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四章 さよなら、真夏のメランコリー

三 ちっぽけな私たち【1】

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 しんしんと雪が降り始めた公園は、とても静かだった。
 輝先輩は私の手から傘を抜き取り、肩を寄せ合うようにして座り直した。


「俺の足のこと、ちゃんと話したことなかったよな」

「うん……」


 今まで、自分からは訊けなかった。
 自分が水泳について触れられたくないからこそ、自分からは彼に陸上のことは訊かないと決めていたから。


「俺、一年のインハイの直後、練習中に右膝の靭帯を断裂したんだ」

「靭帯?」

「うん。脱臼して、靭帯が切れた。別にそれ自体は全然珍しいことじゃないし、陸上選手以外にもスポーツ選手なら結構経験してる人はいる」


 私は静かに相槌を打ち、ただ話を聞くことに徹した。


「通常はさ、膝の靭帯が断裂したら、固定して周辺の組織がくっつくのを待つか、もしくは靭帯の再建手術をしてリハビリをするか、なんだって」


 前者は、普段スポーツをしなかったり、手術しない方がいい事情があったり。もしくは、日常生活に差し障りがなさそうだったり。


 そういう人が手術はせずに膝の周辺を固定してやり過ごし、ある程度の期間が経つのを待つのだとか。
 靭帯は断裂したままだけれど、激しいスポーツをするわけじゃないなら基本的には差し支えはないらしい。


 逆に、手術をするのはスポーツ選手や日常的にスポーツをする人。
 靭帯が断裂している以上、脱臼のリスクは上がるため、日常生活がスポーツと密接している人の大半は靭帯再建手術を受け、その後はリハビリに励む。


 ただ、そのリハビリが大変なのだ。
 痛みが強かったり足が思うように動かなくなっているのはもちろん、リハビリが上手くいくとは限らない。


 上手くいっても、一〇〇パーセント元通りになるという保障はない。
 完治したとしても、どうしたって怪我をする前よりも不調は生じることがある。
 そもそも、リハビリ期間は数ヶ月に及ぶため、その間はまともなトレーニングもできない。


「サッカー選手で約一年かけて復帰した人がいるって見て、その時は希望よりも絶望感の方が大きかった。一年なんて次のインハイには間に合わない。高校生の俺にとっては、致命的なことに思えたんだ」


 それは当たり前だ。
 部活でもスクールでも、一日一日の練習が過酷だった。


 ほんの数日休んだだけで、感覚を取り戻すのにそれ以上の期間がかかることだってある。
 だから、部員もチームメイトたちも、滅多なことでは休んでいなかった。


「でも、けがしてしまった以上、手術とリハビリを受けるしかなかった。必死に痛みに耐えてリハビリに通って、何ヶ月もかけて少しずつトレーニングもして……。そうやって、ようやく足が元通りになりそうだった時、もう一回靭帯を断裂したんだ」

「え……?」

「今度はもう、致命的だと思ったよ」


 輝先輩が眉を下げ、遠くを見つめる。
 その横顔は、今もまだ当時の傷を鮮明に覚えていると言わんばかりだった。


「もう一回手術してリハビリをしたって、最初にけがした時みたいに走れる保障はない。なにより、仮にそれで治ったとしても、もう最後のインハイには間に合わない」


 彼は、最初のリハビリに数ヶ月を要し、インターハイ予選には間に合わなかった。
 そこへ二度目のけが。


 もし完治したとしても、それは選手として一〇〇パーセント問題がない状態とは限らない。
 だいたい、リハビリとは別にトレーニングもしなければいけないのに……。輝先輩が絶望するのは、当然のことだ。


「でも、俺は諦め切れなくてさ。もう一回手術してリハビリにも通って……。大学でまた陸上できるんじゃないかって、心のどこかで期待してたんだ」


 結果は、これまでの彼を見ていれば聞くまでもない。
 そもそも、前に『選手としてはもう走れない』と聞いていたのだから……。


「手術もリハビリも失敗したわけじゃない。でも、成長期のタイミングで同じ場所を二回手術するのって、選手としては致命的だったんだと思う。まともにトレーニングができてなかったのもあって、前みたいに走れなくなった」


 もう選手として泳げない……とわかったあの日の気持ちが、鮮明に蘇ってくる。
 目の前が真っ暗になって、息の仕方も忘れたほど苦しくてたまらなかった。


「で、もう諦めようと思った。可能性はゼロじゃなかったんだろうけど、マイナスから再スタートできるほど希望は持てなかったから……」


 相槌を打つことも忘れていた私は、ただ輝先輩を見つめていた。
 傷ついた過去の彼を思えば、胸の奥が痛い。


「俺さ、リハビリしてる時、何度も心が折れかけたんだ。痛いし、思うように動かないし……でも、周りはどんどんタイムを伸ばして結果を出していくし……」


 不安と苛立ち、そして焦り。
 その渦中にいた輝先輩の気持ちは、たぶん私も知っている。
 まったく同じじゃなくても、きっとそれらを味わったことがある。


「前みたいに動かない足にも、自分の環境にも苛立って……。部員を見るだけでも心がざわついて……。毎日苦しいのに、そういう弱音を吐く場所がなかった。顧問もコーチも『待ってるから頑張れよ』って言うだけで……どんどん追い詰められた」


 輝先輩がこちらを向く。


「そんな時に、美波の試合を見たんだ」


 次いで紡がれたのは、予想外の言葉だった。


「え?」


 微笑んだ彼は、少しだけ悲しそうで。
 だけど、もう過去で立ち止まっている様子はない。
 苦しんだ時間とは決別したような、どこか晴れやかにも見える表情だった。

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