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第一章 巡り絡む運命
元亀二年――冬を迎えたばかりの、近江国志賀郡坂本にて
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ビュゥ、と宙を斬り裂くような音が、閉めきった部屋の向こう側を駆けた。
やや乱暴に、風に叩かれた障子戸が揺れる。カラカラ、と渇いた音を立て転がるのは、枯れ葉だろうか。
京はゆっくりと睫毛を上下させると、紙へと落としていた筆先を一度止め、そちらを窺う。一段と大きな風のように思えたが、けれど特に何かが倒れたりしたわけではなさそうだ。
元亀二年、師走――。
近江国・志賀郡では、木々はすっかり葉を落とし、色味の少ない冷たい冬の景色が広がっていた。けれど、師走に入っても、雪が降るような気配はなく、幼い頃に長く暮らしていた越前国よりも、ずっと南にある土地なのだとわかる。
(越前国では、霜月の半ばにはもう初雪が見れたものね)
少女は止めていた筆を再び流し、その語尾をゆったりと結ぶ。
緊張から止めていた息を、唇からそっと吐き出すと、少女は筆を置き、隣に座る姉の里へと恐る恐る睫毛の先を向けた。彼女はその視線に、困ったように眉尻を下げながら唇の端を僅かに持ち上げる。
「……あの、姉さま。やっぱり、駄目でしたでしょうか……」
知らず面が下がっていき、頬に髪が一房かかった。
それを姉の細い指に優しく払われ、再び少女は視線を持ち上げる。同時に、ふわりと薫物のにおいが鼻腔を擽った。
細面で、母によく似た顔立ちの優しい姉によく合った優しい香の合わせであり、京はその姉のにおいが好きだった。
「京の手蹟は、悪くないわよ。もう、何度も言ってると思うけど」
「……そう、でしょうか。でも、わたくし……」
父は今よりずっと貧しかった幼い頃より、京たち姉妹の教養だけは金を惜しむ事なく与えてくれていた。物心ついた時には、どこから連れてきたのか、名のある書家と思しき人に手習いを受け、上の姉たちがその道をある程度極めた後は、彼女たちからそれを習うようになっていた。
なので、恐らく悪筆というほどではないということは、京もわかっている。
けれど。
――かぞくのなかで、わたくしだけが、だめなこなんだ。
幼い頃に植え付けられた劣等感は、消えることなく心の奥底に住み続け、どうしても自分というものに自信が持てなくなっていた。
今はもう他家に嫁いでいる長子である姉・倫にしても、傍らにいる里にしても、身内の欲目などではなく本当に優れた外見と教養、人柄を持っている。さらにそこへきて、四つ年下である玉も十に満たない年齢とは思えないほどに優秀なのだから、「だめなこ」である京としては一層片身が狭い。
「ただ、これも何度も言ってると思うけど……やっぱり、自信なさげに書かれた手蹟は、いくら技術が優れていても、見劣りしてしまうという一面はあるわね……」
「……っ、ごめんなさい……」
「怒っているわけではないのよ、京。確かに勢いはないわ。でも、京の心が繊細で、とても優しいからこそ書ける柔らかな字でもあるのだから」
里の手がす、と、京の黒髪へと伸びてくる。白い手が、まるで幼子をあやすかのように一度、二度、ぽんぽんと少女の髪を優しく撫でた。
里のその柔らかな仕草に、彼女の纏う香に、京の胸がぎゅぅっと締め付けられる。姉のその優しさが嬉しくて、けれど同時にどうして自分はそんな姉の期待に応えられるような人間ではないのだろう、と一層気持ちが落ち込んでいく。
努力をしていないわけではない。
明智家の女として、出来得る限りの努力はしているのだ。
けれど、どうしても幼いころに植え付けられた言の葉が、いまも自分の一番深いところで沈殿している。
(わたくしが、もっと美しかったら)
もっと、明るく、朗らかな性格だったなら。
姉のように、たおやかで。
妹のように、華やかだったら。
(「だめなこ」じゃなくなって、いられたのかしら……)
京は唇を軽く噛み締めると、こんな自分へも甘やかそうと手のひらを向けてくれる姉へと、ただ「ごめんなさい」を繰り返した。
「ほんと……あなたが心配過ぎて、姉さま、お嫁になんて行ってられない気がするわ。行かず後家になったら、どうしましょうね?」
「そんな事……っ」
笑いを含ませた姉の軽口に、京はハッと顔を持ち上げる。
里の輿入れは、来年の春にという話でまとまっていたはずだ。相手は、明智次右衛門光忠という父の従弟に当たる青年である。
「ふふ、大丈夫よ。姉上は荒木に嫁かれたから、もう滅多なことがない限りお会いするのもきっと、難しいけれど……、わたくしの場合は次右衛門どのだもの。いつでもここに戻ってこれるし、いつでも会えるわ」
「でも……、お嫁に行かれてまで、わたくしの事なんて気になさらないでくださいませ。わたくしは、あの、大丈夫、ですから……」
