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【第二部】あの日の戀の形代の君。

二-9 恋人たちの願い

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 瓔偲えいしの話を聞き終えた鵬明ほうめいは、脱力したように、正堂おもやへと続くきざはしに座り込んだ。そのまま長く重たい息をつき、うつむいてしまう彼の傍らに、やはり同じように黙り込む彰昭しょうしょうが立っている。彼もまた沈鬱ちんうつな面持ちをしていた。

 鵬明や彰昭は、王女をかくまって、その後、どうするつもりだったのだろうか。あるいは、娘の鵑月けんげつと共に、どこかへ逃がすつもりででもあったのか、と、思うが、それが容易なことではないのは、おそらくふたりも重々承知なのだろうと思われた。

 なにしろ、いまのこの事態は、そも綿密に計画されてのものではない。突発的に起きてしまったものなのだ。そうである以上、王女と鵑月とのふたりをうまく逃亡させてやるだけの十分な準備など、どう考えても整っているはずもなかった。

 一時うまく逃げおおせたところで、きっと最後まで逃げおおせることは難しいだろう。ことは、下手を打てば戦禍をも呼びかねない、国家間の問題でもある。とう国も隣国金胡きんうも、ふたりをそのまま放置してくれるわけもなかった。

 鵬明も彰昭も、そのあたりのことが理解できないはずもなかった。それがわかってなお、情に動かされたのかもしれない。ただ、現実が見えているからこそ、彼らはいま、どうとも動きかねているのではないのだろうか。

 重たく垂れ込めるような沈黙の中、最初に声をあげたのは燎琉りょうりゅうだった。

「叔父上」

 彼は鵬明の近くへと歩み寄ると、真っ直ぐに叔父の顔を見詰めた。

「とにかく一度、王女に会わせてもらえませんか」

 甥からそう言葉をかけられ、力なくうなれていた鵬明が顔をあげる。

「燎琉、しかし……」

 言葉を継ぎかけたが、そこで逡巡するように言い澱んで、鵬明はまた黙り込んだ。

「鵬明殿下。燎琉殿下のおはなしによると、皇帝陛下はいま、皇弟殿下に叛意はんいの疑いありとて、繍菊しゅうぎく殿でんに兵を差し向けることも辞さない構えのようです。まずは陛下のお疑いを晴らさねば……」

 瓔偲も燎琉に加勢するように言った。

 このままでは、明朝にも、この殿舎は近衛きんえいの兵卒に取り囲まれることになるのかもしれない。それを避けるためには、そむく意思などない、と、皇帝に明らかにしめさねばならなかった。そして、そうしようと思えば、繍菊殿は偶然に王女を保護したのだというていにでもして、王女を使節団に戻すよりほかはないだろう。

 けれども、と、瓔偲は鵬明に声をかけながらも、躊躇ためらっていた。黒曜石の眸を、正堂の正面扉の向こうへと向ける。

 おそらくは瓔偲がいま視線を向ける房間へやの中に、いま、金胡の王女と鵑月とがいるのだ。ふたりはいったい、どんな想いで身を潜めているのだろうか。王女を金胡からの使節団に引き渡すということは、この瞬間もまさに身を寄せ合い、手を取り合っているのかもしれないふたりを、無理に引き離すということにほかなからなかった。

 その行為の無慈悲を思うからこそ、鵬明も彰昭も、躊躇するのだろう。かといって、国益を損ねないためにはどうするべきか、考えあぐむのかもしれなかった。

「叔父上。俺と瓔偲がいまこうして添っていられるのも、叔父上のおかげ。あなたは俺たちにとって、恩ある方だ。その叔父上が国賊の汚名を着せられるようなことがあるなど、俺には耐えられない」

