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【第二部】あの日の戀の形代の君。

二-10 棄てるものと得るもの

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「いったい何をするつもりだ? 燎琉りょうりゅう

 目をまたたきつつ、鵬明ほうめいが甥の真意を確かめようとする。その後で皇弟は、きゅ、と、くちびるを引き結んだ。

「私のために、お前に危ない橋を渡らせるわけにはいかん」

 それは望まない、だからやはり自分が出頭して、と、眉を寄せつつ言い掛ける叔父に、しかし燎琉は、てらうことのない笑顔を見せた。

「ご心配には及びませんよ、叔父上。そんなに物騒なことではないから」

「しかし……」

「王女を父帝の妃にというのは、まだ公表されていない、金胡きんうから内々ないないの打診があったという段階でしかない」

「だが……兄上――陛下は、そのつもりなのだろう?」

 鵬明が眉を顰め、複雑な表情を見せた。それでも、燎琉は顔に憂いのひとつ浮かべるでもない。

「そうです。両国の和平のため、その架け橋として、王女を娶る気でいる。――でも、和平の架け橋なら、なにも王女が皇帝に嫁ぐだけが手ではない。そうは思いませんか、叔父上?」

「それは……どういうことだ?」

「金胡の王族に、我がとう国の皇族が嫁ぐ……それでも十分に形は整うはずです。――なら、王女に鵑月けんげつどのを嫁がせればいい」

 あまりにも簡単に言い放たれた燎琉のことばに、鵬明は刹那、ぽかんとした。目をみはり、そのまま言葉を失っている。

 その傍では、彰昭しょうしょうもまた、驚いたように目を瞬いていた。

「だが、鵑月は……はい家の私生児でしかない立場だ」

 彼女は皇弟・しゅ鵬明ほうめいと裴彰昭との間にされた娘だ。血筋の上では立派に皇族に連なってはいるが、かといって、それは世間の知るところではなかった。

 そうである以上、いまの立場の鵑月が、そのまま金胡の王族であるウルラに輿入れしたところで意味がない。その婚姻を、嶌国と金胡国との縁を結ぶものだと捉えることはむずかしいからだった。

 おそらく、彰昭が疑問に思うのはそのことだろう。

「それなら鵑月どのを、繍菊しょうぎく殿でんの、すなわち鵬明殿下のご養子にすればよいのではないか、と……殿下はそうお考えですね?」

 瓔偲えいしはそう燎琉の意を汲むように言って、隣に立つ燎琉を顔を見る。瓔偲の眼差しを受けた相手がわずかに笑みを深めたのを見て取ってから、黒曜石の眸を鵬明のほうへと向けた。

「鵬明殿下はこの秋、わたしを繍菊殿の養子格として、燎琉殿下に嫁がせてくださいました。それと同じようになされば……形は整うのではないでしょうか? 歴史上にも、適当な皇女ひめがいない場合など、貴族のご令嬢を皇帝の養子として公主こうしゅ冊封さくほうして、その上で隣国に嫁がせた例はございますし」

 そう燎琉の提案を助けるようなことを付け足すと、鵬明は一度、思案げに押し黙った。

 口許に手を当てた皇弟は、難しい表情かおをしている。おそらくは、甥皇子の言うことが現実的に可能かどうか、考えているのだろう。

「しかし……先に陛下が我が妃にと考えていた王女ものを、そうやすやすと手放すだろうか」

 やがて鵬明はそんな疑問を口にした。

 燎琉は、ひょい、と、肩をすくめる。

「そこは、無理にでも引いてもらいましょう。――そも、あくまでも輿入れの件は内々の話だったんだ。いま方向性が変わったとて、皇帝としての体面に大きな傷がつくわけでもない。最初からそういう話だったことにすれば済むことでは?」

「それはそうかもしれんが……しかし」

「母后にも働きかけをお願いしてみるつもりです」

 燎琉が短く言い、鵬明が目を丸くした。

「皇后にか。それは、どういう……?」

 叔父の問いを受け、燎琉は目を細める。

「隣国の王女ひめが輿入れして皇子を産みでもしたら……隣国の後ろ盾のある皇子など、我が母は望まないはずです。長じれば俺の強力な対抗馬になり得るのだから。――そこをうまく突けば、母を動かすことは可能だと思う」