「あら。冷たいのね、京。せっかく近くに嫁ぐのだから、可愛い妹の事を気にかけるくらい許してほしいわ。でも……、そうねぇ……。姉さまに心配かけたくないなら、もうちょっと京には強くなってほしいわね」
玉ほどとは、言わないけれどね。
しー、っと口許に人差し指を当てながら、頬を揺らす姉の姿に、京の唇も切なさを忘れ、ゆるりと浮船を模った。
妹の玉は、生まれた頃より今に至るまで、その器量、内面共に並の人ではないと評判であった。けれど、末の姫として皆に甘やかされ育てられたせいか、はたまたその器量ゆえの自信のせいか。とにかく勝気な少女で、父をして負けん気だけなら一軍を任せられると苦笑させるほどである。
「でも、玉は強さに見合うだけの愛らしさがありますから」
気が強いけれど、それ以上の愛嬌で、誰からも愛される可愛い妹だった。
「ふふ、そうね。そんな玉は、お母さまと市に出かけているのだったかしら?」
「あ、はい。京都より、城下に商人が来ているとか……」
ここ、近江国・志賀郡――坂本は、元は比叡山延暦寺のお膝元であり、その門前町として栄えた土地だ。
いまから数か月前、父の主君である織田信長との対立が深まり、結果、根本中堂、山王二十一社全て焼き払われるという惨事となった。けれど、本来この地は京都から北陸へと抜ける街道の入口に当たり、港を複数抱え、中央から東方面への交通における要ともいうべき場所だった。
それは、支配者が延暦寺から信長――そして、その命を受けた父・明智十兵衛光秀へと移っても、変わらなかったようだ。さらに、父が巨大な湖に面した城を作るために、様々な職人を掻き集めているせいか、城下にはいつも市が立ち、出入りする商人の数は多いらしい。
そしていまは、ちょうど正月前という事もあり、日頃は顔を出さないような商人たちも多く店を出しているとの話だった。新年用の反物を求めて母と乳母、そして幾人かの侍女が出ようとしているのを、あのお転婆で十にも満たないというのにどこかませたところもある妹が見逃すわけはない。
行く、行かないの押し問答をしばらく続けていたようだが、結局根負けした母が妹も連れて出かけていったのは一時(約二時間)ほど前の事だ。
「京都の反物……辻が花で小袖を誂えてみたいわね。嫁入り前に家族と過ごす最後の正月になるのだもの。京と玉、それにわたくしで、辻が花の小袖を着たら、素敵じゃない?」
「……あ……、あ、の。そう、ですね……」
「あら? 京は、辻が花、あまり好きではない?」
「い、いえ……。美しいとは思います。ですが、わたくしには、少し……きらびやか過ぎるかと、思いまして……」
辻が花とは、絞り染めを基調とした織物であり、豪華なものになると描き絵、摺箔、刺繍などの技法が施されているらしい。
越前で暮らしていた頃は、それこそ裾が擦り切れても繕いながら小袖を着ていたものだが、父が織田と繋がりを持ったころからだろうか。見る見るうちに明智家は羽振りが良くなり、気づけば勢力を伸ばしている大名家に仕える有力武将の女という立場になっていた。
きっと、箔が多分に使われた豪奢な辻が花の小袖だろうが、求める事は出来るだろう。
けれど。
(わたくしがそのようなきらびやかなものを纏えば、きっとまた侍女たちに笑われてしまう……)
あの幼い日、京を笑った侍女はいまも明智家で仕えている。
侍女の人数が増えたいま、自分を笑う者はもっと数を増やしているのではないだろうか。
(こわい)
優れた姉妹を持つからこそ、比較され、陰口を叩かれ笑われる事が、恐ろしくて、恥ずかしくて――そして、悲しい。
京がきゅ、と唇を硬くし、込み上げてくる恐怖を飲み込もうとした、その瞬間。
「里姉さま! 京姉さま! いらっしゃる!?」
障子戸の向こうから、とたとたと足音が響く。
京と里が互いに顔を見合わせ、そちらへと睫毛の先を向けたと同時に、ガラ、と乾いた音を立てながら戸が横へと引かれた。
色の乏しい外の冬景色と共に現れたのは、恐らく十人が十人全て、絶世の美少女と断言するほどの顔立ちの整ったひとりの少女。
雪のように白い面に、ほんのり桜色に色づく頬。意思の強そうなきりりとした眉に、くっきりとした二重の大きな瞳。睫毛が上向きに長くくるりと持ち上がっており、形の良い唇はその口角を楽しげに持ち上げていた。
外の風にさらりと揺れる黒髪は、降り注ぐ陽の光を弾いており、触れればきっと絹のように柔らかいだろうと思わせる。
室内にいるふたりの末の妹、玉である。
「まぁ。玉、あなた母さまと市に行っていたのではないの?」
「えぇ、行って来たわ。いま、戻ったの」
「それはお帰りなさい。でもね、あなた、もう小さな女童ではないのだから、廊を走るのおやめなさいな」
里が僅かに声を低くして咎めると、玉はぴゃ、と肩を小さく竦めながら両手を顔の前で合わせ、「はぁい。姉さまごめんなさい」と上目遣いに姉を見遣った。しかし詫びを口にしたその唇は弧を描いており、その姿を見ただけで何もかもを許してしまいたくなるほどに愛らしい。
