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【第二部】あの日の戀の形代の君。

二-6 王女の失踪とひとつの疑念

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「叔父上のところへは、すでに遣いをやった。じきに返事があるか、椒桂殿ここまで直接来てくれるだろう」

 ひそめ眉の厳しい顔つきで、燎琉りょうりゅうが言った。念のため詳細は明かさぬまま、火急の用で対面を請う旨、皇弟おうてい鵬明ほうめいへの伝言をしたのだという。

 それから燎琉は、自身の侍者のほうへ顔を向けた。

皓義こうぎ、実家に連絡を取って、李家から人員を借りられるだろうか? 秘密裏に動かせる者を……」

「もちろんです。そのまま皇都内で王女の探索に当たらせればよろしいですか?」

 皓義が燎琉の意をんでそう応じると、燎琉は難しい表情のまま、頼む、と、短い言葉とともにひとつ頷いた。

「すぐに祖父に頼んでみます」

 武門の名家の出身でもある燎琉の侍者は、仕える主の命を受けて、すぐさま殿舎でんしゃを出て行った。

 残された瓔偲えいしは、燎琉に真っ直ぐに眼差しを向ける。

「殿下、王女が消えたとは、いったい……?」

 瓔偲がそう訊ねると、鳶色の眸がこちらを見返す。

「詳細は俺にもわからない。ただ、城門を越えてすぐいなくなった、と」

「まさか、何者かにかどわかされたのですか?」

「それも、いまのところ何とも」

 瓔偲の問いに、燎琉はちいさく頭を振ると、そのまま難しい顔をして黙り込んでしまった。

「その一報は、いったいどこからもたらされたのでしょう?」

「母だ。皇宮に着くまで、使節の護衛は兵部が担当するからな。王女失踪はまだ極秘の情報だそうだが、もしもこれが表沙汰になれば兵部へいぶ尚書しょうしょの責任が問われるのは避けられないというので、俺にも連絡を寄越してきたらしい。しかし……」

 そこまで言って、燎琉はくちびるを引き結んだ。

 燎琉の母である皇后の家門は氏。そしてこの一門は現在、兵部に根を張っていた。家門の力が削がれるのは、燎琉を皇太子にと望む夏皇后にとっては、それこそ一大事だろう。

 だが、きつく眉を寄せる燎琉が憂うるのは、それとは別のことのようだ。

「母の一門のことなど、この際、些細ささいな問題にすぎない。いなくなったのは隣国金胡きんうの王女。嶌《とう》国の国内において、彼女の身に万一のことが起きたら……最悪、金胡との間で、いくさになってもおかしくない。そちらのほうが大きい」

 ぐ、と、奥歯を噛むようにしてつぶやく燎琉に、瓔偲もまた沈鬱な表情でうなずいた。

 なんとしても、しかも早々に、王女を無事な姿のままで見つけださなければ、この状況下、危機にさらされるのはこの嶌国の泰平たいへいそのものだといえた。

「母は、ばん貴妃きひ煌泰おうたい兄上の仕業だと……こちらの勢力を追い落とそうとする陰謀たくらみだと疑っているふうだった。が、俺にはそうは思えないんだ」

 燎琉は、こちらに意見を求めるように、瓔偲の顔をのぞき込んできた。真摯な光を宿すとび色の眸に真正面から見詰められ、瓔偲はわずかに思案する。

「……わたしも、殿下と同じ意見です」

 しばらく黙して考えた後で、顔を上げ、黒曜石の眸を燎琉に向けて、そう言った。もちろん安易に同調するというのではなく、第三皇子側の謀略だと見るのには、疑問が多い。

「たしかに金胡の王女が消えれば、兵部の責を問うて皇后さまの一族を失権させること、歓待役を仰せつかった殿下の功を邪魔立てすることは、できるかもしれません。ですが、そのために隣国の王女をかどわかすなど、あまりにも危険が大きすぎるように思います。事態ことは国内問題で済まなくなるわけですから。――ただ……」

「ただ、向こうがそこまで考えて動いたかどうかはわからない、ということだな? ――権力にしろ何にしろ、何かへの妄執にかれた人間は、時に恐ろしく愚かな行動を平気でやってのける」

 ぎり、と、こぶしをきつく握る様子の燎琉が思うのは、この秋、彼と瓔偲との身に起きた出来事――ふたりが、自らの意思によらず他者の陰謀によって、無理矢理つがいにさせられてしまった事件のこと――なのかもしれなかった。有力な家柄の令嬢を娶って、順風満帆に立太子に至るはずだった燎琉の運命も、長年としごろの望みをようやく叶え、国府に官吏として勤めていた瓔偲の運命も、あの件を経て、大きく変わった。

