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第5章 解放編

第45話 イワン

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 バタ守備隊の指導者、通称イワンは、短い時間ながら会話の印象としては好漢だと思う。
 私は以後の交渉をメルトに託しはしたが、彼とはもう少し話をしてみたいと感じていた。何しろ異界人として20年以上、この世界で生きてきたのだ。私が知らないことを、知っている。

 リリィの父親は手稿の中に「この世界は時間が混在している」と書いていた。
 この世界の“世界観”は、実はわかっていない。ここが地球なのか、他の星なのか、それさえわからない。
 手稿の中に走り書きがあり、「この世界は1000年の歴史しかない?」とあった。どういう意味なのか、見当がつかない。
 文明はあるが、文明に整合性がない。蒸気機関があるのに、奴隷制がある。産業革命が起きたはずなのに、奴隷制が並存している。これは、あり得ない。
 アメリカの南北戦争は、産業革命による大量生産と関係がある。工業が勃興した北部では、大量生産を支える賃金労働者が必要だった。そして、賃金労働者こそが、商品を大量に買ってくれる消費者だった。
 一方、南部は労働を賃金支払いの必要がない奴隷に頼っていた。黒人奴隷が有名だが、白人の奴隷もいたし、アジア系の奴隷もいた。
 工業化が進んだ北部に必要なのは、作った商品を買ってくれる人々で、購買力のない奴隷は要らない。
 奴隷労働に依存している南部は、奴隷がいなくなったら経済が破綻する。賃金を支払ったら、農場が維持できないのだ。
 戦争は経済活動そのものだ。ある意味、奴隷解放なんてどうでもよかった。北部の足を引っ張る南部に対して、強制的な社会体制の変革を突き付けただけだ。
 工業が拡大した北部にとって、必要なのは消費者であって、奴隷ではなかった。
 同じことがこの世界でも起きてもよさそうだが、その兆候はない。
 また、奴隷を必要としているのは一部の国家や地域で、赤い海沿岸には奴隷制の痕跡さえない。
 アークティカにも王はいたようだが、王制は100年前に廃止された。それ以前から、王制そのものが形骸だったらしい。
 アークティカの社会体制は封建制が後退した以後の社会のようだが、北東の隣国ローリアは明確に絶対王政的封建制だ。中央集権確立以前の封建制国家もある。
 軍事にしても不思議なことがある。戦略レベルでは違和感を感じないのだが、戦術レベルだと、21世紀的な軍事組織から紀元前まで遡るような軍制もある。
 人間が築いた文明の2500年分くらいが、この世界に“同居”しているように感じる。

 私はイワンが言った「同国人よりも、同時代人」の意味を強く感じていた。
 実際、1940年代からこの世界に転移したエミール医師は、第二次世界大戦を連合軍側で戦った技術将校ロシュディやアンリ・ノール機関長と会話が弾む。
 ロシュディとアンリ・ノールが囃し立て、エミールが酒場で「リリー・マルレーン」を歌ったことは、本当に驚いた。
 失礼とは思うが、予想外の美声で、酒場は割れんばかりの拍手だった。同席ではなかった私も、拍手に加わった。
 目立たないように、息を潜めて生きてきたエミールが真に変わった瞬間でもあった。
 私もバーニーとは、自然と会話がつながる。彼とは、音楽やスポーツなど他愛のない共通の話題があった。2人で小声でBABYMETALを歌った。

 私は、東西冷戦終結直前の時代からこの世界に転移したソ連海軍軍人が何をどう考えているのか、知りたかった。
 だから、もう一度、バタに渡ることを考えた。今度は、アポイントをとった上で……。