「もう、あなたは本当に……」
咎めていた里すらも、そのまま苦笑を頬に滲ませた。
「って、そんな事よりも、ねぇ。姉さまたち。これを見て下さいな」
室内へと転がるように入ってきた玉は、後ろに従えた侍女に抱えた荷物を置くよう命じる。ツー、と床に転がり広がったのは、色鮮やかな反物。
今様色に常盤色、柑子色に瑠璃色、薄桜に葡萄。色とりどりの反物が、河のように板間に流れており、その全てが辻が花の織物だった。
細かな絞り模様に、鮮やかな花の刺繍、そのところどころに金銀の箔が押されているその様は、ただただ美しいの一言に尽きる。
「まぁ……なんて見事な……素敵だわ」
里の声にも、笑みが灯った。
「ねっ、ねっ、素敵でしょう? 母さまが、あたくし達のお正月用に小袖を仕立ててはどうかって沢山買って下さったの」
「あら、奇遇ね。さっき京とそんな話をしていたところよ」
「えっ、本当? じゃあ決まりねっ!」
玉の幼い声が、これ以上はないほどに楽しげに弾む。末の妹として皆に愛され可愛がられ育った玉だが、三年前に弟が生まれて以降どうしても母の手はそちらにかかるようになってしまい、寂しさを募らせているようだ。
元より京たちに甘え懐いてくる妹だったが、この数年は一層その度合いが増しており、姉妹で一緒に何かをするという事をやたらと好むようになっている。
京がちらりと里へ視線を流すと、姉の瞳もまた「しょうがないわね」と優しく目尻を溶かしていた。
「じゃあ、里姉さまはどの反物になさる? あたくし、姉さまにはこの常盤色がお似合いになるかと思うの」
「そうね。この反物の模様だと、肩裾の小袖を誂えたら良さそう」
「あ、それきっと素敵よ。姉さま!」
床に広げた反物を手に取り、自分たちへと当てながら楽しそうに姉妹が笑う。そんなふたりを、京は僅かに唇の端を持ち上げ見つめていた。
京も来月には十三になる年頃の娘だ。人並みに、流行の小袖の柄や帯などに興味はあるし、こうして美しい織物を見れば気分は高揚するし、心躍るものがないわけではない。けれど、こうして姉妹が楽しそうに話している中に一緒に入っていくことに躊躇してしまうのは、生来の性格ゆえだろうか。
(でも、わたくしはこうして姉さまと玉が楽しそうにお喋りをしている姿を見るだけで、楽しいのだけど……)
だんまりの時間でも退屈というわけでもなく、ただ京は家族が楽しそうにしている姿を見ることが好きだった。華やかな反物を前に、大好きな家族と一緒にいるだけで十分すぎるほど幸せなのだ。
「ねぇ、あたくしは何が一番似合う? 今様? 葡萄?」
「玉さまは華やかなお顔立ちですから、今様は確かにお似合いですわ」
「でも薄桜のような淡い色も、愛らしい玉さまにはお似合いですよ」
気づけば侍女たちも数人巻き込んでのお喋りとなっていたようだ。ふ、と見遣れば、ひと際声の大きな侍女たちには見覚えがあった。
かつて、越前国に暮らしていた折、京は愛想がなく可愛げがないと言っていた侍女である。
同じ屋敷内で暮らしているので、あれ以降も顔を合わせる事は勿論あったが、あちらもまさか自分たちの息抜き中の陰口を当の本人に聞かれているだなんて思ってもいないだろうし、京としてもできることなら忘れたい出来事だったので、彼女たちに必要以上に関わろうとしてこなかった。
けれど、こうしてあの時のように玉を褒めそやす言葉ばかりが唇から滑り落ちる様に、どうしても心臓がじわりじわりと汗を掻いていく。恐怖にも似た焦りの感情で、胸の裡が溺れてしまいそうだ。
「玉さま、玉さま。こちらの今様と、柑子とで片身替わりの小袖にしたら、如何でしょう? 華やかな小袖になりますし、お正月向きかと思いますが」
「あっ、それ素敵ねっ!」
片身替わりとは、左右の身頃で異なる反物を使って小袖を仕立てたもので、昔からあった意匠ではあるものの、織物の華やかさの向上と共にここ数年流行となっている。
だが、十に満たない玉にはまだ少し、大人びたものにも思え、京は軽く睫毛を上下させた。
「片身替わりは確かに素敵だけれど……玉は来年ようやく十よ? その意匠は、もう少ししてからでいいのではないかしら……」
里も京と同じ意見だったようで、先ほどまで楽しげに弾ませていた声音を僅かに落としながら、手に持っていた反物をそっと床へ置いた。その後ちら、と姉が横目で京へと視線を流したところを見ると、もしかしたら京の先ほどの仕草で、何かを感じ取ったのかもしれなかった。
(……わたくし、何か余計な事をしてしまったかしら……)
京は姉の方を見ることが出来ずに、す、と面を下げると、板間に走る溝へと視線を落とす。この屋敷の女主人である母からも信頼の厚い姉の一言に、先ほどまでの賑やかな騒ぎが嘘のように、シン、と室内が静まり返った。
「で、でも……これほど見事な反物ですし、玉さまのご器量ならばどの色とお選びするのも苦労というものでは……」
「だったらいくつか小袖を誂えれば良いのではないの?」
