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断絶ハサミ、伊東尚子編

素直になりたい

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 ……短いスカートを靡かせて、無防備に寝落ち。私が居なかったらどうなっていた事やら。

 私は初美のスカートを隠すように、ジャージを脱ぎ、上着を初美の腰に巻き、彼女を負ぶって繫華街を歩いていた。 

 初美ってこんなに華奢だったっけ? 背中に感じる初美からは柔道部の名残がなく、今の彼女の手足は細いOLその物だった。

 まあ二年も経てば人は変わるものかな。毎日のように電話していた彼女も、いざ会ってみるとガラリと変身。メチャメチャ可愛くなっていたし。 

 人と比較するってあんまり良い事じゃないけど、初美の女を磨く努力を見ていると、ちょっと私も頑張らなきゃなって触発される。 

 アスカさんの発破掛けもあり、私は家に帰ったらまず一番に幹久君のラインの返信を返す事を心に誓った。 

 初美を抱えた私の足は力強く、一歩一歩踏み出し、タクシーが良く通る大通りを目指した。 

 歩幅を進めるごとに、私の背中の上で初美の首がぐでんぐでんと動く。 

 夜風に吹かれて寒くなったのだろう。身震いする初美を背中に感じると、気付けば初美は目を覚まし、キョロキョロっと辺りを伺っていた。 

「あれ? 尚子? ここは何処?」 

「外よ外」 

「アスカさんは?」 

「これ以上お店に迷惑かけられないし、お勘定済ませて店を出たわ」 

「あちゃーやっちゃったか。ゴメンね~。お代は後で払うから」 

「別にいいわよ。相談乗って欲しいって言い出したのは私だし、たく、酔いが醒めてるなら自分で歩きなさいよ。結構重いのよ」 

 すると初美はここぞとばかりに腕を回し、私を強く抱きしめた。 

「失礼ね! でもいいじゃん! たまには私にこき使われるのも! お陰で今日は楽しかったわ!」 

「そりゃどーも。私もアスカさんから話が聞けて凄く為になったわ、ありがとう」 

「でしょ~。紹介してあげた私にもっと感謝しなさい。どうせなら恩返しと言う体で、このまま私を家まで負ぶって帰ってもいいのよ」 

 私は後ろで組んでいた手を外し、このお調子者に尻餅を付かせた。 

「痛ーい! ちょっと!」 

「はースッキリ。重しがまるで取れたみたいに軽いわ。これもある意味初美のおかげね」 

 初美は眉間に皺を寄せ、怒りながら返事をする。 

「どういたしまして、じゃないわよ!」 

 と言うか、夜風に吹かれ、初美を担いで歩いた事が丁度いい運動になったのだろう。酔っていた頭もスッキリしていた。

冷静になった私は初美に対する罪悪感を素直に伝えた。 

「いつまでも初美に頼ってばかりじゃ駄目だよね」 

「え?」 

 驚いて私を見る初美。

 いつもおんぶして貰っていたのは私の方である。

 何か困った事があったら、自分で考える事を止め、いつも初美に頼って電話ばかりしていた。

 初美の優しさに付け上がっていたのは私の方。皮肉を交えて付き合ってくれていたけど、初美だって仕事で忙しいはず。

 彼女がむしゃくしゃして柔道したいと思わせてしまう程に、負担を掛けさせてしまっていたんだ。 

 これ以上初美には頼ってはいけない。アスカさんは「嫌われてもいいから少しずつ自分を見せるのよ」と言ってくれたように。私は幹久君と自分自身で対話しないといけないんだ。 

「ゴメンね。今まで本当ありがとう。アスカさんにも言われたんだけど、私も、私自身で幹久君ともっと真剣に向き合わないといけないと思ってさ。いつまでも初美にばっかり頼っちゃいけないよね。ちょっと電話は控えるよ」 

