【完結】科挙おちた、皇帝しね。

熾月あおい

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三章 落第書生とひとつめの解決

3-1 それぞれの悪夢*

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「ン……ァ、ッ……」

 自分の身体の奥に、自分ではない生き物の熱があって、ゆっくり出たり這入はいったり、その抜き差しに、身体ごと心までもが翻弄ほんろうされる。とちゅ、とちゅん、と、奥を突き上げられると、ちかちか、と、頭の中が真っ白になるような快美におかしくなりそうだった。

「……もっと……」

 初めて味わう愉楽に負けて、子渼は思わず口にしていた。

 相手は、ふ、と、どこかからかい含みに笑って、子渼の身体を力強く抱き締める。そして、ゆさゆさ、と、揺さぶる。

「あ、あ、あん、あっ」

 肚の奥でこんこんと生まれ続ける快感に、子渼は思わず相手のうなじに腕をまわして、ぎゅっと相手に抱きついた。

「あ、ん……あ、ぁ……ッ、陛下……へい、かぁ」

 ぐぅ、と、奥まで押し込まれ、ぐちゃぐちゃとねられ、とろんとなる。わけがわからなくなった子渼は、無意識にそう呼んでいた。

 その瞬間、ふいに、喉首を押さえつけられる。

「不敬だ」

 しん、と、冷えた声が言って、首を絞められた。

「お前、ほんとうは、皇帝を恨んでいるんだろう」

 そう言って、耳の後ろの疵痕のあたりを撫でられる。

 子渼を見下ろすとび色の眸は、もちろん、明暁のものだった。さげすむような、責めるような、きつい眼差しがこちらに向けられていた。

「うらんでいるんだろう? 皇帝死ねと言っていたものな。――なあ、子渼」

 子渼、と、耳許に囁く彼は、なぜかそれまでの厳しい顔を一転させ、まるで誘うような甘やかな声音でこちらを呼ぶ。そのまま、子渼の耳の裏あたりまでくちびるを寄せてきた。

「あ……明暁、私は……」

 続けて何かを言おうとした刹那――言おうとしたのがどんなことだったのかは、己でもわからないけれども――子渼は、はっと目を醒ました。

 夜明けの気配に瞼をふるわせる。はた、はたり、と、二、三度緩慢に瞬きをして、ゆめか、と、ぼんやりと思った。

 漏窓すかしまどから射し込む白い曙光が眩しくて、ああ自分は夢を見ていたのだ、と、改めて確認するように考えた瞬間、子渼はがばりと身体を起こしていた。

 混乱と焦りと居た堪れない気分とがい交ぜになって、声も出ない。あぁあぁ、と、声にならない声と共に、頭を抱え込んでしまう。

 朝だ。

 房間へやの隅にはまだあかときやみわだかまっているが、世界には淡く光が満ち始めていた。

 清々しい夜明けの気配を感じつつ、ながいすの上に身体を起こした子渼は、真っ赤になった頬を両手で包んだ。

「わ、わたし……なんて、ゆめを」

 うめくように、つぶやく。士大夫にあるまじき不埒ふらちな淫夢を見た後ろめたさに――夢の中のことなど誰にも知られるはずがないのに――まわりに人気がないことを確かめ、それから、はあ、と、溜め息を吐いていた。

 眠りが浅かったのだろうか、と、思う。けれども、そもそもが簡易の寝具をも兼ねているながいすは、多少狭いとはいえ、そこまでひどい寝心地でもないのだ。

 加えて、昨日の昼の間には黄老がふすましとねを用意してくれていたので、子渼はわりあいぐっすりと眠った気もしていた。

 すなわち、おかしなところで寝たからおかしな夢を見たのだ、と、そんなふうに夢見の悪さに理由づけすることもできなかった。

 きっと明暁のせいだ。

 昨夜ゆうべ、子渼の傷痕をなぞった指。それから、誘っているのかという軽口。そのせいであんな夢をみたに違いない、と、そう思うと、昨日の続きでだんだんと腹が立ってきた。

 叩き起こして文句のひとつも言ってやろうか、と、子渼はながいすから肢を下ろした。臥室しんしつの奥のほうにある架子床ねどこへと目を向けると、けれども、上げられたとばりの向こうには淡々あわあわとした朝日が射しているだけだった。

 臥牀しんだいの上のどこにも、人の姿はない。

「もう、起きていったんですかね」

 腹立ちをぶつけるべき相手の姿を見つけられず、子渼は独りち、こと、と、小首を傾げる。

 官吏を目指す書生としての習い性もあって――士大夫は日の出とともに目覚め、出仕するものだ――己はわりあい、朝は早いほうだと自負していた。が、そんな子渼よりも早く起きるとは、いったい明暁は、きちんと睡眠時間を確保しているのだろうか。

 昨夜、子渼が臥室しんしつに入ったときにはまだその後も書卓に向かっていそうな雰囲気だったが、あれからどうしたのだろう、と、そんなことを思いつつ、子渼はくつを履いて、間仕切りの屏風を越えて隣室へと足を踏み入れた。

 するとすぐに、書卓に突っ伏して眠る姿が目に入ってくる。

 どうやら明暁が子渼よりも早起きだったわけではなくて、昨夜は臥室しんしつに戻らなかったというのが真相のようだった。

「まったく」

 子渼は呆れた溜め息とともに呟いて、眠る明暁を覗き込んだ。

 傍らの燈明とうみょうの油は尽きていた。そして、明暁が突っ伏す書卓の上には、子渼から昨夜奪い取った書き付けが散らばっている。

 もしかして夜通しこれを眺めていたのだろうか、と、そう思いながら、子渼は書卓の上の紙の一枚を持ち上げて眺めた。近くには、こちらの文字の解読を試みた痕跡あとのような、いくつかの文字が書き散らされた反故ほごもある。