「殿下……」

 瓔偲は握りしめられた燎琉のこぶしに、そ、と、自らの手指てゆびを重ね、じっと燎琉を見詰めた。燎琉ははっとして瓔偲を見返すと、無言のままで、一度、こちらの身体をそっと抱いた。

 それから、ふう、と、ひとつ息をつくと、燎琉は瓔偲から身体を離し、扉のほうへ向かう。

「俺はこれから、陛下のところへ参上する。詳細を聴いた上で、対応策について考えなければ……それに、母后ぼこうともお会いして、軽率な行動をお止めしておかないと、万貴妃や兄上と下手に揉められても面倒だ」

「はい」

「お前はここで、叔父上からの連絡を待て」

「わかりました。鵬明殿下からご連絡があれば、うけたまわっておきます」

「うん。――あるいは、一報が耳に入っていれば、叔父上もすでに内殿へ向かわれているかもしれないが……」

 燎琉が扉を開けつつ、そんなふうに言った時だった。

「殿下。門前に第三皇子殿下がお越しです」

 院子なかにわを駆けてきた下男が、燎琉の前にかしこまってそう告げた。

「煌泰兄上が……?」

 思わぬ来客に、燎琉が驚いたように目をみはる。瓔偲も息を呑んだ。

 ふたりは、ちら、と、目配せしあう。すぐに燎琉はくちびるを引き結び、そのまま院子なかにわの向こうの花垂かすいもんのほうを見据えた。そのまま、意を決したように房間へやを出ていく燎琉の背を、瓔偲も無言で追いかけた。



「兄上にご挨拶いたします」

 門前にとまった輿こしの上にいる青年に、燎琉が拱手きょうしゅする。

「第三皇子殿下に拝謁いたします」

 燎琉の斜め後ろに控えた瓔偲もまた、燎琉にならって、相手に丁寧に拝礼した。

「ほう、それがお前がご執心だとかいう、性のきさきか」

 こちらの挨拶を受けた相手、燎琉のすぐ上の異母兄、とう国第三皇子・しゅ煌泰おうたいは、まるで値踏みでもするかのように目を細めて瓔偲を眺めた。

「たしかになかなかにうつくしい顔をしている……さすが癸性、というべきか」

 とげと含みのある言い方をされたが、瓔偲はただ黙って顔を伏せていた。が、煌泰の隠しもしない嘲りの眼差しに気が付いたらしい燎琉が、き、と、兄皇子を睨みつつ、こちらをかばうように瓔偲の前に立ってくれる。

「何のご用でしょうか、兄上」

 眉根を寄せ、警戒するような低い声音で燎琉は言う。

「ん? 陛下が皇族会議を召集なさったんだ。ついでだから、お前にも報せに来てやった」

「……それだけですか」

「なんだよ、その疑わしげな顔は。――言っておくが、今回のことは、こちらの企みではないぞ」

 兄の一言に、燎琉ははっと息を呑む。すぐに瓔偲と目を見交わしてから、再び煌泰のほうをまじまじと見た。

「兄上、それは……」

「いくらなんでも、国家間の問題になるようなことを軽々とするもんかよ。露見したら、権力の座から追われるどころではない。間違いなく首が飛ぶんだぞ。さすがにそんな危険までは犯すような莫迦ばかじゃあ、ない」

 鼻を鳴らすようにして言ってみせる相手は、どうやらいま起きている事態そのもの――金胡の王女の失踪――については、すでに知っているようだった。

 では、その上で、わざわざ自分たちの仕業ではないと燎琉に伝えに来たのだろうか。その意図は、と、瓔偲はじっと思案する。

 けれども、こちらの思考がまとまるよりも先に、煌泰のほうが言葉を継いだ。

「そう睨むなよ、燎琉。――なあ、お前、俺を疑うのもいいがな。甘ちゃんのお前はひとり、本来なら疑うべき相手をすっかり忘れてるんじゃあ、ないか?」

 低めた声で、含みいっぱいに言う。

「そう、ほんの数年前まで、いまのお前と同じように、皇后の産んだ唯一の皇子という立場にあった人物だ。母方の家柄を考えても、本人の実績から見ても、先帝の時代には、いつ、当時皇太子だった我らが父上、現皇帝陛下に替えて、立太子の話が出てもおかしくなかった者」

 煌泰が指すのが誰なのかは明らかだ。燎琉が、ぐ、と、てのひらを握り込んだのが瓔偲に見えた。

「……鵬明ほうめい叔父が、関与していると? 莫迦な」

 憤りを含んだ声で、燎琉は言った。

「そうか? そんなもの、わからんだろ?」

 相手はおどけでもするかのように、ひょい、と、肩をすくめた。

「先帝の頃だけではない。いまもなお、皇弟鵬明は最有力の皇族で、皇太子候補のままだぞ。父帝にとっては、自らの皇位を虎視眈々と狙い、いつでもそれをおびやかしかねない、油断ならない相手だ」

