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ひとり暮らしのはずが
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私はフィルナ・レーリック。
10日前までは子爵家の令嬢でした。
そう⋯⋯ほんの10日前までは⋯⋯
王宮で催された夜会の帰り道、両親を乗せた馬車が、
走っていた山道の崩落によって崖下に転落ーー
そのまま帰らぬ人となりました。
残された17歳のひとり娘の私が家督を継いだところで領地経営などできるわけもなく⋯⋯
ため息をこぼして住み慣れた屋敷を見上げるだけ。
領民を不安に晒しておくわけにもいかないので、レーリック家が仕えていたゴルフォール伯爵へ、
領地から自治権まですべてお返ししました。
ですが、両親との思い出が残るこのお屋敷だけはどうか取り上げないでほしいとゴルフォール伯爵に懇願。
残してもらえるよう取り計らっていただきました。
雇っていた使用人たちは今日で全員、屋敷を去りました。
皆のほとんどはゴルフォール伯爵のところへ引き取ってもらえました。
「お嬢様、お身体にお気をつけて、お達者で」
「ジイ。ありがとう。あなたの方こそお身体に気をつけてね」
「はい⋯⋯」
長年、レーリック家のために働いてくれた使用人たちを乗せた馬車が次々と屋敷から離れて行きます。
私は最後の一台が見えなくなるまで門の前に立ち続け、見送りました。
ようやくひとり暮らしがはじまります。
だからっといってひとりの暮らしに憧れていたわけではありません。
私はただ⋯⋯お父様とお母様と一緒に過ごしたこの空間を守りたかっただけ。
まだ甘えていたかったのです。
お掃除に炊事に洗濯⋯⋯
やってみると大変ですけど楽しいものです。
私の身を案じて下さるゴルフォール伯爵からは頻繁に手紙が届きます。
その度、“たくましくやっております”と返すのです。
今日なんて、お屋敷の廊下全部を雑巾掛けしました。
私の顔が床に映り込むほど光沢がでると踏んでしまうのがもったいないくらい。
気づけばもうお昼。
「なにを食べようかしら」
毎日の献立を考えるというのも大変なものなんですね。
ひとりで暮らすと新しい発見ばかり。
からだを動かしたので少々、汗のにおいがしてきました。
先にお風呂に入りましょう。
そうだ! さっき洗った服を干さないと。
あら?
なんだか、からだがフラつきます。
「どうして⋯⋯」
私としたことが廊下に座り込んでしまうなんてはしたない。
ランドリーに行かないといけないというのに⋯⋯
「さむい⋯⋯」
すこし⋯⋯少しくらいならこのまま休んでいてもかまいませんよね。
お母様、ごめんなさい⋯⋯ほんの少しだけですから。
ほんの少しここで休ませて下さい⋯⋯
***
「⁉︎」
天井⋯⋯?
私としたことが廊下に座り込んだまま寝てしまうなんて。
「だけど⋯⋯なぜベッドの上に?」
無意識のままベッドに戻ってきたのかしら?
『ようやく起きたか』
「ひっ⁉︎」
な、なぜ私の部屋に殿方が⋯⋯
しかもなぜ覆い被さるようにして顔を近づけているの?
いったいどちら様?
歳は私より2つか3つ上のように見える。
落ち着いた雰囲気で、長い黒髪、凛々しい眉。
顔立ちは整っていて、なんといいますか正直カッコいい。
⁉︎ ダメよ! 不審者をそんな目で見ては!
「どうした? まるで不審なものを見るような目だな」
「⁉︎」
不審者が自分を棚にあげている!
