湖に還る日

笠緒

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第二章 縺れ澱む想い

天正二年――雨が降る昏の時刻、高島にて・弐

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 サァァ……、と、雨が景色を洗う音がする。
 その合間を縫うようにして、濁りのあるリーリーという音が濡れた空気に溶けていく。
 沈んでいた昏い闇から、ふわ、と持ち上がりかけた意識が、涼やかな雨音と虫の音を追いかけた。

(この、虫の声……)

 最近、耳にしたような気がする。

(どこでだったかしら)

 あれは、確か――。
 断続的に続く虫の音色を頼りに、少女の意識がふわりふわりと漂う記憶をなぞっていく。

(あぁ、そうだ)

 船酔いの中、輿で揺られながら耳にした、虫の声だ。
 輿入れのため、女輿に乗り、先方――津田七兵衛信澄つだしちべえのぶずみの屋敷へ向かっていた時に、聴いた音色だ。

(こし、いれ……、って、わたくし……ッ!?)

 そう思ったその瞬間、心地よいぬるま湯のような感覚に揺蕩っていたきょうの意識が、一気に浮上し覚醒した。弾かれたように起き上がると、いまだ夜の帳は上がっていないようで、視線の先に、燭台の上に橙を灯した十畳ほどの部屋が広がっている。
 ふ、と自身へと視線を落とせば、祝言の折、身に纏っていた白小袖に打掛姿ではなく、肌小袖のみの姿になっていた。
 くら、と眩暈のようなものを感じたのは、寝起きだからか、それともまだ身体が本調子でないからか。頬へとかかる黒髪を指先で払いながら、京が軽く眉根を寄せたその瞬間。

「あぁ……、起きたか」

 衣擦れの音と共に、自身の右で声が落とされた。
 はっ、とそちらへと首を向けると、もぞ、と褥から起き上がるひとつの影。燭台の灯りの中、浮かび上がるのは自身が嫁いだ青年――信澄だった。
 少女は驚きに上がりかける悲鳴を喉の奥で留めると、この状況を探るべく脳裡に残る記憶を急ぎ紐解いていく。

(確か、祝言の席で……この方にお目通りして、その後……)

 三献の儀――所謂、三々九度はこなしたかと思う。
 味もにおいも感じない、けれど喉を焼く感覚をいまも覚えている。

(そう、そうして……盃を膳に戻す際に)

 気を、失ってしまったのか。
 そこから先の記憶が、真っ黒に塗り潰されている事からも、恐らく間違いないだろう。

(という事は……)

 どう考えても、所謂床入り――しかも、その初めである新床にいどこをすっぽかしてしまった状況だ。京はサー、と引いていく血の気を感じながら、夜着よぎを跳ね除け、褥の上で彼に対し平伏する。
 さら、と背でまとめられていた黒髪が肩先から滑り落ちてきた。

「も……も、も、申し訳、ございません……っ! わ、わたくし……」

 手のひらへ額をつけながら謝意を口にするが、その声音はみっともないほど震えている。何てことをしてしまったのか、という焦りと後悔が胸の奥で水に垂らした墨汁のように広がり続け、カタカタと全身の震えが止まらない。
 いま、胃の腑に渦巻くものは、きっと船酔いのものよりも、恐怖と罪悪感、自信への嫌悪のそれに、完全に上書きされてしまっている。

「……詫びる必要はないので、とりあえず、おもてを上げてくれないか」
「い、いえ……っ! わ、わたくし、何という不調法を……」
「と言うか、流石に寝所で、女人にょにんに頭を下げられるのは……、こう、俺の気持ちの問題としてあまり嬉しくはないので、普通にして貰えるとありがたいという意味もあるんだが」
「……っ! 申し訳……」
「だから謝らずとも良いので、」

