湖に還る日

笠緒

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第一章 巡り絡む運命

天正二年――闇夜に月が転がる時刻、美濃国岐阜城にて

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 夜の帳が、見上げた天守を薄い闇色に染めていた。
 東の空には、爪の先で引っ掻いたような月が転がっており、その周囲に無数の星が散らばっている。
 日中、汗ばむほどの陽気だったというのに、こうして一度西の空に陽が隠れてしまえば、いまだ肌寒さを感じる季節。それでも夜風が運んでくるにおいは、若々しい緑のそれ。
 ホー、ホー、と闇の中響くのは、梟の鳴き声だろうか。
 信長のぶながはその声に合わせるように、手に持った刀身へと打粉をぽんぽんと落としていく。青みを帯びた鋼色の板目文が細かい粉で覆われていき、それを拭い紙でスー、と滑らせるように拭き取れば、美しいのたれ文の乱れ刃がギラリと光を弾いた。
 今から十二年前、桶狭間にて今川義元いまがわよしもとを討ち取った際の戦利品として得た「左文字」と称される刀であり、現在の彼の愛刀のひとつである。
 信長は刀身を水平にしながら、何度か灯明の光を掬い、その表面に古い油が残っていないかを確かめる。問題ない事を見て取ると同時に、背後で衣擦れの音が響いた。彼はその背後の人物へと視線を向けることなく、打粉を拭き取った拭い紙をぽいっと放る。
 信長の手を離れるた紙は、そのまま板間に落ちることなく、白く細い指へと受け止められた。
 そして何か言うでもなく、油が染みこんだ紙を渡してくる。
 指示をせずとも次の行動を察して動いてくれる人間は、実に楽である。信長はそのまま刀の手入れを素早く終えると、鞘へと刀身を戻した。
 そしてそれを背後へと手渡すと、信長は今まで自身が腰を下ろしていた廊下から、室内へと足を運ぶ。すると、後ろから両腕に刀を抱えた女が打掛の裾を捌きながら、追いかけてきた。
 三十をいくつか過ぎたくらいだろうか。
 恐らく、自身の許へ仕えるようになってから十年ほどが経過しているはずなので、そのくらいのはずだ。
 やや目尻に勢いがある大きな瞳が勝気な印象を与えるものの、癖のない黒髪、白いおもて、こじんまりとした小さな口に、高くもなく低くもない鼻を持つこの女は、明智十兵衛光秀あけちじゅうべえみつひでの義妹であり、現在信長の側室――という立場になっている。
 と言うのも、うっかり手を出してしまった事が一度――否。数回あったが故に、側室に上げざるを得なかっただけであり、義兄同様に優秀なこの女に望む仕事は、子を産み育てる事ではない。「妻木つまぎの方」と称しているものの、実際のところ信長付きの侍女頭である。
 信長は室内の褥の上に座すると、脇息きょうそくへと肘を置いた。妻木の方が、先ほど渡した左文字を掛け台に立て掛け、ふわ、と打掛を翻すと、信長の僅か下座へと腰を落とす。
 新緑の空気に、薫物たきもののにおいが舞った。

荷葉かようか」
「はい。昼間、義兄あにたちが来てくれた折に頂きましたので、先ほど軽く焚きましたの」
「左様か。……喉が渇いたな」
「はい。ただいま」

 次の間に控えていた侍女へと彼女が目配せをすると、盆に乗せられた盃と銚子が運ばれてくる。もっとも、信長は下戸なので、その中身は正真正銘、水である。

「妻木。お前も飲むか」
「いえ、あたくしは喉が渇いておりませんので」
「左様か」

 信長は女を、彼女の実家の姓で呼ぶ。
 ――否。
 彼女だけではない。側室は全員、実家の姓で呼び、名は呼ばない。信長が奥にいる女でその名を呼ぶのは、正室の「於濃おのう」だけである。
 親から彼女が与えられた名は「帰蝶きちょう」だったが、嫁した際に美濃から来たという事でそれを与えた。それ以来、彼女の名は「於濃」になった。
 実子がない彼女だが、信長の奥におけるただひとりの正室であり、それを絶対的なものとして尊重する意味で、信長はその他側室との差をはっきりと表している。

