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番外 可惜夜ーあたらよー
可惜夜(中)
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はっと目を覚ましたとき、燎琉は一瞬、自分がどこで何をしているのか、うまく把握が出来なかった。あれ、と、目を瞬く。
瓔偲と夕餉を共にした後、自分が先に湯浴みを済ませ、牀榻に入った。瓔偲が湯を使って戻るのを、臥牀の上で、職掌と関わる巻子を披きながら、待っていたように思う。
そのあたりまでの記憶はあったが、その後、いったいどうしたのだったか。
そこまで考えたとき、燎琉はとろりと横になっていた体勢から、弾かれたように、がばりと身体を撥ね上げていた。
(寝てしまった……っ!)
いつ自分が寝入ってしまったのか、燎琉にはまるで覚えがない。瓔偲を湯浴みに送りだしたのはたしかだが、その彼が房間へ戻ってくるのを見た記憶がなかった。
慌てて瓔偲の姿を探す。彼がまだ戻ってきていないというわけではないことは、灯してあったはずの明かりが始末されて牀榻の中が暗いことと、それから燎琉が披いていた巻物がきちんと巻き取られて枕元に置かれていることから、容易に想像された。
それなのに、瓔偲は燎琉の傍らに横になっているわけでもないのだ。
燎琉は静かに臥牀から降りた。牀榻を出ると、隣室とを区分ける屏風を越えて、居間のほうへ行ってみる。
するとすぐに、漏窓の傍に据えた榻の上に、求める姿を見つけることが出来た。
瓔偲はそこで、燎琉の背子を衾がわりにかぶって、横になって眠っているのだ。静かに目を閉じている彼の頬に、蒼い月光が注いでいた。
(なんでこんなところで寝てるんだ、お前は……)
燎琉は思わず、きゅっと眉根を寄せた。
つかつかと榻のほうへと歩み寄ると、瓔偲の身体を抱え上げる。そのまま臥牀へ運ぼうと踵を返したところで、ふと、瓔偲がむずかるような、かすかな声をあげた。
「ん……」
血の色の透けるような薄い瞼がふるえる。燎琉が瓔偲をのぞき込んだ瞬間、彼はゆっくりと目を開けた。
視線が絡む。はたはた、と、瓔偲は刹那、不思議そうに瞬いた。おそらく状況が呑み込めていないのだろう。
「殿、下……あの」
寝起きゆえの掠れ声に戸惑うように呼びかけられたが、燎琉は聞き流して、牀榻のほうへと歩き出した。
「お前はなぜあんなところで寝ていたんだ?」
なぜか苛立っていて、だからつい、声は低くなっている。燎琉の怒りを感じ取るのか、瓔偲は一拍、はっと押し黙った。
「房間へ戻りましたら、殿下はすでにおやすみでいらっしゃいましたので……」
それから、おずおずとした調子で、そう答える。
「それでも別に、俺の隣で寝ればいいだろ?」
燎琉が畳みかけると、瓔偲は困ったように眉を顰めた。
「わたしのような者が、勝手に、殿下がおやすみの臥牀にご一緒するわけには……」
そんな言葉が耳に入った瞬間、燎琉はふと、立ち止まっている。
(また、だ……またお前は、自分のようなもの、と、自らを軽んずるような口ぶりで……)
「っ、お前は俺の妃じゃないのか? そんな遠慮が必要かっ!?」
気づくと燎琉は、瓔偲に向けて、そう声を荒らげていた。
瓔偲がはっと息を呑む。
その視線は虚空を泳ぎ、ついには、伏せ目がちにうつむいてしまった。
「――……申し訳、ありません」
そのあとで聞こえたのは、彼がちいさく呟いた詫びの言葉だった。その刹那、なんとも言明しがたい、たまらない気持ちが、腹の底からぐぅっと迫り上がってくるのを燎琉は感じた。
(っ、ちがう……謝らせたいわけじゃなくて……っ)
そもそも、これは八つ当たりだ。瓔偲を待っている間に、燎琉はうっかり寝入ってしまった。それを見た瓔偲が燎琉に配慮して、別の場所で横になった。燎琉に言わせてみれば要らぬ心遣いだが、瓔偲にとってはそれはあるいは、して当然の遠慮だったのだろう。
