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三章 第四皇子、白百合を知りゆく。
3-2 暴れ河・威水
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「悪い。お前にとって俺は、もしかしたら恐怖の対象なのかもしれないのに……」
昨日、鵬明のもとで顔を合わせて以来、瓔偲はほとんど感情の起伏を見せていない。ずっと冷静な様子だったから、いまのいままで、燎琉は、彼が自分に対して嫌悪感や恐怖感を抱いているかもしれない可能性を、ほとんど考えもしなかった。
けれども燎琉は、本来なら、もっと瓔偲の心持ちを慮ってやるべきだったのではないのか。体調の思わしくなさそうな相手を目前に、自分がしたことを――発情状態に陥ったためとはいえ、彼を無理に組み伏せてしまったのだと――改めて意識し、燎琉は申し訳なさでいっぱいになった。
視線を落とした燎琉に、瓔偲は一瞬、驚いたように目を瞠った。
けれどもすぐに、こちらの言の意味を呑み込んだらしく、ふるふる、と、ちいさく頭をふる。
「あ……ち、ちがいます。あの……眠れなかったのは、たしかに、そのとおりでございますが、それは殿下のお傍がどうこうというのではありませんから。ほんとうです。ほんとうに、ただ、すこし、気が昂ってしまっただけで……すみません」
余計な心遣いをさせてしまったようだ、と、瓔偲のほうも申し訳なさそうに目を伏せた。
長い睫の翳が、白い頬に落ちて頼りなげに揺れる。
燎琉はたまらない気持ちになった。
「っ、そんなの、謝らなくていい。俺のせいでないなら……ほっとした」
燎琉は心底から安堵の息をついた。
瓔偲はこれまで官吏だったのだ。皇族の住まう楽楼宮の中に足を踏み入れたのだって、あるいは、これまでになかったことなのかもしれなかった。
彼を取り囲む環境は激変した。少々寝つきが悪くなることくらいなにも不思議なことではなかったし、瓔偲が詫びるようなことではないはずだ。
「そんなこと、あやまらなくていいから」
あやまるな、と、燎琉は顔を上げると、今度はちゃんと瓔偲を見詰めて、もう一度言った。
「はい」
瓔偲もまた視線を持ち上げ、そう、ちいさく頷いた。
それから彼は、すっと院子のほうへと視線を投げた。
「曙光が射す手前でしょうか、ふと、桂花のやさしい香をかいだ気がして……それで院子に。空気がきもちよくて、しばらくぼうっとしてしまっていました」
瓔偲は燎琉の腕の中で、気恥ずかしげにそんなことを言った。
「ですが、殿下もお早くていらっしゃいますね。これから工部にご出仕でございますか?」
黒曜石の眸に見詰められながら問われて、淫らな夢を見たために身に籠ってしまった熱を冷まそうとしてたのだとも言えず、燎琉は間近の瓔偲の視線から逃げるように身体を離す。
「まあな」
また短くそれだけを答えた。
「決壊した堤の修繕のお仕事を任されておいでとか」
こちらの戸惑いには気付かなかったのか、瓔偲はそのまま話を続ける。
「うん……でも、よく知ってるな」
「鵬明殿下から伺いました。あと、調えていただいた房間に下がりました後に、皓義殿からもお聞かせいただく機会が」
「あいつめ、べらべらと」
幼馴染の従者を詰る言葉を憎々しげにつぶいたら、瓔偲は、くすくす、と、昨日と同じくちいさく声を立てて笑った。
「なんで笑う?」
「すみません。その……ここは、とても、あたたかいですね」
はたはた、と、ゆっくりと瞬きながら瓔偲は言う。どこか眩しいものでも見るように目を眇めた相手の言わんとするところが掴めなくて、いったいどういうことだ、と、燎琉は眉根を寄せた。