 すると初美は立ち上がり、再び私の背後に飛び付き、無理やり私に乗り掛かった。 

「なんで控えるのよ! 私達親友でしょ?」 

 私の後頭部を何度も連打でポカポカ叩く初美。 

「……一応、初美に気を使ったつもりなんだけど」 

「日本一の強さを持っときながら、なんでメンタルがミジンコ以下なのよ! 尚子に気を使われるなんて気持ち悪いわ! いいの! あんたが話したいと思ったら素直に電話してくればいいの! どうせ仕事で出れない時は出ないんだし! どんどん掛けてきなさいよ! この馬鹿!」 

「……はは、ありがとう」 

 初美は本当に優しい。手も口も悪いが、私を想ってくれている。本当にありがとう。私はこんな親友を持てて本当に幸せ者だ。 

 結局、初美の言いなりの私。おんぶした両手は駅前のタクシー乗り場に着くまで、下す事が出来なかった。 

 たった十分程度歩いただけだが、手は痺れていた。本当にいい運動になったよ、まったく。明日筋肉痛が怖いけどね。初美様のご満悦でなによりです。 

「お休み、初美。心配だから家に付いたら、ライン入れてよね」 

 初美をタクシーに乗せると彼女はにっかり笑顔を作り、私に答えた」 

「あいあい。じゃあね、尚子。あなたがどんなにバカな女でも、私はあなたの友達よ」 

 彼女を乗せたタクシーは颯爽と飛ばし、彼女の帰路を走っていった。 

 

〇 

 

 午後九時を周り、休日と言う事もあり、駅の周りは賑わいを見せていた。 

「飲み屋探してますか?」と尋ねる客引きのバイトの子。「高収入の仕事があるよ」と謳ってくる茶髪スーツの男性。お互いに両腕を組み、気分上々で二件目に梯子するサラリーマン達。これから新宿百鬼夜行に参加する為、奇抜なコスプレをして新宿を目指す、パリピな若者などなど、町はお祭りムードだった。 

 私のエネルギーは既に活動限界を迎えている。歩いているのも奇跡に近い。元気なパリピを羨ましそうに見ながらも、芽生えた反骨精神を掲げ、人波を逆らうように家路を目指した。 

 最寄り駅から家までの距離は大体歩いて十五分。普段は何も問題のない道だけれども、疲労困憊と飲酒が足枷となった私にとって、険しい道のりだった。 

「疲れた~。早く帰ってお風呂入りたい」とか軽い雑念を抱きながら、大通りから一道曲がり、自宅のマンションへ向かった。 

 裏路地に入ると街灯がポツンポツンと疎らにしかなく、人影も殆んど見えない。恥ずかしながら、真っ暗な夜道を千鳥足のゾンビが歩いていきます。 

 読者にも伝えておきますが、こんな夜道を歩く時は、出来る限り一人は避けて欲しいと思う限りです。私も反省しています。自分が強いと思って過信していたのは事実です。 

 

 コツコツ…… 

 

 静寂な夜の路地だからこそ、音はよく響いて聞こえた。 

 後ろから物音が聞こえるのを感じた私は振り向き、辺りを伺った。 

 ……誰か私の後ろにいる? 

 振り向いた先には誰も居ない。私は猫でも歩いて通り過ぎたのかと思い込み、そのまま足を進めた。 

 

 コツコツ…… 

 

 再び歩いて数分。再び後ろから物音が聞こえた。今度は猫じゃない。マンホールを踏んだ時のような響きがあり、音に重さを感じる鈍い音だった。 

 私は再び振り向き後方を見た。すると十メートル先の電信柱の影に、男性らしき人が立っているのを目が捉えた。 

 え? 誰? 