「なんだ? 叔父の手紙を読んでいないのか?」
「手紙?」
そうでした。今朝届いたゴルフォール伯爵からの手紙をまだ開けていませんでした。
“親愛なるフィルナ“
最近、レーリック領の近くに盗賊がでると聞く。
ひとり暮らすのもよいが、ワタシはいささか不安だ。
妹のところにプラプラした三男がいるので、そいつを
10日間ほどそちらに置いておく。
使用人だと思ってなんなりと申しつけてくれ。
「ゴルフォール伯爵の甥⋯⋯」
「そうだ。オルト・シルフォンス。歳は21だ。だいたいのことはできるつもりだ。
なんなりと申してくれ」
「そういうわけにいきません。オルト様は客人です。私がもてなしますので、
オルト様の方こそ、そこにお座りになって、私になんなりと申して下さいーー」
”⁉︎“
オルト様は突然、ご自分の額を私の額に当ててきました。
「まだ熱があるな」
「はひ⁉︎」
「顔がさっきより赤くなったな。他にどこか具合が悪いところはないか?」
「こ、これはオルト様のせいですッ!」
「そうか。俺が居てはゆっくりと眠れないだろ。俺はランドリーにあった洗濯物を干している。
なにかあったら呼んでくれ」
そう言ってオルト様は部屋をあとにしました。
「なんなよもう⋯⋯」
”⁉︎“
洗濯物⋯⋯
「⁉︎ ひゃッ!」
からだの気だるさが一瞬で吹き飛びました。
部屋を飛び出すなり、廊下を全力で駆け抜け、
掃除したばかりのツルツルした床に転びそうになりながら無我夢中。
”掃除というのはこれほどまでに仇(あだ)になる行いだったのかしら“と、後悔までが押し寄せてきます。
***
『オルト様ッ!』
「どうした?」
「ひっ!」
オルト様が手にしていた白い布を見て、からだが固まりました。
「大丈夫か? まだ寝ていないとダメだ」
全身の力が一気に抜けてその場にへたり込みました。
「パ、パ⋯⋯」
「ん? この下着のことか? 君のだろ。どうかしたのか」
オルト様の手にしていた私のパンツを力いっぱいひっぱってはがし取りました。
「ひどい汗だ。そろそろ着替えた方がよい。ベッドへ運んだときからそうだったがその服はもう汗のにおいが強い」
「ひっ⁉︎」
「どうした? はやくその上着を脱ぐんだ。さっさと着替えてしまった方が気持ちよくなれる」
「い、いやあああッ!」
「どしたんだ? はやくその上着を脱いで俺によこせ。洗濯をしてやる」
「い、いや⋯⋯」
「力が入らないなら俺がボタンをはずしてやろう」
「やめて⋯⋯」
「そう拒むな。こんなにグッショリと濡れているじゃないか。ベタつく前にはやく」
そんな甘い声でささやかないで⋯⋯
「下の方もだ」
「ッ⁉︎」
“バチンッ!”
咄嗟にオルト様の頬を叩いてしまいました。
「出て行ってッ!」
***
「もう入っていいか?」
「はい⋯⋯」
「着替え終わったようだな。その方がさっぱりとしていて気持ちいいだろ。
脱いだ物をよこしてくれ」
「⋯⋯下着は自分で洗います」
「わかった。だがそれより休む方が先だ」
「ひゃッ⁉︎」
お、お姫様抱っこ⁉︎
「ベッドに戻ろうか」
「うううう⋯⋯」
「また顔が赤くなったな」
あなたのせいです。
***
「いったいなんなのかしら。全部、ご自分のペースでとりつく島もありませんわ。
殿方というのはみんな、ああなのかしら」
それより、体調が良くなったらはやく出てってもらいましょう。
このままでは生活のリズムが乱れてしまいます。
「すんすん⋯⋯」
いい匂い⋯⋯
“ぎゅるぎゅる”
「⁉︎ お腹の音が⋯⋯はしたない。淑女として見っともないですわ。オルト様に聞かれなくてよかった」
“コンコン”
「入るぞ。そろそろお腹の音がなる頃だと思ってな」
「キャーッ!」
「どうした? 夕食を持ってきたんだ」
「い、いまの聞こえてないですよね?」
「何をだ?」
「べ、別に⋯⋯」
「心配しなくていい。お腹の音などで淑女の品は落ちたりしない」
「いやあああ!」
やっぱり聞いていた!