「合ってるのもありますね」

 子渼は目を瞬いた。

「でも……寝る間を惜しんでまで、なにをしているんですか、莫迦ばか

 子渼の文字を読むだなんて、そんなことに時間や労力を使わなくてもいいのだ。錦衣衛はきっと暇ではないだろうに、と、たしかにそう思う一方で、それでも子渼は、なんだか胸の奥があたたかいような、あるいは擽ったいようなきもちにもなっていた。

 おかげで子渼が抱えていた腹立ちは、朝の陽射しの中に融けるように消えてしまったようだ。

「もう! 風邪を引いても知りませんよ。しかもそんな恰好で寝て、身体を傷めてしまったらどうするんですか」

 武官のくせに、と、そんなことを呟いたのは、多分に照れ隠しだった。

 十人に訊ねれば十人ともが下手だ読めないと評するのだろう子渼の字を――たとえ考え無しに嘲ってしまったという罪悪感がそうさせたのだとしても――読もうと努めてくれる。明暁のその心根がうれしかった。

 そんなひとはこれまでにいなかったのに、と、子渼の口許は、知らず、ほんのりとゆるんでいた。

 口の端にちいさく笑みを刷きつつ、子渼はいったん臥室しんしつへと引き返した。臥牀しんだいからかけふを取って戻ると、眠る明暁の背にそっとかけてやる。

「う……ん」

 そのときふと、明暁が呻くような声を上げた。

 子渼ははっとして、慌てて表情を引き締める。目が覚めたのだろうか、と、相手の顔を覗き込んだが、どうも明暁ははっきりと覚醒したわけではなさそうだった。

 眉根がきつく顰められている。眉間に深い皺が寄っている。

 漏れる呼吸いきはわずかに荒く、浮かぶ表情には色濃い苦悶が見て取れた。

「明暁……明暁。大丈夫ですか?」

 うなされているのだ、と、気がついて、子渼は明暁の肩にそっと手を置いた。目覚めを促すように、軽く揺さぶってみる。

「明暁」

 再び子渼が呼びかけたときだった。

「……せい、が……」

 明暁が呟いた。誰かを呼ぶような声音だった。

 それに子渼が戸惑った刹那、彼は唐突に、ぽかりと目を開けた。

「あ……」

 身体を起こしつつ子渼を見て、消え入りそうな声を上げる。

「大丈夫、ですか」

 子渼は、血の気が引いて蒼白な相手の顔を見詰め、そう繰り返した。

「悪い夢でも……ご覧になりましたか」

 続けて訊ねると、明暁はそれでようやく、ここが現実うつつであるとはっきりと認識できたらしい。我に返った顔をすると、気まずそうに、子渼から目を逸らした。

「別に……なにも」

 呟くように答えたが、こちらから顔を背けるその姿を目にすれば、相手の言葉をそのまま信じる気にはとてもなれなかった。

「何でもなくなんかないでしょう? こんなところで寝るから悪い夢だって見るんです」

 叱るような口調で言いつつ、子渼はふところから手巾を取り出して、明暁の額に浮く冷や汗を拭おうとした。だが、明暁はうるさそうにこちらの手を払いけてくる。

「平気だと言っている」

 強情に言って立ち上がりかけ、けれどもふらつくのを見て、子渼は、ほらみたことか、と、慌てて相手を支えようとした。けれども、その手もまた余計だと拒まれて、その強がりの様に、またしてもだんだんと腹が立ってきた。

「セイガって、誰ですか」

 む、と、押し黙った後でそんなことを言ってしまったのは、だから、半分は心配から、そしてもう半分は腹いせみたいなものだったかもしれない。

 その瞬間、明暁は息を呑み、目を丸くした。子渼が思う以上の、過剰な反応だった。

「な、ぜ……」

 こちらをまじまじと見て、掠れた声で言ってくる。

「えっと……さっき、うなされながら呼んでました」

「お前には……」

 言いかけた相手の口許を――それ以上の発言を制するように――子渼はすっと指で押さえた。

 そして、ふう、と、息を吐く。

「言われる前に自分で言っておきますね。わかっています、私には関係ないって仰りたいんでしょう? でも、明暁……あなたがそんな顔色をしているのを見たら、知らん振りもしていられないんです」

 子渼はじっと相手を見詰める。明暁の鳶色の眸は、ゆら、と、どこか頼りなげに揺れた。

 てのひらがきつく握り締められている。何かを堪えるように、明暁が歯を喰いしばっているのがわかった。

 子渼はふと、胸ふたがれる想いがした。

「なにか……私の発言があなたの心の傷をえぐったのなら、すみません」

 不用意なことを言ってしまったかもしれない、と、途端に悔いる気持ちが湧き上がってくる。

「いや」

 明暁はちいさく言って否定してくれたが、それでも子渼は、ごめんなさい、と、再び言って俯いた。

 しん、と、静寂が房間へやを満たす。射し込む淡い朝日だけが、場違いなほど清々しく輝いた。

 やがて、ふ、と、明暁が息を吐いた。

 強いて沈黙を破るようなその呼吸に、子渼はそろそろと顔を上げる。明暁は子渼を見ず、どこか遠くを――あるいは昔日を――見詰めるような眸をしていた。

 端正なその横顔に、癒えぬ悲しみがちらついた気がした。

成駕せいがは……こく成駕は、友だ。三年前に死んだ」

 沁みるようなしずかな声音に、子渼ははっと息を呑んだ。
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