「で、すが……あ、では、段替わりは如何ですか? あれならば、可愛らしい意匠かと……!」
「そうね。どうせなら、ひとつひとつを少し小さめにして、何種類かの反物をお使いになれば、一層華やかになりますわ」
長らく明智家に仕えた侍女たちからすれば、もしかしたらこちらが思う以上に玉の成長を楽しみに見守っていたのかもしれない。何とか華やかな小袖にしたいという侍女たちの気持ちが、京もわからないわけではなかった。
「もう……。仕方ないわね……」
どうやら姉も同じ気持ちだったようで、里は苦笑に頬を滲ませながらゆっくりと頷いた。一瞬のちに、ほっと息を吐いた侍女たちと不安げだった表情をパッと輝かせる玉の姿があった。
「でも、玉。あなたはいくつも反物を使うのなら、京が欲しい反物選んでからにしなさいよね」
「はぁい、勿論それはわかってます。京姉さまは、どの反物がお好み?」
キラキラ輝く大きな瞳をくるりと京へ向けてくる玉に、少女は一度睫毛を羽ばたかせる。里と玉、二人が楽しそうに選んでいる姿を見るのが嬉しくて、特に自分の好みなど気にしてはいなかった。
「え、わたくし……?」
「姉さまは、こういう柑子色はお嫌い? あまりこういった色は選ばれない気がするわ」
「嫌い、では……ないけれど……」
どちらかと言うと、華やかなものよりも落ち着いた色合いが好みなのかもしれない。今、京が纏う小袖も、勿忘草色を基調に鞠の描き絵がなされたものだ。
(この中、なら……瑠璃色のものだけれど……)
ちらり、と少女の睫毛が、自身の望むそれへと落ちた。
(でも)
自分から反物の好みなど言っていいのだろうか。
すぐ傍に、かつての自分を地味だと笑っていた侍女がいる。
(もし、また笑われてしまったら……)
そんな色はお前には似合わないのだと、影でそう言われたら。
(こわい)
――なんかみすぼらしいというか……陰気な感じ、しない?
――ぷっ。やだ、あなた。それ、京さまみたいって言いたいの?
かつての侍女たちの声が、鼓膜の奥で蘇る。
(こわい)
怖い。
そう、陰口を叩かれる事が。
そんな陰口を叩かれるような存在という事実が。
ひどく、怖かった。
だから。
京は震えそうになる声に軸を通しながら、緊張に跳ね上がる心臓を押さえつけるかのように胸元で手を握りしめた。
「わたくしは……、わたくしは後でいいから、先に玉が決めなさいな」
ぱちくり、大きな目を驚かせた妹の横で、咎めるような姉の視線を感じた。
そんな気が、した。
**********
橙色に、湖面全てが染まっていた。
空の高いところは既に藍色が落ちてきており、やがて夜の帳が世界を覆い尽くすのだろう。日中、陽の光を浴びキラキラと水面を輝かせる青い湖も、今はもう眠りにつきかけている。
湖面を走る風は、悲しい音を立てて少女の頬をすり抜けていく。
ふわ、と背でひとつにまとめた黒髪が、風に攫われ大きく舞う。
まるで海のようにどこまでもどこまでも続く巨大な湖――琵琶湖。
初めてこの湖を見た時は、あまりの広さにまず怖くなった。
この湖がひっくり返ってしまったら、自分は溺れてしまうのではないかと怯えた。
(子供のころの、可愛らしい発想だわ)
京は、ふ、と頬へとぎこちなく笑みを刷かせる。
最初は怖かったこの湖だが、いつからだろう。
昼間の青を、綺麗だと素直に思うようになったのは。
いつからだろう。
この青が好きだと思うようになったのは。
――京。あそこで玉に遠慮するのは、誰にとってもいい事ではないという意味がわかる?
昼間、姉妹と反物選びをしている際に、自身の希望をどうしても伝える事が出来ず、結果的に玉が先に選ぶこととなった。侍女たちと意匠を話し合いながら反物をいくつか選び、結局残った色は、最初に自身が思った瑠璃色。けれど、恐らくあの敏い妹のことだ。姉の望みを視線などで察していたのだろう。
(姉さまの、仰る通りだわ……)
玉に遠慮したところで、彼女も優しい少女だ。
姉に気遣い、自身の我儘を無理やり通そうとするわけなどないのに。
それぞれに反物を持って部屋へと戻ろうとしたその時、姉の里からそう咎められ、ようやく自身の愚かさに気づいた。
自分の行動には、何の意味もなかった。
それは、優しさでもなんでもなかったのだ。
(わたくしは、「だめなこ」のままだわ……)
あの侍女たちも、また呆れたかもしれない。
この明智の家にはそぐわない、「だめなこ」なのだと、改めて気づいてしまったかもしれない。
(かなしい……)
どうして、自分はこうなのだろう。
じわ、と視界が歪んだと思った瞬間、少女の双眸から雫が零れる。
ツ、と白磁の頬を伝い落ちた雫は、ぽたんと地面に染みを作った。
目の前には夕陽を呑む、大きな琵琶湖。
父が、この湖を抱く大きな城を作り始めたお蔭で、こうしてどんな時間でも供をつけずに京ひとりで湖畔まで降りてこれるのだ。
ぽたん、ぽたんと落ちる涙が、地面へ吸い込まれていく。
(わたくしが泣いても)
これほど大きな湖ならば、きっと飲み込んでくれるだろう。