「健康に生きている証拠だ。フィルナは奇妙なことばかり言うな」
どうしましょう⋯⋯奇妙だなんてこの方に言われたくない。
「野菜スープだ。口に合うかわからんが食べてほしい」
「あ、ありがとうございます⋯⋯」
見ず知らずの殿方の料理を口にするなんて正直こわい。
スプーンですくった具材をおそるおそる口へと運ぶ。
「⁉︎」
「どうかな?」
「⋯⋯おいしいーー」
このスープを口にするまでは料理に自信がある方でした。
しかし、こんなものを食べさせられてはもうレードルすら手に取る自信がありません。
それどころかレーリック家で働いていたシェフたちが作ったどの料理よりもおいしい。
私がいままで食べてきたのはなんだったのかしら⋯⋯
「くやしい⋯⋯」
「はじめて言われた感想だな。やはりフィルナは変わっているな」
「はッ⁉︎」
***
目を覚ますと外はもう明るくなっていました。
なんだか今朝はからだ軽い。
両親が亡くなってからしばらく、気を張りつめていたせいか昨日は疲れが一気にでたようです。
ベッドの横には綺麗に畳まれた私の洋服。
どれもパリっとしていて、袖を通すだけで心地がいい。
洗濯物ですらあの妙な方にかなわないというのはくやしいものです。
ダイニングへ降りていくとキッチンの方から“トントントン”と、心地よい音が聞こえてきます。
「起きたのかフィルナ。今朝は顔色がいいな。無事でなによりだ」
「あの⋯⋯昨日は失礼しました。 ゴルフォール伯爵の甥とは知らずご無礼を⋯⋯顔まで叩いてしまって」
「かまわない。それより朝食だ。パンとクラムチャウダーを用意した。はやく食べよう」
やはりこの方の料理はおいしい。
ひとくち、口にいれただけでこれだ。
キッチンへやってくる途中漂っていた匂いだけでも食欲がそそられてしまっていました。
「オルト様⋯⋯私は幼少の頃よりどの家に嫁いでも恥ずかしくないようにと
お母様から料理や洗濯の仕方、お掃除までをきびしくしつけられてきました。
だから本来なら自分ですべてできるのです。 ⋯⋯ですけどオルト様が居る間だけはおまかせします」
「わかっている」
「⁉︎ だからってなぜ顔を近づけるのです?」
「静かに」
「ひっ」
また額を⋯⋯
「熱は下がったようだな。しかし、油断はできない今日もゆっくり寝て休むんだ」
数日後ーー
両親が亡くなってからはひとりで生きてゆく覚悟を決めた。
だから掃除も洗濯も料理もすべてひとりでやろうとはりきっていた。
だけどそれもオルト様が来て一変。
私がひとりでやろうとしていたことはすべて彼がやってくれています。
はじめは自分がやらなきゃダメだ。自分でなんとかするんだと彼に対してムキになっていましたが
そんな感情は時間が経つ中で次第に薄れていきました。
今はただただ甘やかされております。
「本当に美味しそうな顔で食べるなフィルナは」
「ん~」
すでにオルト様無しでは生きてはいけないからだになってしまいました。
今では鍋に手を伸ばすことですらおっくう。
***
顔が近い⋯⋯
そして唇をそんな撫でるように触れられると恥ずかしいーー
リップブラシの毛がこそばゆく感じることもなく滑らかに滑ってゆく。
「今日は一段と紅があざやかだ」
「ありがとう⋯⋯」
「今日は市場で大道芸が見られるそうだ。楽しみだ」
「はい」
「次は髪をとかそう」
ほんと不思議だ。
寝起きでゴワゴワした髪もオルト様がクシを入れるだけであっという間にサラサラになる。
それも痛くない。
まるで魔法だ。
考えたらオルト様が掃除したところもオルト様がつくった料理もすべて魔法のようにキラキラしていた。
オルト様は”魔法使い“と考えた方がこの方の存在がなぜ不思議なのか気にならなくなる。
「ん? どうした。さっきから俺の顔を見つめて」