 私はアレナスの庁舎でメルトと会っている。チルルとリケルが同席する。
 メルトは、何をどう切り出すべきか戸惑っているようだ。
「バタの統領イワンだが、何度もアークティカに来ているらしい。
 イファのソフトクリームは最高に美味いと言っていた」
 国境の管理は厳重にしている。特に南からの入国は、厳しく審査している。海岸線も。バタの指揮官が簡単に入国できるはずはない。 メルトは、お茶のカップをいじりながら下を向いていた。
「パノリアに上陸して、買い付けの穀物商人を装って、北からアークティカに入っていた。
 今回も、同じルートで入国するそうだ」
 リケルがメルトの目を見る。
「今回?」
 メルトはリケルと目を合わさない。
「あぁ。
 今回も!
 同じルートでアークティカに入り、お歴々と知古を得たいそうだ」
 チルルが不愉快そうに空のカップを弄ぶ。「大胆な方なのね」
 メルトは、顔を上げ政権中枢の実力者たちを見渡す。
「イワンは、250人の男たちとその家族のことだけを考えている。
 帝国に従っているのも、それが理由だ。人口1000ほどの小村が、10万を超える大軍に抗う術なんてない。
 村人の1人も奴隷に出さなかった。
 その交換条件として、傭兵としてバタに来たんだ。
 傲慢な帝国が、イワンの要求をのまなければならないほど、厄介な男と言うことだ」
 私は、メルトと並ぶチルルを見る。
「その厄介な男がアークティカに亡命したいと……」
 チルルが不安を表に出す。
「悪い人でないといいけれど……」
 リケルが微笑む。
「敵なら手強い相手、味方なら心強い同士だ。
 何よりも帝国を知っている。
 我々よりも……。
 家族の救出を成功させよう。
 何が何でも!」

 シビルスは、ラシュット北のダレアンザ地区に収容所があると確認していた。
 ただ、この収容所がバタ守備隊の家族のものかは確信がなかった。
 絶対の自信がないまま、作戦を実行することはできない。人の生命、それも戦闘とは無縁の人々の生命がかかっている。
 アレナスの通りを歩く私を見つけたシビルスが走り寄り、「ダレアンザ収容所に誰かを忍び込ませる必要がある」と告げ、私が立ち止まると強く頷いた。
 私は「わかった」とだけ答える。

 イファの飛行場は、活気にあふれている。突如として、10機もの飛行機が加わったからだ。特に四式重爆撃機“飛龍”の巨大な機体は、異彩を放っている。
 さらにロシュディとバーニーという新しい仲間が加わり、バーニーはホーカー・シーフューリーで飛来した。パイロットとしての経験が豊富で、空母への着艦経験まである。
 ロシュディは北アフリカで戦っており、実戦を生き抜いた猛者だ。
 2人とも人当たりがよく、バーニーはロシュディの通訳を引き受けている。

 しかし、10機とも飛行可能な状態ではない。十分な整備と、日の丸の上にフランスのラウンデルが上描きされているが、これをアークティカの国籍標識にしなければならない。
 そんな作業がいくつも残っている。

 イファの蒸気車工場には、左主翼の補助翼より先が千切れて失われ、後部胴体が折れ曲がった局地戦闘機紫電一一型甲が運び込まれた。
 紫電は発音がしやすいためか、シデンと呼ばれている。
 アレナス造船所には、二式単座戦闘機“鍾馗”が運び込まれている。鍾馗は発音しにくいためか、ヴォルヴァと呼ばれている。邪悪を退ける魔よけのことだ。私が鍾馗を「魔よけみたいなもの」と正確でない説明をしたからだろう。
 紫電は機体構造の研究用に、二式単座戦闘機は再生の可能性を探っている。

 ロシュディは、戦闘機対戦闘機の戦い方をイファの航空隊に教え始めた。長らく、爆撃と対地機銃掃射だけが、航空機の戦い方であったが、これに空戦が加わった。
 ただ、戦闘機対戦闘機の戦いがなかったので、訓練を受ける航空隊員たちには実感がなかった。
 ロシュディは、2機対2機の戦闘法を伝授しようとしているが、パイロットたちはアクロバット飛行の腕を自慢したがり、この点は順調とはいえない。
 実戦経験のあるフェイトとキッカは真剣で、バーニーにダールの戦闘機はどんなものなのか執拗に聞きだそうとしている。
 バーニーは、少なくとも4機あるはずのダールの戦闘機については、イファのパイロットたちに多くを語ろうとしない。
 アークティカが少しずつ製造している固定脚のフォッカーD.XXIとは、あまりにも性能差があるからだ。最高時速が400キロに満たないフォッカーで、700キロを超えるベアキャットとどうやって戦うというのか。

