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第9章

09-211 大災厄から70年

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 大災厄以前、地球は温暖化の脅威にさらされていた。日本列島を取り巻く気候変動は明らかで、春と秋が極端に短くなり、台風が日本近海で発生し、勢力が衰えずに上陸した。
 春、梅雨時、秋には線状降雨帯が居座り、大雨を降らせる。
 秋から冬を経て春までは、爆弾低気圧が日本海側を襲い、太平洋側は南岸低気圧の被害を受け続ける。
 世界は干ばつに喘いでいるが、日本は水害に溺れていた。

 そして、イエローストーンにおいて地上にマントルが噴き出すスーパープルームが発生。
 呼応するように、世界各地の火山が破局噴火する。日本では、鬼界カルデラ、姶良カルデラ、阿蘇山が破局噴火。富士山、浅間山、乗鞍岳、磐梯山、有珠山、羊蹄山など多くの火山が噴火した。

 結果、地球は温暖化から一転して、火山噴火の冬に襲われる。火山の噴出物が大気に舞い、太陽光を遮り、急速な寒冷化を招いた。
 その後、大消滅が発生し、地上からヒトが築いた文明の痕跡がほとんど消えた。同時に多くの生物が絶滅する。
 恐竜を絶滅させた5回目以降、久々となる地球史上6回目の大絶滅が発生した。

 大災厄から70年。
 大災厄を体験したヒトは、ほとんど残っていない。
 文明が消えた70年後、文字の読み書きができるヒトは極端に少ない。当然、大災厄や大消滅を知らないヒトが増えている。
 言葉を知っていても、詳細は知らない。
 そもそも、ヒトは少ない。ヒトは絶滅しかけている。

 萱場隆太郎は、己が生存の限界を感じていた。生存は常に脅かされているが、ここ数年は過去に感じたことがないほど深刻な圧力を認識している。
 関東周辺の生存者が、船に乗ってどこかに去ったことは、父母と祖父母からの伝聞で知っていた。
 そのグループが域外の生存者に向けて、ラジオ放送を続けている。
 父母と祖父母からは、四国の高知市に生存者が集結していると聞いていた。ラジオ放送が続いていることから、大災厄から70年を経た現在も一定の生存圏を維持していることは確実だと、隆太郎は考えている。

 彼には、高知のラジオ放送以外に情報がなかった。ラジオ放送を鵜呑みにできないし、高知が楽園ではないことも承知している。
 だから、確実に生存し続けられる房総半島から動くつもりがなかった。
 10年ほど前、穴居人と呼ばれるヒトに似た姿の食人動物が日本列島に現れたが、房総半島は利根川と江戸川に守られて、この奇怪で醜悪な動物が渡ってこなかった。

 隆太郎のテリトリーは、現状では安全だった。
 それでも、ここから去らなければ生き残れないと、隆太郎は考えていた。

「梨々香、食い物はどれくらい?」
 隆太郎の問いに、鮎原梨々香は泣き出したくなった。
「畑のジャガイモは、半分は腐っちゃうと思う。収穫が半分だとすれば、どう頑張っても3カ月だね」
 梨々香は内心とは異なり、平然と答える。冬は寒すぎ、夏は暑すぎる。冬になると地中が凍り、夏は地中の温度が高すぎて作物は腐ってしまう。
 それと、畑は動物に襲われる。サルやシカ、イノシシ。
 畑は柵で囲う。気温が高い理由は太陽の日差しではない。空は相変わらず濁っている。海水温が高く、大気が温められてしまうのだ。海水温が高い理由はわからないが、ラジオ放送によればベーリング海峡が塞がっていて、北極からの冷たい海流が遮断されているためらしい。
 作物は、イモ類とホウレンソウなど葉物野菜が少し、トマトやナスも栽培している。
 魚の養殖もしている。生命力の強いブラックバスを育て、多くは三枚におろしてから身を干して、その後に燻製にしている。
 保存食であり、貴重な動物性タンパクの常用食でもある。
 その他の作物としては、落花生(ピーナッツ)を育てている。落花生は食用ではなく、油を採ってディーゼル燃料を製油するためだ。
 ガソリンや軽油は完全に枯渇しており、関東近辺では補給できない。軽油の代替として、落花生油を原料とした燃料を使っている。
 量は多くなく、行動範囲は限られる。車輌は四輪駆動車を複数保有している。車輌は可能な限り集めて、保管している。
 隆太郎たちの主たる住まいと畑は、フレコンバッグを積んで囲っている。
 この防御壁は、シカやイノシシには有効だが、サルにはまったく効果がない。
 サルはヒトの強敵だ。
 サルを追い払うために銃を使うことはない。銃弾は少なく、貴重だからだ。代わりに弓やクロスボウ(ボウガン)を使う。
 動きの素早いサルに矢を命中させることは、ほぼ不可能だが、追い払う効果はある。それとサルが相手の戦いは、対人戦の戦闘能力を高めてくれる。

