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第4章 内乱

第33話 策士

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 ルカナに居座った王党派は、ルカナから彼らが言う解放派の追い出しに成功していた。
 残るのはコルカ村だけだが、この村の子供と老人はほとんどが逃げ出し、住まうのは屈強な男と数人のヘンな女性に限られていた。
 コルカ村を統率するアリアンは、苦慮していた。リシュリンやメグには、ルカナの男たちに嫌がらせをされても、決して手を出さないように言い聞かせていたが、この二人がいつ我慢できなくなるか予想ができなくなっている。
 リシュリンとメグだけではない。他の女性たちもキレかかっている。
 昨日は元女性兵士が、鉄の橋の上で三人に絡まれ、全員を橋の下にたたき落としてしまった。
 雨上がり直後で増水していたことから、死体は赤い海まで流されただろう。もちろん、それを計算した上での自己防衛なのだが、コルカ村に残る妙齢で屈強な女性たちから、危険な香りが立ち昇り始めている。

 アリアンは先に仕掛けることを決意した。
 リケル、スコル、ジャベリン、そして私がコルカ村に呼ばれた。
「四人に来て貰ったのは、頼みがあるからだ。
 しばらくアークティカ領から立ち退いて欲しい。
 お前たちがいると邪魔なのだ。
 フェデリカたちがさらなる傍若無人を働けるように、収穫の頃まで姿を消してくれ」
 リケルは戸惑った。
「どういうことですか?」
「お前たちがいれば、連中は警戒して何もしない。
 アークティカの正当な民族などと言ってはいるが、所詮は徒党を組まなければ何もできない穀潰しどもだ。
 お前たち四人がいなくなれば、対バルティカ戦役の最高功労者はいなくなる。
 そうすれば、連中の思う壷だ。
 好き勝手を始めるに違いない」
 私が「それでは困るでしょう」と言うと、「お前たちなど不用。チルルもいれば、マーリンやリシュリンもいる。イリアもメグもいる。フェリシアやミクリンもいるではないか。
 早く決着を付けるには、バカどもにバカなまねをさせることが一番の近道。
 異存はあるか」
 私は考え込んだ。アリアンの意見は一利あるが、危険を伴う。だが、だらだらとこのままでいいはずはない。
 ルカナは南北陸路交易の要衝だ。できるだけ早く奪還したい。
 私が逡巡していると、リケルが楽しそうな声を出した。
「私は西方に行ってみたい。帝国の首都も見たいし、特に白い海の南岸に興味がある。
 白い海の出口まで行ってみたい」
「俺も賛成だ。西に行こう。西の情勢をつぶさに見てきたい」
 スコルが同意した。
「では、私も同行しよう!」
 ジャベリンまで話に乗った。
 私は、この三人との旅など、むさ苦しくてご免だ。
 行き場所を考えると言って、コルカ村を後にした。

 三日後、リケル、スコル、ジャベリンの三人は、海路でルカーンを目指し旅立った。ただ一人の妻帯者であるジャベリンは、奥方に身勝手を相当に怒られたらしい。
 なお、三人の路銀はマーリンが出したとか。その条件は、旅で得たものは有形無形を問わず、メハナト穀物商会に帰属するというものだった。証文まで取ったらしい。
 強欲だ!
 また、ジャベリンは、マーリンに妻子の事後を託していた。

