上 下
27 / 44

二十七:現実じゃ、ないみたいだ。

しおりを挟む
 花梨の言葉に、すぐに紬は反応できなかった。
 そんな彼の反応に苛立ったのか、花梨は続けて同じ言葉をもう一度言った。

「雫が、入院したの。ねえ、聞こえてる!?」

 花梨の声は、小さかった。
 それでも紬の耳に届くのには、十分だった。
 だけれど、それはあまりにも唐突すぎて紬は反応できなかったのだ。

 そんな彼にお構いなしに、彼女は苛立ったように声を段々と荒げる。その態度に紬も苛立ちを感じたが、僅かに青ざめて見える花梨の表情から、それが悪い冗談の類ではなく、しかも重篤なものであろうことが伺えて腹の内が、ずしりと重くなった気がした。

「な、ん、だよ、それ」

「……雫、……今回の退院は。健康になったから、じゃなくて……確率の低い手術の前に、少しでも……思い出を作るためのものだったって……」

「なん、だよ、それ!」

 花梨の言葉に紬は理解ができなかった。

 思わず声を荒げた彼に、花梨はただ眉を寄せた。
 彼女も同じように知らされていなかったのだろうということは頭で理解できても、感情が追い付かない。
 
 昨日までは、確かにいた人物が唐突にいなくなるだなんて、誰が想像できるだろうか?
 日が沈めば昇るのと同じように、変かは大なり小なりあろうともそこにある日常はあるのだと思うのは、いけないことであろうか。

「あたしも、知らなかったのよ!」

 花梨の悲鳴にも似た悲痛な声に、紬はぐっと苛立つ気持ちを飲み込むしかない。
 彼が苛立ったところで現状が変わるわけでもないし、雫の入院が変わるわけでもなければ彼女の病魔が消えるわけでもないのだということくらい、紬にだってわかっている。

 ただ、何も知らなかった。

 また・・何も知らなかったのだという事実が、紬を苛立たせたし彼を苛んでいるのだからそれを誰かが肩代わりできるわけでもない。

「……あたしも、雫から、メッセージが来て知ったの」

 端的に、入院することになりました。今度は長期になるから卒業式は一緒に出られないと思うということが記されていた。
 勿論その直後、どういうことなのかと問う返信をしたものの既読は付かずに電話をかけても出ることがない。
 中学時代の友人ということもあって互いの自宅の場所も知っていたし電話番号も知っていた。
 だが家電に掛けるには深夜だったため躊躇った花梨は、翌日家を出るのが自分が最後なのを良いことに学校を休むことにして雫の家に向かったのだという。

「行ったら、雫のお母さんが出た」

 雫の家は一軒家で、会社員の父親と専業主婦の母親、それと雫というごく一般的な家族構成だという。
 だから雫の母が呼び鈴に応じて出てきたのは不思議でも何でもなかったし、花梨も何度となく顔を合わせている相手だったのでどことなく安心感があった。
 とはいえ、本来学生がいるべき時間に訪れているという後ろめたさがあって、まっすぐに見ることはできなかったらしいが。

「それで、雫が、……入院するって聞いたから、会いたくて来たんだって、説明した」

 花梨の来訪、その理由は母親の方もすぐにわかっていたのだろう。
 静かな声で、父親がもう病院に連れて行った、と教えられたという。

 見舞いに行きたい、病状はどうなのか、卒業が間に合わないってどういうことなのか。
 それらを訪ねれば、母親はくしゃりと顔を歪ませてから、ごめんね、と言ったのだという。

「それでね」

 震える手が、紬に差し出された。
 花梨の指先に、見覚えのある封筒を認めて紬はヒュッと息が止まるかと思った。

 それは、あの便箋と同じもの。
 つまり、それは、雫からのもの。

「みんなに。預かって、きた」

 震える声の花梨は、それだけ言うときゅっと唇を引き結び、それから意を決したように紬を見上げる。

「あたしも、読んだ。今度の手術、……成功しても後遺症が酷いんだって。みんなと少しだけでも高校生活送りたかったんだって! ねえ、なんで雫ったら教えてくれないのかな!」

「……花梨」

「中学の時も病気の内容は教えてくれなかった! それでもそのうち退院するから大丈夫だよって笑ってたの。信じてたの!」

 紬は、花梨と雫の中学時代を知らない。
 違う学区だったのだから当然と言えば当然だし、彼女たちが中学の頃から仲が良かったとは耳にしていた。だがそれだけだ。

「なのに今度は手術だって。手術! ねえ、そんなに悪かったのに!」

 くしゃり。
 花梨の顔が歪んで、その目に涙が溜まっていく。
 溜まって、溢れて、零れていくそれは花梨の感情そのもので、綺麗だと紬は場違いにも思った。

 花梨の声は、鋭さを増し、案じるが故の怒気に溢れ、ぶつけどころのないその感情を紬に向けているのだとわかるからこそ、紬も何も言わない。
 同じように『なんで』『どうして』という感情が彼にもあるのだから、雫と付き合いが長く仲が良かった分、花梨の方がそれを強く感じていることも理解できたからだ。

