはほとんど取り壊され、住民全てが市壁内にて保護されていた。
 十二ある市門が固く閉ざされているのは言うまでもない。

 いや、今しがた市の南に位置する門が開いた。

 そこ──ケルントナー門はケルンテン州を経由してヴェネツィアへ通じる街道が伸びるため、普段では最も通行量が多く、さしずめウィーンの正面玄関という構えを誇る堅固な門である。

 勿論、巨大な鉄扉が鎖を使って上へと引き上げられたわけではない。
 開いたのはケルントナー門のすぐ際にある小門だ。
 いわば通用口のような形で使われているが、これも市門のひとつである。
 馬に乗った人物が一人通れるかどうかという狭さだが、開閉に時間も手間もかからない点から、使用頻度は高い。
 特に街を包囲されているこの状況では大門を開けるわけにもいかず、こういう通用門は勝手が良いものであった。

 そこから一人、二人……三人と市壁外へ滑り出る。
 それぞれが、馬を連れていた。
 最後に門を出た人物が一際大きな栗毛に騎乗すると、あとの二人も銘々の馬に跨った。

 三人共、軍人であるらしい。
 馬を従えている様子と、各々の腰に下げられた武器で分かる。
 先頭を行く栗毛は市壁の外を吹き抜ける風が心地良いのか、やや速足だ。
 乗っている者の性格が馬に移っているのかもしれない。

 騎手は他の二人に比べ、やや年かさに見受けられる。
 濃い茶色の短髪を風に遊ばせ、貫禄と表現するにはまだ若さの残る顔立ちは、どことなく品を感じさせる。
 白い肩掛けの下に黒色の皮の上着、背にはマスケット銃。
 武人としては平均的な体格だが、背筋の伸びたその姿が遠目にもはっきり誰と分かるというのは、その地位にふさわしい人物といえる所以であろう。

 ウィーン防衛司令官エルンスト・リュティガー・フォン・シュターレンベルクその人である。
 解放感では決してあるまいが、シュターレンベルクは外の空気を思い切り吸い込んだ。
 土の匂い、風に煽られ頬を打つ砂塵の感触。
 どちらも壁の中では味わえないものだ。

 門を出れば、向こう二百メートルはグラシと呼ばれる何もない空間が広がっている。
 ウィーンを取り囲むように造られた空き地だ。
 ドナウ川と接する箇所以外、市の周囲に広めの空き地を設えたのは、シュターレンベルクが発案した防衛戦略の要であった。

 ウィーンの街の外側、つまり市壁周囲に所狭しと立ち並んでいた小屋や出店を取り壊し、見晴らしの良い平野を作り出す。
 遮蔽物のないこの空間に、敵は侵入を図れまい。
 身を隠すものがない以上、こちらの大砲や、堡塁からの銃撃の餌食となるだけだからだ。
 オスマン帝国軍の陣営は、現にはるか向こうに設置されている。
 おかげというべきか、射程の限られるシャーヒー砲が、ここまで届くことは稀であった。
 つまり、空き地(グラシ)は攻囲に対抗するうえで、戦略上重要な位置づけを持つ。それと同時に、ここは馬を駆るには絶好の場所だった。

「カ、閣下、降伏文書が、届いた、というのは」

 仙々しいイタリア語が、シュターレンベルクの右後方から上がった。
 唸りをあげる風音に負けないよう、張り上げられた声。
 歓声怒声絶叫渦巻く戦場を己の舞台とする武人にとって、喉は腕の次に大切な武器である。

「何語で喋ってくれても構わないよ、ルイ・ジュリアス。イタリアかぶれの皇帝は、もうここにはいないんだ」

 一瞬躊躇うような沈黙の後、ルイ・ジュリアスと呼ばれた男が再び口を開く。

「オスマン帝国軍から、降伏を促す文書が届いたと聞きました」

 今度は流暢なドイツ語だ。
 黙り込むのはシュターレンベルクの方であった。

「ルイ・ジュリアス殿、我が父に向って無礼ではありませんか。父は総司令官なんですよ」

 先程とは別方向から、細い声があがる。
 こちらは武人向きとは到底言えないものであった。
 今まで無言であったのは、声の主が馬に乗ることにいつまでたっても慣れないからに違いあるまいとシュターレンベルクは苦々しく思っていた。

「構わん。今は非常時だ。儀礼は一切無視しろと告げた筈だぞ、リヒャルト」

「は、はああっ、そうでした」

 リヒャルトと呼ばれた小男は馬の揺れに煽られたか、奇妙な返事をした。

「儀礼を重視していては、大切な報告が遅れてしまうからと父上は仰って……だから私たちもカツラを取っているのでぇぇっ。頭がスカスカするような、少々物足りないような。不思議な……しかしこれは楽なものですね、父上っ」

「うむ……」
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