(奥の乱れは、表の乱れに通ずる)

 これが、信長の持論だった。
 自身が家督相続で同腹の弟と争ったせいもあって、次世代ではそれがないよう嫡男とそれ以外の息子たちの間に、越えられないはっきりとした壁を設けている。次男、三男は他家へと養子へやったのは、勿論、外交上の計略が一番大きな理由ではあるが、織田宗家から離すという意味合いがあったことも、否定はしない。

(故に、三七さんしちめが焦るのだろうが……)

 信忠のぶただ信雄のぶかつ三七郎さんしちろうの三人は、生まれた時期にさほど差はない。信忠のみが数か月ほど早く生まれたせいで、一歳年嵩ということになったが、それも単純に正月を挟んだかどうかという話である。
 三者の母親は全員側室であり、信忠の母親は正室・於濃の侍女で美濃出自、信雄、三七郎の母は尾張の国人衆の一族だ。たまたま信忠が一番早く生まれたから嫡男としたが、それ故に、下のふたりは嫡男とは言わずともそれに次ぐ家中の地位を密かに争っている。
 三七郎が元服に当たり、加冠役に織田家重鎮である柴田しばたを指名してきたこともその表れだ。
 だから。

  ――三七さんしちがそろそろ元服を、と言ってきていてな。どうだ、お前も元服する気はないか?

 信長は、側近のひとりであり、甥である津田於坊つだおぼうに三七郎との共同の元服を薦めた。否。薦めた・・・という言い方は卑怯であるかもしれない。彼はさとい。故に、信長が打診した時点で拒絶が出来ない話である事は察していた。

  ――元服の儀、承知致しました。殿のご温情、ありがたく頂戴致します。

 そして、信長の考えを短時間で読み取り、家臣として・・・・・望んだ最良の答えを返してくる。長く仕える事で信長の意を汲む事に慣れたのか、それとも養父の柴田の教育が良かったのか。

(いや、勘十郎かんじゅうろうの血かもしれんな)

 久々に弟を脳裏に思い描き、信長は水が注がれた盃をく、と傾け飲み干した。
 織田勘十郎信勝おだかんじゅうろうのぶかつは、決して仲が良かった弟ではなかった。
 共に暮らした事はなく、同腹でありながら家中の様々な思惑によって隔てられていた不幸な兄弟だったと思う。
 仲は良くはなかったが、けれど、憎くて憎くてたまらず殺したというわけでもない。
 自身の地位を危うくする程、有能だったが故に、敵対し、誅する事になった弟だった。

(父に似れば、まぁ於坊が賢しいことなど当然か)

 元より、信勝の遺児に関しては殺すか生かすか、迷っていたところはあった。信勝にしても、殺したくて殺したわけでもない。そこへ、母の涙ながらの説得があったので正直渡りに船とばかりに幼い命を許したが、こうして有能な側近として長じた姿を見れば生かしておいて良かったのだと素直にそう思う。

(あぁ、於坊と言えば……)

 昼間、と交わした約束をふと思い出す。

  ――強いて言うなら、その上、美人ならばなお、嬉しいってくらいではないかと……。
 
 あの小僧め、生意気にも信長自らが仲人をするとわかっていながら、しゃあしゃあと美人がいいと言ってきた。けれど、信長が好む於坊の気質は、まさにそういったところでもあった。

「そう言えば、妻木よ」
「はい」
「昼間、十兵衛が娘を連れて来ていたな」

 信長はそう告げながら、妻木の方の前へと飲み干した盃を再び差し出す。こぽこぽ、と涼やかな音を立て、銚子の口から水が溢れ出し、盃の中を満たていった。

「はい。三女のきょうと、四女のたまが、参っておりました」
「三女に四女……。十兵衛のその上の娘は、いるのか」
「おりますが……、もう長女も次女も、他家に嫁しておりますよ」
「ふぅむ……」

 光秀が数年前より進めていた坂本城が今年に入りようやく完成し、先月祝いを与えたのだが、本日、その返礼を持ってきていた。日頃は、妻木の方の姉である夫人の熙子ひろこを伴ってくることが多いが、今日は六つになる嫡男が体調を崩しているということで、娘ふたりを連れてきたらしい。
 信長も実際彼女たちに対面したが、三女は十五ほど、四女に至っては十を過ぎてから一、二年しか経っていないように見えた。流石は美形の家系と噂される明智家の息女らしく、どちらも器量に優れていたが、特に四女の方は信長も驚くほどの美少女だった。