「い、いや」
「さぁ、身支度は完了だ。出かけよう」
屋敷に突然やってきたころははやく出て行ってほしいと思っていましたけど
今はこの人の側からかたときも離れたくない。
「? 手を繋いでくれるのか」
「は、はぐれたら怖いからですから」
「フッなるほど。今日はなんだか天気も良い。ついでにピクニックに行こう」
***
露店に並んだ異国の工芸品に目移りしながらピエロの芸にも驚かされて、
楽しいという感情を思い出したのはいつ以来なのか。
市場をあとにしてやってきた草原では景色を眺めながら食べるオルト様のサンドウイッチは格別に美味しいと知る。
「景色もスパイスのひとつなんだ」
「だから、ピクニックに行こうって言ったの?」
「そうだ」
頂上に雪が残る山の方から風が吹いてくる。
「気持ちいい⋯⋯」
オルト様は寝そべるともっと気持ちいいと教えてくれました。
「こんなところメイドやお母様に見られていたら“はしたない”と怒られていましたね」
「それがいいんじゃないか」
「ずっと忘れていました。お屋敷の外がこんなに色あざやかでこんなに広いことも。
なんだか長い年月、お屋敷の中に閉じこもっていたように感じます。
それにレーリック領がこんなに素敵なところだなんて知りませんでした」
「それはよかった」
「もしかして私に魔法をかけました」
「それはどうだろうか」
***
“陽の光?“
「朝?」
目を覚ますといつもよりもお日様が高い位置にいる時間帯の起床です。
「どうやら寝坊をしてしまったようね⋯⋯」
”⁉︎“
おかしいーー
朝は決まった時間にオルト様が起こしに来るはず。
一階のダイニングの方へ階段を降りていくと、
いつもの”トントン“という軽快な調理の音がキッチンの方から聞こえてきません。
「オルト様が寝坊?」
まさか⋯⋯
「オルト様!」
いない
「オルト様!」
いない
「オルト様!」
⋯⋯ここにも
どのドアを開いてもオルト様のお姿がない⋯⋯
「⁉︎」
”10日間だけ“
「今日ってオルト様がやってきて何日目⁉︎ ⋯⋯そうか11日ーー」
オルト様が急に外へ行こうと言い出したのは昨日が最後だったから⋯⋯
オルト様は自分から切り出すお方じゃない。
私がもっと早く気づいて最後の1日を大切に過ごせばよかった。
「ああ、そうだ」
このままずっと一緒に居られると期待したからいけないんだわ。
お父様とお母様のときもそうだった⋯⋯
「どうしていつも私ばかり⋯⋯静まり返った世界にひとり取り残されるの?」
そうだ。くよくよしてちゃダメ。
自分でやるんだ。
お父様とお母様がいなくなったときにひとりで生活するって決めたんじゃない。
アレ⋯⋯だけどどうして?
私ってこんなに掃除下手だったけ?
分量は間違えていないはずなのにどうして私の料理はこんなにおいしくないの?
やっぱりダメ。
オルト様のせいでひとりで生きていかれなくなっちゃったじゃない。
知らなかった。魔法が解かれると屋敷がこんなに薄暗く寂しいものだったなんて。
知らなかった。ひとりってこんなに寂しいんだって。
だったらひどいじゃない。こんなに突然、魔法を解くなんて。
どうしよう涙が止まらない。
周囲に心配されないようにってもあったけど、お父様、お母様のお葬式ですら泣かなかったのに。
ほんとひどいーー
「オルト様のバカ!」
『フィルナ!』
「⁉︎ オルト様?」
「やはり起きていたか。すまない。遅くなった」
「オルト様⋯⋯なぜ?」
「不思議なことを言うな。昨日、フィルナが魚料理を食べたいと言っていたので深夜に屋敷を離れて、
海辺の街まで行って漁師たちが水揚げしたばかりの新鮮な魚を買い付けていたんだ」
「じゃあ出て行ったわけじゃないのですね」
「出てゆく? そんなはずはない」