「……そんなに具合が悪かったのに、教えてくれなかったのかな。どうして、あたし、気が付かなかったのかな……!」

 それは雫が隠し通したからだろう、なんていう言葉はきっと花梨が望む言葉ではなく。
 いっそのこと責めてもらえれば楽になれるのにという気持ちで紬にそれを望んでいるのだろう。
 花梨は、紡には決してそれを望めそうにないから。

 紬もまた、もし雫のことで叱ってもらうならば花梨を頼っただろう。事実、彼女ならば愚かな自分を責めて酷い男だと言ってくれて、そうだよなと自分を慰めることもできると思ったことがあるからだ。
 紡も言ってくれるかもしれない、でもそれは兄弟という立場からすれば、紬を守る側になってしまうその優しさが、辛い。

 きっと花梨にとっても同じだ。
 紡のことが好きだからこそ、こんな苛烈な感情をぶつけることは躊躇われたのだろう。
 好きな人には綺麗な自分を見てもらいたいと思うのは、恋する人間特有の自己満足であり、献身なのだから。

「……どこの、病院だよ」

「教えて、もらえなかった」

「え?」

「雫が、そうして欲しいって、言ったんだって。仲良くしてくれて、ありがとうねって。おばさん……まるで、もう、……」

 花梨は思い出して辛くなるのか、言葉を詰まらせた。
 ズズッと鼻を啜る音、泣くのを堪えようとするのに失敗して、まるで幼子が泣く前兆のような甲高い声が短く上がるのを紬はただ茫然と見ているしかできない。

 泣いている彼女がいたら、その涙を拭ってあげたかった。
 苦しんでいるのなら、支える役になりたかった。

 だけれど現実はどうだろう?

(雫が、入院? 場所もわからない?)

 頭の中が真っ白になったみたいだ。いいや、実際紬の頭の中は真っ白で何も考えることができなかった。
 先程までは嵐の中にいるかのように、心が荒れていたというのに。怒りや失望、愕然とした思い。
 それが何から来ているのかも理解できないままに、胸の中がぽっかりと空いたみたいだった。

「もう、会えない、みたいなこと言われて。あたし、頭、真っ白で……!!」

 どうしよう、どうしたらいいかわかんないよ。
 そう言って縋りついてきた花梨を、紬は抱きしめてやることはできなかった。

 縋りつかれた衝撃で、一歩だけ足を後ろにやっただけで、茫然と自分の胸の中で泣く愛しい少女を見下ろすだけだ。

(雫が……、まさか、死ぬ、のか?)

 誰にも言わずに消えた雫。
 その行き先を教えない彼女の家族。

 告げられた、これまでへの感謝。

 そして、差し出された手紙。

(そんな、現実じゃ、ねえみたいだ)

 けれど、それは決して明るい未来を示すものとは紬にも到底思えなくて、ただただ、泣いている花梨の声が現実じゃないどこか遠くの出来事のように、彼の耳に聞こえてくるのだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

みいちゃんといっしょ。

新道 梨果子
ライト文芸
 お父さんとお母さんが離婚して半年。  お父さんが新しい恋人を家に連れて帰ってきた。  みいちゃんと呼んでね、というその派手な女の人は、あからさまにホステスだった。  そうして私、沙希と、みいちゃんとの生活が始まった。  ――ねえ、お父さんがいなくなっても、みいちゃんと私は家族なの? ※ 「小説家になろう」(検索除外中)、「ノベマ!」にも掲載しています。

思い出を売った女

志波 連
ライト文芸
結婚して三年、あれほど愛していると言っていた夫の浮気を知った裕子。 それでもいつかは戻って来ることを信じて耐えることを決意するも、浮気相手からの執拗な嫌がらせに心が折れてしまい、離婚届を置いて姿を消した。 浮気を後悔した孝志は裕子を探すが、痕跡さえ見つけられない。 浮気相手が妊娠し、子供のために再婚したが上手くいくはずもなかった。 全てに疲弊した孝志は故郷に戻る。 ある日、子供を連れて出掛けた海辺の公園でかつての妻に再会する。 あの頃のように明るい笑顔を浮かべる裕子に、孝志は二度目の一目惚れをした。 R15は保険です 他サイトでも公開しています 表紙は写真ACより引用しました