(美人ならば、か……)

 於坊は今年、二十になった。
 夫婦の年齢差が十離れている事は不思議でもないが、娶らせるからには早めに嫡男を上げさせたいという気持ちもあるにはあった。

「於坊に此度、嫁を取らせる事になった」
「まぁ。於坊どの……」

 妻木の方はその猫のように大きな目を、一度瞬かせながら手に持った銚子を盆の上へと置く。

「どこの家の娘御を、娶られるかお決まりですの?」
「いや……まだだ。まぁ、美人が良いなどと、ぬかしておったがな」
「ふふ、それはまた、殿方らしいお言葉ですこと」
「よって、十兵衛のところの娘はどうかと思った」
「京か玉ですか?」
「うむ。それより姉がおったなら、年の頃合いもいいかと思ったが……嫁いでいるのなら、是非もない」

 急な思いつきではあったが、近江国おうみのくに東部、佐和山城さわやまじょうには信長の養女を妻に持つ丹羽五郎左衛門尉長秀にわごろうざえもんのじょうながひでがいる。
 そこに、北部にある高島たかしまの後継となっている於坊と、南部の坂本に領地を持つ明智が結びつけば、織田の親類が近江の国――琵琶湖周辺の大半を直轄に出来るということだ。

「妻木。於坊めへ明智がむすめをくれてやるとしたら、京と玉、お前はどちらが良いと思う?」
「それは、京ですわね」

 信長は二度目に受けた盃をぐい、と煽ると、それを妻木の方へと返す。彼女は両の手でそれを受け取ると、迷いのない口調で断言した。
 盃をそのまま盆へと置くと、彼女は控えていた侍女に下げるよう視線で合図し、再び信長の方へと睫毛の先を向けてくる。こうして顔をじっくりと見ると、本日見かけた四女の玉によく似ている気がする。

「京か。何故そう思う? あの娘も悪い器量ではなかったが、美人を、と望まれたのだから、玉の方が適正ではないか?」
「第一に年が離れすぎている、というのもありますが……、それよりも、生まれた頃より玉を存じ上げておりますが、十五郎じゅうごろうが生まれるまでは末の子として育ちましたから、気がめっぽう強いのです」
「ほぅ」
「さらに、あの器量でしょう? 小さな頃から、それはもう侍女たちにちやほやとされておりましたので、褒められる事が当たり前だと思っている子なのですわ」
「くく。顔は似ておると思ったが、なんだ、性格まで、お前によく似ているではないか」
「まぁ……っ!」

 睫毛を一度、上下させる妻木の方は、しばらく口の中で不満を膨らませていたが、やがて記憶をなぞるように視線をどこでもない宙へと這わせていく。

「反面、京は……そんな玉に気後れしたのか、やや内気に育ってしまったようで、姉もそれを案じておりました」
「ならばなおの事、於坊の女房としては不安ではないか?」

 元服後の彼のありようについては、まだ何とも決めてはいないが、少なくともしばらくは現状のまま信長の側近を続ける事になるだろう。彼自身も言っていたように、家を留守にする事もあるだろうし、その際きちんと差配出来ないような妻では困る。

「そうは言っても、京とて明智のむすめですから……武家の姫として、きちんと教育はされておりますわ」
「なるほどな……。では、妻木、お前は京がいいと言うのだな?」
「えぇ。明智のむすめと娶わせるなら、京の方がよろしいかと。……と言いますか……」

 妻木の方の声が探るように、低くなった。
 信長は、肩眉を持ち上げながら、彼女を見遣ると、柳眉の間に僅かに皺を刻んでいる。不快というよりも、何かに気づき思案している。そんな表情だった。
 
「そもそも、玉の気性と於坊どのがご気性、とても合うとは思えませんわ」

 信長がどうした、と問うその前に、彼女の思案が吐露される。

「於坊と噛み合わないお前が言うのならば、道理だな」

 その意味に気づいた瞬間、信長は込み上げてきた笑いを言の葉に含ませた。
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