 私は旅には出ず、どこかに姿を隠そうかとも考えていた。
 だが、私も旅立たなければならない理由ができてしまった。

 地下空間を退去した後、滑走路はイファの南に移され、管制塔や通信施設も新たに整備した。格納庫は木造だったが、半地下式のコンクリート製を建設中だ。
 この頃、アレナス造船所がフォッカー戦闘機の残骸から部品を取り、胴体と主翼を全木製にした機体を完成させていた。
 エンジンや他の機械類はフォッカー戦闘機から移植し、主翼、胴体、プロペラブレードのみを新造した。
 主翼は左翼が原形をとどめていたので、これをモデルに両翼を新造した。フォッカー戦闘機の主翼は、木製であったから、その複製は不可能ではない。
 原型機の胴体は、鋼管骨組みの骨格を持ち、前部軽合金、後部帆布張りだ。これを、木造船建造の技術を活かして合板木製モノコック構造で新造した。
 武装は、両翼に七・九二ミリM36機関銃を各二挺、計四挺を装備可能だ。
 この機体はまだ一切の武装がない裸馬の状態だが、フェイトが地上滑走のテストを始めていて、ジャンプ飛行に成功している。
 また、機体だけだがWACO複葉機の試作機も完成している。
 WACO複葉機用の空冷星形七気筒エンジンは、アレナス造船所が試作を始めていた。
 飛行機やガソリン車のエンジンの新造は、シリンダーブロックからスパークプラグまで、何から何まで一品ずつ手作りしなければならないので、膨大な労力を要する。
 おそらく、神聖マムルーク帝国との戦いの初戦では、新造飛行機は間に合わない。
 フェイト以外にキッカが操縦できるようになりつつあるが、フェイトとキッカだけに頼るわけにもいかない。
 私はあれこれと考えたあげく、フェイトから聞いた「ボナンザは燃え尽きたわけではない」とする説明に博打を打ってみるつもりでいた。
 ラシュットならば、海路でも陸路でも素早くアレナスに戻れるし、陸路なら五五〇キロは離れているので、ルカナを支配している連中もたっぷりと油断してくれるだろう。
 フェイトの話では、火を掛けられたボナンザは、後部胴体が焼け落ち、左主翼が大きく壊れているが、右主翼、垂直・水平尾翼、コックピットと機首部はほぼ無傷らしい。
 ビーチクラフト・ボナンザは、全幅一一・五メートル強の小型機なので、クレーン付きの蒸気牽引車と、標準貨車二台分の長さの貨車があれば搬送できる。
 飛行機として再生できなくても、空冷水平対向六気筒三〇〇馬力のエンジンは手に入る。仮にエンジンが再生できなくても、プラグや発電機は使えるかもしれない。
 何も得るものがないことは、あり得ない。
 フェイトの話では、ボナンザの残骸はフェイトの希望でシビルスの旧邸宅跡に残された煉瓦造りの車庫に運び込まれたという。
 旧邸宅はシビルスの祖父の代まで使われていたそうで、ラシュットの市中心部からはだいぶ離れているらしい。
 運がよければ、誰にも見咎められずにボナンザを運び出せる。
 ボナンザの運び出しは、フェイトとシビルスの許可を得たが、この機体の帰属はフェイトにあることをシビルスに確約させられた。

 私はこの作戦をごく少人数で完遂するため、カラカンダとメルトを含めた三人で実行に移したかった。
 機械式の簡易クレーンを取り付けられる蒸気牽引車は、すでに何輌かあった。その車輌はイファの工場で製造しており、その試作車を借りた。大型貨車はタルフォン交易商会から借りた。
 三人で決行するつもりだったが、蒸気車の運行・整備に三人とも自信がなく、ネストルに乗員を提供して貰った。クスノとロニキの運転手兼整備士の二人、そしてネストルの片腕であるミランが加わった。
 結局、六人になった。

 私はミランをネストルに紹介されて、どこかで会ったように感じた。
「どこかで会っていませんか?」
「はい。私がまだ領主という仕事をしていた頃、遙か西方の岩山でお目にかかっています」
「あっ、ジャベリン殿の!」
「はい、義弟〈おとうと〉です」
「とすると、エルプスさんの義兄〈おにい〉さん?」
「いいえ、エルプスのほうが年上なんです」
 ネストルが大変驚き、「ヌールドの丘の司令官と、シビルス殿の片腕とも称される辣腕が兄とは!
 まったく知らなかった。
 それにしても優秀な三人兄弟ですね」
「いいえ、三人とも血のつながりはないんです。
 私の妻とジャベリンの妻、そしてエルプスが姉弟で……」
 私は、本題に戻したかった。
「話はつきないが、あれ以後については、また改めてゆっくりと話しましょう」
 ネストルと詳細に相談した結果、輸送の損傷防止と利便性を考慮して、一輌の蒸気牽引車と標準貨車二輌の編成を追加することにした。
 支払いは、メハナト穀物商会とタルフォン交易商会との正式な商談として処理することになった。
 タルフォン交易商会に代金を支払い、シビルスとの関係が深いフェイトの荷物を運ぶなどと言ったら、マーリンが怒るに違いない。
 怒られる前に出発しないと。
 我々は、ネストルとの打ち合わせの三日後にラシュットに向けて出発した。

