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二十二:苦しくて、苦しくて、苦しい。

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 紬は息をするのも、忘れた。
 ただ、目の前で泣き笑いを見せた雫を、見つめるだけで精一杯だった。
 
 白い便箋。
 宛先も、差出人もない手紙。

 たった一文の、恋心。

 ああ、ああ。
 どうして、そうか。なんで、でも。

 疑問と、疑惑と、驚愕と、納得がいっぺんに紬の胸の内で騒ぎ出す。
 雫は、それ以上何も言わず、一歩、二歩とゆっくりと彼から遠ざかる。

 何かを言わなくては。
 そう思った紬の肺を、空気が満たした。

「ま、ってくれ!」

「ごめん」

 どうして。
 なんで、あの手紙を。
 いつから。
 なんで今。

 言いたいことは散漫として、一つとしてまとまらず紬の中で渦巻いて、それでも絞り出せたのは「待って」と縋るような声だけだった。
 それでもその声に、彼女は足を止めてくれなかったのだけれども。

 今も鞄の中にあって、彼の時間を動かしたたった一枚の忘れられかけた紙きれが、紬の胸を焦がす。
 手紙の主の気持ちは、綺麗な恋だと思っていた。
 でもそれは、紬の勝手な願いだったのかもしれないと今気が付いた。

 だって雫は、あんなにも。あんなにも、苦しくて、零れ出てしまった想いを持て余しているようだったというのに。
 紬とまるで変わらない、恋という感情に振り回されるばっかりの姿だったというのに。

 何も見えてはいなかった。
 何も知ろうとしていなかった。

「……雫」

 今まで、どんな気持ちだったんだろう。
 最初から最後まで、自分は間違えてばかりな気がする。

(……最後?)

 どうしてそんなことを思ったのかとはっとする。
 追いかけなければ。
 追いついて何を言えば良いのかなんて何一つ思いつかなかったが、それでも考えるよりも先に紬の足は駆け出していた。
 雫が去った方角へ、息を切らして走った。走って、走って、周りを見渡す。

 ジャージ姿の生徒たち、制服のまま笑い合う生徒たち。
 それらに混じる小さな背中を、探した。

「雫!」

 そうして見つけた背中は遠くて、思わず大声で名前を呼べば彼女は足を止めた。
 そのことにほっとして、紬は速度を緩めて歩き出す。
 唐突に走っただけで、心臓はバクバクとうるさくて、夏の暑さも手伝って滴る汗が気持ち悪い。

 それでも一歩、一歩距離を詰めていけば、雫の表情が見えた。
 その瞬間、胸が痛むのは仕方がないと思う。だって、彼女は泣いていた。

 泣かせたのが自分だと知っているから、罪悪感が酷かった。

 苦しい苦しいとその目が物語っている。
 それはきっと、紬自身が花梨に向けていた眼差しに違いない。
 応える術を知らないくせに、同じ苦しみを分かち合える相手に出会えた仄暗い喜びが紬の中で満ちていく。

「雫」

 名前を呼んでも、彼女は応えない。
 まだ、二人の間には距離がある。
 
 それでも“見つけた”と思ったのだ。
 都合よくそれまで思い出しもしなかったくせに、探し求めていた手紙の主を見つけてその上その人物が、綺麗な恋なんてしていなかった事実は紬の心を浮き立たせたのだ。
 なんて捻じれた喜びだろうと冷静な自分が言うけれど、暴力的なまでに圧倒的なそれは、良心が訴えるその声を捩じ伏せてかき消した。

「雫」

 名前を呼んだ。
 でもまだ、彼女には届かない。

 ぽたりと、顎を伝って汗が落ちた。

(なあ、お前は)

 この気持ちをどうしてた?
 自分のように、憎むような飲み込まれるような苦しくてねばっこくて浅ましくて助けて欲しくてそんな感情を、どう扱っていた?
 そう問いたいような、問うてはいけないような気持ちがせめぎ合う。
 花梨への片思いでさんざんこんな思いをするくらいなら恋をしなければ良かったと思いながら、彼女を嫌いになれたら、諦めることができたらと何度思ったことだろう。
 そしてその彼女に想いを向けられる紡を、大切な家族を憎らしいと思いながら誇らしく思ったこの矛盾する感情はなんなのだろう。

(お前は、答えを、知ってるのか?)