 燎琉が再び鵬明に語りかけた。

「だから、とにかくいまは王女を陛下のもとへ連れていって、事情の説明を……」

 そう、なんとか鵬明を説得しようとした燎琉が、言い募りかけたときだ。彰昭が姿を見せて以来、再び閉じられていた正堂の扉が、唐突に勢いよく開いた。

 はっとした誰もがそちらを見た刹那には、そこから細身の人影が飛び出してくる。素早い動きで一息にきざはしを駆け下りてきたその人物は、そのまま、欠片かけらほどの躊躇ためらいもなく、燎琉にきつい体当たりを喰らわせた。

「殿下!」

 突然のことに反応しきれず、まともに身体をぶつけられて蹈鞴たたらを踏んだ燎琉に、瓔偲は駆け寄った。

「平気だ」

 憂いを込めて見上げる瓔偲に、体勢を立て直した燎琉は言う。ほ、と、息をついた瓔偲は、あらためて、いまいきなり燎琉に身をぶつけた相手のほうへと視線をやった。

 きつい眼差しで燎琉をにらむようにしているのは、すらりとした長身の、中性的な容貌をした女性だった。まとうのは、濃い臙脂えんじに黒のふち取りの簡素なきものだ。高い位置でひとつにくくって後ろに流した長い髪には飾りのひとつもなかった。

 おそらく、彼女こそが金胡の王女なのだろう。

「ワタシは皇帝のトコロへなど行かナイ」

 燎琉を見据えて、王女は威嚇いかくでもするかのように低めた声で言った。

「皇帝のきさきになど、ナルつもりはナイ」

 そう宣する彼女は、どうやら先に燎琉が鵬明に向かって、王女をいったん皇帝のもとへ、と、そう発言したのを聴き、たまらず飛び出てきたようだった。

「ウルラさま」

 彼女を追うように扉のところへ姿を見せたのは、過日、裴府でまみえた少女、はい鵑月だ。ウルラ、と、彼女がそう口にしたのは、金胡国王女の名だった。

 彰昭によく似た面差しの少女は、憂わしげに眸を揺らしながらこちらを、否、いま燎琉と対峙する人物を見詰めている。

 王女――ウルラは、鵑月の呼びかけに、ちら、と、そちらを見た。

 けれどもすぐにまた敵意いっぱいの眼差しを燎琉に向けると、低く身構える。正対する相手から隠そうともせずに攻撃の気配を発しているのを悟った燎琉は、さがれ、と、そう一言、瓔偲を背に庇うようにして自分から遠ざけた。

「ワタシは鵑月を伴侶つまにすると約束しタ」

 王女は唸るように言う。

「鵑月以外の者ニなど、添うものカ」

 そう言いつつ、指を揃え、両手を手刀のかたちにして、身体の前に構えた。

「っ、王女……お待ちを!」

 そんなウルラを、鵬明が立ち上がり、止めようと動く。が、皇弟の制止を聴く間もなく、ウルラは燎琉のほうへ攻撃を繰り出した。

 燎琉は、彼女が突くように繰り出した腕を、眉根を寄せつつひらりとける。続いて横薙ぎに自らを狙った手は、はし、と、受け止めた。

 自らの攻撃を、一度目はかわされ、二度めは止められて、ウルラは燎琉に手首を掴まれたまま、ぎりり、と、歯噛みしつつ、燎琉をめつけた。

「離せ……オマエの思い通りになど、ならナイ。ワタシは、鵑月と……」

「王女!」

 何か言いかけたウルラの言葉を、けれども燎琉が鋭く遮った。

「想う者と添いたいあなたのお気持ちは、俺にもわかる。けれど、いまあなたがこんなかたちで勝手を通せば、嶌国と金胡、二国の和平にひびが入るのです。鵑月どのの実の親である方々にも、それで、どんな災厄わざわいが降りかかるか……どうぞ、賢明なご判断を」