(悲しい気持ちも、つらい気持ちも)
みんなみんな、この湖が飲み込んでくれればいいのに。
京は橙色の水面を眺めながら、濡れた睫毛を羽ばたかせた。
やや乱暴に、風に叩かれた障子戸が揺れる。カラカラ、と渇いた音を立て転がるのは、枯れ葉だろうか。
京はゆっくりと睫毛を上下させると、紙へと落としていた筆先を一度止め、そちらを窺う。一段と大きな風のように思えたが、けれど特に何かが倒れたりしたわけではなさそうだ。
元亀二年、師走――。
近江国・志賀郡では、木々はすっかり葉を落とし、色味の少ない冷たい冬の景色が広がっていた。けれど、師走に入っても、雪が降るような気配はなく、幼い頃に長く暮らしていた越前国よりも、ずっと南にある土地なのだとわかる。
(越前国では、霜月の半ばにはもう初雪が見れたものね)
少女は止めていた筆を再び流し、その語尾をゆったりと結ぶ。
緊張から止めていた息を、唇からそっと吐き出すと、少女は筆を置き、隣に座る姉の里へと恐る恐る睫毛の先を向けた。彼女はその視線に、困ったように眉尻を下げながら唇の端を僅かに持ち上げる。
「……あの、姉さま。やっぱり、駄目でしたでしょうか……」
知らず面が下がっていき、頬に髪が一房かかった。
それを姉の細い指に優しく払われ、再び少女は視線を持ち上げる。同時に、ふわりと薫物のにおいが鼻腔を擽った。
細面で、母によく似た顔立ちの優しい姉によく合った優しい香の合わせであり、京はその姉のにおいが好きだった。
「京の手蹟は、悪くないわよ。もう、何度も言ってると思うけど」
「……そう、でしょうか。でも、わたくし……」
父は今よりずっと貧しかった幼い頃より、京たち姉妹の教養だけは金を惜しむ事なく与えてくれていた。物心ついた時には、どこから連れてきたのか、名のある書家と思しき人に手習いを受け、上の姉たちがその道をある程度極めた後は、彼女たちからそれを習うようになっていた。
なので、恐らく悪筆というほどではないということは、京もわかっている。
けれど。
――かぞくのなかで、わたくしだけが、だめなこなんだ。
幼い頃に植え付けられた劣等感は、消えることなく心の奥底に住み続け、どうしても自分というものに自信が持てなくなっていた。
今はもう他家に嫁いでいる長子である姉・倫にしても、傍らにいる里にしても、身内の欲目などではなく本当に優れた外見と教養、人柄を持っている。さらにそこへきて、四つ年下である玉も十に満たない年齢とは思えないほどに優秀なのだから、「だめなこ」である京としては一層片身が狭い。
「ただ、これも何度も言ってると思うけど……やっぱり、自信なさげに書かれた手蹟は、いくら技術が優れていても、見劣りしてしまうという一面はあるわね……」
「……っ、ごめんなさい……」
「怒っているわけではないのよ、京。確かに勢いはないわ。でも、京の心が繊細で、とても優しいからこそ書ける柔らかな字でもあるのだから」
里の手がす、と、京の黒髪へと伸びてくる。白い手が、まるで幼子をあやすかのように一度、二度、ぽんぽんと少女の髪を優しく撫でた。
里のその柔らかな仕草に、彼女の纏う香に、京の胸がぎゅぅっと締め付けられる。姉のその優しさが嬉しくて、けれど同時にどうして自分はそんな姉の期待に応えられるような人間ではないのだろう、と一層気持ちが落ち込んでいく。
努力をしていないわけではない。
明智家の女として、出来得る限りの努力はしているのだ。
けれど、どうしても幼いころに植え付けられた言の葉が、いまも自分の一番深いところで沈殿している。
(わたくしが、もっと美しかったら)
もっと、明るく、朗らかな性格だったなら。
姉のように、たおやかで。
妹のように、華やかだったら。
(「だめなこ」じゃなくなって、いられたのかしら……)
京は唇を軽く噛み締めると、こんな自分へも甘やかそうと手のひらを向けてくれる姉へと、ただ「ごめんなさい」を繰り返した。
「ほんと……あなたが心配過ぎて、姉さま、お嫁になんて行ってられない気がするわ。行かず後家になったら、どうしましょうね?」
「そんな事……っ」
笑いを含ませた姉の軽口に、京はハッと顔を持ち上げる。
里の輿入れは、来年の春にという話でまとまっていたはずだ。相手は、明智次右衛門光忠という父の従弟に当たる青年である。
「ふふ、大丈夫よ。姉上は荒木に嫁かれたから、もう滅多なことがない限りお会いするのもきっと、難しいけれど……、わたくしの場合は次右衛門どのだもの。いつでもここに戻ってこれるし、いつでも会えるわ」
「でも……、お嫁に行かれてまで、わたくしの事なんて気になさらないでくださいませ。わたくしは、あの、大丈夫、ですから……」
「あら。冷たいのね、京。せっかく近くに嫁ぐのだから、可愛い妹の事を気にかけるくらい許してほしいわ。でも……、そうねぇ……。姉さまに心配かけたくないなら、もうちょっと京には強くなってほしいわね」
玉ほどとは、言わないけれどね。