だったら、瓔偲は何も悪くない。原因は、ひとり先に眠ってしまった自分のほうにこそあった。
頭では、わかっている。それでも、燎琉の中には、言明しがたい腹立ちが重たく蜷局を巻いていた。
(どうして、瓔偲は……っ)
燎琉はきつく眉根を寄せる。
瓔偲は自己評価が低い。わたしなど、と――彼は無意識なのだろうが――よく口にしている。燎琉にはそれがもどかしかった。
けれどもそれは、瓔偲に責任のあることではないのだ。彼は癸性であり、ここ嶌国では、彼のような癸性を有する者はずっと不当に軽んじられてきた歴史があった。そのせいだからだ。
癸性であるがために、瓔偲はこれまで様々なものを諦め、己を抑えて生きざるを得なかった。けれども、ただ癸性であるというだけで――己ではどうしようもない、生まれ持った性別のせいで――そんな生き方を強いられなければならないなんて、おかしい。理不尽だ。
燎琉は瓔偲に、もうこれ以上、癸性であることを理由に何かを諦めてほしくはなかった。だからこそ、いつか国を変えるために、皇太子をも目指そうと決意した。
瓔偲はそんな燎琉の決意を理解し、燎琉の傍らにいることを選んでくれたけれども、それでも、彼はやっぱりまだ無意識に、わたしなど、と、わたしのような者、と、度々そう口にするのだ。燎琉の許可がなければ、同じ臥牀に横になることすら躊躇ってしまうのだ。
(俺は瓔偲を大事にしているつもりだ……でも、まだ全然、駄目なんだ。ぜんぜん、足りてない)
自分の無力を思い知らされるようで、ひどく口惜しくて、燎琉は眉を顰めてくちびるを噛んだ。
瓔偲が屈託なく、思うままに振る舞えるようになるまで、あと、どれくらいかかるだろう。たしかに燎琉が瓔偲を妃に迎えてから、まだわずかしか経ってはいない。それでも、期間の短さを言い訳にはしたくなかった。
もっともっと瓔偲を大切にして、愛を伝えて、そうしたら彼だってもう、わたしなんかなどと、言ったりはしなくなるだろうか。そうなることを強く願うとともに、だからこそ、現状はまだそんなふうにできていないらしい己が、燎琉は情けなくてならなかった。
きゅっとくちびるを引き結び、無言のまま、牀榻のほうへと再び歩み出す。瓔偲を褥へと下ろすと、燎琉は臥牀の縁に腰掛けた。
はあ、と、息をつく。額を押さえる。
燎琉は瓔偲には背を向けたままの恰好で、そのままうつむいて黙り込んだ。
背後で瓔偲が身体を起こす気配がしたが、彼もまた何の言葉も発することはない。臥牀に重たい沈黙が落ちた。たまらなかった。
「――……ごめん」
ついにたまりかねて、燎琉はぼそりと口にした。
「お前は悪くないのに、理不尽に八つ当たりした。すまない」
改めて言って、ほう、と、息をつく。ちらりと苦笑めいた笑みをくちびるに刷いて振り向くと、瓔偲は困ったような顔をして、じっと燎琉のほうを見詰めていた。
けれどもこちらと目が合うと、気まずそうにうつむいてしまう。
「いいえ。わたしのほうこそ……申し訳ありませんでした」
「ははっ……お前が謝ることなんて何もないだろ」
燎琉は言ったが、瓔偲は伏せ目がちに二、三度瞬くと、ゆるゆると頭を振った。
ただその後は、何か言いたそうにはするものの、言葉を呑んでしまう。燎琉はしばらくそんな瓔偲を黙って見詰めていたが、やがて、そ、と、吐息した。
「もう、寝ようか」
静かに笑って言って、臥牀に上がる。気まずさもあって、瓔偲に背を向けるようなかたちで横になった。
しばらくすると、背後で動く気配がある。いったん身を起こしていた瓔偲も、燎琉に倣うように、衾に潜ったようだった。
ふわ、と、甘くて清らかな白百合のような香りがする。瓔偲の香りだ。背を向けていてさえ感じるそれに、燎琉は込み上げるものを感じて、ぎゅっと目を閉じた。