 その前夜、マーリンとリシュリンに徹底的に攻められた。一人に三回ずつ、計六回を発射した翌朝は辛かった。
 吐き気さえ感じる。洗顔の際、水鏡に移った私の顔はやつれ果てていた。

 ラシュットは神聖マムルーク帝国の勢力下にあり、アークティカの民は敵国人となる。
 アレナスを出発する時点で、西方からやって来た商人の風体を装った。
 西方人はボタンのある服を着て、踝までの長さがある左肩で閉じるマントを羽織る。刀剣は、無反りの長剣を佩用する。
 ただ、私とカラカンダは、どう見ても西方人の風貌ではない。そこで、訳のわからない奇妙な格好をした。私は、マカロニウエスタンのガンマンみたいな格好をして、カラカンダは全身を漆黒のマントで覆う悪魔のような出で立ちだ。

 私の日本刀もどきの軍刀は、ステンレス製であったことから、エミール医師の要求でメスなどの医療器具の原材料になってしまった。
 人を殺める武器が、人を助ける医療機器となる。物事は表裏一体。善と悪、利と害、得と損で世の中は語れるものではない。
 差料〈さしりょう〉を失った私は、あれこれと見て歩いたがしっくりくる刀剣はなかった。
 農具を作る鍛冶の工房を覗いた際、藪を伐採するためのマチェッテ(山刀)が数振展示されていた。
 そのうち、刃渡りが六〇センチほどの大型を握ってみると非常にしっくりくる。
「これはおいくらですか?」と鍛冶に値段を尋ねると、「農作業にお使いですか?」と尋ね返された。
「いいえ、旅に持って行きます。道中差の替わりです」
「これは、農民が仕事に使うもの。道中差の替わりにはなりません」
「本来の用途に使うのでないことは、お詫びしますが、どうか私に譲ってください」
「そう言うことではないのです。それを腰にされても、御身の自由を意味しないのです。
 一日ください。
 護拳を付け、戦道具のような見かけにいたします」
 農具鍛冶は、人生の苦難を顔に刻んだような面魂の男だ。
 私は深く頭を垂れ、彼の気遣いに感謝した。

 また、我々は行政府の方針で、連発銃の携行は許可されなかった。今回の旅では、武器は刀剣とマスケット銃だけだ。不安だが仕方ない。
 行政府は、我々の武器が帝国側に渡ることを非常に恐れている。それは当然のことなのだが、帝国側には十中八九の確率でカラシニコフA‐K47アサルトライフルが渡っている。この強力な銃をコピーしようと思えば、この世界の技術で可能だ。工作機械の精度が高いし、個々の部品をコピーするくらい容易にやってのけるだけの職人技がある。
 パキスタン北部やフィリピンの武器密造村と同様なことなら、すぐにもできる。
 ただし、良質な素材を確保することが難しい。この世界では、マテリアル技術のレベルはあまり高くなく、この一点が武器複製における唯一の難関と言える。

 シビルスの祖父の旧宅は、ラシュットの南の外れ、無領地との境界から遠くない地域にあった。
 治安のいい一帯ではないが、ラシュット域内では神聖マムルーク帝国の締め付けが厳しく、野盗、強盗の類いはなりを潜めている。
 いかなる罪を犯しても、帝国は犯罪者を捕らえて奴隷にする。奴隷になれば、その身分を解かれることは終生ない。無銭飲食でも殺人でも、捕らえられれば奴隷となり、他国に売却される。
 また、例えばご近所トラブルのような、よくよく調べなければ沙汰を出せないような事柄では、トラブルを犯した双方が奴隷となる。取調や聴取はない。トラブルがあった事実だけで、当事者は奴隷となる。
 帝国の考え方は単純で、争議の当事者が自由の身分を失えば争議自体が消滅するので、完全解決となる、としている。
 ある意味、合理的だが、無慈悲である。

