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二章 落第書生とぼや事件の謎
2-2 三年前の事件
しおりを挟む「それで、明暁どのはいま、何の調査をなさっておいでなのですか?」
明暁に促されて居間の中央に据えられた卓子につくと、子渼は相手も席に座るのを待って、さっそく訊ねてみた。調査の手伝いを、と、明暁からはそう言われているが、いったい彼がいま何を調べているのか、まずはその内容を知らねば始まらない。
「たしか先程、黄さんは、科挙名簿とか仰っていたように思いますが」
子渼が付け足しつつ、ちら、と、房間の中に運び込まれている行李に視線をやると、明暁は、ほう、と、感心したようにちいさく片眉を上げた。
「よく聞いていたな」
「私も此度、科挙を受けた身ですし……何か関係があるのかと、ちょっと気に懸かったのです」
「なるほど」
ひとつ短く頷きつつ、しかし明暁は、その後はやや言い倦むふうだった。子渼は慌てず相手の言葉を待つ。やがて、ふう、と、ひとつ長い息を吐くと、明暁は真っ直ぐに子渼を見た。
「貢院で小火があった。科挙の折だ」
端的な明暁の言葉に、子渼は目を瞠る。
貢院とは科挙の試験会場だから、当然、子渼も間違いなく現場近くにはいたはずだ。が、小火など、まったくもって初耳だった。
「それは……知りませんでした。いつのことですか?」
「一日目の挙人の入門の折で、まだ貢院の門は開かれていた頃だ。紙屑が燃えた程度で、すぐに消しとめられて大事にはならなかったようだから、お前が知らなくても不思議はないんだが」
「それでも……一大事ですよね。科挙は建前上、皇帝が直々に、広く天下から臣下を登用するための試験ということになっていますし、だからこそ、その邪魔立ては、すなわち陛下への叛意と取られてもおかしくありません」
試験の際の不正行為ですら、見つかれば、最悪の場合は死罪すらあり得るのが科挙である。試験の実施場所で、実施直前の不審火とあらば、皇帝直属の部隊、錦衣衛たる明暁が調査に乗り出しているというのも頷ける話だった。
だが、加えてもうひとつ、禁衛部隊に属する彼が動く理由について、子渼には思い当たることがあった。
「もしや……三年前の事件とも、関係があるのですか?」
静かに問いを重ねると、明暁は刹那、は、と、息を呑み、鳶色の眼差しを子渼に向けてくる。そこにはこちらの真意を探るかのような色合いが滲んでいた。
「いや」
しばし黙したあと、彼はそう言ってゆるゆると頭を振りはした。が、、その動作はどうも、関係がない、と、子渼の言葉を否定する意味ではないようだ。
「まだ、わからん。ただ……場所が場所だし、事が事だ」
彼は、ふう、と、ひとつ息を吐いた。
三年前――……泰化元年、三月九日のことである。皇都・珞安の礼部貢院では、いままさに、科挙の省試が行われようとしていた。
それ自体は、三年ごとに繰り返されてきた、別段珍しくもない光景である。
だが、このときはひとつだけ、例年と異なっていたことがあった――……践祚間もない新皇帝の、貢院への行幸があったということだ。
年が改まってすぐ、前皇帝が崩御した。老齢というほどの年齢でもなかったが、病篤いという風聞は年末頃にはすでにあったので、いよいよ悪くなったということだったのだろう。
その後、新帝として、前帝の長子が至尊の位に登った。姓名を蕭暻という。これが今上皇帝である。
泰化元年の科挙が行われたのは、前帝崩御をうけ、新帝が慌ただしく位に即いたばかりの時分だった。そしてその科挙は、践祚すぐの新帝にとって、自らの名の下に初めて実施されるそれであった。
だからこそ視察を、と、皇帝はそう思い立ったのだろうか。だが、それが、結果としては大きな悲劇を招くこととなった。
事件が起きたのは、ちょうど新帝が貢院の門前に到着しようかという、まさにその時のことだ。駕籠から下りた新帝に向かって、突然、竹筒を束ねたようなものが投げつけられた。
後に火薬が詰められていたことが判明するこれを、皇帝の傍に控えていた侍衛官は、咄嗟の判断で抱え込み、皇帝から遠ざけようとした。自然、集まっていた民や科挙受験者のほうへ、彼は走ることとなったわけだ。結果として、皇帝は無事に難を逃れたものの、まわりにいた者を巻き込んで、竹筒は爆裂することとなる。
死者一名。怪我を負った者は多数。
竹筒を投げた犯人はその場で自尽し、その後に続く事件もなかったことなどから、皇帝または政に不満を抱く者の単独での犯行、と、事件はいったんはそう結論付けられ、解決したものとされていた。
しかし、いま、科挙の行われるまさにその時期の貢院での小火と聴いて、子渼の頭には、その三年前の皇帝襲撃事件のことが思い浮かんだわけである。
「もしも今度のことと、三年前の襲撃に繋がりがあるのだとしたら……単独犯とされたあの事件にも、黒幕がいた可能性があるということになりますよね。国への不満か、それとも皇位を狙う企みか、動機はいろいろと考えられますが……陛下はそれを疑っておられるのですか?」