抱擁も、口づけも、ずいぶん自然に出来るようになったと思う。瓔偲が燎琉とのそうしたふれあいを厭がるふうも、いまのところは、ない。
ただ、彼が燎琉と肌を合わせることをどう思っているのか、望んでくれているのか、燎琉はつかみかねていた。瓔偲は燎琉に――癸性ではあっても――自分は誰かの妻になることも、母になることも、想定してはこなかった、と、そう言ったことがあるからだ。
もし瓔偲が望んでいないのなら――望まずとも、燎琉が求めれば彼は己を抑えてでも応えてくれるのだろうと思うからこそ――自分の身勝手な慾を押し付けて、望まない行為を強いたくはなかった。たとえ我が身の熱を持て余すことになろうとも、二度と瓔偲に、厭な思い、つらい思いは、させたくない。
そんなふうに思ってぐずぐずしているうちに、なんだか言い出すのも怖くなって、そのままなんとなく、自然に触れ合える機を逸してしまったままになっていた。
それでも、と、燎琉は息をつく。皓義にも指摘された通り、今日の夕刻はなんとなくしっとりとした良い雰囲気になれていた。今宵こそは、ふたり自然と、互いをいつくしみ合う時間を過ごせそうな気がしていた。
けれども、いまとなっては、それすらもこちらのひとりよがりの思い込みだったのかもしれない、と、思ってしまう。
(俺とぬくもりを重ねたいと、やっぱり、瓔偲は思ってはいないのかな……)
そうなのかもしれない。だからこそ、さっきもわざわざ榻を選んで寝ていたのかもしれない。
そんなことを思った燎琉が、ほう、と、自嘲めいた長嘆息を無意識にもらした時だった。
「殿下」
静かだから眠ったのかと思っていた瓔偲が、ふいにこちらの背中に声をかけてきた。夜の静謐の中に吸い込まれて消えてしまうような、かそけき声での呼び掛けだった。
「どうか、したか?」
燎琉はなぜか緊張してしまって、応じる声も掠れてしまう。ゆっくりと振り返ると、こちらに背を向けていた瓔偲も同じように身を返した。
「どうした……?」
向かい合って、燎琉は改めて瓔偲に問うた。
「申し訳、ありませんでした」
瓔偲が口にしたのは、今度もやっぱり詫びの言葉だ。燎琉は、ちら、と、眉を寄せて複雑に笑んだ。
「お前が謝ることじゃないって言ったろ?」
「いいえ、わたしは……」
「なあ、瓔偲」
何か言いかけた瓔偲を遮るように、燎琉は相手を呼んだ。
瓔偲が黙る。それに、そ、と、眉をひそめたままで燎琉は笑みかけた。
「むしろ詫びるなら、寝てしまった俺のほうなんだ。それなのに八つ当たりで怒鳴ったりして……悪かったと、思ってる。――それなのにそんなふうに、お前が謝らないでくれ。頼むよ」
瓔偲に詫びられては、彼に当たってしまった自分が情けなくて、立つ瀬がない。燎琉は切ない表情で懇願したは、それでも瓔偲は首を横にふった。
「違うのです、殿下。わたしが……わたしは、おそらく、あれは半ば、わざとで……すみません」
「瓔偲……?」
珍しく整わない喋り方をする瓔偲を前に、燎琉は戸惑って声をあげた。相手の肩をそっと掴んで顔を覗き込むと、黒曜石の眸が揺れている。
「房間に戻って、殿下がすでにおやすみなのを目にしたとき、わたしは……腹が、立ったのです」
柳眉を寄せて、苦しそうに、瓔偲は言う。燎琉は、普段ずっと冷静で、怒りの感情など持ち合わせていないかのような彼の思わぬ言葉に、はっと息を呑んだ。
瓔偲と夕餉を共にした後、自分が先に湯浴みを済ませ、牀榻に入った。瓔偲が湯を使って戻るのを、臥牀の上で、職掌と関わる巻子を披きながら、待っていたように思う。
そのあたりまでの記憶はあったが、その後、いったいどうしたのだったか。
そこまで考えたとき、燎琉はとろりと横になっていた体勢から、弾かれたように、がばりと身体を撥ね上げていた。
(寝てしまった……っ!)
