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二章 憂鬱な夏
四 初めての気持ち【2】
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輝先輩の家は、駅から徒歩八分ほどの場所にあった。
閑静な住宅街の一角。
すぐ傍には小さな公園があり、そこからセミの鳴き声が響いていた。
「どうぞ」
「お邪魔します……」
「俺の部屋、二階の一番奥なんだ」
彼は階段を上がり、私を部屋に案内してくれる。
「飲み物取ってくるから、ちょっと待ってて」
「あ、さっきのピーチティーがあるから……」
「外は暑かったし、冷えてる方がいいだろ? 麦茶でいい?」
「う、うん」
なんとなく落ち着かない私に反し、輝先輩は至っていつも通りだ。
彼は、私をひとり部屋に残して下に戻った。
(輝先輩の家に来ることになるなんて……)
突然の出来事に、まだ心が追いついてこない感じがする。
それでも、もう後戻りはできないと思うと、とにかく課題に集中するしかないと自分自身に言い聞かせた。
「意外とシンプルなんだ……」
部屋をぐるりと見回せば、モノトーンカラーで統一されていることがわかる。
ベッドのシーツや枕カバー、本棚は黒。
ラグはグレーだけれど、基本的に黒の方が多い。
輝先輩は金髪の印象が強い。だからなのか、もっと明るい色に囲まれているようなイメージだった。
(でも、部屋がカラフルっていうのは似合わない気がする……)
手持ち無沙汰のまま周囲を見ていると、ふと室内が彼の香りでいっぱいだということに気づいた。
輝先輩の部屋なのだから、それはきっと当たり前のこと。
だけど、一度意識してしまえば、思考が集中してしまう。
彼の匂いに包まれている気がして、妙にソワソワした。
しかも、つられたように緊張感が大きくなって、心臓が勝手にドキドキし始めた。
(いやいや……別に意識しなくていいんだよ。とにかくいつも通りに……)
平常心でいようとすればするほど、余計に身の置き場がなくなるような感覚に陥っていく。
このままだと、輝先輩が戻ってくる頃には挙動不審になりそうで……。彷徨わせた視線が捕らえた本棚を見ることにした。
本棚には、きちんと本が並んでいる。
一巻から順番に並んでいたり、同じ作者のマンガが隣同士に置かれていたりと、整頓されているのが一目でわかる。
彼は意外と几帳面なのか、本屋さんの書棚を思い出した。
「本棚はマンガばっかりなんだ」
輝先輩の本棚には、少年マンガがたくさん並んでいる。
「あ、これ、今流行ってるやつだ」
「読むなら貸すよ」
「わっ……!」
不意に背後から彼の声が聞こえて、反射的に肩を跳ねさせてしまう。
振り返ると、どこか楽しげな笑みを寄越されていた。
「人の部屋を観察するなんて、美波のエッチ」
「エッ……! 違っ……! そういうつもりじゃ……!」
「冗談だって。そんなにムキになるなよ」
ハハッと笑う輝先輩は、私の言葉なんて気にしていないようだった。
「そもそも、別に見られて困るようなものもないし」
「か、彼女とか……元カノの写真とかは?」
悔し紛れに言い放つと、彼がきょとんとしたあとで苦笑した。
「彼女なんていないって」
「そう、なんだ……」
「いたら美波を部屋に入れるわけがないだろ」
「……それもそうだよね」
「……なに? 俺に彼女がいるかどうか気になった?」
「そ、そんなんじゃないし! 今のは一般的な疑問っていうか!」
なんだか、さっきから輝先輩の言葉に翻弄されてばかりだ。
いつも以上に彼のペースに巻き込まれていく。
「なんだ、残念」
「……っ」
意味深な笑顔を向けられて、鼓動が跳ね上がる。
そんな私を余所に、輝先輩は折り畳み式のローテーブルを出した。
「これでいい? ふたりで使うとちょっと狭いかもしれないけど、一緒にやる方がいいよな」
ローテーブルを広げ、麦茶を置く。
確かに少し狭いけれど、学校で使っている机よりは大きいし、ふたりでも使えるだろう。
「先輩はあっちの机でやらないの?」
「美波、サボるつもりだろ?」
「違うし!」
「うそうそ」
冗談っぽく笑う彼に、ムッとした顔を返す。