 燎琉が言うと、ウルラは刹那、ぐ、と、言葉を呑んだ。

 けれどもすぐにまた、ぎ、と、燎琉を睨む。

 ただ、今度は手を出してくるような気配はなかったからだろう、燎琉は王女の腕を掴む手をゆるめたようだった。するとすぐさま、彼女は燎琉の手指を振り払うようにし、燎琉から身体を背ける。

「デハ……どうしロ、と」

 ぎり、と、奥歯を噛むようにしてえ、ウルラは言った。
 
「ウルラさま」

 声をあげたのは鵑月だ。きざはし院子なかにわまで下りてきていた彼女は、彰昭に寄り添われるようにして立っている。その位置から、切なげな眼差しで、ウルラのほうを見詰めた。

「あなた様は、一国の王族……もとよりわたくしとでは、身分が釣り合わないことはわかっております。ですから、もしウルラさまが、陛下の後宮に入られるというのなら……わたくしは、侍女としてお供いたします。お傍にいられるなら、それで……」

「鵑月、何ヲ言う……! ワタシがソナタ以外と睦んでも構わないト?」

 莫迦なことを、と、どこか責めるような調子でウルラは言ったが、目を瞬かせた鵑月は、そ、と、くちびるにかなしげな微笑を浮かべた。

「仕方が……ございません。わきまええて、おりますから」

 ウルラは息を呑む。きゅ、と、くちびるを噛んだ。眉をひそめ、口惜しそうにする王女の前で、鵑月はしずかに微笑んでいた――……そんな彼女の心のうちが、瓔偲には手に取るようにわかる気がした。

 傍においてもらえさえするのならばめかけでもかまわない、と、瓔偲は先日、燎琉に向かってそう口にした。きっと、いま鵑月もそのときの瓔偲と同じような気持ちでいるに違いない。ただ傍にいられれば、と、それは一面、真実の想いだ。けれども、うらはらに、そう言いながらも心の奥底では異なることを望んでしまっている己がいた――……ほんとうは、自分だけを見てほしい。あいしてほしい。

 そんな、身勝手で慾深い、望み――……。

「っ、う……」

 ふいに燎琉がうめく声が聞こえ、瓔偲ははっとした。見れば彼は、口許をてのひらで覆っている。

「匂い、が……」

 苦しげに眉を顰めながらつぶやき、視線をやる先には、鵑月がいる。少女は目を熱っぽく潤ませ、頬を上気させて、はぁ、はぁ、と、荒い呼吸いきをしていた。

「発情……!」

 すぐに動いたのは彰昭だ。娘の身体を背後から羽交い締めるようにする。

「っ、王女、どうかご無礼にご寛恕かんじょを!」

 鵬明もまた、即座にウルラの身を拘束した。そのときにはすでに、ふぅ、ふぅ、と、こちらも荒らぐ呼吸を漏らしながら、ウルラは鵑月を一心に見据えている。性の発情に誘発され、情を発したのだと見て取れた。

「殿下……!」

 瓔偲は燎琉に駆け寄った。その場に膝をつき眉を寄せている燎琉の身体を、思わず抱え込むようにしている。燎琉は、ちら、と、瓔偲の顔を見た。

「大丈夫……俺はつがい持ちだ。ふつうの甲性のようには、発情に巻き込まれたり、しない」

 そう言いつつも、燎琉の息がいつもより早く熱いのが――まるで瓔偲を抱くときのようだ――感じられた。瓔偲は無意識意に、燎琉にまわした腕に力を込めている。

「鵑月、どうして……いまは発情期ではないはずなのに」

 熱くウルラを求める娘を押さえ込みながら、彰昭がつぶやいた。

「お父様……お父様、おねがい、です……はなし、て……わたくし、いや……ウルラさま。ウルラさま……わたくし、だけ、を……」

 想う相手が誰か他の者とちぎるだなどと、考えるだけでも、つらい。自分だけを傍においてほしい。荒く熱っぽい、慾にまみれた呼吸をしながらウルラを見詰める鵑月は、途切れ途切れに、舌っ足らずに、そうしたことを訴える。あるいは、ウルラと添うことを強く求める彼女の想いが、突発的な発情をもたらしたのかもしれなかった。