「叔父上にはそんな意図は欠片かけらもない。彼が陛下の忠実な弟皇子として、臣下として、ずっと国政に尽力されているのを、兄上とてご存知では? それを……なぜ急に、そのようなことをおっしゃるんです」

 燎琉は低めた声で厳しく問い詰めるように言ったが、煌泰は燎琉の感情をかわすかのように、またしても軽く肩をすくめてみせた。

「別に。――ただ、我らが偉大なる叔父上、鵬明皇弟おうてい殿下は、やまいを理由に、皇族会議への参加を見合わせたと聞こえてきただけのことだ」

「っ、叔父上が……」

「しかもその後、繍菊しゅうぎく殿でんは堅く門扉を閉ざして、不気味に静まり返っているとか。――ま、これでは疑ってくれと言わんばかり。あの切れ者の叔父が取る態度としてはあまりにあからさますぎて、逆に腹のうちが見えん気もするがな」

 はは、と、煌泰は笑う。どうやら彼の突然の来訪は、皇弟鵬明と親しく、彼に可愛がられていることが周知の事実でもある弟皇子・燎琉の様子を探りにきたという面もあるようだった。

 有態にいえば、鵬明の謎めいた動きに燎琉も噛んでいるかどうか、あるいは、同調して何らかの行動に出る可能性があるものかどうかを確かめたかったのだろう。燎琉の母である皇后が、敵対勢力、第三皇子煌泰とその母であるばん貴妃きひに疑念を向けたように、向こうもまた、燎琉側のたくらみであることを考えたのだ。

 ただ、燎琉が見せた一連の、まるで寝耳に水といわんばかりの反応で、煌泰はどうも、鵬明と燎琉とが何かはかって動いているわけではないらしいと判断したらしかった。

「鵬明叔父らしくはないが、とはいえ、あちらの心積もりが、もはや疑われても構わんと開き直る段まで来ている可能性だってあるわけだ。それなら、隣国の姫だってかどわかして見せるかもしれん。金胡との揉め事で朝廷が混乱しているうちに、簒奪さんだつを狙う、とか……」

「っ、一歩間違えば、金胡といくさになるのだぞ! 叔父上がそれを理解しないわけがないし、だったら、そんなことをするはずがない……!」

 鵬明が、自らの地位のために、国の泰平を犠牲にするわけがない、と、燎琉は言い張った。が、煌泰はそれを、ははっ、と、軽く嘲笑する。

「だからお前は甘いっての。そもそも今回のことに歓待役という形でお前を最初巻き込んだのは、誰だったよ?」

 言われて燎琉が、ぐ、と、言葉に詰まる。眉をきつくひそめ、くちびるを引き結んだ燎琉は、それでも、ぜったいにちがう、と、再びうめくよようにつぶやきながら、かぶりを振った。

「まあ、いいさ。とりあえず俺は先に行くぞ。お前もせいぜい急げよ。万一にも遅れて、皇弟側の人間だと、陛下に要らぬ疑いをもたれないよう気をつけることだな。――ま、そうなれば、皇帝に反抗してまで癸性の妃なぞ娶ったお前の次代の芽は、今度こそ完全に摘まれる。俺にとっては、ありがたいことだが」

 ふん、と、厭味っぽく鼻を鳴らすと、煌泰はその場を去っていった。

 燎琉が歯噛みしている。瓔偲はその袖に、そ、と、触れた。

「殿下は内殿へ……陛下のもとへ、お急ぎください」

「だが、叔父上の件は……」

 あんなことを聴いて放ってはおけない、と、燎琉は言う。

「繍菊殿へは、わたしが」

「瓔偲、でも」

「大丈夫です。お忘れですか? わたしはずっと、鵬明殿下の下で職務についておりました、直属の部下です」

「そうは言うが……」

「とにかくも、一度、繍菊殿を訪ねてみます。――かつての上司……彼の下についていた者として、わたし自身も、鵬明殿下が心配なのです」

 瓔偲がそう言うと、それでもしばし逡巡する様子を見せた燎琉だったが、やがて仕方がないとばかりに息をついた。

「わかった。頼む。――気をつけていけ」

「はい。殿下も、お気をつけて」

 ふたりは椒桂しょうけい殿でんの前で別れ、それぞれ、燎琉は皇宮の奥に位置する内殿へ、そして瓔偲は西にある繍菊殿へと向かった。
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