 バーニーは何度か私に相談を持ちかけている。彼の乗機であるホーカー・シーフューリーに武器を搭載する……。
 バーニーはこれを迷っている。彼に実戦経験はなく、また、搭乗経験のある軍用機はすべてダッソー・ブレゲー・シュペルエタンダールやダッソー・ラファールなどジェット戦闘機だった。
 レシプロの古典機は、彼にとっては軍用機の範疇に入ってはいない。機関銃・砲を搭載して、実戦機とするには心理的な忌避があった。

 ロシュディは、別の意味で戦場の空がイヤだった。
 1940年6月のフランス本土陥落以後、パリからチュニジアに一時的に戻っていた彼は、自由フランス空軍に志願する。
 志願直後はダグラス・ボストン爆撃機の副操縦士、その後はカーチス・ホークH75戦闘機、モラーヌ・ソルニエMS406戦闘機、スーパーマリン・スピットファイア戦闘機など、多種多様な機に乗った。
 激烈な5年間を戦い抜いて生き残り、もう恐い思いをしたくはなかった。飛ぶのは好きだが、空戦はご免だ。
 ただ、アジア人が作った飛行機に懐疑的な見方が多いフランス空軍パイロットの中にあって、彼は幼少より海外での生活が長かったためか先入観を持っていなかった。
 四式戦闘機“疾風”には乗っていないが、同系の一式戦闘機“隼”はテストしている。欧米の戦闘機とは異なる感触だが、悪い印象は持っていない。
 ハヤテを飛ばしてみたいとは思うが、空戦となると手が震えてしまう。
 それと、イファの蒸気車工場からの誘いも魅力的だ。
 飛行機設計は、戦争が始まる以前に望んでいた仕事だった。元の世界では5年のブランクは埋めようがないが、この世界なら可能なように感じている。
 熱心な勧誘にも、心が動く。
 具体的な仕事もある。
 イファの蒸気車工場は、研究用に搬入されている局地戦闘機紫電のリエンジニアリングによる再生を検討している。
 これの主任設計者を打診されている。
 イファの航空隊では、操縦教官の仕事しかないし……。

 私はバタ調略の秘密作戦の合間を縫って、イファの自宅に戻った。
 マーリンは商用でアークティカを離れており、リシュリンは郷土防衛隊中隊長としてアレナスにいた。
 子供たちはシッターさんが面倒を見てくれているが、ミーナ、リリィを筆頭に寂しい思いをしていた。
 自宅に帰れば、父親をやるしかない。この仕事が、一番苦手だった。

 突然、イファの飛行場に強硬着陸したバーニーと強襲揚陸艦ミストラル(陸軍特種船無名船)でこの世界に転移してきたロシュディが自宅に尋ねてきた。
 日没後のことだった。
 ミーナとリリィがお姉さんらしく、お茶を入れてくれる。
 そして、2人はしっかりと会話に加わるつもりだ。
 だが、私たち3人の共通の言語は英語しかない。英語で話し始めても、しっかり聞いており、席を外す素振りがない。私は、2人に超能力でもあるのでは、と心配になった。

