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己消しゴム、鈴木哲郎編

クソくらえ

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 「な、なんでもっと早く言ってくれなかったんですか!」 

 明日こそは有給を取る! っと午前中に意気込んでいた俺よ。安心してくれ、君の夢はたった今儚くも散った。 

 人の夢と書いて儚い。――この漢字を考えた偉人は俺と同じ思考の持ち主なのだろうか? それとも若い頃に夢に破れ、甘酸っぱい経験をお持ちの方なのだろうか? あなたとならうまい酒が飲めそうだ。まあ、その夢もビールの泡と一緒に儚く散ってしまうだろうが。

我ながら上手い比喩。ははは。クソくらえだ。 

 東京タワーが煌びやかにライトアップされてから約一時間。会社の窓から映る鮮やかなLEDは様々な色に輝き、この街を演出する。 

 東京の繫華街はお金に欲、酒と女、優雅な虚ろな灯りを灯しだした。そう、今夜も夜の街は輝き、世界を彩る。――って、これから何かが始まりそうな匂わせ空気はどうでも良くて、俺はとりあえず、目の前の革椅子に偉そうに座るハゲ頭を思いっ切り引っぱ叩きたい。全てはそれに尽きていた。 

 だが、上司である平岡専務は謝罪の「しゃ」の字も出さずに、まるで自分は何一つ悪くないと思わせぶりの丸い目をして俺に答えた。 

「鈴木は聞いて無かったのか? 北村には伝えてたんだがな。客先の要望で一部変更が出たから、お前達が組んでるプログラムの箇所はペンディング保留になったぞ」 

 まて、何処から突っ込めばいい? 

 まず、納期まで後二週間だぞ? この危機的状況の中で客先のワガママを素直に受け入れる平岡専務の脳は大丈夫なのか? 頭をCTスキャンで調べて貰った方がいい気がする。 

 どう考えても無謀だ。命綱なしのバンジージャンプを道連れで飛ぶようなもの。誰か止めろよ、もう心中だ。例え脳に異常が見当たらなくても、俺が医者ならこの上司に「イカれてる」と検査結果を突きつけてやるぞ。 

 そして、この期に及んでそんな重要な連絡事項を新卒一年目の、いや、研修期間が明けて、やっと現場に馴染み始めた北村くんに任せますか? 普通。 

 確かに営業育ちの平岡専務にしたら、北村君はイケメンで空気が読めて、根が真面目で話しやすい。ご両親が命名して下さった、清心と言う名前はまさに彼に相応しい名だろう。 

 それに比べ、このセキュリティーシステム部門、通称「地獄の門番」と呼ばれる過酷なライン前線で文句を言いながらも八年戦ってきた俺だ。 

 噛みつかれるのが詠めたから敢えて逃げたって事か? ふざけんな。 

 まぁ、平岡専務がわざわざ北村君に報告するのも分からんでもない。俺だって俺みたいな口煩い部下居たら毛嫌いするよ。同情します。 

 北村君と俺を比較し例えるなら潤滑剤と紙やすり。北村君が皆を癒す肌に優しいエッセンシャルオイルだとしたら、差し詰め俺は荒研ぎヤスリって所か? 

 ちっ、ごめんねメンタル削らして、でもこれは仕事です。専務の私情は関係ありません。今回は俺に直接報告すべき内容だと思いまーす。 

 ああ!くそったれ! 

 とりあえず、上司である平岡専務の遅れて来た業務報告により、この七時間。正確に伝えるなら明日有給を取る為に、午前中から必死に構築していた前倒しのセキュリティプログラム制作に費やした時間は全て無駄となってしまった。 

 残りの日数で変更点を追加する? ただでさえキリキリ舞の現場だって言うのに、明日休むとか、どう考えても無理じゃねぇか。 

 俺自身に非があるなら黙って呑み込めていた。だが、俺は朝から何も聞いていないし、業務連絡板にも何も書かれていなかった。明らかに被害者である俺は流石に耐え切れず、喉から言葉が拳となって飛び出した。 

「〇▲□××!!」 

 ――社内に響き渡った怒りと言う名の言葉の刃。この全文をここに書けば読者は俺の人間性を疑いかねないので割愛させて頂く(もう遅い?)が、お願いだ。これだけは言わせてくれ。新入社員の歓迎会。飲みの席で若手達に「報連相は大事だからねー、何でも報告して」って偉そうに喋っていた平岡専務よ。よくもまぁ、どの口が言えます事やら。その薄毛はもう手遅れだろうが、出来る事なら、いや、お願いですから新卒からやり直してください! 

