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延喜三十四年、平安京にて。
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陽の高さが真上からやや西の空に傾き出した頃、賀茂保憲が出仕から帰って来ると妻が眉尻をピンと持ち上げていた。
貴族といえどやんごとなき姫君とは言い難い生まれ故か、彼女はとても自分に素直だ。感情表現が豊かといえば聞こえがいいが、彼女の気色(機嫌)はそのままその面へとはっきり表れる。
これは話が長くなりそうだと独りごちながら聞けば、どうやら諸事情あり預かっている子供が、彼女の女房に式神を使って悪戯をしかけ驚かせたということだった。
――あの子の事情もわかりますよ。私から女房たちへ叱責も済ませました。でも、この屋敷の女房とはいえ、彼女たちには見鬼の力はないのですよ。急にそんなことを仕掛けられたら、驚き、混乱するというものでしょう?
これ以上はないほどに、正論である。
自身の師事する漏刻博士のお小言よりも長くなった彼女の愚痴をなんとか宥め、保憲が彼を住まわせている西の対へと向かうと、庭に面した東の廂に浅縹の水干を見留める。妻の話では仕置きのために塗籠の中に閉じ込めてあるという話だったが――、まぁ彼の姿がいまそこにあるということは、そういう事なのだろう。
(まぁ、あやつを閉じ込めておくなど、そうそう出来るものでもないが)
それにしたってもう少し殊勝な態度でも取っておけば、可愛げも見られ、妻たちの溜飲も下がるだろうに。
「晴明」
保憲は渡殿を抜け、彼の座する廂へと足を運びながら、彼の名を呼ぶ。
晴明。
安倍晴明。
大膳大夫である安倍益材の息子であり、幼いころから彼の周囲では怪奇が後を絶たないということで、陰陽家として名を世に知らしめていた父・賀茂忠行が応対することになった。
父に連れ立って夜外を歩いていた際、彼よりも先に百鬼夜行を見つけ知らせたことで、その力が本物であるとわかり、それ以来、賀茂家で正式に預かることとなり、ここで暮らし始めたわけだが――。
「お前、また女房衆に悪戯をしでかしたそうだな」
自身より四つ年下である晴明は、現在十四。
まだ子供といえば子供なのだろうが、公達の子供ならばすでにもう官位を得、出仕している年齢である。流石に幼子のように女房相手に悪戯をして本気で楽しんでいるような年ではないだろう。
「別に、悪戯ってほど大層なもんでもないですよ。女房たちが作ってた粉熟をちょっと式神に命じて頂戴しただけです」
「あぁ……それで、それか」
保憲は唇の端を軽く持ち上げると、人差し指の先を自身の口元へと当てる。自身を見上げてくる晴明の唇には、僅かな粉が残っていた。
晴明はバツが悪そうにプイ、とそっぽ向くと、水干の袖でごし、と拭う。
「お前が賀茂家に来て、そろそろ……二年か? いい加減、ここでの暮らしに慣れたらどうだ」
「別に、慣れてないわけじゃない。ただアンタが昨日言ってたでしょう。式神の訓練をしておけ、って。だから、アンタが帰ってくるまで屋敷に飛ばしていたら、あの女房たちが……っ」
「お前の悪口でも言っていたか」
思わず激していた自身に気づいたのだろう。彼の隣に腰を下ろすことで、空気がくゆり、ハッ、と晴明は息を呑んだ。そして静かに訊ねた保憲のその声に、しばらく視線を泳がせ――唇の先を僅かに尖らせ、こくり、頷く。
「母上を、信太の森の千年狐だと……。俺は、畜生の子なんだって……、笑ってやがった」
晴明は摂津国安倍野で生まれ、しばらくはそこで育ったらしい。都とは違い、人々は夜の怪奇――所謂、鬼や怨霊といったものに触れ合う機会は少なく、それらを見て触れることの出来る晴明は恐れの対象として映ったらしい。
また彼の生みの母親が、田舎では珍しいほどの美女であったために、狐が化けているのではないかと噂され、晴明の力も合間っていつしか彼は「狐の子」として陰口を叩かれるようになった。