 ロシュディは、沈んだ様子だった。この世界に突然放り込まれ、言葉は通じず、わけのわからない戦いに巻き込まれ、生きていく術も定かではないのだから当然だ。
 しかし、彼の悩みは違った。
「シュンは日本人だそうで、2013年のトーキョーからやってきたとか。
 バーニーは、21世紀の日本は科学技術の発達した大国だといっていた、が……。
 あなたは、私が知っている日本人とはずいぶんと違うんだ。
 本当に日本人なのだろうか、と感じることもある。
 それでも、あなたにしか相談できないことなんだ……」
 ミーナが離席し、ワインとグラスを持ってきた。気が利くというか、何を企んでいるのか……。
 リリィがグラスにワインを注ぐ。
 私が、それを2人に薦める。
「相談とは?」
 ロシュディは少し躊躇った。
「壊れている戦闘機のことなんだが……」
 ここで、言葉を区切り茶ではなく、ワインを飲む。しかも飲み干す。空いたグラスを両手で握る。
「あの壊れている戦闘機の正体が気になっている。
 工場の人たちは直す気満々だが、直しても飛べるとは思えない。
 機体の損傷が激しすぎる。胴体は横方向に折れているし、主翼は左半分がないばかりか、桁が曲がってしまっている。
 格好だけ直しても、飛べるとは思えないし、飛びたくもない。
 言葉がわからない私には、それを伝える手段がないし、バーニーに通訳を頼んだのだが、彼は工場の人たちは気分を害するんじゃないかって……」
 バーニーは無言。私はワインを飲み、少し考えた。
「飛行機の数は多くないが、過去数カ月で劇的に増えた。
 しかし、形あるものは、いつかは朽ちる。
 この世界の人々は、そのことをよく知っている。
 だから、形があるうちに記録し、再生させられるようにしたいんだ。
 役に立つかどうかは、その後考える。
 ダールが飛行機を保有している可能性が出てきたいま、アークティカは1機でも多くの飛行機が必要なんだ。
 練習機に使っている複葉機は、飛べる機体があった。これは実機から図面を起こして、複製を作った。
 エンジンから何もかも複製したんだ。
 フォッカーD.XXIは壊れていた。
 これも実機から図面を起こし、使える部品を利用して、飛行までこぎつけた。
 いまでは、複製機を作っている。ビーチクラフトのボナンザを見たと思うが、あの機は火を点けられ胴体の一部が焼けてしまった。
 それでも修理して飛べるようにした。
 これらは、アレナス造船所航空機部が行った。
 イファ蒸気車工場も飛行機に興味があり、開発と製造に加わりたいと思っている。
 その許可が地方行政府からようやく出たんだ。
 だから、夢中になっている。
 私が知っている話では、あの壊れた飛行機を分解して、徹底的に調べ、機体を新造し、使える部品を移植する計画だ。
 エンジン関係は無事なようだし、無線機はイファ製を使うことになる。
 アークティカの技術者たちは優秀だ。作り上げると思う」
 バーニーが唇をなめる。
「日本海軍の戦闘機だと聞いたが、着艦フックがない。
 陸上機なのか?」
 実は、私も紫電一一型甲の再生には反対だった。理由は2つ。木材と金属と一部帆布張りのフレーム構造を経験せず、いきなりモノコック構造の機体を作るという行為が是認できるのか?
 軽合金は機体を溶かせばいいが、不足分はどうする?
 軽合金は極めて貴重だ。南西諸国から輸入できるが、重量で金と等価だ。
 もう1つは、アレナス造船所はフォッカーD.XXIに代わる新たな戦闘機の開発を指向している。
 同じようなことをイファが行ってもいいのか。別な道があるのではないのか。
 しかし、私は反対する別の理由をいった。
「私も壊れた飛行機の再生には反対なんだ。
 あの戦闘機は、海軍の防空戦闘機で紫電一一型甲という名前なんだ。
 1942年に初飛行している。
 一一型は1000機以上製造されたけれど、あまり優れた性能であったとする記録はない。
 その点、アレナス造船所が受け取ったエンジンのない戦闘機のほうが、高性能だと思う。5000メートルまで、4分30秒以内という上昇力の強さはレシプロ機としては出色だ。