 おもてを上げてくれ。
 彼はそう言うと、震える京の肩へと手を伸ばし、触れてきた。情けないほどに、ビクッ、と大きく揺れる京に、青年の指が、ふ、と離れ、宙に留まる。

「あ、……そうだな。すまない」
「い、え……あのっ、申し訳、ありません……」

 京としては、まさか触れてくるとも思っていなかったので、ただただ驚いただけだったのだが、結果として拒絶したような形になってしまった気がする。けれど、そもそも夫婦になる間柄なのだから、驚くこと自体、この上なく失礼な話なのかもしれない。

(わたくしは、どうして……)

 京は、泣きそうになる心を何とか奮い立たせ、ゆるゆると恐れ窺うように垂れていたこうべを持ち上げていく。ふる、と揺れた睫毛の先が信澄へと向けられ、視線が彼とゆっくりと交わった。
 祝言の折は、距離もあり、さらにさほどじろじろと顔を見ていたわけでもないので気づかなかったが、ややつり目がちな切れ長の瞳は、その目尻にかけて二重の幅が広がっている。何かを探るように軽く首を傾けながら、その双眸が何度か瞬かれた。

(祝言の時と、同じお顔だわ)

 驚いたような、それでいてその事をどこか納得しているような、そんな表情だった。

明智あけちさま――、お父君と」
「……? はい」
「お父君と、岐阜へ行った事は?」
「……あの、はい。御座います。先月、でしたでしょうか……。父に連れられ、お殿さまへのお目通りを致しましたが……、それが何、か……?」
「お父君の後ろを、妹君かな――一緒に歩いて?」
「いもうと……、あ、はい。妹の、たまと。侍女も何人かおりましたが……」
「あぁ、やっぱり」

 信澄の声が、僅かに温度を高くする。

「ちょうどその日も、俺は城の奉行衆の詰所にいたんだが、明智さまが登城される姿を見かけて……珍しく、付き従っているのが奥方ではなかったから覚えていた」
「あの時は……母は、体調を崩した弟の世話で父に同行出来ず、代わりにわたくしと妹がお供致しました」
「明智の息女との婚儀が決まったと聞いて、もしや、とは思ったが、当たっていたな」

 ふ、と信澄の頬が僅かに柔らかくなり、唇の端が持ち上がった。
 物静かな印象が強いおもてだが、ほんの少し感情が浮かび上がると驚くほどに表情が動く。京は、穏やかなその表情に、胸の裡がそわ、と擽られたような気がしてゆるゆると睫毛を下げた。

(えっと……これって、父さまも、わたくしがお会いしているというような事は仰ってなかったし、ご挨拶は……していないって事よね?)

 一度挨拶をしておきながら忘れていたら無礼にもほどがあるのだろうが、恐らく彼の言うように、奉行衆の詰所とやらからただ垣間見られていたという事だろう。だとしても、自分の知らないところで認識されていた、というのは何とも気恥ずかしい。

(何より、わたくしの顔を覚えていらっしゃったという事なら、一緒にいた玉も、きっとご存知という事……)

 あの日の玉は、初めて訪れる岐阜城にとても喜んでいた。仕立てたばかりの緋色ひいろ撫子色なでしこいろの洲浜を肩裾にあしらった小袖を纏い、それは楽しそうに大きな瞳をキラキラと輝かせていた。
 艶やかな黒髪は、歩を進めるたびに軽やかに彼女の小さな背で踊る。今年、ようやく裳着を済ませたばかりの少女だが、あと数年もしたらきっと世に並ぶ者がいない程の美女となるに違いない。

(……この方は、がっかり、なさらなかったかしら……)

 ぽつん、と心の奥底に、不安が落ちた。
 どうやら信澄へと婚儀の話を告げたのは、主君である信長のぶながが直々にしたらしいが、恐らく先ほどの言の通り、明智家のむすめ――名は「京」である、という事くらいしか告げられていなかったのだろう。
 けれど、あの時、玉の姿を見ていたのだとしたら、明智家のむすめと言われ一瞬でも期待したりはしなかっただろうか。先ほど、彼は「予想が当たった」と言っていたが、それは本心なのだろうか。

(いえ)

