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二章 第四皇子、白百合に陰謀を聴く。
2-6 婚約解消への一縷の望み
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「一縷の望み?」
燎琉は瓔偲の言葉の意図をはかりかね、鸚鵡返しにそう訊ねた。瓔偲は、ええ、と、ひとつ頷いてみせる。
「もしも七日前のことが事故ではなく、誰かの仕組んだ陰謀であったことが明らかになれば……あるいは、陛下にわたしとの婚姻の命を取り下げていただくよう、お願いすることができるかもしれません。もしもそうなら、わたしとつがったことについて、殿下の負うべき責任はございませんでしょう?」
瓔偲はやわらかく微笑して言った。
「もしも悪意を以て誰かに陥れられただけだとわかれば……わたしとの婚儀を、なかったことにしていただけるかもしれない。そうなれば殿下は、殿下に相応しい御方……宋家のお嬢さまと、改めてご婚約がかなうかもしれません。――婚儀まであとひと月ではございますが、まだ、かろうじて希望はある。それまでに真相が明らかになれば……」
そのためにも出来る限りのことを、と、そう口にする瓔偲に、燎琉は先程とは違った意味で堪らない気分を味わわされていた。
「でも、お前は……?」
もしも燎琉と瓔偲との契りが誰かに仕組まれてのことだったとしたら――それが瓔偲への嫌がらせにせよ、あるいは燎琉を皇太子位から遠ざけるための謀略だったとしても――瓔偲とて、まぎれもなく、被害者なのだ。
誰かによって理不尽に将来を歪められてしまったのかもしれないのに、瓔偲自身は、そのことに腹立ちを覚えないのだろうか。燎琉の今後のことだけではなく、己自身のことをも、もっと考えないのだろうか。
「お前は……どうするんだ? だって、俺とのつがいの関係は、もう、生涯解消できないだろう?」
どちらかが死ぬまで、それは一生涯に亘って続く絆である。甲性の燎琉はともかく、癸性である瓔偲は、もはや、燎琉以外の他の誰かに縁付くことが出来ないのだ。
「それでも……いいのか」
燎琉が眉根を寄せると、瓔偲は苦笑した。
「それはべつにかまいませんが……ただ」
「なんだ?」
「いえ、その……もしも我儘をひとつ聞いていただけるのであれば、殿下との婚姻がなくなった際には、出来れば官吏に戻していただけると有り難いのですが。国官でいるのが難しいなら、地方官でも、かまいません」
「それは、むろん……そうなったときには、父帝には掛け合うが」
それでいいのか、と、燎琉は猶も問いを重ねたが、瓔偲はひとつちいさく頷いた。
「それだけで、結構でございます。実は恥ずかしながら、故あって、父から勘当された身でございまして……生活もありますので、職を失うわけには参りません。それに……」
「それに?」
「これでも、誇りを持って、国のために尽くしてきたつもりでございます。官たることを、わたしは自らの存在意義と思って参りました。ですから、ぜひとも、そのときには官吏に戻してください」
それだけで満足だ、と、彼はしずかにわらう。燎琉は相手の顔に浮かぶ悟ったような――あるいは、もう疾うになにかを諦めきってしまった者のような――透明な微笑に、なぜか、ふと胸ふたがる想いがして、言葉を詰まらせた。
ちょうどそのときだった。
「この周じぃをお呼びですかな、殿下」
扉の外から、のんびりとした声が聴こえてきた。
燎琉ははっとすると、立ち上がって扉へ駆け寄る。
「じぃ、よく来てくれた!」
扉を引き開いて、その向こうに立つ周太医を正房へと迎え入れた。
周華柁は、いかにも医師らしく、白い長袍姿をしている。燎琉を目の前に、すっと目を細めて会釈すると、房間の奥、卓子のところにいる瓔偲のほうへと視線を向ける。
「あちらが、殿下のお妃さまになられる御方ですかな?」
婚儀のことはまだ内々の話でしかないはずだが、おそらくは、皓義がある程度の経緯に言及したものとみえる。そういえば、七日前、瓔偲の発情に誘引される形で発情を起こした燎琉を診たのもこの周太医だったので、相手はそもそもまるで事情を知らないというのでもなかった。
「郭瓔偲だ。鵬明叔父の部下だった」
「なるほど、鵬明皇弟殿下の。それでは、優秀な御仁でいらっしゃるのですねぇ」