 溢れてしまった想いを言葉に載せて、戻れなくなってしまった関係を悔いることもできなくて、どうにも足掻いているのに進めている気がしない。
 まだ、距離があるのになぜか手が伸びた。

 眩しくて、遠い。
 捕まえたいような、縋るような、そんな気持ちだった。
 触れた所で彼女に恋をするわけではない。紬の気持ちは今も花梨にあるし、この感情はただ同じ苦しみを知る人に出会えた喜び、それだけだ。

 走って、今すぐ掴んで、どうなのかと問いたい。
 だけれど、それは――それは、彼女を傷つけることだとなけなしの理性が訴えて、紬の足を鈍くさせた。

 その間にも、雫は前を向いてしまってまた彼と距離をとる。

(ああ、どうしたら、いい?)

 恋と同じで、どうにもならないこの感情。
 雫は答えをくれる存在かもしれないが、彼女だって答えを見つけていないのかもしれない。ただただ、彼女を追い詰めてしまうかもしれない。
 追い詰めたいのか? 違う、傷つけたくない。
 じゃあ応えられるのか? 無理だ、自分が好きな人が誰なのかも知っている彼女に何をいまさら偽ってそばにいるのか。

 代わりでも良いとまで言ってくれたのに?
 
 そこに思考がいった瞬間に何かが・・・弾けた気がする。
 代わりでも良い。
 ああそうだ、それはどちらが言うにしろとてつもなく失礼な発言だと思う。

 だけど、そこから始めることはできなかっただろうか?
 傷のなめ合いにも似た関係で、誰も幸せではないかもしれないが少なくとも不幸にはならないんじゃないのかと思う。

 少なくとも雫のことを紬はあくまで友人としてだけれど、好ましく思っていた。
 だから、もしかしたら。もしかしたら、この感情が、傷ついて癒えない傷が、隠さずにいたら癒えるかもしれない。

(違う、それはただの傲慢な甘えだ)

 冷静な自分が、甘美な誘惑を前に叱咤する。
 そもそもその手を取るには、遅すぎたのだとまた別の自分が自分を嘲笑う。

 雫の方に向けて延ばしていた手を、彼女の姿にかぶせるようにして、握る。距離があるから、彼女の姿は簡単に拳に、消えた。

 まるで、手に入れたかのように見せる錯覚――でもその実、何も掴めていない。
 そう、何も。なにもない、からっぽだ。

(俺は、結局どうしたいんだ)

 紬は、そう自分に問いかけた。けれど彼は、答えをすでに理解していた。
 ただ、助けて欲しかっただけだ。
 縋りたいだけだ。

 苦しくて、それでも愛しい『恋心』に振り回され続ける自分を。

(でもそれは、俺の勝手だ)

 そう、自分勝手な押し付けに過ぎないことは紬にもわかっている。
 それでもわかってくれそうな人物がいたことに喜びは隠せなかったし、それが喜びだと気が付いてしまった以上誤魔化せなかった。
 雫にとって失礼だと良心では思うのに、格好悪いばっかりだし友達として最低だと思うのに望んでしまった。

 開いた手の先に、彼女の姿はまだあった。
 だけれど、だらりと腕を下ろした紬のことを彼女が振り返ることはなかったし、もう彼女の名前を呼ぶことは紬にも躊躇われた。

 ぐらぐらする。
 頭が、働かない。

 足を動かして、彼女の方へ行って、謝るかなにかしないと――謝るって何を?
 まるで夢から覚めることができない悪夢を繰り返す夢の中にいるみたいで、視界はしゃんとしているのに頭がまるで熱病にかかったかのようにぐわんぐわんと揺らぐのだ。
 一歩を踏み出すのに世界が揺れる、いいや揺れていない。揺れているのは自分なんだと思うけれど体は一切不調なんて訴えていなくて、自分の弱さがそう・・しているんだと自覚する。

 そうこうしている間に雫の傍らに人が現れて、彼女と共に去っていく。
 視界が、ぼやける中で。

(しずく)

 彼女が、紬を見たような気がした。
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