 我々は、この無慈悲で完璧な治安維持方針に一縷の望みをつないでいた。
 空き家が略奪の対象になることは、この世界では必然である。だが、帝国の治安維持方針が徹底されていれば、シビルスの祖父の旧宅は無事な可能性が高い。
 仮に物色されていたとしても、半焼しているビーチクラフト・ボナンザは金目のものには見えないだろう。
 私は、無事である可能性は高いと考えていた。

 我々は、ルカーンを発した後、帝国の目を避けるため南下して内陸に入り、ダーム→セムナ→マーバ→ヴィン→ラシュット南部に至るルートを選択した。
 アークティカとルカーンの国境を越えて以降、六五〇キロの距離がある。片道総行程八〇〇~八五〇キロという旅になる。

 往路は、蒸気車は空荷なので順調に進んだ。故障はなく、怪我人、病人は出ず、むさ苦しい男六人の気楽な旅だった。
 燃水の補給は、街や給油・給水所を利用したが、宿泊は人目を避けて野営とした。野営をする隊商は多い。一隊が野営の準備を始めると、自然とその回りに他隊が集まってくる。また、野営がしやすいポイントがあり、そこには必ず隊商がいる。
 我々もそういったポイントを利用したので、特別目立つ行動をしていたわけではない。

 我々は一五日を費やして、誰にも見咎められずに、ラシュット南部の国境近くまで迫った。
 ここから先は、敵地である。

 カラカンダは、アリアンの執事であったことから、旧宅の所在地をよく知っていた。ただ、ラシュットは彼にとって最も長く住んだ土地なので、知古も多い。
 そこで最初の偵察は、ミランとメルトの二人が受け持つことになった。

 ミランとメルトは、姿形がよく似ていた。ただ、ミランのほうが細面の色男で、メルトは少し幼い顔立ちだ。
 カラカンダは、旧宅の周囲は比較的小さな屋敷が多いが、一般住民の住宅街ではないという。住民の居住地からは離れており、また別荘地のような場所ではなく、作業場や倉庫などが点在する半工業地域らしい。
 旧宅は大きくはないが、高さ三メートルほどの壁が巡らされていて、周囲の建物が少ないので、すぐわかるという。母屋は解体されており煉瓦造りの車庫が二棟のみ残っているそうだ。

 ミランとメルトは、ともに一九歳だった。だが、その一九年の人生はまったく異なるもので、共通する部分は少ない。
 ミランは小領主の世継ぎとして生まれ、そのように育てられた。領主の身分を捨てるまで、自分の財布を持ったことはなかった。
 先王である父に背いたことはない。
 メルトは商家で番頭を務める父を持ち、末子であった。彼の父は利に賢〈さと〉く、東方騎馬民が侵入を始めると同時に、自分の子を次々と留学させた。そして、奴隷商人の侵攻の直前には、高速船をチャーターし、多額の金品を伴って妻とともに国外に脱出した。
 メルトは、そういった父の生き方に賛同できず、家族でただ一人、最後の突撃に参加し、九死に一生を得ていた。
 だが、二人は仲がよかった。この旅の第一の収穫は、ミランとメルトが友情を育んだことだと思う。
 ミランとメルトは若いが、二人とも思慮深く分別があるので、問題を起こさず、任務を果たすとおじさんたちは確信していた。

 ミランとメルトは、国境を徒歩で越え旧宅に向かった。
 旧宅はすぐにわかり、外観を見る限り荒らされた形跡はない。門扉も閉ざされたままで、異常は見られない。
 二人は人の多い住宅街の市場に向かった。帝国の治安維持活動や人々の生活を探り、我々の作業の妨げとなるものを知るためだ。
 基礎的な情報収集である。