「いえ、その……殿下のお傍の皆さまは、周先生も、わたしのようなものに、隔たりなく接してくださいます。とてもあたたかいお心遣いまでくださって……もちろん、殿下も」
「別に、何も特別なことはしてないと思うが」
「そう……ですね」
燎琉の言葉に一応は頷いた瓔偲だったが、その声にはどこか含みがあるように思われた。
燎琉が追及しようかどうか逡巡した刹那、けれども、瓔偲は、ふ、と、微笑を浮かべる。微妙な感情の揺らぎを、相手がその穏やかな笑みの裏側に努めて隠したのを見てとって、燎琉は出鼻を挫かれるかたちで、言葉を詰まらせた。
「堤の普請は、順調に進みそうですか」
そうこうする間に、うまく話題を変えられてしまう。
「南部の、威水……あの河は、雨期、十数年に一度の頻度で氾濫を起こしておりますね。まさに手に負えぬ暴れ河……付近の邑々の民は、気紛れな河が今度はいつ牙を剥くかと、雨期のたびに、いつも気が気ではない暮らしを余儀なくされております」
昨日、鵬明のもとで見たときと同じように、瓔偲はいかにも官吏らしい口調で、滔々と言葉を紡いだ。
燎琉は、相手の見せるその凛とした姿に、目の前のこの相手がつい先日まで戸部に勤める国官だったのだ、と、改めてそれを思わされた。
蔭位の制――父祖の官位に応じて子息にも官位が与えられる――によって職掌を得たのとは、わけがちがう。家門の力を以て最初から高位が約束されているのとは異なって、瓔偲は、国で最難関といわれる科挙に及第した、誇り高き進士なのだ。
下手なことはいえない、と、ふいに、変な緊張が燎琉を襲った。
こくり、と、無意識に息を呑んでいる。
「修繕には前例もあるが……その通りにするだけでは、たぶん、駄目だと思う。再び堤が決壊するのは、おそらく防げない」
背筋の伸びる想いとともに、燎琉は淫夢の熱からすっかり醒めた。いまや明瞭な思考の戻った口をついて出たのは、こちらもまた、己が職掌に関する話題である。
瓔偲が気をひかれたように顔をあげて燎琉を見る。燎琉は目を逸らすことなく、真正面から瓔偲の視線を受けとめた。
「前例の通りに修繕することは簡単だ。だが、たとえそうしたとしても、また数年から十数年したら、越水や決壊は起こる。これまでも、威水はそれを繰り返してきたんだからな」
燎琉は真摯な眼差しになって、言葉を継いだ。
「工部に保管された地理図を見たんだが、威水の流れは、決壊箇所のあたりで集まって、急に勢いを増すようだった。いまの堤の構造では耐えられない。だから単にそこを直すだけではなくて、もっと何か、根本的に違う工夫をしないといけないんだが……かといって、河の流れ自体を完全につけ変えるとなれば、とんでもない大普請になる。これもまた、現実的ではない。だから、古今の堤の工夫で何か巧いものはないものかと思って……」
そこまで話を進めたとき、燎琉はふと思い立って、瓔偲の手を引いていた。そのまま踵を返すと、こっちへ、と、相手を正堂へと導いている。
燎琉が瓔偲を連れていったのは、昨夜彼と話をした正房の隣室、牀榻が据えられた臥室とは正房をはさんで反対側に位置する、普段は書房として使っている一間だった。
瓔偲は燎琉の唐突な行動に驚いて目を瞠っている。燎琉はそんな彼をおいて書卓へ駆け寄ると、そこにある一冊の冊子を持ちあげた。
瓔偲に歩みより、彼の前でその冊子を披く。
「見てくれ。これは、堤工事の案件を任されたあとすぐに、工部の書架で見つけた冊子なんだが」
勢い込んで瓔偲の前に示してみせるのは、ここ最近、燎琉が寝食の時を惜しんでまで読み込んでいる冊子だった。
「これは……」