 それに、あの戦闘機の発展型が、ミストラルが積んでいた4機の単発機なんだ」
 ロシュディが肯定する。
「確かに似ている点は多い。水平尾翼が垂直尾翼よりも前方にあるし、主翼の前縁が機体に対して直角で、後縁が先端に向かって前進している。中央胴体と主翼が一体で作られているなど、機体構造も似ている。
 胴体と主翼は、まったくの同系だ」
 バーニーがグラスを差し出すと、ミーナがワインを注ぐ。2人が微笑む。リリィが皿に並べたクッキーをテーブルに置く。
 愛らしい2人にバーニーがフランス語で礼を言う。
「アレナス造船所に協力すべきだと……」
 私は説明の方向を考えていた。
「いいや、フォッカーの9気筒を18気筒に交換したらどうだろう?」
 ロシュディが目をむく。
「そりゃ無茶だ。オースチンにフォードのV8を積むようなものだ」
 私は引き下がらなかった。
「飛行機の開発製造に関しては、アレナス造船所のほうが経験がある。
 それと、フォッカーの設計図は公開されている。アレナス造船所の占有物じゃない。
 イファだって作れる。
 フォッカーの主脚を引き込みにして、エンジンを紫電が積んでいた18気筒に変えるんだ。とんでもないじゃじゃ馬になるかもしれないが、かなりのインパクトになる」
 バーニーが笑っている。私の破天荒な発想が滑稽なのだ。
「確かに案としてはあり得るね。
 フォッカーは小型の機体じゃない。翼幅は11メートル、全長は8.2メートル。
 胴体を改設計すれば、積めるんじゃないか?」
 ロシュディが少し慌てて早口になる。
「エンジンの重さは2倍になる。
 現実的じゃない!」
 バーニーは明らかに面白がっている。
「単列にしたらどう?
 あるいは14気筒化、とかね」
 ロシュディがうんざりとした顔をする。
「これからエンジン開発して、どうなる?
 急務の用に使えるわけないでしょ?」
 私はバーニーとロシュディの会話を楽しんでいた。バーニーが追い討ちをかける。
「ミストラルに積んであった14気筒はどう?
 あれなら、適合するんじゃないかな?」
 ロシュディは言下に否定。
「フォッカーは、最大でも1000馬力級のエンジンまでだよ」
 私は、少し真剣だった。
「この戦いは長引く。
 今は交戦状態ではないが、休戦でもなければ、ましてや終戦でもない。
 単に戦闘が起きていないだけ。
 そもそも宣戦布告もなかった。
 この戦いは長い。一回の戦いの勝敗で戦争の帰趨が決まるわけはないし、秘密兵器で勝利が得られるわけでもない。
 消耗戦を生き抜かなくてはならないんだ。
 持続力が勝敗を決める。継続して作っていける飛行機が必要なんだ。
 その点、フォッカーは現実的だ。木製の主翼、鋼管を溶接して組み立てた骨組みに、カウリング(エンジンカバー)とコックピット(操縦席)周りは軽合金張りだけど、後部胴体は帆布を被せている。
 機関銃はブローニングの7.92ミリを片翼に2挺ずつ。
 この構造ならば、継続して製造できる。
 この構造のまま、大馬力エンジンを搭載できるようにしないと、アークティカは帝国と戦い続けられない。
 そもそも、アークティカは帝国との戦争には勝てない。負けないように戦い続けていくしか生き残る道はない。
 だから、継戦能力を第一に考えないといけない。
 フォッカーの引き込み脚化と胴体の改設計で、1800馬力のエンジンが搭載できれば、次はエンジンの開発となる。
 こちらは実物があるのだから、何とかなる」
 ロシュディは、少し困った顔をしている。彼がワインを飲み干すと、すかさずミーナがグラスに注ぐ。
「フォッカーをベースに、木製モノコックで主翼を、胴体前部を鋼管と軽金属で、胴体後部を木製モノコックで開発できるか検討するよ」
 リリィが私のジャケットの裾を引っ張る。
 話の内容を知りたいのだ。ミーナとリリィに教える。
「ロシュディさんが、アークティカのために新型の飛行機を作ってくれるそうだ」
 2人は手を叩いて喜んだ。