しー、っと口許に人差し指を当てながら、頬を揺らす姉の姿に、京の唇も切なさを忘れ、ゆるりと浮船を模った。
妹の玉は、生まれた頃より今に至るまで、その器量、内面共に並の人ではないと評判であった。けれど、末の姫として皆に甘やかされ育てられたせいか、はたまたその器量ゆえの自信のせいか。とにかく勝気な少女で、父をして負けん気だけなら一軍を任せられると苦笑させるほどである。
「でも、玉は強さに見合うだけの愛らしさがありますから」
気が強いけれど、それ以上の愛嬌で、誰からも愛される可愛い妹だった。
「ふふ、そうね。そんな玉は、お母さまと市に出かけているのだったかしら?」
「あ、はい。京都より、城下に商人が来ているとか……」
ここ、近江国・志賀郡――坂本は、元は比叡山延暦寺のお膝元であり、その門前町として栄えた土地だ。
いまから数か月前、父の主君である織田信長との対立が深まり、結果、根本中堂、山王二十一社全て焼き払われるという惨事となった。けれど、本来この地は京都から北陸へと抜ける街道の入口に当たり、港を複数抱え、中央から東方面への交通における要ともいうべき場所だった。
それは、支配者が延暦寺から信長――そして、その命を受けた父・明智十兵衛光秀へと移っても、変わらなかったようだ。さらに、父が巨大な湖に面した城を作るために、様々な職人を掻き集めているせいか、城下にはいつも市が立ち、出入りする商人の数は多いらしい。
そしていまは、ちょうど正月前という事もあり、日頃は顔を出さないような商人たちも多く店を出しているとの話だった。新年用の反物を求めて母と乳母、そして幾人かの侍女が出ようとしているのを、あのお転婆で十にも満たないというのにどこかませたところもある妹が見逃すわけはない。
行く、行かないの押し問答をしばらく続けていたようだが、結局根負けした母が妹も連れて出かけていったのは一時(約二時間)ほど前の事だ。
「京都の反物……辻が花で小袖を誂えてみたいわね。嫁入り前に家族と過ごす最後の正月になるのだもの。京と玉、それにわたくしで、辻が花の小袖を着たら、素敵じゃない?」
「……あ……、あ、の。そう、ですね……」
「あら? 京は、辻が花、あまり好きではない?」
「い、いえ……。美しいとは思います。ですが、わたくしには、少し……きらびやか過ぎるかと、思いまして……」
辻が花とは、絞り染めを基調とした織物であり、豪華なものになると描き絵、摺箔、刺繍などの技法が施されているらしい。
越前で暮らしていた頃は、それこそ裾が擦り切れても繕いながら小袖を着ていたものだが、父が織田と繋がりを持ったころからだろうか。見る見るうちに明智家は羽振りが良くなり、気づけば勢力を伸ばしている大名家に仕える有力武将の女という立場になっていた。
きっと、箔が多分に使われた豪奢な辻が花の小袖だろうが、求める事は出来るだろう。
けれど。
(わたくしがそのようなきらびやかなものを纏えば、きっとまた侍女たちに笑われてしまう……)
あの幼い日、京を笑った侍女はいまも明智家で仕えている。
侍女の人数が増えたいま、自分を笑う者はもっと数を増やしているのではないだろうか。
(こわい)
優れた姉妹を持つからこそ、比較され、陰口を叩かれ笑われる事が、恐ろしくて、恥ずかしくて――そして、悲しい。
京がきゅ、と唇を硬くし、込み上げてくる恐怖を飲み込もうとした、その瞬間。
「里姉さま! 京姉さま! いらっしゃる!?」
障子戸の向こうから、とたとたと足音が響く。
京と里が互いに顔を見合わせ、そちらへと睫毛の先を向けたと同時に、ガラ、と乾いた音を立てながら戸が横へと引かれた。
色の乏しい外の冬景色と共に現れたのは、恐らく十人が十人全て、絶世の美少女と断言するほどの顔立ちの整ったひとりの少女。
雪のように白い面に、ほんのり桜色に色づく頬。意思の強そうなきりりとした眉に、くっきりとした二重の大きな瞳。睫毛が上向きに長くくるりと持ち上がっており、形の良い唇はその口角を楽しげに持ち上げていた。
外の風にさらりと揺れる黒髪は、降り注ぐ陽の光を弾いており、触れればきっと絹のように柔らかいだろうと思わせる。
室内にいるふたりの末の妹、玉である。
「まぁ。玉、あなた母さまと市に行っていたのではないの?」
「えぇ、行って来たわ。いま、戻ったの」
「それはお帰りなさい。でもね、あなた、もう小さな女童ではないのだから、廊を走るのおやめなさいな」
里が僅かに声を低くして咎めると、玉はぴゃ、と肩を小さく竦めながら両手を顔の前で合わせ、「はぁい。姉さまごめんなさい」と上目遣いに姉を見遣った。しかし詫びを口にしたその唇は弧を描いており、その姿を見ただけで何もかもを許してしまいたくなるほどに愛らしい。
「もう、あなたは本当に……」
咎めていた里すらも、そのまま苦笑を頬に滲ませた。
「って、そんな事よりも、ねぇ。姉さまたち。これを見て下さいな」
室内へと転がるように入ってきた玉は、後ろに従えた侍女に抱えた荷物を置くよう命じる。ツー、と床に転がり広がったのは、色鮮やかな反物。