 私は静止し、男を注意深く見た。 

 すると、男は私の様子に気付いたのか、ゆっくりこっちへ向かって歩いてくる。 

 徐々に近づく男の影。暗闇の中だが、近づくに連れ、瞳は少しずつ実体を捉えた。身長百九十メートルはあろうか、首を見上げる程の大男。紺色のパーカー。短髪。頬にライオンにでもやられたような大きな傷がある。かなりの筋肉質でガタイがいいマッチョだった。 

 男は近づき、私を見るなり口を開いた。 

「伊東尚子だな。ずっとあんたを探していた」 

 その言葉を聞いた瞬間、急に背筋に氷を付けられたかのような緊張が走った。 

 威圧的で野太く低い声から発する私の実名。いや、誰だよ! こんな男、私知らないよ! 

 流石の私も恐怖を抱いてしまった。元全日本チャンピオンだから大丈夫と思うのは素人考えだ。

 私は五十二キロ級と体格的には軽量級に分類され、言っても華奢な方だ。こんな体重が倍近くある男に襲われたら、抵抗何て出来る訳ない。 

「い、今急いでいるんで失礼します」 

 私は男から逃げるように言葉を吐き捨て、足を進めた。 

「待て!」 

 男は逃げ行く私の肩を後ろから掴んだ。 

 痛い! 

 重機のような太い腕。強制的に引き止められる私の上半身。まるで事故にあったかのような強い反動が全身を襲った。 

 痛みは恐怖を助長し、瞬間的に防衛本能が働いた私は、掴まれた男の腕を両手で摘み、上半身を倒し、背中に男の全体重を乗せ、大男を一本背負いした。 

 ドシーン! っと道路の真ん中で倒れ込む男。男が悶絶しているのを確認した私は、いの一番に逃げた。 

「痛ってー! 貴様! 待ちやがれ!」 

 男は逆上し、立ち上がって私を襲おうと追い掛けてくる。 

「なんなのよ!」 

 火事場の馬鹿力とは良く言ったもの。活動限界を超えていた二本の脚を無理やり動かし、私は走った。

 満身創痍もなんのその。今までこんなエネルギー何処に残っていたのかと思う程、私は頭を働かせ、死にたくない思いの一心で、足を千切れんばかりに動かした。 

 変質者? 変態? いや待て、私を待っていたって……もしかしてストーカー? 

 この手の社会問題に疎い私。憶測で考えれば考える程、脳内に恐怖が加速する。 

 殺される! 

 

〇 

 

 私は走りながら鞄の中から鍵を取り出し、素早く自宅マンション入り口のオートロックをくぐり抜けた。 

 間一髪。奴より早くオートロックのガラス扉が閉まる。私は直ぐに自分の部屋に逃げようとエレベーターに急いだ。だが、肝心のエレベーターは四階で止まっていた。 

 私は慌てて上ボタンを連打し、今世紀最大の願いを唱えた。 

「早く! 早く! お願い! 来てよ!」 

 ドンドンドン! 

 音がする後ろを振り返ると、ストーカー男はオートロックのガラス扉を両手で叩き、鋭い目付きで私を威嚇していた。 

「開けろ! クソ! クソ野郎!」 

 男の威圧的な怒号がガラス扉の振動と共に伝わってくる。男は全体重を乗せ、何度も何度も扉を蹴っては突き破ろうと試みていた。だが、丈夫な作りの扉が功を奏して、男の力でもヒビが入る程度で、決して割れはしなかった。 

 鋭い目つきでガラス越しの私を睨み続ける男。眼球が飛び出そうな程、大きく見開き、血管が浮き出る白目は鬼の形相その物だった。その男が今にもガラスを突き破って襲って来そうだ。 