 イワンは、パノリアとの国境に商人の風体で現れた。国境の検問所では、燃料の売込みだと申告した。実際、大型牽引車で巨大なタンクトレーラーを牽引していた。
 3人が同行しており、1人は彼の息子だった。
 この頃、アークティカは苦境にあった。神聖マムルーク帝国の締め付けが厳しく、アークティカと交易をしてくれる街や国が激減していた。
 北の隣国パノリアや南で国境を接するルカーンまでも、正規の交易はできなくなっていた。そのため、帝国の影響が及ばない西南諸国との交易に活路を見出していた。マーリンには別な目的があり、やはり西南諸国に行っている。商いに出ると数か月ほど戻らないこともしばしばあった。
 海上交易が主体のタルフォン交易商会は、赤い海西岸北方に独自の桟橋を確保しており、物資を揚陸するとエリスまで運び、エリスの産品としてエリスの商人が他の国や街に出荷した。
 赤い海の北側には、帝国の制海権は及んでいない。陸上においても、ダールの私掠隊が跋扈できるほど、帝国の威光は浸透していない。
 赤い海と白い海の大穀倉地帯に位置する大国、北のエリスや南のカフカとの関係は、良好であった。

 だが、帝国と対立する立場を明確にしているエリスやカフカを含めて、勢力下、影響圏にあるすべての国や街が初代皇帝タンムースの顔色をうかがっている。
 アークティカが追い詰められるのも時間の問題かもしれない。

 イワンは、アレナスのルドゥ川北岸にタンクトレーラーを乗り入れた。
 タンク内には24キロリットルのガソリンが積まれていた。アークティカにとっては、喉から手が出るほど欲しい物資だ。
 イワンは、この貴重な物資をタンクトレーラーごとアレナス造船所に売却し、多額の利益を手にした。
 それを、アレナス地方行政府は、冷静に見ている。イワンたちは石油製品の闇売買によって、資金を得ている。彼らは、資金には困っていなかった。

 バタ駐留部隊司令官イワンとアレナス地方行政府長官チルルとの面談は、中ランクの旅人宿の一室で行われた。
 ただ、当日、宿の宿泊客はイワンの一行だけだった。地方行政府が全館借り上げたのだ。

 チルルが先に入室し、イワンを部屋に案内したのは、チルルの書記官だった。
 私は、イワンとチルルに要請されて同席する。
 2人は立っている。2人の間には、ダイニングテーブルがある。この形式のテーブルと椅子は、赤い海沿岸一帯では、来客をもてなす一般的な家具だ。
 チルルが来訪感謝の挨拶をする。
「遠路はるばる、また危険な道のりをアークティカまでおいでいただき、ありがとうございます」
 イワンがテーブルを回り、手を差し出し、チルルは慣れない異界の握手をする。
 チルルが着席を薦め、茶が運ばれる。この日のために厳選したハーブティだ。
 イワンは単刀直入に本題から入る。
「我ら家族の救出を計画されているとか?」
 チルルに動揺はない。
「はい。
 所在も判明している。
 あなたたちの家族か否か、最終の確認が残るのみだ」
「その確認は、我らが我ら家族に顔を合わせる以外、方法はなかろう」
「しかし、あなたたちの誰が……。
 1人でもいなくなれば、帝国に疑われるはず……」
「息子がその任に……。
 我が長男は、1年前に死んでいる。葬式もしたし、墓もある。
 員数外だ。自由に動ける」
「何年も前から……?」
「帝国の頚木から逃れる術は、考えていたが、家族の救出に自信がなかった。
 足腰の弱い老人や幼い子供もいる。
 簡単には逃げられない。
 だが、策は考えていた。名案はないが……。
 アークティカの策とは?」
 チルルが俺を見るが、俺も作戦の詳細を知らない。
「私たちが鋼鉄の異界船を2隻持っていることは、ご存知か?」
 イワンが頷く。
「1隻はフェリー。1隻は空母」
 チルルが緊張をほぐすためか、茶を飲む。
「1隻はフェリーなる船だが、もう1隻は揚陸強襲艦という艦種だと聞く」
 イワンが私を見る。私の仕事が回ってきた。
「古い時代の船だが、世界でも最初期に建造された日本製の揚陸強襲艦だ。
 武装兵60を乗せられる上陸用舟艇を20艇格納している。スペース的には、あと5艇くらいは積めそうだ。
 舟艇を連続発進できるので、短時間に1000人の収容が可能だ。
 別に高速艇数隻を参加させる」
 イワンの顔色が変わる。
「高速艇?」
 私は“高速艇”に反応したイワンが理解できなかった。
「3艇。客船のテンダーボート、民間のモーターボート、試作した蒸気タービン艇、だ」
 イワンが楽しそうに笑う。
「蒸気タービン艇を造ったのか?
 そいつは凄い。
 速度は?」
「34ノット」
「ほ、ほう」
「この世界では、圧倒的な速度だ」
「まだ出るだろう」
「あぁ。
 45ノットまで出せるようにする」
「船の大きさは?」
「艇の全長32メートル、全幅5メートル、吃水1.5メートル、ボイラー2基、タービン2基2軸。燃料は液化ブタン。
 艇の形状は第二次世界大戦期のドイツのSボートを真似た。構造はアメリカのPTボートと同じ全木製」
「武器は?」
「7.92ミリ機関銃と75ミリ野砲」
「そいつは凄い。
 ちょっとした砲艇だ。
 機関銃の由来は?」
「モーゼル弾を発射するFNブローニング製M1919のコピーだ。
 75ミリ野砲は、フランスのM1897」
「そいつはまた、骨董品だな」
「設計は古いが、十分使える」
「確かに」
「液化ブタンは、天然ガスから抽出できる。
 届けよう」
「ありがたい。
 燃料は貴重なんだ」
 チルルが私とイワンを交互に見る。
「救出の相談に戻らないか?」
 イワンがチルルをにらむ。
「短時間で救出できないと、犠牲が出る。
 自信は?」
「我が海軍は、自信ありと。
 ルドゥ川で演習を繰り返して、作戦の精度を高めている」
「海軍?」
「装備は貧弱だが、闘志はある」
「闘志だけでは、ことはならない」
「闘志だけでもない」
「それはわかるが……」