燎琉が指し示す冊子に、瓔偲は驚いたように目を瞠って、それから燎琉を見上げた。
ふわ、と、ひかえめに、清々しく、百合が香る。その香りに誘われるように、ふと、燎琉はこの冊子を見出した日のことを思い出した。
昨日、鵬明のもとで顔を合わせて以来、瓔偲はほとんど感情の起伏を見せていない。ずっと冷静な様子だったから、いまのいままで、燎琉は、彼が自分に対して嫌悪感や恐怖感を抱いているかもしれない可能性を、ほとんど考えもしなかった。
けれども燎琉は、本来なら、もっと瓔偲の心持ちを慮ってやるべきだったのではないのか。体調の思わしくなさそうな相手を目前に、自分がしたことを――発情状態に陥ったためとはいえ、彼を無理に組み伏せてしまったのだと――改めて意識し、燎琉は申し訳なさでいっぱいになった。
視線を落とした燎琉に、瓔偲は一瞬、驚いたように目を瞠った。
けれどもすぐに、こちらの言の意味を呑み込んだらしく、ふるふる、と、ちいさく頭をふる。
「あ……ち、ちがいます。あの……眠れなかったのは、たしかに、そのとおりでございますが、それは殿下のお傍がどうこうというのではありませんから。ほんとうです。ほんとうに、ただ、すこし、気が昂ってしまっただけで……すみません」
余計な心遣いをさせてしまったようだ、と、瓔偲のほうも申し訳なさそうに目を伏せた。
長い睫の翳が、白い頬に落ちて頼りなげに揺れる。
燎琉はたまらない気持ちになった。
「っ、そんなの、謝らなくていい。俺のせいでないなら……ほっとした」
燎琉は心底から安堵の息をついた。
瓔偲はこれまで官吏だったのだ。皇族の住まう楽楼宮の中に足を踏み入れたのだって、あるいは、これまでになかったことなのかもしれなかった。
彼を取り囲む環境は激変した。少々寝つきが悪くなることくらいなにも不思議なことではなかったし、瓔偲が詫びるようなことではないはずだ。
「そんなこと、あやまらなくていいから」
あやまるな、と、燎琉は顔を上げると、今度はちゃんと瓔偲を見詰めて、もう一度言った。
「はい」
瓔偲もまた視線を持ち上げ、そう、ちいさく頷いた。
それから彼は、すっと院子のほうへと視線を投げた。
「曙光が射す手前でしょうか、ふと、桂花のやさしい香をかいだ気がして……それで院子に。空気がきもちよくて、しばらくぼうっとしてしまっていました」
瓔偲は燎琉の腕の中で、気恥ずかしげにそんなことを言った。
「ですが、殿下もお早くていらっしゃいますね。これから工部にご出仕でございますか?」
黒曜石の眸に見詰められながら問われて、淫らな夢を見たために身に籠ってしまった熱を冷まそうとしてたのだとも言えず、燎琉は間近の瓔偲の視線から逃げるように身体を離す。
「まあな」
また短くそれだけを答えた。
「決壊した堤の修繕のお仕事を任されておいでとか」
こちらの戸惑いには気付かなかったのか、瓔偲はそのまま話を続ける。
「うん……でも、よく知ってるな」
「鵬明殿下から伺いました。あと、調えていただいた房間に下がりました後に、皓義殿からもお聞かせいただく機会が」
「あいつめ、べらべらと」
幼馴染の従者を詰る言葉を憎々しげにつぶいたら、瓔偲は、くすくす、と、昨日と同じくちいさく声を立てて笑った。
「なんで笑う?」
「すみません。その……ここは、とても、あたたかいですね」
はたはた、と、ゆっくりと瞬きながら瓔偲は言う。どこか眩しいものでも見るように目を眇めた相手の言わんとするところが掴めなくて、いったいどういうことだ、と、燎琉は眉根を寄せた。
「いえ、その……殿下のお傍の皆さまは、周先生も、わたしのようなものに、隔たりなく接してくださいます。とてもあたたかいお心遣いまでくださって……もちろん、殿下も」