「せっかく一緒にいるのに別々で勉強するのは寂しいだろ?」
だけど、輝先輩がそんな風に言うから、すぐに表情筋の力が抜けた。
「輝先輩こそ、サボりそうなんでしょ」
「俺はサボりません。崖っぷちの受験生を舐めるなよ」
自虐されて噴き出せば、彼が「笑うところじゃないからな」と眉を寄せる。
それがおかしくて、ようやく肩の力が抜けた。
「じゃあ、やるか」
「うん」
向かい合って座れば、いつも以上に近い距離にまた鼓動が跳ねた。
意識しているつもりはないのに、どうしても目の前にいる輝先輩の動向を追いそうになる。
何度も課題に集中しようとしても、どうにも捗らなかった。
「美波、集中してないだろ?」
「えっ?」
「わからないところがあるなら言えよ」
「……先輩、教えられるの?」
「失礼な奴だな。これでも三年になってからは成績が上がったんだよ」
彼は不本意そうにしつつも、怒っている様子はない。
「どれ?」
「え?」
「だから、わからないとこ」
「あ、いや……まだそこまでいってないっていうか……」
「あ、本当だ。全然してないじゃん」
「今からやるもん」
「ちゃんとやらないと、遊園地に連れて行ってやらないぞー」
「先輩はお父さんですか」
「失礼な。れっきとした十八歳だよ」
冗談を言い合っているうちに、空気が和んでいく。
気づけば、私の中にあった緊張も少しだけ解れていた。
「ほら、やるぞ。本当に真面目にやらないと終わらないからな」
「わかってるよ」
輝先輩は、バイトと家庭教師と受験勉強。
私はバイトと課題。
夏休みのスケジュールは、早くもいっぱいなのだ。
今日だって、ふたりとも夕方からバイトがある。
真剣に課題をしなければ、夏休み最終日には泣くはめになるに違いない。
それを回避すべく、今度こそ真面目に英語のテキストをこなしていった。
(あ、また先輩の匂い……)
意識しないようにしていても、ふとした瞬間に彼の香りがいたずらに鼻先をくすぐってくる。
そのたびに、私の心はソワソワして、胸の奥がキュッとすぼまるようだった。
感じたばかりの気持ちは初めてのもの。
それに、どうしてこんな感覚を抱くのかがわからない。
クーラーの効いた部屋にいるはずなのに、なぜか頬が熱くなりそうだった。
閑静な住宅街の一角。
すぐ傍には小さな公園があり、そこからセミの鳴き声が響いていた。
「どうぞ」
「お邪魔します……」
「俺の部屋、二階の一番奥なんだ」
彼は階段を上がり、私を部屋に案内してくれる。
「飲み物取ってくるから、ちょっと待ってて」
「あ、さっきのピーチティーがあるから……」
「外は暑かったし、冷えてる方がいいだろ? 麦茶でいい?」
「う、うん」
なんとなく落ち着かない私に反し、輝先輩は至っていつも通りだ。
彼は、私をひとり部屋に残して下に戻った。
(輝先輩の家に来ることになるなんて……)
突然の出来事に、まだ心が追いついてこない感じがする。
それでも、もう後戻りはできないと思うと、とにかく課題に集中するしかないと自分自身に言い聞かせた。
「意外とシンプルなんだ……」
部屋をぐるりと見回せば、モノトーンカラーで統一されていることがわかる。
ベッドのシーツや枕カバー、本棚は黒。
ラグはグレーだけれど、基本的に黒の方が多い。
輝先輩は金髪の印象が強い。だからなのか、もっと明るい色に囲まれているようなイメージだった。
(でも、部屋がカラフルっていうのは似合わない気がする……)
手持ち無沙汰のまま周囲を見ていると、ふと室内が彼の香りでいっぱいだということに気づいた。
輝先輩の部屋なのだから、それはきっと当たり前のこと。
だけど、一度意識してしまえば、思考が集中してしまう。
彼の匂いに包まれている気がして、妙にソワソワした。
しかも、つられたように緊張感が大きくなって、心臓が勝手にドキドキし始めた。
(いやいや……別に意識しなくていいんだよ。とにかくいつも通りに……)
平常心でいようとすればするほど、余計に身の置き場がなくなるような感覚に陥っていく。
このままだと、輝先輩が戻ってくる頃には挙動不審になりそうで……。彷徨わせた視線が捕らえた本棚を見ることにした。
本棚には、きちんと本が並んでいる。