 市場は住宅街に隣接しているが規模は小さく、正午を過ぎていたが人通りは少ない。帝国軍なのか、ラシュットの官憲かはわからないが、辻々に銃を持った兵が立っている。
 街人たちは、見て見ぬ素振りで行き交っている。兵士も存在を誇示するわけではなく、街の風景の一部と同化していた。
 その様子から二人は、ラシュットの兵か官憲と判断した。
 帝国軍は、街人の生活からは一歩引いた位置にいるのだろう。
 二人が市場の西の端まで行くと、塀に囲まれた小規模な軍の駐屯地があった。ここが帝国軍の宿営らしい。
 二人は異国の若者が物見遊山を楽しんでいる態で、この地域の情勢を可能な限り探索していた。

 我々、四人のおじさんが昼間から酒盛りをしていた頃、若者二人は大勝負をしていた。

 二人はラシュットに至る道すがら、隊商から、ラシュットでは罪を犯せば問答無用で奴隷にされる、と聞いていた。だが、その対象はラシュット人だけで、旅の途中の他国人には適用されない。他国人を裁く法は、通常の刑法だ。
 殺人や強盗でなければ、通常は罰金刑だ。もちろん、持ち合わせの私財すべてを没収されることもある。差し出す財がなければ、奴隷にされるが……。

 市場に活気はない。品は少なく、街人が経済的に足りてる様子はない。街人は、総じて痩せている。
 他所では大きな都市の中心から離れた小さな村や街でも、このようなことはない。ラシュットに至るまでの街や村は、どこも豊かだった。
 旅の途中の他国人は見かけるが、街の暗い雰囲気を嫌ってか、早々に市場を後にする人々が多い。

 そんな中で事件は起きた。
 ミランが目配せをする方向をメルトが見ると、両足を一本の縄でつながれた七~八歳の女の子が大きな木製のバケツを持っていた。その子の髪は、短く切られていたが赤だった。

 アークティカ人である。

 パラスはお腹がすいていた。昨日は、バケツの水をこぼした罰で、一切の食事を与えられなかった。
 もう、流す涙も涸れようとしていた。辛くて、辛くて、死んでしまいたかった。でも、死ぬ前にもう一度、お母さんが作ったご飯を食べたかった。
 手錠のように両足を縄でつないだ歩幅の稼げぬ足で、重い木のバケツに満たされた水を必死に運んでいる。
 そのパラスの細い左足に、きれいな靴を履いた肉好きのいい足が伸びていった。
 パラスは、一切の受け身なく、地面に叩き付けられた。
 その後ろで、一二歳くらいの女の子が笑っている。
 パラスは急いで上がり、「ごめんなさい。お願い。ぶたないで」と小さな声で懇願した。
 この弱々しい女の子の左頬を、大柄な中年男の大きな手が凄まじい速さでぶつかっていった。
 パラスは吹き飛び、もう一度、地面に叩き付けられた。
 大柄な中年男は残忍な面立ちで、パラスに近付き、「この役立たずが!」と怒鳴り彼女の小さな身体を蹴り上げようとした。
 だが、彼が蹴ったのは旅の若者の脇腹だった。彼が蹴り上げた足の前に、突然、その若者が身体を入れたのだ。
 ミランは、呻きながら地面を転げ回るメルトを見て、あまりの芝居のうまさに本当にダメージを受けているのでは、と心配になった。
「おい、メルト、大丈夫か?」
 その声は、無意識の動揺が加わってうわずっていた。
 すぐにラシュットの官憲がやって来たが、彼らは心底困った素振りだった。
 間を置かず帝国兵も来た。
 帝国の兵が「どうした。何があった!」と問うと、ミランは地に身を伏し「お騒がせ、申し訳ございません。突然、我が友がこちらの方に蹴られましてございます」と言った。
 帝国兵は周囲を見渡し、「この旅の者の説明に誤りはないか!」と群衆に質した。
 誰も答えなかった。
 帝国兵は「明らかに理由なき暴力である。連行せよ!」と、ラシュットの官憲に命じた。この瞬間、大柄な中年男は奴隷となる運命が決した。
 帝国兵はミランに向き直り「貴殿たちも騒ぎを起こした罪がある。エリス金貨一〇枚と、そのお前の剣を渡せ。さすれば、無罪放免とする」と言った。「お前の剣を渡せ」という言葉は、トーンが一段低くなっていた。この帝国兵への賄賂だ。
 ミランはエリス金貨一〇枚と、彼の剣を差し出した。王様の店で新たに誂〈あつら〉えた業物だ。惜しいが、ここで揉めたくはない。メルトに弁済させればいいことだし……。
 ミランは、大人しく自慢の差料を差し出した。
 帝国兵とラシュットの官憲は、早々にその場を立ち去った。