 あまりの恐ろしさと気迫に、私は恐怖で腰が抜けて、足が竦み、その場で座り込んでしまった。 

 蹴破れないと悟った男。今度は備え付けの傘立てをガラス扉にぶつけ、割って入ろうと何度も試みている。このままでは扉が割れるのは時間の問題かと思われた。 

 私はお尻を引きずり、ガラス扉から距離を取り、慌てて鞄からスマホを取り出し、震える手で百十番に電話する。 

 男は私の行動を理解したのか、「くそ!」と言葉を投げ捨て逃げて行った。 

「……助かった」 

 散らばるガラス片。嵐が過ぎ去ったような静寂。これ以上に安堵と言う言葉が相応しい状況を私は知らない。 

 私は夜道は出来る限り避けて帰ろうと、この日を境に強く誓った。柔道有段者の私だから何とか助かった物の、これが読者様なら殺されていた可能性だってある。皆さんも出来る限り夜は明るい道を通って帰って下さい。お願いします。 

 死と恐怖が目の前にあると言う感覚を覚えたのは今日が始めて。手足は今でも震え続け、腰が抜けて立ち上がれない。 

 情けない事に、何とか立ち上がれたのは警察官が手を引いてくれたニ十分後だった。 

 

〇 

 

 警察が来ると、一通り一連の事情聴取を私にし、証拠の防犯カメラを調べますと私に告げ、今度からこの近辺の夜間巡回を強化してくれるとの事。私は警察官の方に深くお辞儀をし、三階の自分の号室に帰った。 

 部屋に入って一番に目に留まるのは、玄関横の鍵棚に犇めきあう、キャラクター物の縫いぐるみ達。そして今朝干した洗濯物の生乾きの匂いが私を出迎えてくれた。 

  読者の皆さん、ようこそ、我が汚部屋へ。 

 私は玄関に靴を脱ぎ捨て、お気に入りの人間をダメにするソファーにお尻をずっぽりハマらせると、愛すべき縫いぐるみ部隊の現隊長、三分の一サイズの熊掃除郎縫いぐるみを抱きしめる。 

 するとモフモフの柔らかさが身を包み、少し安堵感が生まれた。 

 だが幸せも束の間。目をつぶるとあのストーカー男の鋭い目付きが脳裏に焼き付き、恐怖のあまり身震いしてしまう。 

 ……もしかして見られているかも? 

 私は慌ててカーテンを閉め、部屋の電気を消した。 

 もし、外であの男がマンションを監視していたら、私の部屋の階数や号室がばれてしまう恐れがある。恐怖心からか、不安が募り、様々な憶測が脳裏によぎった。 

 圧倒的体格差。何人も人を殺して来たかと思わせる鋭い眼球。あのストーカー男と言うトラウマが脳裏に浮かぶと、私の不安を掻き毟る。真っ暗の部屋の中。私は気持ちが落ち着かず、ソワソワ貧乏ゆすりが乱発してしまう。

 耐えられなくなった私は初美に電話しようとスマホを握った。 

 すると脳裏に浮かぶのは、今日の去り際に誓った、彼女に頼らないと言う自分との約束。 

 何やっているのよ……初美ばかりに頼っちゃいけないって、誓ったばかりじゃん。 

 これまでの恋愛相談で、幾度となく初美に迷惑を掛けてしまっている私の現状。 

 もう頼ってはいけないと、強い決意が災いして、私は電話を掛ける事を躊躇してしまった。 

 だけど、この恐怖感は我慢した所で拭える事はない。私は襲い来る不安に耐え切れずにいた。そして安堵感を求め、幹久君の声がどうしても聴きたくなってしまったのだ。 

 その気持ちはあれだけ躊躇していた、もどかしさや恥ずかしさを拭い去り、気付けば彼のスマホを鳴らしていた。 

「お疲れ尚子ちゃん。今日はホントにゴメンね。今まだ仕事中なんだ」 

 私が幹久君の言葉を無視したのは、きっとこの時が初めてだ。私は震える声でストーカーに襲われた事を話した。 

「尚子ちゃん! 大丈夫!?」 

 スピーカーが音割れる程の彼の大声。張り詰めた声のトーンが、私に冷静さを取り戻した。すると素直になれない表ズラを良く見せようとする、いつもの私が口を開いた。 

「も、もう大丈夫。ちょっと恐かっただけ」 

 強がりだ。本当は恐くて恐くて仕方ない。こんな恐怖に怯える状況でも、なんで素直になれないんだ私は。 

「とりあえず、現状報告しただけ、もし何かあったら連絡するから安心して……」 

 何が、安心してだよ。自分が不安なくせに、通り越して呆れてしまう。本当はこれ以上、この部屋に一秒でも一人で居たくないはずなのに。なんで、どうして助けてって言えないんだろう私は。 