 私は話の方向を変えたかった。このままでは、作戦成功の“保証”論議になってしまう。
「潜水艦に乗っていたと言っていたが……」
 イワンが頷き、私がイワンを真っ直ぐ見る。
「魚雷の調整はできるか?」
 イワンが気色ばむ。
「魚雷があるのか?」
「あぁ、日本海軍の航空魚雷がある」
「使う気か?」
「使えるようにしておきたい」
「力になれるか微妙だが……。
 20年前、水雷だった仲間がいる……」
「力を貸してくれるか?」
「派遣する方法を考えよう」
 このとき、私は魚雷を使うことなどないと考えていた。そういう場面も想像できない。単に空対艦ミサイルのご先祖様にあたる航空魚雷を、使えるようにするにはどうしたらいいのかを考えていただけだった。
 たまたま、20年前、この世界にやって来て、苦労というよりも、辛酸をなめてきたであろう先輩異界人が、潜水艦に乗っていたというだけの情報で「じゃぁ、魚雷の使い方知ってる?」との単純な発想でしかなかった。
 この安直な私の思考が、多くの人命を救い、同時に殺すとは、まったく想像していなかった。
 チルルはミストラルの艦内で魚雷を見ていたが、「大きな爆弾!」と驚いただけだった。水中を高速で走り、艦船の喫水下に致命的な破口を穿つ兵器だとは、異界人を除くアークティカの誰もが知らなかった。
 魚雷の威力を知っているのは、数人の異界人だけだった。

 イワンがバタに帰り、数日が過ぎ、赤い海西岸にいるメルトからFM変調された暗号電文が送られてきた。

〔至急電、ラシュットの虜囚救出を急がれたし。移送の情報あり〕

 時間的余裕がなくなった。
 リケルは、チュレン守備隊との合意は取り付けていた。チュレンから秘密裏にバタへ使者が渡り、収容されている家族の代表と面会すると、計画を知らされて涙を流して喜んだという。
 しかし、バルカナ守備隊は了解したものの、肝心の虜囚側の一部がアークティカによる陰謀説を主張し、30家族ほどがバルカナへの移動を拒否している。
 バルカナ守備隊の使者がバタに赴き説得に当たっているが、残留派の女性指導者は頑迷で理解を得ることは難しい状況だった。
 バルカナ守備隊は、残留派の切り崩しに動き始めているところだった。
 バルカナ守備隊のバタにおける収容者の代表は、スキッラという齢40に達しない女性だった。
 チュレン守備隊の家族は、指揮官の細君が虜囚者全体をまとめていた。2000人近くおり、高齢者や5歳以下の幼児もいる。バタにいる家族が、夫と会えるのは数カ月に1度。手紙は、交代で月に1度やって来る守備隊員が運んでいた。
 イワンは、チュレンにしろ、バルカナにしろ、虜囚となっている家族たちに許される範囲での配慮はしていた。
 帝国が送ってくる食料は、常に意図的に不足気味で、それを補うために石油の密売を始めたのだった。イワンは危険を犯しても、彼らに空腹を感じさせたくはなかった。