 萱場隆太郎の曾祖父母は、大災厄以前からこの地に住んでいた。大災厄後、東京で生活していた祖父母が、ここに避難する。
 食料の自給自足が可能だからだ。
 曾祖父母の兄弟姉妹とその家族がここに集まり、大消滅の直前までは6家族20人ほどが生活していた。
 だが、大消滅を生き延びたのは、祖父母だけだった。2回の消滅現象において、1回目と2回目とも江戸時代に掘られた隧道の中にいて助かった。
 この隧道は100メートルもあり、人力だけで掘られていた。交通のトンネルとしては、昭和時代初頭には使われなくなり、廃道となった数年後から、年間を通じて温度と湿度が一定であることから、収穫物の貯蔵に使われるようになる。
 祖父母は、ここで作業をしていて1回目の消滅を逃れ、すべての人工物と動植物が消えたあとは、この隧道で雨露をしのいでいた。
 そして、幸運にも2回目の消滅をも逃れた。

 祖父母は、付近のトンネルに残されていた車輌を回収し、車輌や積み荷を資源として生活を立て直した。
 隆太郎は祖父母から教育を受けた。父母はどちらも、読み書きと整数の四則演算以上の学力がなかった。だが、父母とも教育が必要なことは理解していた。
 だから、隆太郎の教育を祖父母に任せる。結果、隆太郎には特殊な才能が備わった。
 祖父は航空機の開発に携わるエンジニアだった。祖父は彼の持つ技術・知識のほとんどを孫に教えた。しかも、理論と実践で。
 祖母は東アジア現代史の研究者だった。出身大学の非常勤講師だったが、若手研究者では名を知られていた。
 祖母からは、歴史と文学を学んだ。

 彼の知識と教養は19歳年下の鮎原梨々香に受け継がれたが、教養の点では彼女は理想的な継承者ではなかった。
 だが、機械の整備・改造技術については、高度に継承していて、隆太郎のよき右腕だった。

 隆太郎は5年前、灌木の下で膝を抱えている女の子を見つけた。3歳くらいだが、自分の名前を言えなかった。隆太郎は彼女をサクラと名付ける。
 衰弱していたが、彼女の生命力は強く、死神を追い払った。
 梨々香を保護したのは6年前。12歳の丸子陽人とは1年前に合流している。
 隆太郎は父母の死後、1年半ほど1人で生活していたが、日常は極端に荒れていた。だが、梨々香を保護してからはヒトらしい生き方に戻っていた。
 東京湾側なら富津岬以南の房総半島には、萱場隆太郎、鮎原梨々香、丸子陽人、サクラの4人しか住んでいない。
 関東甲信越でもヒトの総数は、100に満たない可能性が高い。100どころか、10もいないかもしれない。

 ヒトの生存を脅かす最大の要因は、穴居人だ。穴居人と呼んではいるが、洞窟に住むヒトではない。
 姿はヒトによく似ているが、明確にヒトではない。言語を発する能力がなく、道具を作ることもない。ただ、動物の骨や枯れ木を棍棒のように使ったり、石を投げたりはする。
 シカやイノシシを捕食することはなく、獲物はヒトに限られる。
 川や湖など水面・水流を嫌い、寒さに弱い。外気温が氷点下になると、ほぼ動けなくなる。気温が高くても、体温が奪われるからか豪雨の中では動かない。
 穴居人の弱点はわかっているが、遭遇すればヒトに勝ち目はない。十分な弾薬がなければ、確実に捕食される。
 そして、十分な弾薬はない。

 大消滅後、房総半島には空と雲と土しかなかった。植物も動物もいない。
 70年後、偶然に残った植物が繁茂し、幸運にも生き残った動物たちが繁殖して、新たな環境が生まれていた。
 動植物とも生き残った種は少なく、単純な動植物相だが、その中にヒトは組み込まれていない。
 穴居人がヒトの生存を脅かしているからだ。
 穴居人が何なのか、どこから来たのか、まったくわかっていない。
 東北方面から南下してきたとも、関西方面から東進してきたとも、噂はあったがはっきりしない。