今様色に常盤色、柑子色に瑠璃色、薄桜に葡萄。色とりどりの反物が、河のように板間に流れており、その全てが辻が花の織物だった。
細かな絞り模様に、鮮やかな花の刺繍、そのところどころに金銀の箔が押されているその様は、ただただ美しいの一言に尽きる。
「まぁ……なんて見事な……素敵だわ」
里の声にも、笑みが灯った。
「ねっ、ねっ、素敵でしょう? 母さまが、あたくし達のお正月用に小袖を仕立ててはどうかって沢山買って下さったの」
「あら、奇遇ね。さっき京とそんな話をしていたところよ」
「えっ、本当? じゃあ決まりねっ!」
玉の幼い声が、これ以上はないほどに楽しげに弾む。末の妹として皆に愛され可愛がられ育った玉だが、三年前に弟が生まれて以降どうしても母の手はそちらにかかるようになってしまい、寂しさを募らせているようだ。
元より京たちに甘え懐いてくる妹だったが、この数年は一層その度合いが増しており、姉妹で一緒に何かをするという事をやたらと好むようになっている。
京がちらりと里へ視線を流すと、姉の瞳もまた「しょうがないわね」と優しく目尻を溶かしていた。
「じゃあ、里姉さまはどの反物になさる? あたくし、姉さまにはこの常盤色がお似合いになるかと思うの」
「そうね。この反物の模様だと、肩裾の小袖を誂えたら良さそう」
「あ、それきっと素敵よ。姉さま!」
床に広げた反物を手に取り、自分たちへと当てながら楽しそうに姉妹が笑う。そんなふたりを、京は僅かに唇の端を持ち上げ見つめていた。
京も来月には十三になる年頃の娘だ。人並みに、流行の小袖の柄や帯などに興味はあるし、こうして美しい織物を見れば気分は高揚するし、心躍るものがないわけではない。けれど、こうして姉妹が楽しそうに話している中に一緒に入っていくことに躊躇してしまうのは、生来の性格ゆえだろうか。
(でも、わたくしはこうして姉さまと玉が楽しそうにお喋りをしている姿を見るだけで、楽しいのだけど……)
だんまりの時間でも退屈というわけでもなく、ただ京は家族が楽しそうにしている姿を見ることが好きだった。華やかな反物を前に、大好きな家族と一緒にいるだけで十分すぎるほど幸せなのだ。
「ねぇ、あたくしは何が一番似合う? 今様? 葡萄?」
「玉さまは華やかなお顔立ちですから、今様は確かにお似合いですわ」
「でも薄桜のような淡い色も、愛らしい玉さまにはお似合いですよ」
気づけば侍女たちも数人巻き込んでのお喋りとなっていたようだ。ふ、と見遣れば、ひと際声の大きな侍女たちには見覚えがあった。
かつて、越前国に暮らしていた折、京は愛想がなく可愛げがないと言っていた侍女である。
同じ屋敷内で暮らしているので、あれ以降も顔を合わせる事は勿論あったが、あちらもまさか自分たちの息抜き中の陰口を当の本人に聞かれているだなんて思ってもいないだろうし、京としてもできることなら忘れたい出来事だったので、彼女たちに必要以上に関わろうとしてこなかった。
けれど、こうしてあの時のように玉を褒めそやす言葉ばかりが唇から滑り落ちる様に、どうしても心臓がじわりじわりと汗を掻いていく。恐怖にも似た焦りの感情で、胸の裡が溺れてしまいそうだ。
「玉さま、玉さま。こちらの今様と、柑子とで片身替わりの小袖にしたら、如何でしょう? 華やかな小袖になりますし、お正月向きかと思いますが」
「あっ、それ素敵ねっ!」
片身替わりとは、左右の身頃で異なる反物を使って小袖を仕立てたもので、昔からあった意匠ではあるものの、織物の華やかさの向上と共にここ数年流行となっている。
だが、十に満たない玉にはまだ少し、大人びたものにも思え、京は軽く睫毛を上下させた。
「片身替わりは確かに素敵だけれど……玉は来年ようやく十よ? その意匠は、もう少ししてからでいいのではないかしら……」
里も京と同じ意見だったようで、先ほどまで楽しげに弾ませていた声音を僅かに落としながら、手に持っていた反物をそっと床へ置いた。その後ちら、と姉が横目で京へと視線を流したところを見ると、もしかしたら京の先ほどの仕草で、何かを感じ取ったのかもしれなかった。
(……わたくし、何か余計な事をしてしまったかしら……)
京は姉の方を見ることが出来ずに、す、と面を下げると、板間に走る溝へと視線を落とす。この屋敷の女主人である母からも信頼の厚い姉の一言に、先ほどまでの賑やかな騒ぎが嘘のように、シン、と室内が静まり返った。
「で、でも……これほど見事な反物ですし、玉さまのご器量ならばどの色とお選びするのも苦労というものでは……」
「だったらいくつか小袖を誂えれば良いのではないの?」
「で、すが……あ、では、段替わりは如何ですか? あれならば、可愛らしい意匠かと……!」
「そうね。どうせなら、ひとつひとつを少し小さめにして、何種類かの反物をお使いになれば、一層華やかになりますわ」
