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五章 第四皇子、白百合のために抗す。

5-7 どうか奇跡を

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「燎琉……!」

 燎琉が瓔偲を抱きかかえたままで深くうつむき、絶望に暮れていたまさにそのとき、ふいに場に飛び込んできた者がいる。皇弟おうてい鵬明ほうめいだった。

 叔父はおそらく、報せに走った皓義こうぎの話を聞くやいなや、ここへと駆けつけてくれたのだろう。めずらしく、わずかに呼吸を乱している様子である。何か予感するものがあったのか、後ろには燎琉付きの太医たいいであるしゅう華柁かだをも伴っていた。

 内殿の入り口でざっと場を見まわした鵬明は、そのまま真っ直ぐに燎琉の傍へ駆け寄ってくる。周太医もまたそれにならった。

「瓔偲さま……!」

 周華柁は、燎琉の腕に抱かれてぐったりしている瓔偲をひと目見るなり危急を感じ取ったようだ。血の気の失せた蒼い顔を覗き込み、力なく垂れた白い腕を取って、脈を診る。

「燎琉、これは……?」

 燎琉の隣で片膝を折った鵬明は、こちらを覗き込むようにしてそう訊ねた。

「これはいったいどういうことだ」

「毒杯を、呑みました」

 叔父の問いに、燎琉は弱々しく答える。

「皇家の毒か……」

 ちら、と、転がった杯を見遣ると、鵬明は厳しく眉を寄せ、重々しい口調でつぶやいた。

 瓔偲を看ている老太医もまた深刻な表情をしている。しばらく脈を聴いていたようだが、そのままひと言も口をきかぬままに、瓔偲の口許に指を当てて呼吸いきを確かめた。

「どうだ。周じぃ」

 燎琉は祈る思いで周太医に問うた。

「どうなんだ……!」

 焦れるような思いで、燎琉は思わず声を荒らげていた。けれども周華柁はまだしばらく黙ったまま気を研ぎ澄ませて瓔偲の様子をうかがっている。

 やがて顔を上げると、じっと燎琉を見詰めてから、ちいさく首を横に振った。

 燎琉は目を瞠り、ひゅ、と、息を呑む。

「そん、な……瓔偲」

 呆然と呟いた。

「瓔偲……瓔偲」

 己の腕に力なく身を預けている相手を見下ろす。

 繰り返し、名を呼ぶ。

 身体を揺すぶってもみたが、それでも、相手が動く気配はなかった。

「瓔偲……!」

 燎琉は再び彼を呼ぶ。答えろ、答えてくれ、と、泣きそうに眉根を寄せた。

 傍らの周華柁は痛ましそうな顔をしている。鵬明もまた、忸怩たる表情をみせ、くそっ、と、そう悪態を吐いた。

「瓔偲……なぜ、お前は……」

 いったいどうして、と、おもう。なぜ、たったひとつの反論すらもせぬままに死など選ぶんだ、と、相手の選択を責めるようなきもちで、燎琉はいまやぴくりとも動かない瓔偲の身体を、きつく、きつく、抱き締めた。

「瓔偲……!」

 堪らないきもちで彼の首筋に顔を埋めたときだ。燎琉ははっと息を呑んだ。

 ふわり、と、鼻腔をやさしい香りが掠めた――……白百合の香だ。

 運命のあの日にかいで以来、ずっとずっと慕わしかった、瓔偲の芳香かおりだ。

「……っ、じぃ!」

 燎琉は弾かれたように顔を上げると、叫ぶように周華柁を呼んだ。

「百合の香が……瓔偲の香が、まだ、絶えていない……瓔偲は生きている、まだ……!」

 生きているはずだ、と、燎琉はすがりつくように周太医の顔を見た。

「たのむ、もう一度、瓔偲を、みてくれ」

 途切れ途切れに、懇願するように、燎琉は必死に言い募った。

 老太医はうなずき、再び瓔偲の手首を取る。目を閉じて、じっと耳を澄ますようにした。

 やがて息を呑み、はっと燎琉の顔を見る。

「これは……ごくごく弱いものではございますが、たしかに、まだ脈が。殿下、瓔偲さまは亡くなってはおられませんぞ」

 聴いた途端、燎琉は、ああ、と、長い息をついた。全身から力が抜ける。よかった、と、瓔偲の身体に懐くと、また百合がやさしく香って、それだけで嗚咽が漏れた。

「よし、瓔偲をお前の殿舎に運ぶぞ! 一刻も早く処置を」

 立ち上がった鵬明が言う。そうだ、呆けている場合ではなかった、と、燎琉はうなずいて、瓔偲を横抱きにかかえ上げた。

「燎琉……!」

 そのとき、なお咎め立てるようにこちらの名を呼んだのは皇后である。

「その者にはわたしが死を賜ったのだぞ。それを、が命に背いて、助けようというつもりか」

 父皇帝もまた責める調子で低く言った。

 けれども燎琉はふたりを振り向かぬまま、きっぱりとした冷静な声で応える。

「父上。それから、母上にも。申し上げておきます。――瓔偲がどうなろうが、俺の……私のきさきは、生涯、これだけだ。私のために躊躇いなく命をなげうつ者をいて、他に娶る気など、私にはありません。決して……」

 言い棄てるように宣言して、燎琉は内殿を後にした。

「兄上……陛下」

 その燎琉の背後で、今度、皇帝を呼ばわったのは鵬明だった。

「私は燎琉を幼い頃から存じておりますが、これが自儘じままを言うのを……こんなふうに我を通そうとするのを、これまで、見たことがない。時おり可哀想になるくらい、燎琉は聞き分けのよい子だった。――そうは、思われませんか、陛下?」

 鵬明は兄である皇帝に静かに問う。

 皇帝も、隣に立つ皇后も、刹那、返す言葉に詰まって黙り込んだ。

「授けられたものは受け、自らでは欲しがらず……まるで、それが皇家に生まれたものの宿命さだめであり、それを呑んで生きるのが皇族の責任だとでもいうように。燎琉は、我が甥御どのは、幼いながらも自然と、皇族のなんたるか、皇族とはどうあるべきか、それを理解していたからでしょう。いっそ痛ましいほどに……だが」

 そこで鵬明は一端言葉を切り、改めて皇帝を見据える。

「その燎琉が、いまはじめて、我が意志を通そうとしている。立場を越えて父帝に逆らってまで、守ろうとしているものがあるんだ。――尊重してやろうではありませんか、兄上」

「しかし」

「陛下……兄上。私はこれまでずっと、あなたの忠実な弟皇子であり、臣下であった。――ですが、どうぞお忘れになられぬように。我が母は後宮の半ばを押さえる皇太后の地位にあり、そして、我が外伯父おじはあなたの朝廷を掌握する門下もんか侍中じちゅう……後ろだてとしては、十分だ。もしも私に野心があれば、陛下、あなたのその至尊の位も、決して安泰ではありえない」

「っ、無礼な! 皇弟殿下、そなた、天子を脅そうてか?」

 皇后がいきり立つが、鵬明は、ふん、と、軽く鼻を鳴らしてこれをあしらう。

「可愛い甥のためだ。――ああ、そうそう、そう家とばん家の件については、すでに外伯父おじの耳に入れてある。陛下には、どうぞ、朝の舵取りについて、門下侍中とよくよくご相談いただいて、お決めくださいますように」

 では、と、最後に人を喰ったような笑みを浮かべると、呆然とする皇帝と皇后を後に残して得、鵬明もまたきびすを返した。
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