もしもそうであるならば、それはまさに錦衣衛の扱うべき事案であるといえた。
「現帝に不満を持つ者は、まあ、多かろうしな。なにせ前帝の長子とはいえ、さしたる後ろだてもなく、太子に立てられていたわけでもない。前帝の崩御を受け、直系長子であることが優先されて玉座についたが、成人したばかりの若造に過ぎん。あと数年でも父親が長生きしていたなら、皇位などと関わることなく、武官にでもなっていただろう男だ」
明暁は今上帝について、事も無げに、そんな評をのたまった。
子渼はその言いざまに眉根を寄せる。
「ちょっと、あなた、不敬ですよ。陛下はあなたの直属の主ではないのですか」
それこそ皇帝の禁衛軍たる錦衣衛が聴き咎めたら逮捕されてもおかしくない物言いである。まさにその錦衣衛である明暁が、なぜ皇帝を侮るような発言をするのだ、もう少し言い方があるだろうに、と、子渼は顰め眉に不快を滲ませたが、明暁は気にしたふうもない。
「事実だ」
短く言って肩を竦めた。
「どうせ治世も長くないさ。後釜には、皇太后の産んだ皇子もいるしな」
「それは……朝廷では、すでにそうした話が出ているのですか?」
皇太后腹の皇子は現帝にとっては異腹の弟だが、母の血筋、後ろだてともに申し分ない、今上とは真逆の身の上の皇子である。皇帝にまだ御子がないいま、彼が皇位継承の有力候補であるのは間違いないだろうと思われていた。
しかし、朝廷では早くもそんな話になっているのだろうか。遠くない未来に皇帝が替わるならば、明暁がいまの皇帝を軽んずるのも――臣下としての態度の是非はともかくとして、心情としては――わからなくもない気がする。
「さあ、どうかな」
けれども相手は、なぜか自嘲するような笑みとともに、曖昧に言葉を濁した。
なんだか釈然としないものを感じ、子渼は更に相手を問い詰めようと言葉を継ぎかける。が、それよりも先に明暁は席を立ってしまった。
移動したのは、房間に運び入れられている大きな行李のほうである。
「お前に頼みたいのは、先日の科挙の折に貢院にいた者……受験者や試験官、護衛官の中に、あやしい経歴の者がないか、その洗い出しだ。一通りの資料は爺に運び入れてもらっているから……頼めるか?」
そう言って視線を向けられ――何やらうまく誤魔化された気がしつつも――子渼はちいさく頷いた。こちらも立ち上がって行李の傍へ寄り、蓋を開けてみると、中には巻子や帳面などが詰まっている。
「これ、全部ですか。なかなか骨が折れそうですね」
ひとつ、息を吐く。
「あ、でも、そっか。錦衣衛のあなたに協力するということは、間接的に、私も陛下のお役に立てるということなんですね」
それは嬉しい、と、すぐに気を取り直して、子渼は明暁を見上げつつ、莞爾と笑んだ。
「陛下、ね」
明暁はまた何やら含みありげに呟いた。しかし、それ以上は何を言うでもなく、そうだ、と、何か思い立ったかのように話題を変える。
「出来ればもうひとつ、お前に頼みたいことがあるんだが、いいか」
そう言われ、早速行李の中味を取り出しかけていた子渼は顔を上げる。
「もちろんです。どんなことですか?」
「先程、お前、林家の令嬢を助けていただろう」
「あのお嬢さまが林家の御令嬢だというなら、まあ、そうですね。でも、それが?」
「実は……もうひとつ、気になる案件があるんだ。――孫家と張家の令嬢が、ここ数日で、相次いで失踪している」
「は? え? それってだいぶ一大事じゃないですか?」
子渼は事の重大さに頓狂な声を上げた。
孫家といえば代々高官を排出してきた名家だし、張家もまた武門の勢家である。その家の娘が姿を消し、かつ、こちらもまた何代も続く高名な医の家柄で、権門家といって差し支えないだろう林家の娘までが危ない目に遭いかけた。これはもはや、なんらかの権力闘争、あるいは陰謀を疑う事態ではないのか。
「実は、彼女らはみな、皇太后の招待を受けて、探花宴への出席が決まっていたはずなんだ」
探花宴とは、進士及第者を――科挙に合格し、これから国官になる者を――祝うために、皇帝自らが催す宴である。三年前は事件のために開催が見送られたはずだったから、今回のそれは、現帝の治世では最初の探花宴となるわけだった。
本来は新しく官吏となるものを祝する宴だが、ここに、此度は権門勢家の娘たちが招かれているという。
「えっと、それは……陛下のお妃候補とか、そういうことでしょうか」
「皇帝本人はともかくとして、誰ぞにそういう思惑があるのは確かだろうな。――思惑通りうまくいくものかどうかは、知らんが」
「どういう意味です?」
「妃を持てば、もちろん、その娘の実家が皇帝の後ろにつくことになる。現帝をよく思わん輩からしたら、あまり喜ばしい状況ではないだろう」
「よく思わない輩……」