 結局私は電話を切った。気付けば抱きしめていた熊掃除郎の縫いぐるみは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。今日にでも素直になりなさいって、アスカさんが教えてくれたばかりじゃないか。なにやってんだろ……私。 

 不安を少しでも和らげたくて、掛けたはずの電話。彼の声を聞くと、安心と嬉しい気持ちを僅かに頂けた。でもそれ以上に彼に弱さを見せられない、強い仮面を被った私を繕っていた。 

 私は人に弱さを見せる事が怖かった。と言うか見せる事が私には出来なかった。ずっとずっとそうだった。 

 

〇 

 

 私は幼い頃から人とのコミュニケーションを取るのが苦手で、何をするのもいつも初美や家族に頼ってばかりいた。私の自発性の無さを両親もなんとかしたいと気遣ったのだろう。少しでも強い心を持って欲しいと願い。親族の紹介から柔道を勧められ、小学二年生と言う年齢で私は柔道と出会った。 

「凄いじゃない! 尚子!」 

 才能は小さい頃からあった訳ではない。でも柔道をやる以上、勝負と言う物が必ず付きまとった。そして強ければ強い程、親にも先生にも人に認めて貰える。柔道は私にとってシンプルで心を軽くしてくれる競技だった。 

 気付けば私は柔道にのめり込んでいた。柔道の大会で勝てば学校で賞を貰え、皆には凄いと褒めて貰えれる。

 根本的に自分に自信の無い私からしてみれば、柔道は承認欲求が満たされるこれ以上のない快楽だった。

 私は柔道にとことん惚れ込み、一時は人生の全てを柔道に捧げようとまで思っていた。

 気付けば、柔道で強さを証明する事は、私自身の存在価値の高さを証明するように思えたのだ。

 だからこそ、私は自分の自信を求めるが為に、強さや順位を追求し続けた。

 その結果、世間からは最恐と煽てられ、あれよあれよと学生最強の座を手に入れたのだった。 

 だがそれは楽しかった柔道の終わりの始まりであった。 

 一位と言う重圧は並大抵のものではなかった。少しでも練習をサボれば強敵達との差は縮まり、下手をすれば負けてしまう。 

 一位を失う。それは私が人から評価されなくなると言う呪いでもあった。 

 人から評価して貰えない。それは私の存在の価値が無くなる事と一緒に思えてしまったのだ。

 私には柔道しかない。柔道が無かったら私に価値なんてないんだ。心の支えは柔道と言う一本柱だけ、その支えを失えば私は私を失うと思った。 

 だからこそ、弱くなる事がとても怖かった。私が私で無くなるように思えて、気付けば戦う度に、そんな恐怖がずっと襲っていた。 

 だから、どんなに体調が悪くても、どんな怪我に見舞わされても、相手を威嚇し、強い女を演出して一位を死守してきた。 

 私は私の価値と自信を守りたかった。楽しかったはずの練習は、気付けば胃が悲鳴を上げる程の苦痛に変わっていた。誰もが連勝する私を誉めてくれるが、心には届かない。 

 あの時、柔道を楽しんでいた自分は何処に行ってしまったのやら、気付けば、弱さを見せる事は悪だと、自分で自分を追い込んでしまっていたのだ。 

 そして遂に、オリンピックへ向けての対抗戦試合。 

 名もない知名度で、年齢も一個下の他校の選手にあっけなく敗れ、手にしていた一位と言う輝きと一緒に、私は私を失ったのだ。 