いつ自分が寝入ってしまったのか、燎琉にはまるで覚えがない。瓔偲を湯浴みに送りだしたのはたしかだが、その彼が房間へ戻ってくるのを見た記憶がなかった。
慌てて瓔偲の姿を探す。彼がまだ戻ってきていないというわけではないことは、灯してあったはずの明かりが始末されて牀榻の中が暗いことと、それから燎琉が披いていた巻物がきちんと巻き取られて枕元に置かれていることから、容易に想像された。
それなのに、瓔偲は燎琉の傍らに横になっているわけでもないのだ。
燎琉は静かに臥牀から降りた。牀榻を出ると、隣室とを区分ける屏風を越えて、居間のほうへ行ってみる。
するとすぐに、漏窓の傍に据えた榻の上に、求める姿を見つけることが出来た。
瓔偲はそこで、燎琉の背子を衾がわりにかぶって、横になって眠っているのだ。静かに目を閉じている彼の頬に、蒼い月光が注いでいた。
(なんでこんなところで寝てるんだ、お前は……)
燎琉は思わず、きゅっと眉根を寄せた。
つかつかと榻のほうへと歩み寄ると、瓔偲の身体を抱え上げる。そのまま臥牀へ運ぼうと踵を返したところで、ふと、瓔偲がむずかるような、かすかな声をあげた。
「ん……」
血の色の透けるような薄い瞼がふるえる。燎琉が瓔偲をのぞき込んだ瞬間、彼はゆっくりと目を開けた。
視線が絡む。はたはた、と、瓔偲は刹那、不思議そうに瞬いた。おそらく状況が呑み込めていないのだろう。
「殿、下……あの」
寝起きゆえの掠れ声に戸惑うように呼びかけられたが、燎琉は聞き流して、牀榻のほうへと歩き出した。
「お前はなぜあんなところで寝ていたんだ?」
なぜか苛立っていて、だからつい、声は低くなっている。燎琉の怒りを感じ取るのか、瓔偲は一拍、はっと押し黙った。
「房間へ戻りましたら、殿下はすでにおやすみでいらっしゃいましたので……」
それから、おずおずとした調子で、そう答える。
「それでも別に、俺の隣で寝ればいいだろ?」
燎琉が畳みかけると、瓔偲は困ったように眉を顰めた。
「わたしのような者が、勝手に、殿下がおやすみの臥牀にご一緒するわけには……」
そんな言葉が耳に入った瞬間、燎琉はふと、立ち止まっている。
(また、だ……またお前は、自分のようなもの、と、自らを軽んずるような口ぶりで……)
「っ、お前は俺の妃じゃないのか? そんな遠慮が必要かっ!?」
気づくと燎琉は、瓔偲に向けて、そう声を荒らげていた。
瓔偲がはっと息を呑む。
その視線は虚空を泳ぎ、ついには、伏せ目がちにうつむいてしまった。
「――……申し訳、ありません」
そのあとで聞こえたのは、彼がちいさく呟いた詫びの言葉だった。その刹那、なんとも言明しがたい、たまらない気持ちが、腹の底からぐぅっと迫り上がってくるのを燎琉は感じた。
(っ、ちがう……謝らせたいわけじゃなくて……っ)
そもそも、これは八つ当たりだ。瓔偲を待っている間に、燎琉はうっかり寝入ってしまった。それを見た瓔偲が燎琉に配慮して、別の場所で横になった。燎琉に言わせてみれば要らぬ心遣いだが、瓔偲にとってはそれはあるいは、して当然の遠慮だったのだろう。
だったら、瓔偲は何も悪くない。原因は、ひとり先に眠ってしまった自分のほうにこそあった。
頭では、わかっている。それでも、燎琉の中には、言明しがたい腹立ちが重たく蜷局を巻いていた。
(どうして、瓔偲は……っ)
燎琉はきつく眉根を寄せる。