 萱場隆太郎が房総半島にとどまった理由は穴居人がいないことだが、同時にここから去ろうとしている動機も穴居人に関わりがある。
 穴居人は東京湾の干潟を歩いて、千葉方面に進出したという噂があるからだ。

 こういった噂は、以前は生存者間の物々交換などの際に伝えられた。しかし、5年前からヒトと出会うことが極端に減った。
 過去2年間で出会ったのは、丸子陽人だけだ。陽人は穴居人と遭遇している。
 彼は10人ほどのグループで生活していたが、集落を穴居人に襲われ、幸運にも生き残った。

 最近の噂は、無線交信の傍受で得ている。無線の呼びかけに応じることもある。
 隆太郎にとって、いまでも無線を使うヒトがいることと、作動する無線機があることが心の支えになっている。
 その飛び交う電波の噂の中に、三陸の宮古に住む家族が木造船を作り、四国の高知に向かう計画を聞いた。
 宮古と高知の間で詳細な行動計画を立てていたが、隆太郎は危険だと感じた。
 無線は傍受されている。
 計画が詳細であれば、物資の強奪を謀る賊に襲われかねない。
 この世界は善人ばかりではない。善悪の区別さえない。

 蒸かしたジャガイモ1個、炙った燻製の魚半身という粗末な夕食を終えると、隆太郎が発言する。
「梨々香とも相談しているんだが、ここを出ようと思う。
 穴居人と遭遇すれば、俺たちは生き残れない。
 遭遇する前に逃げ出す」
 梨々香が説明を続ける。
「弓とクロスボウの矢はたくさんあるけど、銃の弾は少ない。
 ライフル弾が15発、散弾が4発、拳銃弾が10発。
 これじゃぁ、穴居人とは戦えない」
 サクラが不安な目をする。
「ここにはもう住めないの?」
 隆太郎と梨々香が頷く。
 落ち着きなく身体を動かしている陽人が問う。
「どこに行くの?」
 隆太郎が答える。
「四国という大きい島の高知という街だ。
 たくさんのヒトが住んでいる」
 サクラが尋ねる。
「たくさん?
 10人くらい?」
 サクラは、同時に5人以上のヒトを見たことがない。彼女の問いに梨々香が答える。
「その街には何千人もいるんだ。
 サクラと同じくらいの歳の子もいるよ。
 きっと、友だちができる」
 梨々香はサクラに希望を与えようとしたが、サクラには大勢のヒト自体が恐怖だった。実際、梨々香も同時に50人以上のヒトを見たことがない。
 数千人の集団に対する恐怖は、梨々香にもある。
 陽人には疑問があった。
「その街まで、道はあるの?」
 道など存在するはずはないが、陽人はあえて尋ねた。
 隆太郎が答える。
「ない。
 海路か空路しかない。太平洋を陸伝いに進む。
 300日以上前だが、俺たちよりも北に住む家族が高知に向かった。
 5日でたどり着く計画だった」
 サクラの不安な目が隆太郎を動揺させる。
「いつ出発するの?」
 隆太郎が息を吐く。
「冬が終わり、雨が降り出す前だ」
 陽人が核心を突く。
「船はないよ。
 海まで遠いし……」
 梨々香が答える。
「ポーターを使う。
 あれなら3時間か4時間で行ける」
 陽人は不安だった。
「本当に飛ぶの?
 鳥よりもずっと重いよ」
 隆太郎は、今回も同じ説明をする。
「大昔は、飛行機がたくさんあったんだ」
 陽人は、そんな話を信じるほど愚かではない。金属の鳥が飛ぶわけない。そんなことは、子供でも理解できる。
 梨々香は、毎回同じ問答に飽きていた。
「あのポーターは、80年以上前に造られた飛行機なんだ。
 九十九里の波打ち際で、隆太郎のひいおじいさんとおじいさんが見つけて、ここまで運んできた。
 15年前までは動いていたけど、以後は故障したまま。
 6年前、私と隆太郎が出会った頃、隆太郎が修理を始めるんだ。エンジンを換装したし、機体は無傷だけど、古い機械だから強度を調べる方法が思い付かず修理はたいへんだった。
 少しずつ進めたけど、5年前にサクラが来てから急ぐようになった。
 同じ頃、穴居人が房総に現れたから……」
 隆太郎が梨々香を引き継ぐ。
「穴居人がヒトではないことは、目撃した瞬間にわかったよ。邪悪な生き物だ。生き物かどうかも怪しい。
 あんなものとは共存できない。
 殺すか、逃げるかだ。
 だけど、穴居人は年々増え、ヒトは日を追って減っている。
 それを明確に感じたのが5年前だ。
 いつか追い詰められる。
 そのときのために、ポーターの修理と改造を始めた。あれがあれば、逃げられる。空に上がれば、穴居人は追ってはこられない。
 最初は、近くの島にでも逃げようと思っていたけど、どちらにしてもじり貧になる。
 安全で、食料が手に入ったとしても、4人だけでは生き残りは無理だ。
 だから、高知に行くことにした。
 高知がダメなら、次の場所を探す。
 どちらにしても、ここにはいられない」
 陽人は不安だった。
「あの機械の鳥は、本当に空に浮いて、壊れずに進めるの?」
 梨々香が答える。
「ポーターは、完全に分解し、使えない部品は交換し、使える部品はすべて点検してある。交換したエンジンは完全に整備してあるよ。
 機械だから壊れる可能性はあるけど、十分な信頼性があるんだ。
 エンジンが壊れても、しばらくは滑空できるし、バルーンタイヤを付けているので荒れ地でも着陸できる」
 陽人は、隆太郎や梨々香と行動をともにすべきか、迷っていなかった。陽人が3人と合流したのは1年前、助けてもらった恩はあるが、生命を差し出すほどの義理はない。
 彼は、高知行きには懐疑的。直線で650キロ近くを進むことは現実的ではない。
 陸路なら東京湾岸深部までだって行けないのだ。荒唐無稽としか言いようがない計画だ。
 陽人には、隆太郎と梨々香が呆けているとしか思えなかった。