「だけどゴルフォール伯爵の手紙には10日間しかいないと」
「叔父上の方便だな。俺にはレーリック家の令嬢のところに嫁いで面倒を見ろと言っていた。
俺はむしろフィルナと結婚したものと思っていた」
どうやら私は知らず知らずのうちに結婚していたようです。
「大丈夫か?」
私は急に力が抜けてその場にへたり込んでしまいました。
「つまりオルト様はこれからもずっと一緒に居てくださるのですか?」
「当然だ」
どうやら私の甘々な生活は末永く続きそうです。
10日前までは子爵家の令嬢でした。
そう⋯⋯ほんの10日前までは⋯⋯
王宮で催された夜会の帰り道、両親を乗せた馬車が、
走っていた山道の崩落によって崖下に転落ーー
そのまま帰らぬ人となりました。
残された17歳のひとり娘の私が家督を継いだところで領地経営などできるわけもなく⋯⋯
ため息をこぼして住み慣れた屋敷を見上げるだけ。
領民を不安に晒しておくわけにもいかないので、レーリック家が仕えていたゴルフォール伯爵へ、
領地から自治権まですべてお返ししました。
ですが、両親との思い出が残るこのお屋敷だけはどうか取り上げないでほしいとゴルフォール伯爵に懇願。
残してもらえるよう取り計らっていただきました。
雇っていた使用人たちは今日で全員、屋敷を去りました。
皆のほとんどはゴルフォール伯爵のところへ引き取ってもらえました。
「お嬢様、お身体にお気をつけて、お達者で」
「ジイ。ありがとう。あなたの方こそお身体に気をつけてね」
「はい⋯⋯」
長年、レーリック家のために働いてくれた使用人たちを乗せた馬車が次々と屋敷から離れて行きます。
私は最後の一台が見えなくなるまで門の前に立ち続け、見送りました。
ようやくひとり暮らしがはじまります。
だからっといってひとりの暮らしに憧れていたわけではありません。
私はただ⋯⋯お父様とお母様と一緒に過ごしたこの空間を守りたかっただけ。
まだ甘えていたかったのです。
お掃除に炊事に洗濯⋯⋯
やってみると大変ですけど楽しいものです。
私の身を案じて下さるゴルフォール伯爵からは頻繁に手紙が届きます。
その度、“たくましくやっております”と返すのです。
今日なんて、お屋敷の廊下全部を雑巾掛けしました。
私の顔が床に映り込むほど光沢がでると踏んでしまうのがもったいないくらい。
気づけばもうお昼。
「なにを食べようかしら」
毎日の献立を考えるというのも大変なものなんですね。
ひとりで暮らすと新しい発見ばかり。
からだを動かしたので少々、汗のにおいがしてきました。
先にお風呂に入りましょう。
そうだ! さっき洗った服を干さないと。
あら?
なんだか、からだがフラつきます。
「どうして⋯⋯」
私としたことが廊下に座り込んでしまうなんてはしたない。
ランドリーに行かないといけないというのに⋯⋯
「さむい⋯⋯」
すこし⋯⋯少しくらいならこのまま休んでいてもかまいませんよね。
お母様、ごめんなさい⋯⋯ほんの少しだけですから。
ほんの少しここで休ませて下さい⋯⋯
***
「⁉︎」
天井⋯⋯?
私としたことが廊下に座り込んだまま寝てしまうなんて。
「だけど⋯⋯なぜベッドの上に?」
無意識のままベッドに戻ってきたのかしら?
『ようやく起きたか』
「ひっ⁉︎」
な、なぜ私の部屋に殿方が⋯⋯
しかもなぜ覆い被さるようにして顔を近づけているの?
いったいどちら様?
歳は私より2つか3つ上のように見える。
落ち着いた雰囲気で、長い黒髪、凛々しい眉。
顔立ちは整っていて、なんといいますか正直カッコいい。
⁉︎ ダメよ! 不審者をそんな目で見ては!
「どうした? まるで不審なものを見るような目だな」
「⁉︎」
不審者が自分を棚にあげている!