【完結】殿下、自由にさせていただきます。

なか
恋愛
「出て行ってくれリルレット。王宮に君が住む必要はなくなった」  その言葉と同時に私の五年間に及ぶ初恋は終わりを告げた。  アルフレッド殿下の妃候補として選ばれ、心の底から喜んでいた私はもういない。  髪を綺麗だと言ってくれた口からは、私を貶める言葉しか出てこない。  見惚れてしまう程の笑みは、もう見せてもくれない。  私………貴方に嫌われた理由が分からないよ。  初夜を私一人だけにしたあの日から、貴方はどうして変わってしまったの?  恋心は砕かれた私は死さえ考えたが、過去に見知らぬ男性から渡された本をきっかけに騎士を目指す。  しかし、正騎士団は女人禁制。  故に私は男性と性別を偽って生きていく事を決めたのに……。  晴れて騎士となった私を待っていたのは、全てを見抜いて笑う副団長であった。     身分を明かせない私は、全てを知っている彼と秘密の恋をする事になる。    そして、騎士として王宮内で起きた変死事件やアルフレッドの奇行に大きく関わり、やがて王宮に蔓延る謎と対峙する。  これは、私の初恋が終わり。  僕として新たな人生を歩みだした話。  

すこやか食堂のゆかいな人々

山いい奈
ライト文芸
貧血体質で悩まされている、常盤みのり。 母親が栄養学の本を読みながらごはんを作ってくれているのを見て、みのりも興味を持った。 心を癒し、食べるもので健康になれる様な食堂を開きたい。それがみのりの目標になっていた。 短大で栄養学を学び、専門学校でお料理を学び、体調を見ながら日本料理店でのアルバイトに励み、お料理教室で技を鍛えて来た。 そしてみのりは、両親や幼なじみ、お料理教室の先生、テナントビルのオーナーの力を借りて、すこやか食堂をオープンする。 一癖も二癖もある周りの人々やお客さまに囲まれて、みのりは奮闘する。 やがて、それはみのりの家族の問題に繋がっていく。 じんわりと、だがほっこりと心暖まる物語。

ズボラ上司の甘い罠

松丹子
恋愛
小松春菜の上司、小野田は、無精髭に瓶底眼鏡、乱れた髪にゆるいネクタイ。 仕事はできる人なのに、あまりにももったいない! かと思えば、イメチェンして来た課長はタイプど真ん中。 やばい。見惚れる。一体これで仕事になるのか? 上司の魅力から逃れようとしながら逃れきれず溺愛される、自分に自信のないフツーの女子の話。になる予定。

三十六日間の忘れ物

香澄 翔
ライト文芸
三月六日。その日、僕は事故にあった――らしい。 そして三十六日間の記憶をなくしてしまった。 なくしてしまった記憶に、でも日常の記憶なんて少しくらい失っても何もないと思っていた。 記憶を失ったまま幼なじみの美優に告白され、僕は彼女に「はい」と答えた。 楽しい恋人関係が始まったそのとき。 僕は失った記憶の中で出会った少女のことを思いだす―― そして僕はその子に恋をしていたと…… 友希が出会った少女は今どこにいるのか。どうして友希は事故にあったのか。そもそも起きた事故とは何だったのか。 この作品は少しだけ不思議な一人の少年の切ない恋の物語です。 イラストはいもねこ様よりいただきました。ありがとうございます! 第5回ライト文芸大賞で奨励賞をいただきました。 応援してくださった皆様、そして選考してくださった編集部の方々、本当にありがとうございました。

おじさんは予防線にはなりません

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「俺はただの……ただのおじさんだ」 それは、私を完全に拒絶する言葉でした――。 4月から私が派遣された職場はとてもキラキラしたところだったけれど。 女性ばかりでギスギスしていて、上司は影が薄くて頼りにならない。 「おじさんでよかったら、いつでも相談に乗るから」 そう声をかけてくれたおじさんは唯一、頼れそうでした。 でもまさか、この人を好きになるなんて思ってもなかった。 さらにおじさんは、私の気持ちを知って遠ざける。 だから私は、私に好意を持ってくれている宗正さんと偽装恋愛することにした。 ……おじさんに、前と同じように笑いかけてほしくて。 羽坂詩乃 24歳、派遣社員 地味で堅実 真面目 一生懸命で応援してあげたくなる感じ × 池松和佳 38歳、アパレル総合商社レディースファッション部係長 気配り上手でLF部の良心 怒ると怖い 黒ラブ系眼鏡男子 ただし、既婚 × 宗正大河 28歳、アパレル総合商社LF部主任 可愛いのは実は計算? でももしかして根は真面目? ミニチュアダックス系男子 選ぶのはもちろん大河? それとも禁断の恋に手を出すの……? ****** 表紙 巴世里様 Twitter@parsley0129 ****** 毎日20:10更新

余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました

結城芙由奈 
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】 私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。 2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます *「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています ※2023年8月 書籍化

処理中です...