 燃料として精製した落花生油(ピーナッツオイル)は、ドラム缶3本分600リットルある。ルドルフ・ディーゼルがディーゼルエンジンを発明したとき、使った燃料は精製した落花生油だった。
 その故事に習って、曾祖父母が化学の知識を学んで落花生油を燃料にする方法を工夫した。それが、曾孫の隆太郎まで受け継がれている。
 バイオマスから高純度エタノールも製造していて、添加物を加えてガソリンの代替燃料にしている。
 この高純度エタノールと落花生油を混合して、ターボプロップの燃料としている。
 燃料は潤沢ではないが、日常の行動に必要な量は確保している。また、高知に行くために必要な量も備蓄している。
 計画では離陸から3時間から4時間で高知上空に到達できる。

 隆太郎は、高知を理想郷とも楽園とも考えていないが、少なくとも文明を維持していると期待していた。
 梨々香は、自分が最後のヒトになることが嫌だった。それよりも、サクラを1人残したくなかった。
 だから、サクラには多くのヒトと関わってほしかった。
 ヒトの絶滅は、現実にあり得る。
 少なくとも、日本列島からヒトが消えることは、十分にあり得る。穴居人が現れて以降、少人数の生き残りグループが激減している。
 無線だけの付き合いだが、いくつものグループが音信不通になっている。無線が「穴居人を見た」と伝えてから、連絡が途絶えてしまう例は1つや2つではない。

 梨々香は九十九里の南端付近で、穴居人を目撃している。大消滅以前は、太東と呼ばれていた街の付近だ。
 隆太郎と梨々香は、穴居人が何か、どんな習性なのか、具体的には知らない。大型化しているニホンザルとタイワンカニクイザルの混血種と見間違う可能性もある。ニホンザルはオスの体長が60センチが最大値に近いが、この新種は1メートル近くある。
 穴居人は、この新種マカクよりも大型でヒトによく似た姿だ。ヒトに似ているが裸で、ヒトよりも身体能力が高い。
 単独で行動していた梨々香の場合、新種マカクか穴居人かを判別できず、とにかく逃げた。その際、直立二足歩行で追跡された。
 新種マカクなら前肢を足として使うはず。だから、穴居人と判断した。ヒトとの見かけ上の違いは、ヒトよりも小型で体毛が濃く、ヒトよりも体格に比して腕が少し長いだけ。
 様子はヒトとは明確に違う。知的な雰囲気が皆無で、無機質だ。
 隆太郎も穴居人との遭遇経験があり、梨々香と同じように感じた。ヒトに似ているが、ヒトではないことが直感でわかった。
 ヒトを含めた他の動物とは、明確に異なる禍々しい雰囲気が穴居人にはある。