「鵑、月……鵑月、っ」

 ウルラが少女を呼ぶ。ぐるる、と、唸るような声すらあげている。鵬明が押さえていなければ、彼女はすぐにも鵑月のもとへ飛んでいって、そのうなじを噛んだのに違いなかった。

 胸が、痛い。望んではならない、と、自分は相手にとって邪魔なものでしかないのだから、と、そう自分に言い聞かせるようにしつつも、それでも燎琉のかたわらを望む気持ちをこらえられなかった自分と、いま目の前の彼女たちとが、ふいに重なって思われた。

 傍にいたい、と、その願いを叶えることが許されないのなら、いっそ露と消えてしまいたい、死んでしまいたい、と、瓔偲だとて、あのとき、たしかにそう思ったのだ。

 ただ、想う人と添いたい、と――……たったそれだけの、けれども、時に叶えることがひどく難しい、その願い。

 諦めがたく、断ちがたく、それでも手放さざるを得なかった鵬明や彰昭は、遠い日に味わったのかもしれない苦悶と重ねて、いま、目の前の若いふたりをどう思っているのだろうか。

「お父様、はなして……!」

 切なる声で鵑月が言ったとき、ふいに、彰昭の腕がゆるんだ。

「離セッ」

 ウルラが呻くように口にしたとき、鵬明もまた、彼女を拘束していた手を放していた。

 ふたりは弾かれたように互いに近づき、抱きしめ合い、そしてウルラはもどかしそうに鵑月のうなじを探ると、そこに歯を立てた。彰昭も鵬明も、そんなふたりを、眉を顰めた複雑な表情で見詰めていた。

「匂いが……消えた」

 燎琉が、ほう、と、息をつくようにいう。

「つがいの関係が、成立したんだろう」

 瓔偲はうなずいたが、この先、いったい事態をどう収めるべきなのか、と、眉を寄せる。

「誰ぞ……薬を持ってこい」

 鵬明が命じ、すぐに薬湯が用意された。それを飲まされたふたりは、しばらくしてようやく落ち着きを見せる。休ませておけ、と、鵬明の指示に従い、繍菊殿の侍女たちが、ふたりを連れて下がっていった。 

「――私はいまから陛下のところへ参上する」

 鵬明が何か覚悟を決めたような表情をして、重たい口調で言った。

「事情を説明してこよう。問題は国と国とのこと、簡単ではなかろうが……我が命ひとつでなんとか収めてもらえないものか、お願い申し上げてくる」

 ふう、と、静かな息を吐く。

「っ、鵬明!」

「彰昭、長い間、すまなかった。――最後くらい、我が子のために、動かせてくれ」
 
「っ、だめだ、そんなの……それなら、おれが」

「いや……皇族の私の命だからこそ、あがなえるものもあるだろう。それに、私は……そなたのことも、守りたい。だから、聞き分けてくれ、彰昭」

 鵬明が言い、けれども彰昭はきつく眉根を寄せて、頑是がんぜ無い幼童こどものようにかぶりを振った。

「だめ、だ……だって、あのとき、なんのためにおれが……」

 その場に立ち尽くし、彰昭は泣きそうに顔を歪める。

「――叔父上」

 そのとき、ふいに燎琉が声をあげた。鳶色の眸で真っ直ぐに鵬明を見る。

「俺はあなたを救いたくて来たんだ。みすみす命を投げ出させたりするものか。それに……想う者と添いたいという気持ちは、俺にだって、痛いほどわかります。俺だって、瓔偲と一緒になるために、我を通したくちだから……そんな俺たちに心を寄せてくれた叔父上を、死なせたり、しません」

 ふたりを引き離すつもりもないし、鵬明を犠牲にもさせない、と、燎琉は強い眼差しできっぱりと言い切った。
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