長らく明智家に仕えた侍女たちからすれば、もしかしたらこちらが思う以上に玉の成長を楽しみに見守っていたのかもしれない。何とか華やかな小袖にしたいという侍女たちの気持ちが、京もわからないわけではなかった。
「もう……。仕方ないわね……」
どうやら姉も同じ気持ちだったようで、里は苦笑に頬を滲ませながらゆっくりと頷いた。一瞬のちに、ほっと息を吐いた侍女たちと不安げだった表情をパッと輝かせる玉の姿があった。
「でも、玉。あなたはいくつも反物を使うのなら、京が欲しい反物選んでからにしなさいよね」
「はぁい、勿論それはわかってます。京姉さまは、どの反物がお好み?」
キラキラ輝く大きな瞳をくるりと京へ向けてくる玉に、少女は一度睫毛を羽ばたかせる。里と玉、二人が楽しそうに選んでいる姿を見るのが嬉しくて、特に自分の好みなど気にしてはいなかった。
「え、わたくし……?」
「姉さまは、こういう柑子色はお嫌い? あまりこういった色は選ばれない気がするわ」
「嫌い、では……ないけれど……」
どちらかと言うと、華やかなものよりも落ち着いた色合いが好みなのかもしれない。今、京が纏う小袖も、勿忘草色を基調に鞠の描き絵がなされたものだ。
(この中、なら……瑠璃色のものだけれど……)
ちらり、と少女の睫毛が、自身の望むそれへと落ちた。
(でも)
自分から反物の好みなど言っていいのだろうか。
すぐ傍に、かつての自分を地味だと笑っていた侍女がいる。
(もし、また笑われてしまったら……)
そんな色はお前には似合わないのだと、影でそう言われたら。
(こわい)
――なんかみすぼらしいというか……陰気な感じ、しない?
――ぷっ。やだ、あなた。それ、京さまみたいって言いたいの?
かつての侍女たちの声が、鼓膜の奥で蘇る。
(こわい)
怖い。
そう、陰口を叩かれる事が。
そんな陰口を叩かれるような存在という事実が。
ひどく、怖かった。
だから。
京は震えそうになる声に軸を通しながら、緊張に跳ね上がる心臓を押さえつけるかのように胸元で手を握りしめた。
「わたくしは……、わたくしは後でいいから、先に玉が決めなさいな」
ぱちくり、大きな目を驚かせた妹の横で、咎めるような姉の視線を感じた。
そんな気が、した。
**********
橙色に、湖面全てが染まっていた。
空の高いところは既に藍色が落ちてきており、やがて夜の帳が世界を覆い尽くすのだろう。日中、陽の光を浴びキラキラと水面を輝かせる青い湖も、今はもう眠りにつきかけている。
湖面を走る風は、悲しい音を立てて少女の頬をすり抜けていく。
ふわ、と背でひとつにまとめた黒髪が、風に攫われ大きく舞う。
まるで海のようにどこまでもどこまでも続く巨大な湖――琵琶湖。
初めてこの湖を見た時は、あまりの広さにまず怖くなった。
この湖がひっくり返ってしまったら、自分は溺れてしまうのではないかと怯えた。
(子供のころの、可愛らしい発想だわ)
京は、ふ、と頬へとぎこちなく笑みを刷かせる。
最初は怖かったこの湖だが、いつからだろう。
昼間の青を、綺麗だと素直に思うようになったのは。
いつからだろう。
この青が好きだと思うようになったのは。
――京。あそこで玉に遠慮するのは、誰にとってもいい事ではないという意味がわかる?
昼間、姉妹と反物選びをしている際に、自身の希望をどうしても伝える事が出来ず、結果的に玉が先に選ぶこととなった。侍女たちと意匠を話し合いながら反物をいくつか選び、結局残った色は、最初に自身が思った瑠璃色。けれど、恐らくあの敏い妹のことだ。姉の望みを視線などで察していたのだろう。
(姉さまの、仰る通りだわ……)
玉に遠慮したところで、彼女も優しい少女だ。
姉に気遣い、自身の我儘を無理やり通そうとするわけなどないのに。
それぞれに反物を持って部屋へと戻ろうとしたその時、姉の里からそう咎められ、ようやく自身の愚かさに気づいた。
自分の行動には、何の意味もなかった。
それは、優しさでもなんでもなかったのだ。
(わたくしは、「だめなこ」のままだわ……)
あの侍女たちも、また呆れたかもしれない。
この明智の家にはそぐわない、「だめなこ」なのだと、改めて気づいてしまったかもしれない。
(かなしい……)
どうして、自分はこうなのだろう。
じわ、と視界が歪んだと思った瞬間、少女の双眸から雫が零れる。
ツ、と白磁の頬を伝い落ちた雫は、ぽたんと地面に染みを作った。
目の前には夕陽を呑む、大きな琵琶湖。
父が、この湖を抱く大きな城を作り始めたお蔭で、こうしてどんな時間でも供をつけずに京ひとりで湖畔まで降りてこれるのだ。
ぽたん、ぽたんと落ちる涙が、地面へ吸い込まれていく。
(わたくしが泣いても)
これほど大きな湖ならば、きっと飲み込んでくれるだろう。
(悲しい気持ちも、つらい気持ちも)
みんなみんな、この湖が飲み込んでくれればいいのに。
京は橙色の水面を眺めながら、濡れた睫毛を羽ばたかせた。
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