 隆太郎の曾祖父たちが回収した単発高翼小型機は、本来は民間用なのだが、塗装が森林迷彩だったことから、軍用として使われていた可能性がある。
 ただ、国籍標識がなく、どこから飛んで来たのかもわからない。
 隆太郎の父母は動乱の時期に育ったことから、どうにか読み書きができる程度で、教育のレベルが低かった。
 それでも、祖父を手伝って、いろいろな車輌を分解・修理した。
 燃料が限られるので、移動や作業には四輪駆動の軽トラを主用していたが、多くの車種がある中からリアエンジンで四輪駆動のスバル・サンバーを重用した。
 大災厄から70年を経ているが、稼働可能なスバル・サンバーは3輌あった。そのうち1輌は、4輪をクローラーに変更している。このクローラー・サンバーの荷台は、パネルバンになっている。荷室の内部にはベンチシート兼ベッドと、テーブルが置かれている。
 この設備はサクラのため。最悪の事態でも、幼いサクラが寒くないようにとの思いからだ。
 それと、ポーターが使えないときには、予備の移動手段となる。

 この夜は、焼きジャガイモ、少しの塩、塩味の魚と香草のスープが食事だった。
 塩は海水から得ていた。非定期的に海まで行き、海水を汲んで持ち帰っていた。海水を煮詰めて濃い塩水を作り、太陽光が届きにくい環境であることから、天日干しでの固体の塩は得られず、液体の塩として利用している。

 食事が終わると、隆太郎が発言する。
「天候次第だが明後日、出発する」
 陽人が驚き反対する。
「俺は行かない。
 自殺行為だ。金属の鳥が飛ぶなんて、絶対に信じない」
 陽人の反応は、隆太郎と梨々香は想定内だった。
「わかった。
 ここに残していくものは、陽人が自由に使っていい。
 俺たちは行く」
 陽人がサクラを見る。
 サクラも反対だと考えていたからだ。
「明日中に、着くんだよね。
 楽しみだな」
 サクラの予想外の反応に、陽人が愕然とする。
 だが、陽人の意志は変わらなかった。彼は残ると決めていた。
 この世界では生存の保証は誰にもない。隆太郎と梨々香は、陽人の判断を良とした。

 陽人は、重大なことを理解していなかった。隆太郎、梨々香、サクラが去ると、半径25キロ圏内には彼しかいなくなる。
 おそらく、100キロ圏内に4人以外のヒトはいない。
 その状況で、どうやって生き延びるつもりなのか。
 陽人は自分の名前以外の読み書きができないが、孤独に耐えられたとしてもやがて言葉さえ忘れる。

 出発が迫っている。
 今朝の食事は、ジャガイモと魚のスープだ。味付けは塩だけ。
 朝食をすませ、食器を洗い終えると、隆太郎が説明を始める。
「風がない。滑走路は短い。400メートルしかない。
 で、食料と着替え以外は置いていく。陽人の分の食料は残す。
 離陸したら、東京湾を横断して、陸側を飛ぶ。左手に海岸線を見ながら、陸上を飛行する。
 海岸線付近は気流が悪い。陸側のほうが飛びやすい。街があれば、上空からわかるはず。
 高知は必ず見つかる。
 高度は1000メートル。これ以上だと、酸素が薄くなるし、高度を上げすぎると気圧の変化による燃料の変質に不安がある。
 紀伊水道を渡る。渡れば四国。
 いよいよ高知だ。
 本当にヒトがいればいいのだけど……」

 隆太郎と梨々香は、できるだけ見栄えのいい衣服を用意する。衣料品は70年の間に、ほぼ使い切ってしまっていた。大事に保管していても生地は経年劣化で脆くなり、普段着は補修を繰り返している。
 サクラは理解していないが、相当に怪しげな姿になっていた。
 梨々香は、離陸する前に衣服を改め、サクラが高知で悲しい思いをしないようにと気遣っていた。
 その準備もしているが、彼女自身、衣服についての知識はあまりなかった。

 ピラタスPC-6ポーターはスイス製の高翼単葉単発機で、物資1トンか乗客10人まで乗れる。オリジナルは550軸馬力ターボプロップエンジンを搭載し、短距離離着陸性能に優れている。
 隆太郎は、エンジンを同系の958馬力型に換装している。
 大消滅によって、ヒトが作った構造物はもちろん、草木や岩石まで消えた世界では、航空機は効果的な移動手段だった。
 曾祖父は小型単発機の操縦ができたので、曾祖母、祖父母にも操縦を教える。
 だが、隆太郎の父母には飛ばせなかった。
 隆太郎は祖父から操縦を教わった。