 除夜の鐘でオーケストラの天国と地獄を演奏するように。オフィスの殺伐とした空気をぶち壊す勢いで俺は平岡専務に訴えかけた。 

 殆ど愚痴だが俺も大人だ。言葉の節々に今まで考えていた改善案を混ぜ込んで、おまけに密かに作っていた書類をも取り出して、ほぼプレゼンの様に専務に訴えた。 

  じつは作ったのは良いが、不可能と思って諦めていた会社の社内環境改善案の資料。 

 怒りに身を任せ平岡専務に見せてしまったが、万が一でも案が通れば俺の仕事も楽になるし、非効率で生産性の悪い残業は改善され、仕事の簡略化が図れる目論見だ。 

 この際だ、言いたい事は言って恨まれ役は自ら買って出よう。見ていてくれ。周りで目に熊を宿し、今にも帰りたそうに戦意喪失している社員と派遣社員達。 

 俺は平岡専務に訴えた。 

 訴えに訴えた。 

 しかし、定年も残す所、後数年の平岡専務に取って、この情熱こそが馬の耳にブルーハーツ。俺が会社の為に身を切って唱えた魂の籠った改善案と演説の数々は、専務の「だよねー」と言う謎の同調によって少しずつ躱される。 

 こ、こいつ、さては、クレーム対応のプロか? 

 殴っても殴っても、当たったと言う実感の無い俺の熱弁。 

 翌々思い出せば、平岡専務はシステムエンジニアの知識も殆ど知らないのに、伊達に数十年営業で数々の仕事を取って来ただけの事はある。 

 口当たりが悪いと言う噂の大手企業、株式会社六星システムズから、明らかな無理難題納期案の仕事を見事調整して取って来たのは未だに伝説として語り継がれている。 

 俺がプログラマーとして技術のプロだとしたら、専務は交渉のプロと言うべきなのか? しまった、戦うフィールドを間違えた。ここはもう奴のテリトリーに入っている。 

 結局のれんに腕押しの如く「ふーん」「へえ~」と、言葉巧みに躱され続け、俺の心が戦意喪失をし始めた頃。専務からのキメ台詞「なら明日は休んでいいよ」と言うカウンターの言葉で心は完全にKOされた。ひでぶ。 

 

〇 

 

 鼻歌は浪漫飛行を奏て、両胸の肺はチークダンスを踊るように酸素と一緒にトキメキを吸っている。 

 安心してください、シラフです。 

 恋をすれば世界が鮮やかに、そして美しく見えると言うが俺に言わせればそれは逆説だ。失明に近いと言った方が正しい。 

 何故なら、明後日は変更点を踏まえた上でのシステムプログラムの制作が予定されていて、それでも変わらない納期日。有給開けの現場の忙しさと言ったら、この世の物とは思えない地獄の門の向こう側の話だ。 