瓔偲は自己評価が低い。わたしなど、と――彼は無意識なのだろうが――よく口にしている。燎琉にはそれがもどかしかった。
けれどもそれは、瓔偲に責任のあることではないのだ。彼は癸性であり、ここ嶌国では、彼のような癸性を有する者はずっと不当に軽んじられてきた歴史があった。そのせいだからだ。
癸性であるがために、瓔偲はこれまで様々なものを諦め、己を抑えて生きざるを得なかった。けれども、ただ癸性であるというだけで――己ではどうしようもない、生まれ持った性別のせいで――そんな生き方を強いられなければならないなんて、おかしい。理不尽だ。
燎琉は瓔偲に、もうこれ以上、癸性であることを理由に何かを諦めてほしくはなかった。だからこそ、いつか国を変えるために、皇太子をも目指そうと決意した。
瓔偲はそんな燎琉の決意を理解し、燎琉の傍らにいることを選んでくれたけれども、それでも、彼はやっぱりまだ無意識に、わたしなど、と、わたしのような者、と、度々そう口にするのだ。燎琉の許可がなければ、同じ臥牀に横になることすら躊躇ってしまうのだ。
(俺は瓔偲を大事にしているつもりだ……でも、まだ全然、駄目なんだ。ぜんぜん、足りてない)
自分の無力を思い知らされるようで、ひどく口惜しくて、燎琉は眉を顰めてくちびるを噛んだ。
瓔偲が屈託なく、思うままに振る舞えるようになるまで、あと、どれくらいかかるだろう。たしかに燎琉が瓔偲を妃に迎えてから、まだわずかしか経ってはいない。それでも、期間の短さを言い訳にはしたくなかった。
もっともっと瓔偲を大切にして、愛を伝えて、そうしたら彼だってもう、わたしなんかなどと、言ったりはしなくなるだろうか。そうなることを強く願うとともに、だからこそ、現状はまだそんなふうにできていないらしい己が、燎琉は情けなくてならなかった。
きゅっとくちびるを引き結び、無言のまま、牀榻のほうへと再び歩み出す。瓔偲を褥へと下ろすと、燎琉は臥牀の縁に腰掛けた。
はあ、と、息をつく。額を押さえる。
燎琉は瓔偲には背を向けたままの恰好で、そのままうつむいて黙り込んだ。
背後で瓔偲が身体を起こす気配がしたが、彼もまた何の言葉も発することはない。臥牀に重たい沈黙が落ちた。たまらなかった。
「――……ごめん」
ついにたまりかねて、燎琉はぼそりと口にした。
「お前は悪くないのに、理不尽に八つ当たりした。すまない」
改めて言って、ほう、と、息をつく。ちらりと苦笑めいた笑みをくちびるに刷いて振り向くと、瓔偲は困ったような顔をして、じっと燎琉のほうを見詰めていた。
けれどもこちらと目が合うと、気まずそうにうつむいてしまう。
「いいえ。わたしのほうこそ……申し訳ありませんでした」
「ははっ……お前が謝ることなんて何もないだろ」
燎琉は言ったが、瓔偲は伏せ目がちに二、三度瞬くと、ゆるゆると頭を振った。
ただその後は、何か言いたそうにはするものの、言葉を呑んでしまう。燎琉はしばらくそんな瓔偲を黙って見詰めていたが、やがて、そ、と、吐息した。
「もう、寝ようか」
静かに笑って言って、臥牀に上がる。気まずさもあって、瓔偲に背を向けるようなかたちで横になった。
しばらくすると、背後で動く気配がある。いったん身を起こしていた瓔偲も、燎琉に倣うように、衾に潜ったようだった。
ふわ、と、甘くて清らかな白百合のような香りがする。瓔偲の香りだ。背を向けていてさえ感じるそれに、燎琉は込み上げるものを感じて、ぎゅっと目を閉じた。