 ポーターの姿は、セスナによく似ている。だが、かなり大きい。軽飛行機に分類されるが、全幅15メートルを超える。
 オリジナル状態でも荒れ地での離着陸が容易なのだが、隆太郎の祖父は脚柱のダンパーを大型化して強度を高めた。不整地への着陸を可能にするため、大直径のバルーンタイヤを取り付けている。尾輪も大型化して空気入りに変えた。
 これで、相当の荒れ地でも離着陸できる。
 オリジナルのエンジンは、550軸馬力のプラット・アンド・ホイットニー・カナダPT6A-27ターボプロップだった。この機の発見時は、このエンジンが装備されていた。エンジンの故障もあり、祖父の代に750軸馬力のプラット・アンド・ホイットニー・カナダPT6A-25Cターボプロップに換装した。
 長くこのエンジンを使っていたが、再飛行を可能にする際、隆太郎が973軸馬力のPT6A-50に換装した。
 機首が長いことから、離陸時の前方視界に難がある。
 PC-6はアメリカのフェアチャイルド社でもライセンス製造されているが、隆太郎のポーターはスイス製で貨物機として使用されていたらしい。座席は最前席だけだった。
 そこで、前席の後方にワンボックスバンの折りたたみ座席を追加してある。
 ターボプロップはケロシン系燃料なので、軽油や灯油と近似。
 そして、ピーナッツオイルに高純度バイオエタノールを混合した燃料でも、飛行可能だ。
 70年の長きにわたり、ポーターを維持・運用できた理由がここにあった。

 隆太郎の曾祖父母たちは、房総半島南側内陸の大多喜付近に住んでいた。
 大消滅で生き残った家族は、祖父母だけだった。
 大災厄後の曾祖父母たちは、膨大な物資を持っていた。曾祖父母は2億年後への移住計画には懐疑的で、参加しなかった。
 そして、生き残るために物資を集積し、田畑を確保し、魚の養殖や家畜の飼育を始めていた。
 だが、大消滅によって、すべての物資を失った。軽飛行機のセスナ170など2機を含む、すべての物資が消滅する。
 失わなかったものは、祖父母の生命と江戸期の手掘りトンネルに保存されていた収穫物と主翼を取り外して格納されていたピラタスPC-6ポーターだけだった。 
 2人はトンネルにいて生き残った経験から、周辺のトンネルから車輌や物資を回収し、生き残りを図った。
 そして、成功する。
 それが、隆太郎のルーツだ。

 ポーターは、単管パイプと安全鋼板で作った格納庫に保管されている。
 この格納庫は、車庫とは別だ。ポーターのための格納庫だ。父はそうでもなかったが、祖父と孫である隆太郎は、ポーターの整備を怠らなかった。

 ポーターはもともとSTOL性能が高い。加えて、主脚の改造と、エンジン出力の増強によって不整地での離着陸も可能になった。
 エンジンの出力増強にともなう燃料消費の増大については、主翼下に機外タンクを取り付けることで解決した。

 車輌は、農業用トラクター、前後輪に履帯を取り付けた2トン積みダブルキャブトラック、小型ブルドーザー、ミニショベルが稼働可能。ユニック車は敷地内だけ自走可能。
 これだけの物資を持っていると、ヒトの襲撃にも気を付けなくてはならないが、数年前からそんな心配は不要になってしまった。

 梨々香がサクラを起こす。
 サクラの口を塞ぎ「静かに」と制す。
 そして、音を立てずに母屋を出て、格納庫に向かう。
 格納庫の扉は、すでに開かれていた。
 隆太郎がエンジンを始動する準備を進めている。
 白い息を吐きながら、夜着にコートを羽織ったままの梨々香とサクラが走る。
 梨々香がサクラを後部座席に座らせ、3つのザックを放り込む。
 彼女は左側の前席に座る。
 隆太郎の合図を確認し、ポーターのエンジンを始動する。
 車輪止めを外した隆太郎が右前席に跳び乗り、ドアを閉める。
 このときには、ポーターは滑走を始めている。
 梨々香は隆太郎のような曲芸的な短距離離着陸はできないが、80メートルの直線があれば離陸する自信がある。

 隆太郎は陽人の妨害を警戒していて、出発を予定よりも1日早める。
 やはり、陽人は何かを企んでいたらしく、朝早くにサクラをポーターに乗せていると、屋外に飛び出してきた。
 梨々香は陽人がサクラを拉致する可能性を危惧しており、数日前から一緒に寝るようにしていた。
 陽人が何かを叫んでいるが、隆太郎は彼を無視してポーターを離陸させる。
 陽人に追跡されないように、稼働可能な軽トラからイグニッションケーブルを外してあった。