 まさにお先真っ暗。 

 だけど、失明しています。 

 明後日の事なんてどうでもいい。俺は今を生きれればそれでいいんだ。 

 明日休めるなら、針の山も歩こうぞ。 

 彼女との記念日を一緒に過ごせるなら空を飛び回れます、このマイハート。 

 そう! なんてったって明日は彼女と一緒に住み始めてから記念すべき一周年。 

 俺は帰りの荷自宅を済ませ、スキップをしながら心の中で二段ジャンプ。この胸の高鳴りは心臓がトリプルアクセルしているみたいに軽快で軽やかだ。 

「お疲れ様でーす!」 

 暗雲が立ち込める会社の空気から我先に脱出した俺は、オフィス共同エレベーター下方向行きに乗り、下りボタンを押した。 

 我が社は総合オフィスビル二十階建て中、十五階を間借りしているIT企業だ。 

 東京タワーが一望できる好立地のオフィス。だが、そんな絶景。俺は入社して一週間で飽きた。 

 今ではこの高いテナント費用を、少しでも従業員の給料に充ててやってと、つくづく思うようになったよ。

 もう二十一時を回って他社オフィスも殆ど灯りが消えている。案の定、エレベーターの扉が開くと誰も乗っていなかった。 

 二十人程が入れる空っぽの空間。外面の大きなガラス窓に我先に映るのはライトアップされ、凛として聳え立つ東京タワー。俺はその東京タワーを見向きもせず、矢継ぎ早に一階に降りようと閉まるボタンに指を伸ばした。 

 すると、扉が閉まるエレベーターに慌てて手を入れて、無理やりこじ開け途中乗車してくる紺色のスーツの男。息を荒くし、俺を見つめると不機嫌な顔を見せ、不機嫌そうに睨み、不機嫌そうに言葉を発した。 

「もう! 哲郎先輩! 今日飲みに行くって約束してましたよね? どうして僕を措いて行くんですか?」 

「……はい?」 

 身も蓋もない言い掛かりにも思えるが、彼とだと本当に約束していた気がして確信を持てない。何故ならこの半年間。みっちり傍に置いて仕事の愚痴から仕事の愚痴まで、全てを教え、話していたイケメン北村君だったからだ。 

「お、お疲れ、あれ? 約束今日だっけ? また明後日でもいい?」 

「もう! あの工程表を見て何処にそんな時間があるんですか? 明日哲郎先輩休むんだし! 少しくらい付き合って下さいよ!」 

 エンジニア気質な職場であるが故に、我が社の社員達の大多数は無口だ。と言うより、もう穢れている。人間同士でコミュニケーションをするより、PCと向き合う時間の方が長い我が社の異常な社内環境。口を動かして言葉を話し、相手の回答を待つ精神的面倒くささより、キーボードを連打して一方的にメールを送る方が楽と思っている現状がある。 

 その中でこの北村君は唯一、会話する時間の方が長い稀な存在だ。 

 俺自身。一を聞かれて十で答える饒舌が故、会話は好きだ。とても大好きだ。 

 だからこそ、レアキャラである北村君とは会社関連の愚痴を踏まえて同期の性癖から上司の不倫の内輪揉め話しまで散々話してきた。 

 だけど、それは全て、仕事の人間関係を円滑にする為だけにしていた会話。 

 俺自身のプライベートは北村君には一切話していない。 

 ましては彼女がいる事も。そして今現在、家では既に彼女がお腹を空かせて待っている事も。 

 北村君の事は決して嫌いではない、むしろこの会社で一番話しやすく、穢れなく俺の意見を素直に聞き入れてくれる希少で愛すべき人材だ。 

 だが、今日だけは、今日だけは申し訳ない。 

 彼女と友情。どっちを取るかと選べと言われれば、俺は君を簡単に切り捨てれる薄情な先輩だ。すまない北村君。 

 ここは平岡専務を見習って自身がカウンターを喰らったように、別条件を提示してこの場をやり切ろう。差し詰め、今回の納期案件が終わり次第、美味い焼肉屋か回らない寿司屋を提示すれば身を引いてくれるだろうか? 

 頑張ったご褒美と言えば北村君のモチベーションもアップして一石二鳥だ。 

 よし。 

 俺は濁すように北村君の言葉を躱し、交渉案を提示する。 

 すると又しても不意打ちのボディーブローが返って来たのだった。 

「別にいっすよ! そんな高級な所じゃなくて、じゃあ時間がないなら単刀直入に聞きます! 哲郎先輩! 是非、僕の部下になって下さい!」 

「……はい?」 

 エレベーターの扉が開いたが、彼の言葉の意図が理解できず、俺は一階に着いた事にすら気付けなかった。 
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