一巻から順番に並んでいたり、同じ作者のマンガが隣同士に置かれていたりと、整頓されているのが一目でわかる。
彼は意外と几帳面なのか、本屋さんの書棚を思い出した。
「本棚はマンガばっかりなんだ」
輝先輩の本棚には、少年マンガがたくさん並んでいる。
「あ、これ、今流行ってるやつだ」
「読むなら貸すよ」
「わっ……!」
不意に背後から彼の声が聞こえて、反射的に肩を跳ねさせてしまう。
振り返ると、どこか楽しげな笑みを寄越されていた。
「人の部屋を観察するなんて、美波のエッチ」
「エッ……! 違っ……! そういうつもりじゃ……!」
「冗談だって。そんなにムキになるなよ」
ハハッと笑う輝先輩は、私の言葉なんて気にしていないようだった。
「そもそも、別に見られて困るようなものもないし」
「か、彼女とか……元カノの写真とかは?」
悔し紛れに言い放つと、彼がきょとんとしたあとで苦笑した。
「彼女なんていないって」
「そう、なんだ……」
「いたら美波を部屋に入れるわけがないだろ」
「……それもそうだよね」
「……なに? 俺に彼女がいるかどうか気になった?」
「そ、そんなんじゃないし! 今のは一般的な疑問っていうか!」
なんだか、さっきから輝先輩の言葉に翻弄されてばかりだ。
いつも以上に彼のペースに巻き込まれていく。
「なんだ、残念」
「……っ」
意味深な笑顔を向けられて、鼓動が跳ね上がる。
そんな私を余所に、輝先輩は折り畳み式のローテーブルを出した。
「これでいい? ふたりで使うとちょっと狭いかもしれないけど、一緒にやる方がいいよな」
ローテーブルを広げ、麦茶を置く。
確かに少し狭いけれど、学校で使っている机よりは大きいし、ふたりでも使えるだろう。
「先輩はあっちの机でやらないの?」
「美波、サボるつもりだろ?」
「違うし!」
「うそうそ」
冗談っぽく笑う彼に、ムッとした顔を返す。
「せっかく一緒にいるのに別々で勉強するのは寂しいだろ?」
だけど、輝先輩がそんな風に言うから、すぐに表情筋の力が抜けた。
「輝先輩こそ、サボりそうなんでしょ」
「俺はサボりません。崖っぷちの受験生を舐めるなよ」
自虐されて噴き出せば、彼が「笑うところじゃないからな」と眉を寄せる。
それがおかしくて、ようやく肩の力が抜けた。
「じゃあ、やるか」
「うん」
向かい合って座れば、いつも以上に近い距離にまた鼓動が跳ねた。
意識しているつもりはないのに、どうしても目の前にいる輝先輩の動向を追いそうになる。
何度も課題に集中しようとしても、どうにも捗らなかった。
「美波、集中してないだろ?」
「えっ?」
「わからないところがあるなら言えよ」
「……先輩、教えられるの?」
「失礼な奴だな。これでも三年になってからは成績が上がったんだよ」
彼は不本意そうにしつつも、怒っている様子はない。
「どれ?」
「え?」
「だから、わからないとこ」
「あ、いや……まだそこまでいってないっていうか……」
「あ、本当だ。全然してないじゃん」
「今からやるもん」
「ちゃんとやらないと、遊園地に連れて行ってやらないぞー」
「先輩はお父さんですか」
「失礼な。れっきとした十八歳だよ」
冗談を言い合っているうちに、空気が和んでいく。
気づけば、私の中にあった緊張も少しだけ解れていた。
「ほら、やるぞ。本当に真面目にやらないと終わらないからな」
「わかってるよ」
輝先輩は、バイトと家庭教師と受験勉強。
私はバイトと課題。
夏休みのスケジュールは、早くもいっぱいなのだ。
今日だって、ふたりとも夕方からバイトがある。
真剣に課題をしなければ、夏休み最終日には泣くはめになるに違いない。
それを回避すべく、今度こそ真面目に英語のテキストをこなしていった。
(あ、また先輩の匂い……)
意識しないようにしていても、ふとした瞬間に彼の香りがいたずらに鼻先をくすぐってくる。
そのたびに、私の心はソワソワして、胸の奥がキュッとすぼまるようだった。
感じたばかりの気持ちは初めてのもの。
それに、どうしてこんな感覚を抱くのかがわからない。
クーラーの効いた部屋にいるはずなのに、なぜか頬が熱くなりそうだった。
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