 陽人が母屋から飛び出してきた。
 出発の予定日よりも1日早い。実際は、この日の早朝、薄暮時の離陸を予定していた。隆太郎と梨々香は、陽人を欺した。
 この世界では、男女は互いを選べない。選択肢がないのだ。だから、隆太郎と梨々香は、陽人がサクラを拉致すると考えていた。
 サクラの拉致は、隆太郎と梨々香の引き留めにも役立つ。陽人は粗暴ではないが、悪賢い面がある。この世界で生きていくには、必須の能力だが、人格に影響が出る。
 梨々香は、隆太郎以上に陽人を警戒していた。警戒の理由はサクラだった。
 梨々香の発案で、当初から陽人の裏をかく計画だった。

「上手くいったね」
 梨々香が微笑むが、隆太郎は油断していない。

 それでも、難なく東京湾を横断する。

「江ノ島付近の砂浜に降りる。
 そこで、顔を洗って、ウンコして、朝飯を食う」
 梨々香とサクラが「エ~ッ!」と隆太郎の発言を非難する。
 緊張が一気にほぐれる。

 隆太郎が操縦して、辻堂海岸付近に着陸する。無理はぜず、50メートルの滑走をする。

 上空から見た限りでは、ヒトの痕跡、穴居人の姿はない。
 海岸に沿って、松林が広がる。
 サクラが松林に向かって走って行く。
 梨々香がサクラを見守る。
 梨々香は、サクラの母であり、姉であり、友だちであった。
 サクラが戻ってきて、波打ち際に向かう。手を洗うことと、遊ぶためだ。波のリズムに合わせて、前後に走っている。

 梨々香が「おいで!」とサクラに戻るように伝え、サクラが走ってくる。
 ブラックバスの燻製をアルコールストーブで炙り、蒸かしたジャガイモを食べる。
 いつもの食事だが、サクラがはしゃいでいる。

 朝食後、サクラを着替えさせ、梨々香も身支度を調える。
 隆太郎は、繕いが多いツナギの作業服を着た。

 3人が機内に入ると、松林に人影が現れる。
 隆太郎が慌ててエンジンを始動し、離陸を始める。余裕を持って120メートル滑走し、ふわりと浮き上がる。
 サクラが地上をよく見ていた。
「槍を持っていたよ」
 穴居人ではなく、ヒトだった。ヒトの生き残りはいるのだが、文明を失ってしまっている場合もある。
 どちらにしても、危険だ。

 予定では200キロ飛行して知多半島の太平洋側海岸に着陸することにしていたが、飛行が順調で、サクラもトイレ休憩を求めないことから大阪湾沿岸まで飛ぶことにする。

 大阪湾には、着陸の適地がなかった。低木の林が海岸まで迫り、滑走の適地がないのだ。
 だが、淀川の川岸に1キロ近い砂の岸を見つける。
「危険よ。
 視界が悪い……」
 梨々香は反対するが、サクラはトイレに行きたがっている。
「我慢できるよ」
 サクラの言葉に隆太郎が決断する。
「降りよう。
 降りて、用を済ませたら、すぐに離陸する。
 エンジンは切らない。
 機内には、俺か梨々香が必ず残る」
 梨々香は無言だった。

「あれ、何?」
 サクラが地上を指差す。
 梨々香が地上を見る。機体は左側にややバンクしている。
「川の中だよ」
 サクラが川面を見るよう、梨々香を促す。
「何、あれ!」
 隆太郎が驚き、機体を右にバンクさせ、川面を見る。
「魚だな。
 サメか?
 10メートルはあるぞ!」
 梨々香が怯える。
「あんなのに襲われたら……」
 隆太郎が否定する。
「あんなのがいる川なら安全だ。
 川岸には近付くな」

 サクラと梨々香が用を済ませ、隆太郎が続く。川面には、巨大な背びれが移動している。
「よし、行こう」
 梨々香は、余裕の表情の隆太郎の微笑みが憎らしく感じた。
 着陸時の滑走距離は、わずか15メートル。離陸は150メートルほどだった。

 淀川で燃料を補給したかったが、ジェリカン5缶は後部座席に積んだまま。

 燃料の残を気にしながら、大阪湾を渡り、淡路島に向かい、鳴門に渡ってからは、海岸線を左手に見ながら飛行を続ける。
 海岸線を見ながら飛べば、高知を見失うことはないと考えた。

「あれだ!」
 隆太郎が叫ぶ。
「滑走路があるよ!」
 梨々香が高知空港を認める。
「お家がたくさん!」
 サクラが驚く。

 隆太郎は不安を感じながら、高知空港を無線で呼び出す。
 周波数が合わないのか、応答がない。
しかし、着陸をしなければならない。燃料が残っていないからだ。

 仕方なく、強行着陸を決意する。

 高知のヒトたちにとって、3人の出現は驚きだった。
 隆太郎は無線で高知を呼び出したが、周波数が合わないのか、無線の調子が悪いのか、交信に失敗した。
 ただ、高知空港の管制塔や、浦戸湾入口の見張りから「正体不明の単発機発見!」の一報が治安組織に入っていた。
 だから、隆太郎たちは待ち構えられていた。