彼の父親がそれを憂い、賀茂家に預けることになったわけだが、その噂は怪奇が日常的に傍にある都においても奇異なものとして見られることが多い。
「“恋しくば 尋ねて来てみよ 和泉なる……”か」
誰が言い出したのか、都でまことしやかにささやかれる噂が、晴明が五つの頃、母に狐の尻尾を見つけてしまい、正体を知られた母――葛の葉は、
――恋しくば 尋ねて来てみよ 和泉なる
信太の森の うらみ葛の葉
と歌を残し、信太の森へ帰っていったというものである。
「そりゃ母上は、信太の出自で、俺が五つの時に父上とものすごい夫婦喧嘩して、実家に帰っていきましたよ。そのくせ、迎えに来てくれること期待して、そんな歌残して行ったらしいですけど……っ!」
そしてその結果、思惑通りになんだかんだと彼女にベタ惚れだった夫が迎えに行き、いまは都の彼の屋敷で元気に暮らしているわけだが、それを知る人は悲しいかな。この屋敷の中でも保憲とその妻、そして父・忠行くらいだろうか。
「……まぁ、世に不思議は多くても、真実なんて大半がそんな俗にまみれたものだということだろうな……」
忠行、保憲父子、晴明共に、みな「見鬼」に優れるが、それでも世の中の怪奇には大抵タネも仕掛けも存在することがほとんどで、その大元となる原因は人間だ。
魑魅魍魎が跋扈し、百鬼夜行が練り歩くといわれるこの平安京において、一番恐れるべきは、きっと晴明の心を大した悪気なく傷つける人の言の葉なのだろう。
「それでも、晴明。お前には、力がある」
鬼を見、式神を使い、星を見、万象を司るだけの、力が。
そして、それは力を持たない者たちの大きな救いにいずれなる。
だから。
「お前には、これからもここで暮らしてほしいと願うよ」
「…………」
弟のようにも、弟子のようにも思う少年へ、保憲は穏やかに声を紡ぐ。
こちらへと睫毛の先を向けていた晴明は、ピチチ、と鳥が歌う青い空へとス、と視線を流して行き――。
「はい」
静かに、けれどはっきり頷いた。
貴族といえどやんごとなき姫君とは言い難い生まれ故か、彼女はとても自分に素直だ。感情表現が豊かといえば聞こえがいいが、彼女の気色(機嫌)はそのままその面へとはっきり表れる。
これは話が長くなりそうだと独りごちながら聞けば、どうやら諸事情あり預かっている子供が、彼女の女房に式神を使って悪戯をしかけ驚かせたということだった。
――あの子の事情もわかりますよ。私から女房たちへ叱責も済ませました。でも、この屋敷の女房とはいえ、彼女たちには見鬼の力はないのですよ。急にそんなことを仕掛けられたら、驚き、混乱するというものでしょう?
これ以上はないほどに、正論である。
自身の師事する漏刻博士のお小言よりも長くなった彼女の愚痴をなんとか宥め、保憲が彼を住まわせている西の対へと向かうと、庭に面した東の廂に浅縹の水干を見留める。妻の話では仕置きのために塗籠の中に閉じ込めてあるという話だったが――、まぁ彼の姿がいまそこにあるということは、そういう事なのだろう。
(まぁ、あやつを閉じ込めておくなど、そうそう出来るものでもないが)
それにしたってもう少し殊勝な態度でも取っておけば、可愛げも見られ、妻たちの溜飲も下がるだろうに。
「晴明」
保憲は渡殿を抜け、彼の座する廂へと足を運びながら、彼の名を呼ぶ。
晴明。
安倍晴明。
大膳大夫である安倍益材の息子であり、幼いころから彼の周囲では怪奇が後を絶たないということで、陰陽家として名を世に知らしめていた父・賀茂忠行が応対することになった。
父に連れ立って夜外を歩いていた際、彼よりも先に百鬼夜行を見つけ知らせたことで、その力が本物であるとわかり、それ以来、賀茂家で正式に預かることとなり、ここで暮らし始めたわけだが――。
「お前、また女房衆に悪戯をしでかしたそうだな」