「なんだ? 叔父の手紙を読んでいないのか?」
「手紙?」
そうでした。今朝届いたゴルフォール伯爵からの手紙をまだ開けていませんでした。
“親愛なるフィルナ“
最近、レーリック領の近くに盗賊がでると聞く。
ひとり暮らすのもよいが、ワタシはいささか不安だ。
妹のところにプラプラした三男がいるので、そいつを
10日間ほどそちらに置いておく。
使用人だと思ってなんなりと申しつけてくれ。
「ゴルフォール伯爵の甥⋯⋯」
「そうだ。オルト・シルフォンス。歳は21だ。だいたいのことはできるつもりだ。
なんなりと申してくれ」
「そういうわけにいきません。オルト様は客人です。私がもてなしますので、
オルト様の方こそ、そこにお座りになって、私になんなりと申して下さいーー」
”⁉︎“
オルト様は突然、ご自分の額を私の額に当ててきました。
「まだ熱があるな」
「はひ⁉︎」
「顔がさっきより赤くなったな。他にどこか具合が悪いところはないか?」
「こ、これはオルト様のせいですッ!」
「そうか。俺が居てはゆっくりと眠れないだろ。俺はランドリーにあった洗濯物を干している。
なにかあったら呼んでくれ」
そう言ってオルト様は部屋をあとにしました。
「なんなよもう⋯⋯」
”⁉︎“
洗濯物⋯⋯
「⁉︎ ひゃッ!」
からだの気だるさが一瞬で吹き飛びました。
部屋を飛び出すなり、廊下を全力で駆け抜け、
掃除したばかりのツルツルした床に転びそうになりながら無我夢中。
”掃除というのはこれほどまでに仇(あだ)になる行いだったのかしら“と、後悔までが押し寄せてきます。
***
『オルト様ッ!』
「どうした?」
「ひっ!」
オルト様が手にしていた白い布を見て、からだが固まりました。
「大丈夫か? まだ寝ていないとダメだ」
全身の力が一気に抜けてその場にへたり込みました。
「パ、パ⋯⋯」
「ん? この下着のことか? 君のだろ。どうかしたのか」
オルト様の手にしていた私のパンツを力いっぱいひっぱってはがし取りました。
「ひどい汗だ。そろそろ着替えた方がよい。ベッドへ運んだときからそうだったがその服はもう汗のにおいが強い」
「ひっ⁉︎」
「どうした? はやくその上着を脱ぐんだ。さっさと着替えてしまった方が気持ちよくなれる」
「い、いやあああッ!」
「どしたんだ? はやくその上着を脱いで俺によこせ。洗濯をしてやる」
「い、いや⋯⋯」
「力が入らないなら俺がボタンをはずしてやろう」
「やめて⋯⋯」
「そう拒むな。こんなにグッショリと濡れているじゃないか。ベタつく前にはやく」
そんな甘い声でささやかないで⋯⋯
「下の方もだ」
「ッ⁉︎」
“バチンッ!”
咄嗟にオルト様の頬を叩いてしまいました。
「出て行ってッ!」
***
「もう入っていいか?」
「はい⋯⋯」
「着替え終わったようだな。その方がさっぱりとしていて気持ちいいだろ。
脱いだ物をよこしてくれ」
「⋯⋯下着は自分で洗います」
「わかった。だがそれより休む方が先だ」
「ひゃッ⁉︎」
お、お姫様抱っこ⁉︎
「ベッドに戻ろうか」
「うううう⋯⋯」
「また顔が赤くなったな」
あなたのせいです。
***
「いったいなんなのかしら。全部、ご自分のペースでとりつく島もありませんわ。
殿方というのはみんな、ああなのかしら」
それより、体調が良くなったらはやく出てってもらいましょう。
このままでは生活のリズムが乱れてしまいます。
「すんすん⋯⋯」
いい匂い⋯⋯
“ぎゅるぎゅる”
「⁉︎ お腹の音が⋯⋯はしたない。淑女として見っともないですわ。オルト様に聞かれなくてよかった」
“コンコン”
「入るぞ。そろそろお腹の音がなる頃だと思ってな」
「キャーッ!」
「どうした? 夕食を持ってきたんだ」
「い、いまの聞こえてないですよね?」
「何をだ?」
「べ、別に⋯⋯」
「心配しなくていい。お腹の音などで淑女の品は落ちたりしない」
「いやあああ!」
やっぱり聞いていた!