 苦しそうに呻いていたメルトは、何事もなかったように立ち上がり、赤い髪の女の子に跪き、彼女をやさしく立たせた。

 パラスは突然のことで、何もできなかったし、何が起きたのかもわからなかった。
 彼女の目の前のやさしそうな人が怖かった。
「大丈夫か?」と問われて、頷くことが精一杯だった。

 メルトは赤い髪の女の子に足を掛けた少女に近付いた。
「あの男はお前の父か?」と問うと、少女はいまにも泣き出しそうな顔で頷いた。
 メルトは財布から銀の小粒を二つ出すと、少女の手に握らせた。
「この子の代金だ。騒げばお前も奴隷だぞ」
 少女は震えだし、頷いた。
 赤い髪の女の子は、ミランに抱き上げられていた。
「お名前は」と尋ねられ、小さな声で「パラス」と答えた。

 三人は、走るように国境を越え、我々のキャンプに戻ってきた。
 赤い髪の女の子を見て、ロニキに半強制的に飲まされて、酔い潰れていたカラカンダが一瞬で正気に戻った。
 ミランが「申し訳ございません。私が付いていながら……。でも、悪いのはすべてメルトです」と弁明した。
 メルトの唖然とした顔が面白い。
 おじさん四人は予想外の出来事に動揺していたが、最年長のクスノが「よくやった。アークティカ人の誉れだ!」とメルトを賞賛し、全員の意が決した。
 この子をアークティカに連れて帰る。

 パラスは習性になってしまったのだろうか、我々の顔色をうかがいながら食事をする。
 何とも痛ましく、悲しい。幼い頃の自分を見ているようで、いたたまれない気持ちになる。
 むさ苦しいおじさん四人は、できる限りの笑顔と、優しさでパラスに接したが、それでもパラスは怖いらしい。
 クスノとロニキはメルトをよく叱っていたが、パラスが怯えるので、メルトにまで優しくしている。
 パラスには年長のクスノがヴィンまで戻って衣服を買ってきたが、彼女は古い汚れた服を捨てようとはしなかった。
 そして、誰も「捨てろ」とは言わなかった。クスノとロニキ、そしてメルトは、彼女にとってその服が大事なものであることを知っていた。おそらく、彼女が家族と分かれたときに着ていたものなのだ。
 父や母の記憶を残す、たった一つのもの。三人にも同じようなものがあった。そして、私にもあった。

 ミランとメルトが街で問題を起こしたことから、旧宅へは私とクスノ、ロニキの三人で行くことにした。
 早朝に出発し、一日で荷を運び出す予定だ。
 貨車を一輌ずつ牽引した蒸気車二編成を街に堂々と乗り入れ、まっすぐにシビルスの祖父の旧宅に行った。
 鍵を使って門扉を開け、二棟の倉庫の扉も鍵で開けた。
 すぐにラシュットの官憲がやって来た。

 官憲は二人。徒歩でやって来たようだ。
「ここで、何をしている。お前たちは何者だ」と誰何〈すいか〉された。
 私は門扉を開けず、格子越しに書類を見せた。
「私たちは商人です。荷を運び出すように指示されております」
 その書類の最初の署名者はシビルスの妻ティナで、夫シビルスの遺産を相続し、この屋敷をルカーンの商人に売却したことが書かれている。
 ルカーンの商人は五人が署名しており、つまり五回転売されたことになっている。
 五人目の転売者が、我々に荷の運び出しとその処分を依頼していた。
 この書類は正式なもので、偽造したものではない。
 もちろんシビルスは死んでいないし、ティナは遺産など相続していない。
 正規の手続きを経て作られた、偽書類だ。
 ルカーンの商人たちは、手をつくしてアークティカの商人に便宜を図ってくれたのだ。
 ラシュットの官憲は書類が正式なものであることを認め、作業を許した。
 だが、ラシュットの官憲は心配そうに「手早くやってくれ。帝国の兵が知ったら、必ず調べに来る。連中に書類云々は、まったく通じない」と小声で耳打ちした。
 そして、「夕方また来る」と大きな声で告げた。
 猶予は夕方まで、ということだ。

