フィライン・エデン Ⅲ

夜市彼乃

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11.七不思議編

51降臨コーリング ②

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***

 何がどうなっているのか、さっぱりわからなかった。
 ただ、彼女は突如として、そこにいた。何の変哲もない空間に、ぽんと意識が現れたかのようだった。
 きょろきょろと辺りを見回した彼女は、そこが家の庭だと気づく。テニスコートさえ作れるほどの広さの、芝が敷き詰められた見慣れた庭。といっても、芝は長年手入れがされていないようで、好き勝手に伸び放題の有様だ。
 肌寒さを感じて、季節は晩秋のころだろうかと気づいて――首をかしげる。
 なぜ、自分はここにいるのだろう。あの時、雅音に――ガオンに動脈を切り裂かれてから、何があったのだろう。
 振り返ると、いつものように我が家が立っていた。小さなマンションのようななりをした、三階建ての三日月邸。けれど、その姿は、大変な苦労でもしたかのようにやつれていた。白亜の壁はくすみ、窓ガラスは曇り、玉手箱でも開けたのではないかというほどの始末。記憶の中の我が家は、あんなにも初々しかったのに。
 芝の伸びよう、家の廃れよう、記憶の空白。
 天真爛漫ながらも、冷静にものを考えられるたちである三日月雷志は、一つの可能性に至っていた。その仮説を現実のものにすることができるとすれば、人智を超えた力だ。
 そんなものがあるだろうか。
 ある。雷志は、それを知っている。
 燐光を放つ円い扉。小さくしなやかな住人達。はじける水、舞う風。それが、雷志の青春。
 大人になるまでの泡沫うたかたの、短くも鮮やかな秘密の三年間を送った、摩訶不思議な非日常の名をつぶやく。
「……フィライン・エデン……」
 直後だった。
 不意に気配を感じて、雷志は庭のほうを振り返った。そして、荒れた庭の真ん中に倒れた人影を見てぎょっとした。
 自分と同じ、日本人離れした明るい髪に、他人ではないと確信した。とっさに駆け寄る途中、足元で布が翻って、今着ているのが、少し幼いデザインと言われながらもお気に入りだったワンピースであることに気付いたが、それは脇に置いておく。
 うつぶせに倒れているそばに膝をつき、その体を抱き起した。一見して、中学生になりたての少女に見える。小学六年生の雷夢が最も近いが、母が子を見間違えるはずがなかった。
 これは、雷奈だ。体型も顔立ちも子供っぽい雷奈が、高校に上がるかどうかという年頃に成長した姿だ。
 雷志の知る雷奈は小学四年生だ。いつの間にか成長しているという不自然さから導き出されるは、雷奈が成長したらそうなるであろう姿によく似た、他人の空似。だが、そんな現実的で理性的な可能性よりも、雷志は己の勘と青春時代の超常体験をとった。それに、知らない間に時が経っているなど非現実的とはいえ、そう考えると、年をとった三日月邸もつじつまが合うのだ。
 とかく、雷奈が傷だらけのうえ意識を失った状態で倒れている。この状況で、母が何もしないわけがない。
 雷志は看護師だ。すぐにバイタルを確認し、低体温症と判断した。
 周りを見回すが、人通りがない。着ているワンピースにポケットはない以上、自分は携帯電話のたぐいを持っていない。
 ならば、と雷奈のプリーツスカートのポケットに手を突っ込む。硬い感触を引っ張り出して、それがスマートフォンだと確認すると、緊張でこわばった頬がわずかに緩んだ。そして、スリープを起こして表示された画面上の日付を見て、自らの推測の正しさを知る。
 だが、すぐにロックが開いたのは意外だった。パスワードがかかっていなかったのだ。とはいえ、これは僥倖だ。
 ロック状態でも救急車は呼べるが、今の自分の置かれている状況が曖昧な以上、公的機関を利用することは憚れる。けれど、連絡先一覧から見つけたこの名前に電話をかければ――きっと、彼女はかわいい妹を助けてくれる。
 雷志は迷わず愛娘の一人、雷夢に電話をかけた。驚きを隠せずにいながらも、ホテルを指定し、タクシーを手配し、「先に入ってて、後で払う!」と断言してくれたことのなんと頼もしいことか。
 雷夢に敷かれたレールをたどり、雷奈を背負って「眠ってしまったみたいで」と愛想笑いでフロントを突破し、部屋でできる限りの応急処置を施した雷志は、しばらくして、息を切らせて訪ねてきた長女と末女と再会した。
 その後、容態の安定した雷奈のベッドの脇で、泣きじゃくりながら抱きついてくる雷帆と、手をぎゅっと握ってくる雷夢から、全てを聞いた。
 自分はあの夜、死んだこと。雷夢と雷帆は宮崎に、雷奈は東京に散ったこと。雷奈がフィライン・エデンに関わったこと。雷志の過去を、雅音ことガオンの正体を知ったこと。鳴りを潜めたそのガオンが、再び動き出したこと。
 そして、彼は現在、行方も生死も不明であることは――意識を取り戻し、今際の願いを叶えた雷奈の口から聞いたのだった。
 