 栄光を浴びる新チャンピオン。涙ながらに私の手を取り、「ずっとあなたを倒す事だけを夢見てきました。本当にありがとうございます」と号泣していた。

 並々ならぬ努力で私に挑んでいたのだろう。その光景を見るだけで、私の全ては彼女に奪われてしまったような絶望感が襲った。

 だが、彼女だって私と同じくらい、いやそれ以上に必死に努力してきたんだ。そんな彼女に敗れたなら、悔いは無いかな。この苦痛から少しだけ救われたようにも思えた。 

 私は柔道と言う幻に、いい気になっていただけ、元から私に価値なんて無かったんだ。チャンピオンと言うファンデーションで心に化粧をして、自分を強く繕っていただけなんだ。

 スッピンの心なんて惨めな物。いつも初美に頼って自分の意志を出さない弱い女。 

 でも、負けてからと言う物。今は自宅に帰ってメイクを落した素肌のように、心が軽くなっていた。

 こんな事だったら早めに柔道着を脱げば良かったのかな。

 私は弱い女。

 でも弱い女は弱いなりに、無理せず生きて行けばいい。そう思えた私は逃げだすように柔道から足を洗ったのだ。 

 

〇 

 

 大学を卒業し、柔道とは全く関係のないお菓子メーカーに就職。コミュニケーションが苦手な私は総務課と言う部署を選んだ。仕事は雑用が多くて、中々ハードだけれど、部活譲りの体力でなんとか乗り越えれていた。

 でも、何処にでもある、日本の縦社会システム。なんだかんだで、会社の先輩たちに数合わせの為、合コンにも誘われていた。 

「こんにちは庵上幹久って言います」 

 最初は彼と仲良くなる気なんて全く無かった。と言うか、私なんかにこんなイケメンが声を掛けてくれる訳ないと思っていた。

 人数合わせに来ただけの合コン。どうせ、ネタにされるし、その場をやり切る事しか考えていなかった私。

 だけれども、幹久君は何故だか私に好意を抱き、とても綺麗な流し目で、私に声を掛けてくれた。今でも覚えている。 

「尚子って言うんだ。尚子ちゃんは澄んだ目をしているね。俺、君の事がもっと知りたいな」 

 何故あの時、私に声を掛けてくれたのか。というか、なぜ私を口説き落そうとしたのか、正直言って謎だ。 

「尚子ちゃんの事もっと知りたい。又会いに行ってもいいかな?」 

 例え首にコルセットを嵌められようが、私は首を縦に振ったと思う。 

 こんな根暗で、駄目で、間抜けな私に、好きだと言ってくれた幹久君。 

 イケメンで高身長で、なにがあっても優しい。好きにならない方が難しかった。 

「俺、尚子ちゃんの事好きになってもいいかな?」 

「はい……」 

 三回目のデートの別れ際。この時、既に私の脳内では、幹久君の好きな所が二百項目は埋まっていた。

 あの日奪われたファーストキスは私の脳内に確かな幸せを刻んでいる。 

 その日から、私は彼の画像を三十分置きに見ては癒され、彼が送ってくれるメッセージの文章に涎を垂らし、SNSには初美限定で公開している彼とのイチャイチャ写真を上げまくっていた。経った半年だけれども、彼の画像は優に千枚を超えている。 

 この幸せを絶対失いたくない。私は幹久君に依存してしまったのだ。そう、あの時のチャンピオンと言う称号と同じように。 

 幹久君は私の中では金銀財宝よりも希少で価値のある存在に替わっていった。 

 もう何も失いたくない。自分を偽ってでも彼と一緒に居たい。 

 この不安は柔道に囚われていた、あの時と似ていた。 

 

〇 

 