 機械式クレーンは組み立て式だ。小型の蒸気車のフロントバンパーの両端に一本ずつ長さ一一メートルの支柱を取り付け、その二本の支柱のもう一方の端と接続する。すると、バンパーを底辺とする二等辺三角形ができる。
 これがクレーンのアームになる。
 あとは、ワイヤーとフック、それに蒸気ピストンが回す二基のウインチで、最大一トンの吊り下げ能力になる。
 実に単純で、かつ有効な機械だ。

 ビーチクラフト・ボナンザは、無事だった。酷く埃を被っているが、壊されたり、荒らされた形跡はない。
 また、フェイトは「焼け落ちた」と言っていたが、実際はキャビンから水平尾翼までの胴体と右主翼外翼が焦げているだけだ。
 プロペラも無事なようだ。
 我々は、ファイトから教えられたとおりに主翼外翼を取り外し、その搬出から始めた。
 後部胴体と右主翼外翼の損傷がひどいが、両翼の主脚と前輪は無事で、しっかりと機体を支えている。
 外翼を外して、内翼と胴体を丸ごと運び出すことにした。
 機体は三車輪で大地に立っている。
 この倉庫に入れる際、機体を押したのだろう、プロペラを奥に向けて、尾部が扉側を向いている。
 本来なら、幅一一・五メートルに達する機体だが、右主翼外翼、補助翼から先を焼損している。
 厄介な大きさで、損傷が微妙で強度に不安がある。大型貨車の荷台の全長は一一メートルあるので、十分に積める。だが、幅は三メートルしかない。貨車の左右からかなりはみ出してしまう。
 機体を大型蒸気車で牽引して、屋外に出し、機体を用意してきた木製パレットに載せた。飛行機側の係止用具とパレットをつないで機体を固定し、パレットをクレーンで持ち上げた。
 タイヤにはエアが残っていないので、すべてを蒸気車の機力で行った。
 そのまま、大型貨車の荷台に乗せると、確かに左右ははみ出すが、運び出せそうな感じがする。
 ここまでの作業に六時間を費やしていた。すでに正午を大きく過ぎている。
 主翼はクレーンで吊り上げ、標準貨車に立て積んだ。そのための固定具は準備していた。
 大型貨車はパレットをしっかりと固定し、標準貨車に積んだ主翼外翼はロープで固定した。
 用意してきた特大のシート、実際は帆船の古い帆を被せて、運び出しの準備が整った。
 我々の作業は、何人もに見られている。特に子供が、たくさん見物に来ていた。
 いつ、帝国兵が現れるかわからない。早々に立ち去らなくては。

 車庫の扉の鍵を閉め、門扉を施錠して、一目散に国境を目指した。国境を越えれば無領地だ。
 何人にも誰何される言われはない。
 国境までの一〇キロをそろりそろりと時速五キロで走り、二時間かかって越えた。
 国境にはそれを示す標識があった。その標識を通り過ぎた瞬間、大型蒸気牽引車の運転をしていたロニキが、「腹減った~」と言った。
 まったく同感だ。我々は、休まず喰わず飲まずで、へとへとだった。
 キャンプまでの五キロは、途切れそうな集中力を維持するだけで、必死だった。ラシュット領内での極度の緊張は、精魂を付き果たすほどのものだった。

 パラスは、巨大な荷物が届いたことに大変驚き、好奇心が勝ったのか、恐る恐る「なぁに」と指さした。
 パラスと手をつないでいたメルトが、「あれは、おバカなおねぇさんが空を飛ぶための道具だよ」
 メルトはフェイトにWACO複葉機の後席に乗せられ、ありとあらゆるアクロバット飛行をされた。
 それ以来、フェイトを避けている。フェイトは怖くて嫌いだ。いじめっ子だ。でも、頼りにしている。人が空を飛ぶなんて、あってはならないことだ。だが、フェイトはアークティカの空を統べる女神だ。
 メルトがフェイトのことを考えていると、パラスが「お空を飛ぶの~」と言った。
 メルトは「そうだよ」と優しく答えた。