「燎琉、お前……」

 鵬明が息を呑んだ。

 その後で、ふ、と、目をすがめてわらう。

「ははっ、なかなか……わかってきているではないか」

 皇弟は、そう、いつかの夜と同じようなことをつぶやいた。

「叔父上の薫陶のたまものですよ」

 燎琉もちいさく笑った。

「――俺は、すこしは叔父上のお役に立てましたか?」

 続けてそう問いかけてくる甥に、鵬明は苦笑めいたものを浮かべつつ、ふう、と、息をつく。

莫迦ばかを言え。お前が私の役に立つのではなく、私をお前の役に立てる。いいか? それが皇太子となるために、あるいは皇太子となったあかつきに、お前がなすべきことなのだぞ。――なるほど、まだ多少、詰めが甘いようだな」

 そう言って口の端に穏やかな笑みをく。そのまま燎琉のほうへと近づくと、鵬明は、ぽん、と、軽く燎琉の肩を叩いた。

「そう、お前はまだ若く、だから少々詰めが甘い……此度こたび、陛下がなぜ早々に私を攻める構えを見せたのか。それは、私が陛下にとって、なお脅威だからだ……陛下の皇位を脅かす存在として、な。これを好機と、私の芽を摘むか、すくなくとも牽制くらいはしておきたかったということだろう」

 そこがわかっていない、と、鵬明は苦笑した。が、先程までの沈鬱な面持ちはなりを潜め、彼がくちびるに浮かべるのは、いつものような、どこか人を喰ったような笑みである。

「だが、だからこそそこを逆手に取って……こちらも、とっておきの切り札を切ろうではないか」

 鵬明は、ちら、と、眸の奥に強い光を宿らせた。

「とっておきの切り札……?」

「王号宣下せんげをお願いする」

 きっぱりと言い、鵬明はまた、に、と、不敵にも見える笑みをくちびるに浮かべた。

 瓔偲も燎琉も、その言葉に一様に息を呑む。なぜといって、成人ののち、殿舎をたまわって皇宮住みを続けていた皇族が新たに王号を授かるというのは、すなわち、皇位継承権の放棄を意味するからだった。

 王と呼ばれるようになれば、以後は皇宮の殿舎を出て、独立した王府を構えて暮らすこととなる。鵬明にとっては、大きな大きな決断だ。

 けれども彼はいま、自らが皇位継承権を手放す――皇帝の地位にとっての脅威を取り除いてみせる――ことによって、皇帝から譲歩を引き出す気でいるのだ。

「っ、鵬明……!」

 鵬明の言葉に強く反応したのは彰昭だった。取りすがるように鵬明の腕を掴み、何かを訴えるように彼の顔をじっと見詰めると、彼は、ふるふるとかぶりを振った。

「彰昭、心配するな」

「だが」

「なに、こちらもせっかく切り札を切るのだ。相応のものを引き出してみせるさ。――ただ繍菊殿の養子というのでは、他国の王族に嫁ぐには弱いからな。ならば、公主は無理でも、せめて鵑月の群主ぐんしゅへの冊封さくほうぐらいは、兄上に呑んでもらうつもりだ。任せておけ」

 鵬明は目を細め、持ち上げた手を彰昭の頬に添えた。

「だめだ、そんなの……お前にそんなことをさせたら、おれは……」

 ふるえる声で言い募る彰昭は、目を赤くしている。泣きそうな顔をする相手のまなじりのあたりを、鵬明はそっと指でなぞった。

「もとより私は皇位を望んではいない。いや、ちがうな……愛する者ひとり守れなかった私に国民くにたみを守ることなど出来はしない、皇位を望む資格などない、と、ずっと、そう、思ってきた」

「鵬明……」

「そんな表情かおをするな、彰昭。皇位継承権など、こんな私にとってはもとより、どうせ交渉ごとの切り札としてしか使うつもりのなかったものだ。ここでその札を切ってしまっても、なんら惜しくはない。――それよりも、今度こそ、想う者を、大切な者たちを、この手で守らせてくれないか」

 なあ、と、やさしく語りかけた鵬明に、彰昭はそれ以上、なにも言わなかった。鵬明の袖を掴んだまま、その場に力なく膝を折ってうなれてしまう。ふう、と、大きく息をつき、はは、と、力なく笑ったかと思うと、そのまま静かに嗚咽しはじめた。