***

「その後、雷奈ちゃんからは、他にもたくさんのことを教えてもらったわ。氷架璃ちゃんと芽華実ちゃんのこと、そしてアワ君とフーちゃん、フィライン・エデンとの関わりも。だけど、やっぱり……私が今、再びここにいる理由については、あの世界が関係しているのだろうということ以外、何もわからない」
 清楚な白いワンピースの胸元に手を当てて、雷志はそう言った。透けるように白い肌、娘達に輪をかけて明るい髪色、長女に受け継がれた柔和に垂れたまなじり。その姿は、雷奈の部屋に飾ってある家族写真の中の彼女と何ら変わらない。亡くなった当時の形で蘇ったのだろう。三十代前半とのことだが、顔の輪郭や骨格、飾らずに背中に流した長い髪に、氷架璃より低い身長、服の趣味などが相まって、ずいぶん若く見える。
「ちなみに、二週間くらいで雷奈ちゃんは万全の体調になったんだけど……」
「氷架璃たちには姿を見せて初めて『復活!』って伝えたかったけん、わざと連絡しなかったと。あ、美雷にだけは無事ば伝えたばい。やけん、美雷と、あと情報管理局と学院のトップのひとだけが私の生存ば知っとった状態?」
「お母様の前じゃなかったらぶん殴ってるぞ、あんた……」
「私達、本当に暗い初冬を過ごしたんだから……」
「ごめんごめん。正直、もっと早く光丘に戻ってきたかったっちゃけど、家族会議したり、それで母さんも一緒に上京することが決まったけん、新居探したり、必要なもの買ったり、いろいろ時間かかったとよ。一番大変やったのはオフショルミニスカのサンタコス探すことやったけど」
「この際ンなもんどうでもいいわ!」
 怒鳴る氷架璃をジト目で見ながら、アワが「君が言い出したくせに……」と口の中で呟いたのには、フーしか気づいていない。
「あと、光丘の町を案内して回ったりとかね。ここで暮らす以上は必要やけん」
「何がどうなってお母様が生き返ったのか分からないけれど……確かに、種子島で過ごしていたら、知り合いに会って大変なことになるかもしれないものね」
「そうだよな。ってか、話戻るけど、そもそも何で生き返ったんだ?」
「雷奈、何か心当たりはある?」
 友人達の注目を浴びて、雷奈はしばらく黙った後、これしかないというように答えた。
「私……意識がなくなる直前、誰かがそばにいた気がして」
「え、誰!? ガオンしかいなくない!?」
「うん、私も一瞬そう思ったっちゃけど、親父にしては、なんていうか……敵意がなくて」
 自身の言葉に迷いながらも、雷奈はアワに答える。
「それで、もしかして神様かなって思って、私も、つい『母さんに会いたい』ってお願いして……」
「そうしたら、本当に雷志さんが生き返った……ってこと?」
「うん……そうなるったいね」
 ぽかんとする氷架璃の顔には「そうはならねえよ」と書いてあり、同じくぽかんとする芽華実の顔には何も書かれていなかった。驚きのあまり頭が真っ白になってしまったようである。
 そんな人間二人とは対照的に、猫二人は至極真面目な顔をして言った。
「人間界の神って、確か存在証明はされてないんじゃなかった?」
「四つくらい証明が唱えられていたのは、あれは違ったかしら」
「学説に留まっただけで証明終了まではいってなかったはず……?」
「まさかフィライン・エデンの君臨者の思し召しじゃないでしょうしね……」
 パートナーたちを蚊帳の外に、額を寄せ合ったアワとフーの議論はなおも続く。
「蘇生というより存在の再生だとしたら、時空学の領域かな?」
「源子との契約なら時空学だけれど、源子の操作による純猫術の延長なら猫力学だわ」
「でも、どちらにしろ、術者はいったい誰……」
「だああああっ! もういいだろ!」
 そんな二人の間に、耐えきれなくなった氷架璃が割って入る。突然の大声に、アワとフーはたまげた様子だったが、氷架璃は気にすることなく啖呵を切った。
「そんな難しい話は後だ、後! 今やることが何か分からないのか!?」
「え……えっと……?」
 目をしばたたかせる二人に、業を煮やした氷架璃は両手を広げて叫ぶ。