 きっと、誰しもが、玉ほどの美少女を望まないはずはないだろう。
 勿論、この縁組は明智家と津田家――延いては織田おだ宗家との繋がりを深めるものである事は誰もが知り、納得している話だ。信長の側近として仕える信澄個人としても、その重臣である明智十兵衛光秀あけちじゅうべえみつひでの女婿となるのは、悪い話ではない。
 だから、この話は「明智家のむすめ」であれば誰でも良く、そこに個人の名が必要だったわけではない。
 それは、京もわかっている。
 けれど。

(あの、玉を見たのなら)

 きっと、期待する。
 あの少女を貰い受けたいと、望んでしまうに違いない。

(きっとこの御方はお優しい)

 こうして祝言の席で不調法な事をしても、第一に責めるでもない。
 だからきっと、玉ではなく京がこうして嫁いできていても、あからさまな態度は取らないだろう。

(でも……、きっと小さくても、失望のようなものはあって……)

 ただでさえ「だめなこ」である自分は、一体どこまで人へ失望を与えてしまうのだろう。

「ところで……、京どのは、酒に弱いのか?」
「えっ、あ……あの、いえ……」

 視線を逸らし、押し黙った京に何かを感じたのか否か。信澄が突然話を変えた。少女は突然名を呼ばれた事で、反射的にそのおもてを持ち上げる。
 再び、あの視線と自身のそれが重なり合った。

「……っ」

 何故かはわからないが、この双眸に見つめられると、どうしても胸の裡を何かに擽られたような心持ちがしてしまう。

「あ、の……お酒、は……その、そこまで、強くは御座いません……が?」
「坂本にいた頃は?」
「お正月など、口をつける程度でしたら……」
「あぁ、なるほど。祝言の祝い酒だし、そんな強くもなかったと思うが……それなら、まぁ倒れても……不思議はない、か?」

 どうやら京が意識を失ったのは、酒に酔ったせいだと思われているらしい。
 確かに酒を飲み干してすぐに倒れたので、そう思われても仕方がないと言えば仕方がないが。

「あ、あのっ、……その、違うのです……」
「違う?」
「お酒は、確かに強くはありませんが……、そうではなく」

 京が、初めてあれほど長距離の船移動にも関わらず、天候の為に外に出る事も出来ず、結果、船酔いに陥ってしまったことを正直に告げる。それを聞いた信澄の切れ長の目が、再びやや大きく丸まっていく。

「それならそうと、屋敷についた時にでも於逸おいつにでも言えば……、いや、途中で渡辺わたなべ堀田ほったにでも言ってくれたなら、港からここまで、いくらでも休むところはあったぞ」
「……っ、あの、申し訳、ありません……っ」
「あー、いや。責めてるんじゃない。俺も、ここから岐阜へ行くときなど船を使う事もあるんだが、最初の頃は俺も酔ったからな」

 病ほどとは言わないが、あれはあれでそれなりに辛い、と零した信澄は、過去の船酔いを思い出しているのか、若干眉間に皺を寄せていた。

「それで、今はもう大丈夫か? 気分が悪いなら、誰か人を呼ぶが」
「あ……あの、それは、もう……」

 船から降りて大分経過しているせいか、それとも次々目まぐるしく感情が心の中で入れ替わるので、その慌ただしさに身体がつらさを忘れたのか。地面が揺れているような感覚は、今はすでになくなっていた。胃の腑の辺りの重みも、綺麗になくなっている。
 もし前者ならば、彼の言うようにやはり港に着いた時に多少休んでいれば、祝言で失態を演じる事もなかったかもしれない。

(こういうところが、わたくしが「だめなこ」な理由……)

 どうしても、人への迷惑を考えてしまって、結果的にそれが悪い方へと作用する。
 思えば昔、玉に反物の柄を先に、と譲った時もそうだった。
 こんな自分が、今目の前にいるこの青年に見合うだけの妻になれるのだろうか。
 妹のように容貌がさほど優れているわけでもなく、姉たちのように「明智のむすめ」に恥じないだけの器量もない。