「健康に生きている証拠だ。フィルナは奇妙なことばかり言うな」
どうしましょう⋯⋯奇妙だなんてこの方に言われたくない。
「野菜スープだ。口に合うかわからんが食べてほしい」
「あ、ありがとうございます⋯⋯」
見ず知らずの殿方の料理を口にするなんて正直こわい。
スプーンですくった具材をおそるおそる口へと運ぶ。
「⁉︎」
「どうかな?」
「⋯⋯おいしいーー」
このスープを口にするまでは料理に自信がある方でした。
しかし、こんなものを食べさせられてはもうレードルすら手に取る自信がありません。
それどころかレーリック家で働いていたシェフたちが作ったどの料理よりもおいしい。
私がいままで食べてきたのはなんだったのかしら⋯⋯
「くやしい⋯⋯」
「はじめて言われた感想だな。やはりフィルナは変わっているな」
「はッ⁉︎」
***
目を覚ますと外はもう明るくなっていました。
なんだか今朝はからだ軽い。
両親が亡くなってからしばらく、気を張りつめていたせいか昨日は疲れが一気にでたようです。
ベッドの横には綺麗に畳まれた私の洋服。
どれもパリっとしていて、袖を通すだけで心地がいい。
洗濯物ですらあの妙な方にかなわないというのはくやしいものです。
ダイニングへ降りていくとキッチンの方から“トントントン”と、心地よい音が聞こえてきます。
「起きたのかフィルナ。今朝は顔色がいいな。無事でなによりだ」
「あの⋯⋯昨日は失礼しました。 ゴルフォール伯爵の甥とは知らずご無礼を⋯⋯顔まで叩いてしまって」
「かまわない。それより朝食だ。パンとクラムチャウダーを用意した。はやく食べよう」
やはりこの方の料理はおいしい。
ひとくち、口にいれただけでこれだ。
キッチンへやってくる途中漂っていた匂いだけでも食欲がそそられてしまっていました。
「オルト様⋯⋯私は幼少の頃よりどの家に嫁いでも恥ずかしくないようにと
お母様から料理や洗濯の仕方、お掃除までをきびしくしつけられてきました。
だから本来なら自分ですべてできるのです。 ⋯⋯ですけどオルト様が居る間だけはおまかせします」
「わかっている」
「⁉︎ だからってなぜ顔を近づけるのです?」
「静かに」
「ひっ」
また額を⋯⋯
「熱は下がったようだな。しかし、油断はできない今日もゆっくり寝て休むんだ」
数日後ーー
両親が亡くなってからはひとりで生きてゆく覚悟を決めた。
だから掃除も洗濯も料理もすべてひとりでやろうとはりきっていた。
だけどそれもオルト様が来て一変。
私がひとりでやろうとしていたことはすべて彼がやってくれています。
はじめは自分がやらなきゃダメだ。自分でなんとかするんだと彼に対してムキになっていましたが
そんな感情は時間が経つ中で次第に薄れていきました。
今はただただ甘やかされております。
「本当に美味しそうな顔で食べるなフィルナは」
「ん~」
すでにオルト様無しでは生きてはいけないからだになってしまいました。
今では鍋に手を伸ばすことですらおっくう。
***
顔が近い⋯⋯
そして唇をそんな撫でるように触れられると恥ずかしいーー
リップブラシの毛がこそばゆく感じることもなく滑らかに滑ってゆく。
「今日は一段と紅があざやかだ」
「ありがとう⋯⋯」
「今日は市場で大道芸が見られるそうだ。楽しみだ」
「はい」
「次は髪をとかそう」
ほんと不思議だ。
寝起きでゴワゴワした髪もオルト様がクシを入れるだけであっという間にサラサラになる。
それも痛くない。
まるで魔法だ。
考えたらオルト様が掃除したところもオルト様がつくった料理もすべて魔法のようにキラキラしていた。
オルト様は”魔法使い“と考えた方がこの方の存在がなぜ不思議なのか気にならなくなる。
「ん? どうした。さっきから俺の顔を見つめて」
「い、いや」
「さぁ、身支度は完了だ。出かけよう」
屋敷に突然やってきたころははやく出て行ってほしいと思っていましたけど
今はこの人の側からかたときも離れたくない。
「? 手を繋いでくれるのか」
「は、はぐれたら怖いからですから」