ほっほっほ、と、周太医はのんびりと笑うと、房間のうちへ足を踏み入れた。抱えてきた薬筺を、よっこらせ、と、卓子の上に置く。
「周華柁と申す医師にございます。お生まれになって以来、ずうっと、燎琉殿下のお身体を拝診してきました者でございますが、これからは、殿下のお妃さまとなられる瓔偲さまも、この儂が診させていただくことになりましょう。どうぞお見知りおきを」
周太医は瓔偲に向かって拱手した。
瓔偲は立ち上がると、こちらもまた老医師に拱手と目礼を返している。
「郭瓔偲です。わたしが殿下にお願いして、周先生をお呼びいただきました。急にお呼び立ていたしましたこと、まずはお詫びを」
「いえいえ、御遠慮なくなんなりと」
周太医は人の好さそうな笑みで応じた。そうすると眦に深い皺が刻まれる。そんな穏やかなままの表情を、老医師は、今度は燎琉のほうへと向けた。
「それにしましても、殿下。赤子の殿下をこの手で取り上げ、産湯を使わせ奉りましたのが、まるで昨日のことのようでございますが、その殿下がもはやお妃をお迎えになるとは。じぃは感激しております。なに、いつか殿下のお子様を我が手で取り上げるのが、この老いぼれめの密かな夢でございましてなぁ。ついにその日も近かろうかと思えば、感に堪えませんなあ」
よよよ、と、いかにも嘘くさい泣き真似までしてみせる。燎琉は――なにしろ赤子の折からこちらのことを知っている相手の言だけに――少々げんなりしながらも、とりあえず周太医に椅子を勧めた。
「まあそれはいいから、まずは俺たちの話を聞いてくれ、じぃ」
「そうでした、そうでした。何かございましたかな、殿下」
「うん。これなんだが」
燎琉はそう言って、先程瓔偲から手渡された薬包を周太医の前に差し出した。
老太医は怪訝そうにそれを受け取り、目の位置まで持ち上げると、しばらく、矯めつ眇めつ眺めていた。が、やがて、ふむ、と、唸るようにひとつ頷く。
「吏部の医局で処方された、発情抑制の薬ですかな」
そう言う。
「わかりますか」
驚いたように口にしたのは瓔偲だった。
「包み紙が医局のものですからな。儂もかつて、吏部の医局におりましたし。しかし、それにしても、これが何かございましたか?」
周華佗は瓔偲のほうへと視線を向けた。
瓔偲はうかがうように燎琉に目配せしてくる。話してもよいか、と、その確認だろうと思われた。
「周じぃは、間違いなく信のおける者だ」
燎琉は瓔偲にむけて、ひとつ力強く頷いてやる。
それを受けた瓔偲が、改めて周華柁の顔を真っ直ぐに見詰めた。
「周先生に、調べていただきたいことがございます」
「ふむ」
「この薬……おっしゃるとおり、癸性の官吏について定めた規則に従い、わたしが医局から処方されて服用していたものでございます。飲み忘れなどはなかった。それにも関わらず、わたしはあの日、発情を起こしました。そのせいで、御身限りなくお大切な第四皇子殿下と、大変な事にまでなってしまって……殿下のお側の方にも、何とお詫びしてよいか」
最後のほうの瓔偲の声は、縮こまるような小さなそれだった。
「なるほど。妃殿下には、薬に何か混ぜ物をされたのでは、と、それをお疑いですかな?」
周華佗の聡い問いに、瓔偲は頷く。
「あるいは、薬自体をすり替えられたのかもしれませんが。とにかく、これにおかしな点がないか、まずはそれをはっきりさせたいのです」
「ふむ、ふむ……これは、開けてみても構いませんかな?」
周太医に訊ねられ、はい、と、瓔偲は短く応じた。
老医師は慎重な手つきで薬包を開くと、中の粉末をまじまじと見たり、鼻を近づけて匂いを確かめたりしている。しばらくすると、人差し指の先に粉末を取って、ぺろりとひと舐めしてみせた。
「うぅむ、見た目や匂い、口に含んだ時の感じは、一般的な発情抑制のための薬となんら変わりありませんなざ。――瓔偲さま、こちらは持ち帰ってもよろしゅうございましょうや? 詳しく調べてみますほどに、一日、二日、いただけますかな」
周太医は言った。
「じぃ、たのむ」
燎琉は我が太医を真っ直ぐに見る。
「お手間をおかけいたしますが、よろしくお願いいたします」
瓔偲は深々と頭を下げた。
「はいはい、周じぃにお任せあれ。殿下とそのお妃さまの御為でしたら、なんなりといたしましょうほどに」
老太医は朗らかに笑んで請け負ってくれ、燎琉も瓔偲も、ほっと安堵の息を吐いた。