「さて、と。これは一体、どうしたもんかな」
「……? どう、とは……」

 軽く小首を傾げながら信澄の言の葉をそのまま呟く京へ、彼の手が、するり、と伸びてきた。ひゃ、と身を竦めた瞬間、青年の手が少女の頬へと軽く触れる。
 むず、と胸の裡で再び得体のしれない疼きが生まれ、心臓の音が一気に喉元まで跳ね上がった。
 信澄に触れられた頬が、かぁ、と熱を持つ。

「あ、あ……あ、あの、」
「訊くが、閨事は知ってるな?」
「……は、はい。あの、乳母、から……」

 嫁ぐと決まった後、乳母が枕絵を元に閨での作法を教えてくれた。

「本来なら、とっくに床入りを済ませている時刻だ、と思ってな。まぁ、実際、床には入ってるか」
「あ、の……、はい……」
「はは。さっきから、『あの』と『はい』ばっかりだな」

 ふ、と信澄の頬が再び緩む。
 口角が持ち上がり、目尻に軽く皺が入った。
 その視線に耐えきれなくなった京が、睫毛をす、と下そうとした瞬間、シュルリ、衣擦れの音と共に空気が揺れる。
 信澄の夜着が一瞬で跳ね退かれ、京の頭上に影が落ちた。

「……っ!」

 一瞬のうちに、少女の褥へと青年が移ってくる。そして、頬へと触れていた彼の指が滑るように耳朶、そして背へと流していた黒髪を抱いた。
 気づけば、夫となる青年の肌小袖の中に、捉えられており、京の耳朶に、直接信澄の鼓動が流れてきた。その音が早いのかどうなのか、頭の中が真っ白になっている京にはわからない。
 姉たちや妹と戯れるように触れ合った時には感じなかった、男の硬い身体に、息の仕方さえも忘れてしまいそうだ。

「…………ところで、いま俺が何を考えているか、わかるか?」
「え? あ、……いえ、わかりません」
「本音は、このまま押し進めたい。……が、いま病み上がり聞いたので自重すべきか、と悩んでいる」
「そ、れは……」

 父から信長に似たところがある有能な人間と聞いた時は、噂に聞く主君のように厳しいところがある人間なのかと思っていた。
 けれど、こうして話してみれば自分にさえも優しさを向けてくれる人だ。

(この方は、お優しい方だわ……)

 素直に、そう思う。
 子を生すことも、妻としての大切な役目。
 初夜など、無理やり身体を開かれようとも当然だというのに、この人はこうして自身の体調を思いやってくれている。だからこそ、京は「だめなこ」である自身の過去の判断に、後悔ばかりを向けてしまう。
 
(この方は、お優しくて、ご立派で)

 自分のような娘が、嫁いで本当に良かったのだろうか。
 「明智のむすめ」という以外、何の利点もない自分で本当に良かったのだろうか。

(もし、この方の心に、少しでも失望があったのなら)

「申し訳――」

 ふ、と唇から零れた心の声が、橙に滲む部屋に木霊した。

(……いま、わたくし……!?)

 声に、出してしまった気がする。
 ハッ、と顔を持ち上げると、眉根を寄せながらも唇に三日月を浮かべる青年の姿。

「まぁ、そうだな……」
「ち、違……」
「いや、いい。船酔いが馬鹿に出来ないのは、俺もよく知っている」

 掻き抱かれた髪をぽんぽん、と優しくあやすように数回撫で、信澄の身体がゆっくりと少女から離れていく。
 ふわ、と鼻腔を擽るのは、青年の肌小袖に焚き染められていた香だろうか。

「ゆっくり休め。俺も、そうする」

 そう言って、隣の褥に転がった夫に、少女は「申し訳ありません」と、小さく呟いた。
 外はサァァ、と雨音が鳴り響く。
 その冷たい音が、心の中でも降り注いだような気がした。
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