抱擁も、口づけも、ずいぶん自然に出来るようになったと思う。瓔偲が燎琉とのそうしたふれあいを厭がるふうも、いまのところは、ない。
ただ、彼が燎琉と肌を合わせることをどう思っているのか、望んでくれているのか、燎琉はつかみかねていた。瓔偲は燎琉に――癸性ではあっても――自分は誰かの妻になることも、母になることも、想定してはこなかった、と、そう言ったことがあるからだ。
もし瓔偲が望んでいないのなら――望まずとも、燎琉が求めれば彼は己を抑えてでも応えてくれるのだろうと思うからこそ――自分の身勝手な慾を押し付けて、望まない行為を強いたくはなかった。たとえ我が身の熱を持て余すことになろうとも、二度と瓔偲に、厭な思い、つらい思いは、させたくない。
そんなふうに思ってぐずぐずしているうちに、なんだか言い出すのも怖くなって、そのままなんとなく、自然に触れ合える機を逸してしまったままになっていた。
それでも、と、燎琉は息をつく。皓義にも指摘された通り、今日の夕刻はなんとなくしっとりとした良い雰囲気になれていた。今宵こそは、ふたり自然と、互いをいつくしみ合う時間を過ごせそうな気がしていた。
けれども、いまとなっては、それすらもこちらのひとりよがりの思い込みだったのかもしれない、と、思ってしまう。
(俺とぬくもりを重ねたいと、やっぱり、瓔偲は思ってはいないのかな……)
そうなのかもしれない。だからこそ、さっきもわざわざ榻を選んで寝ていたのかもしれない。
そんなことを思った燎琉が、ほう、と、自嘲めいた長嘆息を無意識にもらした時だった。
「殿下」
静かだから眠ったのかと思っていた瓔偲が、ふいにこちらの背中に声をかけてきた。夜の静謐の中に吸い込まれて消えてしまうような、かそけき声での呼び掛けだった。
「どうか、したか?」
燎琉はなぜか緊張してしまって、応じる声も掠れてしまう。ゆっくりと振り返ると、こちらに背を向けていた瓔偲も同じように身を返した。
「どうした……?」
向かい合って、燎琉は改めて瓔偲に問うた。
「申し訳、ありませんでした」
瓔偲が口にしたのは、今度もやっぱり詫びの言葉だ。燎琉は、ちら、と、眉を寄せて複雑に笑んだ。
「お前が謝ることじゃないって言ったろ?」
「いいえ、わたしは……」
「なあ、瓔偲」
何か言いかけた瓔偲を遮るように、燎琉は相手を呼んだ。
瓔偲が黙る。それに、そ、と、眉をひそめたままで燎琉は笑みかけた。
「むしろ詫びるなら、寝てしまった俺のほうなんだ。それなのに八つ当たりで怒鳴ったりして……悪かったと、思ってる。――それなのにそんなふうに、お前が謝らないでくれ。頼むよ」
瓔偲に詫びられては、彼に当たってしまった自分が情けなくて、立つ瀬がない。燎琉は切ない表情で懇願したは、それでも瓔偲は首を横にふった。
「違うのです、殿下。わたしが……わたしは、おそらく、あれは半ば、わざとで……すみません」
「瓔偲……?」
珍しく整わない喋り方をする瓔偲を前に、燎琉は戸惑って声をあげた。相手の肩をそっと掴んで顔を覗き込むと、黒曜石の眸が揺れている。
「房間に戻って、殿下がすでにおやすみなのを目にしたとき、わたしは……腹が、立ったのです」
柳眉を寄せて、苦しそうに、瓔偲は言う。燎琉は、普段ずっと冷静で、怒りの感情など持ち合わせていないかのような彼の思わぬ言葉に、はっと息を呑んだ。
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