「あの……周先生」
そこでおずおずと、どこか躊躇うふうに、瓔偲が周太医に声をかけた。
燎琉は瓔偲の言葉の意図をはかりかね、鸚鵡返しにそう訊ねた。瓔偲は、ええ、と、ひとつ頷いてみせる。
「もしも七日前のことが事故ではなく、誰かの仕組んだ陰謀であったことが明らかになれば……あるいは、陛下にわたしとの婚姻の命を取り下げていただくよう、お願いすることができるかもしれません。もしもそうなら、わたしとつがったことについて、殿下の負うべき責任はございませんでしょう?」
瓔偲はやわらかく微笑して言った。
「もしも悪意を以て誰かに陥れられただけだとわかれば……わたしとの婚儀を、なかったことにしていただけるかもしれない。そうなれば殿下は、殿下に相応しい御方……宋家のお嬢さまと、改めてご婚約がかなうかもしれません。――婚儀まであとひと月ではございますが、まだ、かろうじて希望はある。それまでに真相が明らかになれば……」
そのためにも出来る限りのことを、と、そう口にする瓔偲に、燎琉は先程とは違った意味で堪らない気分を味わわされていた。
「でも、お前は……?」
もしも燎琉と瓔偲との契りが誰かに仕組まれてのことだったとしたら――それが瓔偲への嫌がらせにせよ、あるいは燎琉を皇太子位から遠ざけるための謀略だったとしても――瓔偲とて、まぎれもなく、被害者なのだ。
誰かによって理不尽に将来を歪められてしまったのかもしれないのに、瓔偲自身は、そのことに腹立ちを覚えないのだろうか。燎琉の今後のことだけではなく、己自身のことをも、もっと考えないのだろうか。
「お前は……どうするんだ? だって、俺とのつがいの関係は、もう、生涯解消できないだろう?」
どちらかが死ぬまで、それは一生涯に亘って続く絆である。甲性の燎琉はともかく、癸性である瓔偲は、もはや、燎琉以外の他の誰かに縁付くことが出来ないのだ。
「それでも……いいのか」
燎琉が眉根を寄せると、瓔偲は苦笑した。
「それはべつにかまいませんが……ただ」
「なんだ?」
「いえ、その……もしも我儘をひとつ聞いていただけるのであれば、殿下との婚姻がなくなった際には、出来れば官吏に戻していただけると有り難いのですが。国官でいるのが難しいなら、地方官でも、かまいません」
「それは、むろん……そうなったときには、父帝には掛け合うが」
それでいいのか、と、燎琉は猶も問いを重ねたが、瓔偲はひとつちいさく頷いた。
「それだけで、結構でございます。実は恥ずかしながら、故あって、父から勘当された身でございまして……生活もありますので、職を失うわけには参りません。それに……」
「それに?」
「これでも、誇りを持って、国のために尽くしてきたつもりでございます。官たることを、わたしは自らの存在意義と思って参りました。ですから、ぜひとも、そのときには官吏に戻してください」
それだけで満足だ、と、彼はしずかにわらう。燎琉は相手の顔に浮かぶ悟ったような――あるいは、もう疾うになにかを諦めきってしまった者のような――透明な微笑に、なぜか、ふと胸ふたがる想いがして、言葉を詰まらせた。
ちょうどそのときだった。
「この周じぃをお呼びですかな、殿下」
扉の外から、のんびりとした声が聴こえてきた。
燎琉ははっとすると、立ち上がって扉へ駆け寄る。
「じぃ、よく来てくれた!」
扉を引き開いて、その向こうに立つ周太医を正房へと迎え入れた。
周華柁は、いかにも医師らしく、白い長袍姿をしている。燎琉を目の前に、すっと目を細めて会釈すると、房間の奥、卓子のところにいる瓔偲のほうへと視線を向ける。
「あちらが、殿下のお妃さまになられる御方ですかな?」
婚儀のことはまだ内々の話でしかないはずだが、おそらくは、皓義がある程度の経緯に言及したものとみえる。そういえば、七日前、瓔偲の発情に誘引される形で発情を起こした燎琉を診たのもこの周太医だったので、相手はそもそもまるで事情を知らないというのでもなかった。
「郭瓔偲だ。鵬明叔父の部下だった」
「なるほど、鵬明皇弟殿下の。それでは、優秀な御仁でいらっしゃるのですねぇ」
ほっほっほ、と、周太医はのんびりと笑うと、房間のうちへ足を踏み入れた。抱えてきた薬筺を、よっこらせ、と、卓子の上に置く。