自身より四つ年下である晴明は、現在十四。
まだ子供といえば子供なのだろうが、公達の子供ならばすでにもう官位を得、出仕している年齢である。流石に幼子のように女房相手に悪戯をして本気で楽しんでいるような年ではないだろう。
「別に、悪戯ってほど大層なもんでもないですよ。女房たちが作ってた粉熟をちょっと式神に命じて頂戴しただけです」
「あぁ……それで、それか」
保憲は唇の端を軽く持ち上げると、人差し指の先を自身の口元へと当てる。自身を見上げてくる晴明の唇には、僅かな粉が残っていた。
晴明はバツが悪そうにプイ、とそっぽ向くと、水干の袖でごし、と拭う。
「お前が賀茂家に来て、そろそろ……二年か? いい加減、ここでの暮らしに慣れたらどうだ」
「別に、慣れてないわけじゃない。ただアンタが昨日言ってたでしょう。式神の訓練をしておけ、って。だから、アンタが帰ってくるまで屋敷に飛ばしていたら、あの女房たちが……っ」
「お前の悪口でも言っていたか」
思わず激していた自身に気づいたのだろう。彼の隣に腰を下ろすことで、空気がくゆり、ハッ、と晴明は息を呑んだ。そして静かに訊ねた保憲のその声に、しばらく視線を泳がせ――唇の先を僅かに尖らせ、こくり、頷く。
「母上を、信太の森の千年狐だと……。俺は、畜生の子なんだって……、笑ってやがった」
晴明は摂津国安倍野で生まれ、しばらくはそこで育ったらしい。都とは違い、人々は夜の怪奇――所謂、鬼や怨霊といったものに触れ合う機会は少なく、それらを見て触れることの出来る晴明は恐れの対象として映ったらしい。
また彼の生みの母親が、田舎では珍しいほどの美女であったために、狐が化けているのではないかと噂され、晴明の力も合間っていつしか彼は「狐の子」として陰口を叩かれるようになった。
彼の父親がそれを憂い、賀茂家に預けることになったわけだが、その噂は怪奇が日常的に傍にある都においても奇異なものとして見られることが多い。
「“恋しくば 尋ねて来てみよ 和泉なる……”か」
誰が言い出したのか、都でまことしやかにささやかれる噂が、晴明が五つの頃、母に狐の尻尾を見つけてしまい、正体を知られた母――葛の葉は、
――恋しくば 尋ねて来てみよ 和泉なる
信太の森の うらみ葛の葉
と歌を残し、信太の森へ帰っていったというものである。
「そりゃ母上は、信太の出自で、俺が五つの時に父上とものすごい夫婦喧嘩して、実家に帰っていきましたよ。そのくせ、迎えに来てくれること期待して、そんな歌残して行ったらしいですけど……っ!」
そしてその結果、思惑通りになんだかんだと彼女にベタ惚れだった夫が迎えに行き、いまは都の彼の屋敷で元気に暮らしているわけだが、それを知る人は悲しいかな。この屋敷の中でも保憲とその妻、そして父・忠行くらいだろうか。
「……まぁ、世に不思議は多くても、真実なんて大半がそんな俗にまみれたものだということだろうな……」
忠行、保憲父子、晴明共に、みな「見鬼」に優れるが、それでも世の中の怪奇には大抵タネも仕掛けも存在することがほとんどで、その大元となる原因は人間だ。
魑魅魍魎が跋扈し、百鬼夜行が練り歩くといわれるこの平安京において、一番恐れるべきは、きっと晴明の心を大した悪気なく傷つける人の言の葉なのだろう。
「それでも、晴明。お前には、力がある」
鬼を見、式神を使い、星を見、万象を司るだけの、力が。
そして、それは力を持たない者たちの大きな救いにいずれなる。
だから。
「お前には、これからもここで暮らしてほしいと願うよ」
「…………」
弟のようにも、弟子のようにも思う少年へ、保憲は穏やかに声を紡ぐ。
こちらへと睫毛の先を向けていた晴明は、ピチチ、と鳥が歌う青い空へとス、と視線を流して行き――。
「はい」
静かに、けれどはっきり頷いた。
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