「フッなるほど。今日はなんだか天気も良い。ついでにピクニックに行こう」
***
露店に並んだ異国の工芸品に目移りしながらピエロの芸にも驚かされて、
楽しいという感情を思い出したのはいつ以来なのか。
市場をあとにしてやってきた草原では景色を眺めながら食べるオルト様のサンドウイッチは格別に美味しいと知る。
「景色もスパイスのひとつなんだ」
「だから、ピクニックに行こうって言ったの?」
「そうだ」
頂上に雪が残る山の方から風が吹いてくる。
「気持ちいい⋯⋯」
オルト様は寝そべるともっと気持ちいいと教えてくれました。
「こんなところメイドやお母様に見られていたら“はしたない”と怒られていましたね」
「それがいいんじゃないか」
「ずっと忘れていました。お屋敷の外がこんなに色あざやかでこんなに広いことも。
なんだか長い年月、お屋敷の中に閉じこもっていたように感じます。
それにレーリック領がこんなに素敵なところだなんて知りませんでした」
「それはよかった」
「もしかして私に魔法をかけました」
「それはどうだろうか」
***
“陽の光?“
「朝?」
目を覚ますといつもよりもお日様が高い位置にいる時間帯の起床です。
「どうやら寝坊をしてしまったようね⋯⋯」
”⁉︎“
おかしいーー
朝は決まった時間にオルト様が起こしに来るはず。
一階のダイニングの方へ階段を降りていくと、
いつもの”トントン“という軽快な調理の音がキッチンの方から聞こえてきません。
「オルト様が寝坊?」
まさか⋯⋯
「オルト様!」
いない
「オルト様!」
いない
「オルト様!」
⋯⋯ここにも
どのドアを開いてもオルト様のお姿がない⋯⋯
「⁉︎」
”10日間だけ“
「今日ってオルト様がやってきて何日目⁉︎ ⋯⋯そうか11日ーー」
オルト様が急に外へ行こうと言い出したのは昨日が最後だったから⋯⋯
オルト様は自分から切り出すお方じゃない。
私がもっと早く気づいて最後の1日を大切に過ごせばよかった。
「ああ、そうだ」
このままずっと一緒に居られると期待したからいけないんだわ。
お父様とお母様のときもそうだった⋯⋯
「どうしていつも私ばかり⋯⋯静まり返った世界にひとり取り残されるの?」
そうだ。くよくよしてちゃダメ。
自分でやるんだ。
お父様とお母様がいなくなったときにひとりで生活するって決めたんじゃない。
アレ⋯⋯だけどどうして?
私ってこんなに掃除下手だったけ?
分量は間違えていないはずなのにどうして私の料理はこんなにおいしくないの?
やっぱりダメ。
オルト様のせいでひとりで生きていかれなくなっちゃったじゃない。
知らなかった。魔法が解かれると屋敷がこんなに薄暗く寂しいものだったなんて。
知らなかった。ひとりってこんなに寂しいんだって。
だったらひどいじゃない。こんなに突然、魔法を解くなんて。
どうしよう涙が止まらない。
周囲に心配されないようにってもあったけど、お父様、お母様のお葬式ですら泣かなかったのに。
ほんとひどいーー
「オルト様のバカ!」
『フィルナ!』
「⁉︎ オルト様?」
「やはり起きていたか。すまない。遅くなった」
「オルト様⋯⋯なぜ?」
「不思議なことを言うな。昨日、フィルナが魚料理を食べたいと言っていたので深夜に屋敷を離れて、
海辺の街まで行って漁師たちが水揚げしたばかりの新鮮な魚を買い付けていたんだ」
「じゃあ出て行ったわけじゃないのですね」
「出てゆく? そんなはずはない」
「だけどゴルフォール伯爵の手紙には10日間しかいないと」
「叔父上の方便だな。俺にはレーリック家の令嬢のところに嫁いで面倒を見ろと言っていた。
俺はむしろフィルナと結婚したものと思っていた」
どうやら私は知らず知らずのうちに結婚していたようです。
「大丈夫か?」
私は急に力が抜けてその場にへたり込んでしまいました。
「つまりオルト様はこれからもずっと一緒に居てくださるのですか?」
「当然だ」
どうやら私の甘々な生活は末永く続きそうです。
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