 彼に嫌われたくないという気持ちが常に付きまとう。

 幹久君に嫌われたらどうしよう。

 自分が弱く、手間の掛かる女と思われたくなかった。彼に嫌われるような事は絶対したくない。つい見栄を張って強い自分を演出してしまう。今にも殺されそうになっている状況と言うのに、彼に頼る事が出来なかった。
 
 自分がストーカー男に追われて、そんな状況じゃない事も心の底では分かっているくせに、本当は大声で助けてって言いたいはずなのに、今すぐに会いに来て私を抱きしめてって言いたいはずなのに……。 

 彼の声と言う魔法で少し和らいだ不安と恐怖。でも、その効果は五分も経てば薄れてしまう。部屋の静寂。隣の部屋から聞こえる住人の声。外から響く車のパッシング音。カーテンの隙間から度々侵入する車のテールランプ。

 その全てがまだストーカー男がいるんじゃないかと不安を掻き立てた。

 そして先ほどの脅迫がトラウマのように脳裏にフラッシュバックし、手が震える。心はパニックを起こし、ニ十分も経てば息苦しささえも覚えはじめていた。 

 すると「ピンポーン」とインターホンが鳴り響いた。 

 不意打ちに来た大きな音にビク! っと一瞬心臓が止りそうになったが、私は不安に成りながらも誰が来たのか気になり、インターホンの画面に恐る恐る目を向けた。 

 画面の中にはさっきまで電話していた幹久君が写っていた。 

「え? 幹久君!? なんで!?」 

 驚いた私はオートロックを解除し、慌てて玄関を開く。 

 そこには十三夜庵の紺色作務依姿で彼は立っていた。仕事をほっぽりだして、慌てて駆けつけてくれたのだろう。息を粗くし沢山の汗をかいている。 

「尚子ちゃんが不安だと思って……来ちゃった」 

 苦しかった夜に来てくれた私の王子様。緊張の糸が一瞬緩み、涙腺が一線を超えそうだったが、私は下唇を少しだけ噛んで自分を誤魔化した。 

「心配かけてゴメンね。私は全然大丈夫だから。私なんかの為に職場にご迷惑を掛けて、本当にごめんなさい」 

 私はホント馬鹿。まずは感謝の言葉が先だろ。強がりばかり。弱さを見せたくない自分の弱さが彼に繕った対応を取ってしまう。 

「知ってるよ」 

「……知ってるって何を?」 

 強がりは止まれなかった。私は彼に弱い自分を見せると、彼の気持ちが変わってしまうかもしれないと言う疑心暗鬼で、素直になれなかった。 

 すると幹久君は私の右手を両手で覆うように掴んだ。 

「知ってる。尚子ちゃんが俺に心配掛けさせないようにしてくれてるのも、震えながらも我慢しているのも全部知ってるよ」 

 幹久君は私をぐっと強く抱き締め、耳元で囁いた。 

「……尚子が不安な時ぐらい、彼氏をさせてくれよ。もっと頼ってくれよ。俺だって、尚子の彼氏なんだから」 

 彼の言葉は私の瞼から力を奪った。そして瞳からは涙を零してしまう。彼の優しさと言葉に今だけは素直に甘える事を許された気がした。 

「どうして、そんなに優しいの? どうして、そんな目で私の気持ちを見透かすのよ」 

 彼との距離を気にしていた日々。ストーカーに襲われた事。数多の不安に押し潰されそうだった心は破裂し、感情を剥き出しては、泣き声と大粒の涙が次々と溢れ出てきた。 

 彼はそんな私を黙ったまま優しく抱きしめてくれた。全てを受けとめてくれた。まるで泣きじゃくる子どもを慰めるように、頭を大きな手で抱え優しく撫でてくれた。 

 この日、始めて彼に見せた素直でワガママな私の感情。私はベッドの上でありのまま甘えた。初めて過ごす彼との夜。秋の外気は冷たいが、彼の肌はとても優しく温かった。
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