 隆太郎の着陸は曲芸に近く、長大な滑走路が無駄とも思える20メートルの滑走距離だった。
 これには、高知空港のヒトたちは度肝を抜かれた。

 梨々香は、衣服を改めはしたものの、自分たちの恰好が相当にみすぼらしい状態であることに愕然とする。
 サクラが「みんな、暖かそうな服を着ているね」と言ったが、その通りだし、衣服の色彩も鮮やかだ。

 隆太郎たちを取り囲むヒトたちも驚いていた。

 隆太郎たちは先導されて、格納庫近くに向かう。機から降りると、空港の責任者が「どこから来た」と尋ね、隆太郎が「房総半島の南からだ」と答える。
「駐機はここでいいのか?」
 隆太郎の問いに、空港のヒトたちが頷く。
 ポーターの周囲に人集りができている。
「単発機で、しかも単独で1000キロ近くを飛行してきたのか?」
 そう尋ねられ、隆太郎が微笑む。

「3人か?」
 空港の責任者の問いに隆太郎が頷く。
「民生部の役人が来るまで、このまま待つんだ」
 サクラが「お水飲みたい」と呟くと、女性の職員が「待っててね、オレンジジュースを持ってくるから」と。
 サクラはオレンジジュースを知らないし、梨々香はそういう飲み物があることは知っていた。

 サクラにコップに入った橙色の液体が渡される。隆太郎は警戒したが、梨々香は本能で害はないと判断する。
「飲んでいいよ」
 サクラが梨々香を見て、女性職員に「ありがと」と伝えてから少し飲む。
 そして、一気に飲み干す。
 サクラは、飲み物と食べ物がどれほど貴重かよく知っている。
 だから、それ以上は求めなかった。
 コップを女性職員に返す。

 30分以上待って、女性が走ってきた。
「民生部の大木ですぅ。
 3人ですね。
 どこから、どうやって!
 とにかく、健康状態を調べないとぅ」
 女性は慌てている。
 隆太郎には、女性がなぜ慌てるのか、理解できていなかった。

 大柄な男が隆太郎に言った。
「機は、責任を持って俺が預かる。
 安心しろ」
 隆太郎は、すべてを失う危険を感じた。
 だが、大柄な男からは悪意を感じない。民生部職員の女性からは、優しさを感じる。
 この場の誰もが穏やかな顔をしている。
 ヒトの悪意を知っている隆太郎には、知古のない相手からの善意を理解できないが、梨々香は従っている。
 隆太郎は梨々香の度胸に感服している。ビクつく隆太郎を微笑みで励ましている。

 避難者受け入れのゲストハウスに連れていかれ、シャワーを促された。着替えが用意されていて、暗に現在の衣服を改めるように促される。その意味を隆太郎と梨々香は理解していたが、隆太郎は何とも惨めで悲しかった。
 南総では毎日鉄タンク風呂に入っていたが、石鹸は貴重だった。
 仕方のないことだが、身体は汚れていた。
 石鹸の使い方を教えられたときは、心底から悔しかった。
 なぜなら、植物油から石鹸を作っていた。界面活性剤を自製し、それを原料にシャンプーも作っていた。
 原始生活をしていたわけではない。

 ゲストハウスは、維持管理されていたが、何年も使われていなかった。慌てて3人の部屋を用意した様子が、隆太郎にもわかる。
 食堂の椅子に動かした形跡がないのだ。
 施設の職員が「もう何年も避難者はいなかったので……」と言い訳のように言葉を発する。
 隆太郎が「数年前、東北から高知へ船で向かった家族がいますが……」と尋ねるが、職員は「その家族、船の故障で駿河湾のどこかに上陸したのだけど、それ以後のことはわからないの」と答えた。
 続けて、彼女は「大災厄から70年になるから、まともに動く機械はほとんどないよね。
 あなたたちが高知にたどり着いたことは、奇跡に近いと思うよ。私たちも、最近は室戸までだって行けないんだから」と。

 隆太郎、梨々香、サクラの3人は、この夜、一緒に寝た。サクラが不安を感じていたからだ。それと、何かあれば、3人一緒のほうが行動しやすい。
 隆太郎は、今回の行動の評価をしかねていた。今日はいいが、明日はどうかわからないからだ。
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