「別に、何も特別なことはしてないと思うが」
「そう……ですね」
燎琉の言葉に一応は頷いた瓔偲だったが、その声にはどこか含みがあるように思われた。
燎琉が追及しようかどうか逡巡した刹那、けれども、瓔偲は、ふ、と、微笑を浮かべる。微妙な感情の揺らぎを、相手がその穏やかな笑みの裏側に努めて隠したのを見てとって、燎琉は出鼻を挫かれるかたちで、言葉を詰まらせた。
「堤の普請は、順調に進みそうですか」
そうこうする間に、うまく話題を変えられてしまう。
「南部の、威水……あの河は、雨期、十数年に一度の頻度で氾濫を起こしておりますね。まさに手に負えぬ暴れ河……付近の邑々の民は、気紛れな河が今度はいつ牙を剥くかと、雨期のたびに、いつも気が気ではない暮らしを余儀なくされております」
昨日、鵬明のもとで見たときと同じように、瓔偲はいかにも官吏らしい口調で、滔々と言葉を紡いだ。
燎琉は、相手の見せるその凛とした姿に、目の前のこの相手がつい先日まで戸部に勤める国官だったのだ、と、改めてそれを思わされた。
蔭位の制――父祖の官位に応じて子息にも官位が与えられる――によって職掌を得たのとは、わけがちがう。家門の力を以て最初から高位が約束されているのとは異なって、瓔偲は、国で最難関といわれる科挙に及第した、誇り高き進士なのだ。
下手なことはいえない、と、ふいに、変な緊張が燎琉を襲った。
こくり、と、無意識に息を呑んでいる。
「修繕には前例もあるが……その通りにするだけでは、たぶん、駄目だと思う。再び堤が決壊するのは、おそらく防げない」
背筋の伸びる想いとともに、燎琉は淫夢の熱からすっかり醒めた。いまや明瞭な思考の戻った口をついて出たのは、こちらもまた、己が職掌に関する話題である。
瓔偲が気をひかれたように顔をあげて燎琉を見る。燎琉は目を逸らすことなく、真正面から瓔偲の視線を受けとめた。
「前例の通りに修繕することは簡単だ。だが、たとえそうしたとしても、また数年から十数年したら、越水や決壊は起こる。これまでも、威水はそれを繰り返してきたんだからな」
燎琉は真摯な眼差しになって、言葉を継いだ。
「工部に保管された地理図を見たんだが、威水の流れは、決壊箇所のあたりで集まって、急に勢いを増すようだった。いまの堤の構造では耐えられない。だから単にそこを直すだけではなくて、もっと何か、根本的に違う工夫をしないといけないんだが……かといって、河の流れ自体を完全につけ変えるとなれば、とんでもない大普請になる。これもまた、現実的ではない。だから、古今の堤の工夫で何か巧いものはないものかと思って……」
そこまで話を進めたとき、燎琉はふと思い立って、瓔偲の手を引いていた。そのまま踵を返すと、こっちへ、と、相手を正堂へと導いている。
燎琉が瓔偲を連れていったのは、昨夜彼と話をした正房の隣室、牀榻が据えられた臥室とは正房をはさんで反対側に位置する、普段は書房として使っている一間だった。
瓔偲は燎琉の唐突な行動に驚いて目を瞠っている。燎琉はそんな彼をおいて書卓へ駆け寄ると、そこにある一冊の冊子を持ちあげた。
瓔偲に歩みより、彼の前でその冊子を披く。
「見てくれ。これは、堤工事の案件を任されたあとすぐに、工部の書架で見つけた冊子なんだが」
勢い込んで瓔偲の前に示してみせるのは、ここ最近、燎琉が寝食の時を惜しんでまで読み込んでいる冊子だった。
「これは……」
燎琉が指し示す冊子に、瓔偲は驚いたように目を瞠って、それから燎琉を見上げた。
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