「パーティーだよ、パーティー! 他にあるか!? 雷奈が生きて戻ってきて! おまけに雷志さんが生き返った! こんなめでたいことあるか!? 祝う以外ないだろ!」
「めでたいはめでたいけど……何するの? もう食べるもの食べたじゃん」
「うるさい! アワ、菓子と飲み物買ってこい! 仕切り直しだ!」
 なんでボク? とげんなりした顔をしたアワだが、結局いつものように折れて重い腰を上げた。
「アワ、私も行くわ」
「ありがとう、フー……」
「そこ、のろけない!」
「のろけてない!」
 やいのやいのと言いながら二人を送り出した氷架璃は、腰に手を当てて一仕事終えた風情だ。
 そんな彼女に、雷奈が小さく話しかける。
「……あの、氷架璃」
「どうした、主役」
「その……ごめん」
 何が、と問いかけた氷架璃はぎょっとした。雷奈の顔は、悲壮そのものだ。
「な、何がそんなに悲しいんだよ」
「だって……」
 雷奈は一度、ちらりと母を見て、いっそう泣き出しそうな顔で小さく訴える。
「だってあの時、氷架璃のお母さんは助けられんかったのに……。なのに、私の母さんだけ……私だけ、こんな……!」
 その言葉を聞いて、身構えていた氷架璃は「なんだ」と肩の力を抜いた。
「そんなことかよ。気にすんなって」
「そんなことって……!」
 雷奈は幼い子供のようにぶんぶんと首を振った。
 雷奈と氷架璃が仲良くなったきっかけ。それは、悲しい共通点。母を亡くした過去が、他のクラスメイトにはない傷が、二人を繋いだといっても過言ではないのだ。
 ――母さんを助けられないのかな。
 かつて、母の命が煙に消えたその場所で、氷架璃の口から零れた本音。それを叶える可能性を秘めた日躍は、しかし、その願いを謝絶した。
 それなのに。
 ――母さんに、会いたい。
 その願いは、たった一言で叶えられた。二度と消えるはずのないその傷が、一瞬にして、雷奈だけ消えた。
 同じだけの想いを込めて希った氷架璃を嘲笑うかのように、雷奈だけ。
「正直に言ってよ、ずるいって。なんでお前だけって……。だって、そんなの、当然の感情ったい」
 いよいよ涙を浮かべてにらんでくる雷奈に、氷架璃はため息をついて頭をかいた。
「わーったよ、正直に言ってやるよ」
 立ち上がり、テーブルを回りこんで、雷奈のそばへ歩み寄る。唇を噛みしめて、次に氷架璃の口から出る言葉への覚悟と、ぬぐい切れない怯えを面に浮かべる雷奈。彼女をじっと見つめると、氷架璃は、前髪の分け目からのぞく額の真ん中を、指でぴんと弾いた。
「親友の幸せを嘆くやつがどこにいるんだよ、ばーか」
 目をまん丸くして見つめ返してくる雷奈の肩をバシバシ叩きながら、氷架璃はニッと歯を見せる。
「笑えよ、雷奈。幸せな時に笑わなくて、いつ笑うんだよ。私は笑うぞ。あんたの幸せが、私も幸せだからな」
「……っ」
 こらえていた涙が決壊した。膝の上にしずくを落としながら、雷奈は何度も強くうなずく。たった一つ、しこりのように重く抱えていた懸念は、いとも簡単に砕け散った。
「……いい友達を持ったわね、雷奈ちゃん」
「うん……うん……っ」
「ったく、笑えって言ってんのに何で泣いてんだよ。なあ、芽華実……って何であんたも泣いてんの!?」
「だってぇ……」
 もらい泣きする芽華実にチャチャをいれ、他方でドライアイかと思うほど目を濡らさない雷華にヤジを飛ばし、氷架璃の口八丁は大繁盛だ。そこへアワとフーが帰ってくると、買ってきたお菓子やジュースのセレクションのあまりの微妙さに、今度は全員が声を上げた。
 呆れ笑いの中、全ての袋が一気に開封される。争奪戦が繰り広げられ、ポップコーンが宙を舞い、炭酸が大噴火する。嵐のような喧騒は、曇り顔も涙も吹き飛ばし、宿坊の一室を、雪空などいざ知らぬ明るさで満たした。
 聖なる日、最も空に響いたのは、きっと讃美歌でもオルガンの音色でもない。
 それは、幸せを噛みしめる心の底から放たれた、二か月分の笑い声だった。
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