 チュレンとバルカナの虜囚は、交流がなかった。交流は許されていなかったが、互いに存在は知っていた。

 スキッラは、囚われて食料を含む必要物資の供給を受けるだけの家畜のような生活の中で、小さな王国を築いていた。
 チュレンの虜囚は強固な意志で団結していたが、スキッラが仕切るバルカナの虜囚は小さな皇帝の僕〈しもべ〉でしかなかった。
 バルカナの虜囚は帝国以上にスキッラを恐れていた。スキッラの夫は、バルカナ守備隊の下士官だったが、妻は夫よりも遥かに高位であった。
 スキッラには取り巻きが10人おり、取り巻きたちは群での順位を上げようとあらゆる権謀術数をめぐらせていた。
 食料を含む物資の分配は、スキッラの権益であった。スキッラに抗った女性もいたが、子の生命を考えると、迂闊なことはできなかった。実際、そのような例はあった。

 それと、スキッラの夫は、彼女を嫌っていた。「助けるのは、息子と娘だけでいい」と、同輩に公言しているほどだった。
 スキッラ暗殺に反対するバルカナ守備隊員は、いなかった。しかし、彼らにその手段はなく、長期間支配され続けてきた守備隊の家族にはその勇気がなかった。
 結果、スキッラは閉じた空間の小さい皇帝のままであった。

 バルカナ守備隊は焦っていた。直近の会合ではリケルに「一刻も早く救出してくれ」と懇願したそうだ。
 彼らは、スキッラが己が帝国を守るために、虜囚脱出計画を帝国に通報するのではないか、と危惧している。

 スキッラの行動は、イワンも把握していた。物資を供給しても、平等に分配しないことも知っていた。同じ虜囚である同胞を、刑務所のボスのように支配していることも……。
 スキッラは腕力が強いわけでも、頭が切れるわけでもなく、強気であることと、人の脅し方を知っていることが武器だった。
 性格的には残虐。腕力は取り巻きたちが担当し、残虐行為は取り巻きたちが引き受けていた。
 イワンはスキッラが、脱出計画を通報してくると予測している。また、スキッラが帝国との直接的な接点がないことも、承知している。

 バタ守備隊員は「収容者と必要以上に接触するな」と命じられていて、隊員は必要な会話以外はしないようにしていた。彼らの手で、収容者を殺すことになる可能性もあるからだ。
 イワンは、チュレンとバルカナの収容者それぞれに、自治に近い役割を担わせていた。
 チュレン守備隊の家族たちは、指揮官の妻を中心に委員会を設置し、合議による自治を確立していた。目標は、チュレンにおいて守備隊の任にある夫や年長の子たちとの合流。
 バルカナ守備隊の家族たちは、スキッラによる恐怖を根源とする支配を受け入れた。集団としての将来の展望はなかった。

 シビルスは、バタ守備隊の家族の居所をつかんだ。ラシュットの北25キロにある海岸に面した地区ダレアンザにいる。
 ダレアンザには運河に囲まれていて、島ではないが、運河と自然河川によって、閉じられた地域がある。南北4.5キロ、東西2.5キロほど。その一角、最南側に1000人が暮らす厳重に監視された区画がある。
 ここにバタ守備隊の家族がいる。ダレアンザには、神聖マムルーク帝国正規兵千人隊2隊がいる。
 シビルスからの情報では、バタ守備隊の家族は百人隊3隊によって常時監視されている。
 状況によっては、この部隊と交戦することになる。それを避けるには、夜間、2時から3時にかけて水路を使ってこっそりと連れ出す以外にない。
 子供が泣いたらどうする?
 歩けない老人や病人はどうする?
 そういう問題もある。
 シビルスは、エルプスに命じていた。
「誰も残すな。最後の1人まで必ず救出しろ」と。エルプスは電動モーターによる無音航行が可能なテンダーボートを指揮して、シビルス直卒の特別救出隊隊長を務める。
 一切の援護なく、誰よりも先にダレアンザに侵入し、移動の困難な人だけを最初に救出する。

 アレナス地方行政府にとっては、悲願とも言えるチュレンとバルカナの奪還作戦が始まった。
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