 そんな相手のふるえる小さな肩を、屈んだ鵬明は、そっと抱きしめた。



 その後、燎琉と鵬明とは連れだって内殿へと向かっていった。

 時刻は深更である。皇帝は長楽殿でやすんでいる可能性も高かったが、それでも、叛意などないことを説明するには、一刻でも早く謁見を求めたほうがいい。それで、夜明けを待つことなく動いたのだった。

 ふたりが留守にしているその間、瓔偲は繍菊しゅうぎく殿でんにとどまって、彼らの帰りを待つことにした。憂い顔の彰昭も、傍らにはいる。ウルラと鵑月とは、鎮静作用のある薬を飲んだために、ふたりともそのまま寝入ってしまっているとのことだった。

 やがて夜が明けたが、とりあえず、繍菊殿が兵卒に取り囲まれるような事態にだけはならなかった。が、安堵するにはまだ早い。ひるが近づいても、燎琉たちが戻る様子はなかった。

 さすがにその頃になるとウルラや鵑月も目を覚ましたので、彼女たちに食事をらせるかたわら、瓔偲も彰昭とともにかゆを口にした。ただ、その間、誰もがずっと憂わしげに言葉すくなだった。王女も鵑月もだが、彰昭は特に、あおめた顔をしていた。

「――お戻りなさいませ、殿下」

 使用人があるじを迎える声が聞こえてきたのは、もう、夕刻も近い刻限だったろうか。声が響くや弾かれたように彰昭が立ち上がり、真っ先に扉のほうへと向かった。

 瓔偲も、それからウルラと鵑月とも、それに続く。正堂おもやの扉を引き開けると、ちょうど垂花すいかもんのほうから院子なかにわを渡ってくる鵬明と燎琉との姿が見えていた。

「鵬明……!」

 彰昭は掠れ声でつぶやき、きざはしを駆け下りる。早足になった鵬明が、ちょうどその下で、自らのほうへと飛び込んでくるていになった彰昭の身を受け止めた。

「これから忙しくなるぞ、彰昭」

 鵬明はしずかにそれだけを言った。

 瓔偲は自分も院子へと下りて、燎琉の傍へ歩み寄る。不安を滲ませて相手を見上げたが、燎琉はくちびるにゆるやかな笑みを刷いて、ひとつ、ゆっくりとうなずいて見せた。

「大丈夫だ」

 その言葉に、瓔偲は、ほ、と、息をついた。

 鵬明のほうをうかがうと、彼もまた穏やかな表情をしている。

「年が明けて、ひととおり年始のの行事が済んだところで、王号をたまわることになった。その後すぐ皇宮外の王府へ移れるよう、それまでに用意を整えねばならん。並行して、鵑月との養子縁組みも進める。陛下はこちらの提案を呑んでくれた。群主ぐんしゅに冊封した上で、二年後の成人を待って、金胡に輿入れさせてもよいとのことだ」

 手短に説明されるが、この結論を得るまでに、どれほどの緊迫の瞬間があったのだろうか。瓔偲はそれを思って燎琉と鵬明との顔を眺め、ほう、と、改めて息をついた。

「――あとは……金胡のほうが、それで納得するかどうかだけだ」

 鵬明が言って、正堂おもやの扉の前に立ち尽くしているウルラと鵑月とのほうへ視線をやる。特にウルラの意をたしかめるように目を細めると、はっとした王女はすぐにきりりと眉を上げて、力強くうなずいてみせた。

「父王は必ず、ワタシが説得スル」

「任せるより外ないが、頼む。そちらの国、あるいはあなたが私の娘をすこしでもないがしろに扱うようなことがあれば、この私が許さない」

「そんなコト、あるわけがない。約束スル」

「そうか」

 ほう、と、息をついて、鵬明は王女を静かに見詰めた。

「ウルラ王女、これは私からの個人的な頼みなのだが」

「ナンだ」

「どうか、鵑月を……幸せにしてやってほしい」

 たのむ、と、そう言った鵬明が頭を下げてみせると、ウルラは傍に立つ鵑月の肩を抱き寄せ、再びしっかと首を縦に振った。

「何に変えても、ワタシが必ずシアワセにする……!」

 ウルラの力強い答えを受け、うん、と、皇弟はひとつゆっくりとうなずいた。
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