いるのですか、と、子渼がおずおずと確認すると、それはいるだろう、と、明暁はあっさりと答えた。
「派閥争いは政の常だ」
「だから……陛下は現状、ひとりの妃嬪もお持ちでないということですか。邪魔を企てる者がいたからだ、と」
子渼の問いに、明暁ははっきりとした答えを寄越さなかった。が、ちら、と、口角を苦笑のかたちに持ち上げるから、こちらの言は、当たらずとも遠からずといったところなのだろうと子渼は思った。
「それにしても、誘拐とは……」
細い顎に指を当てて、しばし思案する。
「権力闘争の一環としては、ちょっと手段が乱暴に過ぎる気がしますが」
やがて顔を上げると、わずかに首を傾げて見せた。
「たしかにな。だから、企みなどではなく、単なる身代金目的の誘拐だという可能性もあるんだが。――とはいえもし、根っこのところで皇位が絡む案件の可能性があるなら……放ってはおけない」
明暁は難しい顔をしてきっぱりと言い切った。
「こちらもあなたの担当事案なのですか?」
同時にふたつも案件を抱えているのだとしたら、なかなかに大変なのではないだろうか。だが、これには明暁は首を横に振った。
「いや。孫家、張家の件は、一般事案として、いまのところ大理寺の預かりだ。だからこそ逆に、俺がおいそれと横槍を入れるわけにはいかないんだが」
大理寺とは、刑罰・司法を管掌する国の官署のひとつである。もちろん錦衣衛とは別個に存在する組織だが、明暁の含みを持たせた言葉の切り方に、子渼ははっと気がついた。
「ああ、そうか。林家のお嬢さまの件はまだ事件化していませんものね。そちらなら、あなたでも手を出せるということですか?」
「そういうことだ。しかも、助けたのはお前。だったら、協力してくれる可能性もあるだろう」
「なるほど……それで、私は何を調べればいいのです?」
「とりあえずは林家へ行って、話を聴いてきてほしい。危ない目に遭うような心当たりがあるか、それから、探花宴にはどういう意図で参加するのか」
「陛下のお妃に、と、そうした内々のお話があるかどうかを探ればいいわけですね。わかりました。明日にでも早速」
「頼む。――ああ、その時にはこれを持っていくといい」
そう言って明暁は懐を探ると、そこから見事な玉佩を取り出した。帯に結びつける装身具だが、玉には牡丹が透かし彫りされ、鮮やかな紅色の房飾りがついた、なかなかの一品だった。
差し出されるがままに受け取った子渼は、精緻な細工についうっとりとそれを眺めたが、すぐにはっと我に返って明暁に視線を向けた。
「えっと、これは?」
「皇帝がよく身につけている玉佩だ。見る者が見ればわかる。何かの折には役に立つだろう」
さらりと言われて、子渼はぽかんとした。
「陛下から玉佩を借り受けているって……あなた、いったい何者なんですか?」
皇帝の侍衛たる錦衣衛ならば、もしかしたら、そうしたことも珍しくないのだろうか。あるいは、明暁はいま単独で動いているようだし、皇帝直々の極秘任務だからそんなふうに便宜を図って貰っているということなのだろうか。
が、それよりもなによりも、である。
「陛下の玉佩……!」
子渼は恍惚とした口調で呟いた。
明暁の目がなければ頬擦りぐらいしていたかもしれない。
いっそ拝み倒したい。こんなものを手に出来る機会など二度とないかもしれないから、せめて今夜、抱いて寝てもいいだろうか。不敬にあたるだろうか。
そんなことをつらつら考えつつ、頬を紅潮させて玉佩を見詰める子渼を、しかし、明暁は胡乱な視線で見ていた。
「やらんぞ」
「わ、わかってます! 抱いて寝ようとかも考えてません……!」
「……なるほど?」
「ッ……で、でも、こんな大切なもの、私に持たせて大丈夫なのですか?」
明暁からじっとりとした視線を向けられ、誤魔化すように子渼は言う。すると相手はなんでもないふうに、くすん、と、肩を竦めた。
「まあ、構わんだろう。お前は悪用はしなさそう……というか、出来なさそうだしな。ぜんぶ顔か声に出るから」
「失敬な。まあ、しませんけれどね、悪用なんて。――お借りします。ありがとうございます」
「うん」
「あ、そうだ、明暁どの。かわりに私からもひとつお願いをしてもかまいませんか?」
気を取り直して訊ねると、明暁は、なんだ、と、片眉を上げた。
「皇位云々の方向性については、まずは林家を手掛かりに探りを入れていくとして……三年前の事件との関わりについてのほうです。当時、あの事件に巻き込まれた関係者について、調べていただくことは出来るでしょうか」
「ああ、なるほどな。皇帝のとばっちりを食って大怪我をした人間なら、十分、皇帝を恨む可能性はあるわけだ。――了解した。そちらは俺のほうで調べておこう」
明暁が肯ってくれたところで、ちょうど、いったん厨へと立っていた黄老が料理の皿を持って戻ってきたので、その後は夕餉の時間となった。
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