 我々は、往路と同じルートを二倍の時間をかけてルカーンに戻った。
 ルカーンには、メハナト穀物商会かタルフォン交易商会のどちらか、または両方の社員がいる。
 我々がルカーンに着いたとき、ミクリンが出迎えてくれた。
 彼女はあらゆる便宜を図り、この重要な荷を彼女の隊商が護ることにした。この荷運びは、通常の倍の時間がかかるが、飛行機の重要性は絶対的なものだ。安全確実に運ぶため、彼女は同行を決めた。
 それと、パラスのことを頼んだ。おじさんたちでは、何とも気が利かないので、ミクリンに彼女を託した。
 ミランたちとは、ここで別れ、彼らは荷とともにアークティカに戻る。

 私、カラカンダ、メルトの三人は、アリアンの言いつけ通り、麦の穂が頭を垂れるまで、アークティカには戻らない。
 翌日にはルカーンを発ち、セムナに移動した。
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時は1950年。 第一次世界大戦にあった「もう一つの可能性」が実現した世界線。1950年4月7日、合同演習をする為航行中、大和型戦艦三隻が同時に左舷に転覆した。 大和型三隻は沈没した……、と思われた。 だが、目覚めた先には我々が居た世界とは違った。 大海原が広がり、見たことのない数多の国が支配者する世界だった。 祖国へ帰るため、大海原が広がる異世界を旅する大和型三隻と別世界の艦船達との異世界戦記。

大絶滅 2億年後 -原付でエルフの村にやって来た勇者たち-

半道海豚
SF
200万年後の姉妹編です。2億年後への移住は、誰もが思いもよらない結果になってしまいました。推定2億人の移住者は、1年2カ月の間に2億年後へと旅立ちました。移住者2億人は11万6666年という長い期間にばらまかれてしまいます。結果、移住者個々が独自に生き残りを目指さなくてはならなくなります。本稿は、移住最終期に2億年後へと旅だった5人の少年少女の奮闘を描きます。彼らはなんと、2億年後の移動手段に原付を選びます。

日本国転生

北乃大空
SF
 女神ガイアは神族と呼ばれる宇宙管理者であり、地球を含む太陽系を管理して人類の歴史を見守ってきた。  或る日、ガイアは地球上の人類未来についてのシミュレーションを実施し、その結果は22世紀まで確実に人類が滅亡するシナリオで、何度実施しても滅亡する確率は99.999%であった。  ガイアは人類滅亡シミュレーション結果を中央管理局に提出、事態を重くみた中央管理局はガイアに人類滅亡の回避指令を出した。  その指令内容は地球人類の歴史改変で、現代地球とは別のパラレルワールド上に存在するもう一つの地球に干渉して歴史改変するものであった。  ガイアが取った歴史改変方法は、国家丸ごと転移するもので転移する国家は何と現代日本であり、その転移先は太平洋戦争開戦1年前の日本で、そこに国土ごと上書きするというものであった。  その転移先で日本が世界各国と開戦し、そこで起こる様々な出来事を超人的な能力を持つ女神と天使達の手助けで日本が覇権国家になり、人類滅亡を回避させて行くのであった。

男子中学生から女子校生になった僕

大衆娯楽
僕はある日突然、母と姉に強制的に女の子として育てられる事になった。 普通に男の子として過ごしていた主人公がJKで過ごした高校3年間のお話し。 強制女装、女性と性行為、男性と性行為、羞恥、屈辱などが好きな方は是非読んでみてください!

月が導く異世界道中extra

あずみ 圭
ファンタジー
 月読尊とある女神の手によって癖のある異世界に送られた高校生、深澄真。  真は商売をしながら少しずつ世界を見聞していく。  彼の他に召喚された二人の勇者、竜や亜人、そしてヒューマンと魔族の戦争、次々に真は事件に関わっていく。  これはそんな真と、彼を慕う(基本人外の)者達の異世界道中物語。  こちらは月が導く異世界道中番外編になります。

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