「周華柁と申す医師にございます。お生まれになって以来、ずうっと、燎琉殿下のお身体を拝診してきました者でございますが、これからは、殿下のお妃さまとなられる瓔偲さまも、この儂が診させていただくことになりましょう。どうぞお見知りおきを」
周太医は瓔偲に向かって拱手した。
瓔偲は立ち上がると、こちらもまた老医師に拱手と目礼を返している。
「郭瓔偲です。わたしが殿下にお願いして、周先生をお呼びいただきました。急にお呼び立ていたしましたこと、まずはお詫びを」
「いえいえ、御遠慮なくなんなりと」
周太医は人の好さそうな笑みで応じた。そうすると眦に深い皺が刻まれる。そんな穏やかなままの表情を、老医師は、今度は燎琉のほうへと向けた。
「それにしましても、殿下。赤子の殿下をこの手で取り上げ、産湯を使わせ奉りましたのが、まるで昨日のことのようでございますが、その殿下がもはやお妃をお迎えになるとは。じぃは感激しております。なに、いつか殿下のお子様を我が手で取り上げるのが、この老いぼれめの密かな夢でございましてなぁ。ついにその日も近かろうかと思えば、感に堪えませんなあ」
よよよ、と、いかにも嘘くさい泣き真似までしてみせる。燎琉は――なにしろ赤子の折からこちらのことを知っている相手の言だけに――少々げんなりしながらも、とりあえず周太医に椅子を勧めた。
「まあそれはいいから、まずは俺たちの話を聞いてくれ、じぃ」
「そうでした、そうでした。何かございましたかな、殿下」
「うん。これなんだが」
燎琉はそう言って、先程瓔偲から手渡された薬包を周太医の前に差し出した。
老太医は怪訝そうにそれを受け取り、目の位置まで持ち上げると、しばらく、矯めつ眇めつ眺めていた。が、やがて、ふむ、と、唸るようにひとつ頷く。
「吏部の医局で処方された、発情抑制の薬ですかな」
そう言う。
「わかりますか」
驚いたように口にしたのは瓔偲だった。
「包み紙が医局のものですからな。儂もかつて、吏部の医局におりましたし。しかし、それにしても、これが何かございましたか?」
周華佗は瓔偲のほうへと視線を向けた。
瓔偲はうかがうように燎琉に目配せしてくる。話してもよいか、と、その確認だろうと思われた。
「周じぃは、間違いなく信のおける者だ」
燎琉は瓔偲にむけて、ひとつ力強く頷いてやる。
それを受けた瓔偲が、改めて周華柁の顔を真っ直ぐに見詰めた。
「周先生に、調べていただきたいことがございます」
「ふむ」
「この薬……おっしゃるとおり、癸性の官吏について定めた規則に従い、わたしが医局から処方されて服用していたものでございます。飲み忘れなどはなかった。それにも関わらず、わたしはあの日、発情を起こしました。そのせいで、御身限りなくお大切な第四皇子殿下と、大変な事にまでなってしまって……殿下のお側の方にも、何とお詫びしてよいか」
最後のほうの瓔偲の声は、縮こまるような小さなそれだった。
「なるほど。妃殿下には、薬に何か混ぜ物をされたのでは、と、それをお疑いですかな?」
周華佗の聡い問いに、瓔偲は頷く。
「あるいは、薬自体をすり替えられたのかもしれませんが。とにかく、これにおかしな点がないか、まずはそれをはっきりさせたいのです」
「ふむ、ふむ……これは、開けてみても構いませんかな?」
周太医に訊ねられ、はい、と、瓔偲は短く応じた。
老医師は慎重な手つきで薬包を開くと、中の粉末をまじまじと見たり、鼻を近づけて匂いを確かめたりしている。しばらくすると、人差し指の先に粉末を取って、ぺろりとひと舐めしてみせた。
「うぅむ、見た目や匂い、口に含んだ時の感じは、一般的な発情抑制のための薬となんら変わりありませんなざ。――瓔偲さま、こちらは持ち帰ってもよろしゅうございましょうや? 詳しく調べてみますほどに、一日、二日、いただけますかな」
周太医は言った。
「じぃ、たのむ」
燎琉は我が太医を真っ直ぐに見る。
「お手間をおかけいたしますが、よろしくお願いいたします」
瓔偲は深々と頭を下げた。
「はいはい、周じぃにお任せあれ。殿下とそのお妃さまの御為でしたら、なんなりといたしましょうほどに」
老太医は朗らかに笑んで請け負ってくれ、燎琉も瓔偲も、ほっと安堵の息を吐いた。
「あの……周先生」
そこでおずおずと、どこか躊躇うふうに、瓔偲が周太医に声をかけた。
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