里穂の不倫

半道海豚

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Episode-18 弱者と強者の境界線

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 11月の中頃、急に寒くなりました。
 会社の戸締まりをしていると、本日唯一の出勤者である真琴さんが誘ってきました。
「里穂さん、飲みに行こ」
「ダメだよ、何かあったらどうするの」
「平気だよ。
 何だったら、里穂さんの部屋に泊めてよ」
「まぁ、パパの家だからいいけど……。
 で、鍋にする?」
「う~ん、ちょっと聞いてもらいたいことがあるんだよね」
「相談?」
「いや、聞いてほしいだけ。あればアドバイスも」
「いいよ。
 で、お店はどうする」
「寿司居酒屋で食べてから、いつものバーに行こうよ。
 お腹すいたし」
「いいよ」

 居酒屋でお寿司を頼み、ビールを1杯だけ飲みました。夫には電話して、今日は真琴さん、つまり夫の長女が我が家に泊まることを伝えます。
 居酒屋では、会社や仕事の話が主でした。

 地下のバーに入り、カウンターを勧められましたが一番奥の丸テーブルに座ります。
 真琴さんはカクテルを、私はバーボンのロックを頼みます。

「話って何?」
「里穂さん、出されちゃったことある」
「……?
 もしかして、ガールズトーク?」
「そう、こんなこと仲のいい友だちじゃないと話せないじゃない」
 私は一瞬、自分の立場がわからなくなりました。真琴さんとは確かに仲良しだけど、一応、彼女の父親の妻なんです。なるほど、いまは友だちなのね。
 真琴さんが続けます。
「私、エッチなことは会社のみんなから初心者扱いされているので、絶対聞けないし、大学の友だちとかだと、広まっちゃうかもしれないでしょ。
 だから、里穂さんに聞いてみようかな、って。お姉さん兼友だちでしょ」
 あー、やっぱり私が父親の妻であることが欠落している。
「パパに言うかも」
「言ったらダメ。ショックで死んじゃうよ」
 確かに心臓発作で死ぬかも。
「出されたって、身体の中に?」
「うぅん、口の中に」
「あるよ。
 長い人生だから」
「どうしてる?」
 聞きたいことはわかります。飲むか、吐き出すかの二択。
「口から出すこともあるけど、飲むこともある」
「飲むって、まさかパパの?」
「……」
「ヤダ、気持ち悪い」
 真琴さん、本当に気持ち悪そうな顔をするんです。夫がちょっと可哀想。
「パパのは、無味無臭だよ」
「えー、パパの精子の味なんて聞きたくない」
「真琴ちゃんが始めたんでしょ。この話。
 で、誰に出されたの?」
「彼氏に決まってるじゃん」
「そんなのわからないでしょ」
「経験者?」
「まぁね。
 はずみはあるよ」
「三枝さんが、男は結婚して一人前だけど、女は結婚して半人前、離婚したら一人前、って言ってたけど、そうかな」
「三枝さんは、サレタほうじゃなくて、シタほうだからね」
「加村さんもシタほうだよ」
「そうなの?」
「右足に障害があるでしょ」
「うん」
「あれ交通事故なんだって。
 浮気相手の車に乗っていて、交差点で側面衝突されて……」
「バレた?」
「浮気相手は即死だったとか」
「入院中に両家の会議で離婚が決まったけど、元旦那さんは離婚したくないって、泣いてすがってきたんだって。
 自慢してた」
「ウチの会社って……」
「だから、私は見下されるんだよ。
 真琴ちゃんはまだ子供だよ、って。
 パパが変人だから、ヘンな人ばかり集まってくるんだ」
「で、何が聞きたいの?」
「男の人って、飲んだほうが喜ぶの?」
「それは、個人差があるんじゃない。
 パパの場合はどっちでもいいみたい」
「ヤダ、パパの情報は知りたくない」
「でも、私の場合はパパがしかいないからね」
「なら、なぜ飲むの?」
「飲みたいから」
「えー、ヤダ、気持ち悪い」
「で、出されたとき、どうしたの?」
「驚いて、出しちゃった。
 バーって」
「味はした?」
「わかんない」
「次は飲んじゃいな」
「やってみる」
 夫には絶対に言えないことを、彼の娘にアドバイスしてしまいました。

 バーを出て、2人で電車に乗り、私のマンションの最寄り駅で降りました。
 真琴さんが「もう少し飲もうよ」と。
 私は「個室の居酒屋があるよ」と。
 夫に電話します。
「真琴ちゃんと、もう1軒ってなっちゃった」
 夫からは「タクシーで帰ってこいよ」と。

 居酒屋の個室で、香の物、タコブツときゅうりの酢の物を頼みました。
 お酒は、酎ハイに変わり、すでに限度内ですが酔っています。
「里穂さんは、パパ以外ともしたことあるでしょ?」
「まぁね。
 不倫してたし、パパと知り合ったのは28歳のときだし。
 真琴ちゃんだって、彼氏だけじゃないでしょ」
「そうだけど、何て言うかな、大人のエッチは経験が薄いかな」
「う~ん。
 昔のこと過ぎて、思い出せない」
「不倫相手って上手だったの?」
 いままで考えたことがない質問を、夫の娘にされて、私は若干パニックになると同時に、行為を思い出していました。
「パパに比べたら、絶対的にヘタだよね」
「えっ!
 じゃ何で不倫したの?」
「わかんない。
 いまから考えると、まったくわかんない」
「え~」
「パパって完璧でしょ。
 料理はできるし、家事全般手際がいいし、子守もできるし、優しいし。
 ちょっと息が詰まるんだよね。
 あの頃はそうだったんだ。
 あえて、だけど、不倫は閑話休題」
「何それ、意味ないじゃん」
「ヘタな男が癒やしになることがあるのよ」
「里穂さんヘンだよ~。
 で、パパって上手なの?」
「すごいよ。
 パパの娘で可哀想」
「ヤダ、気持ち悪い」

 タクシーで帰ったのですが、24時を過ぎていました。
 帰宅後、真琴さんをお風呂に入れ、私の部屋で寝かせました。
 私が夫のベッドに潜り込むと、夫が「どんなこと話してたの」と尋ねてきました。
「パパは上手かって聞かれてから、すごいよって答えておいた」
 夫はかなり焦っていました。
「たぶん、次、2人で飲んだら、どういうことするか聞いてくるだろうなぁ」
 夫は1人パニックです。
「言うなよ。
 絶対に」
「うん。考えとく」
 夫の弱みを握っちゃいました。

 明け方、ふと目が覚め、同時に思い出しました。真琴さんは、私の不倫動画を見ているはずです。それ自体は恥ずかしいのですが、そんなことより、真琴さんはそのことに触れませんでした。
 それが気になります。
 近々、飲みに誘わないと。

 朝起きると、娘が大喜びしています。
 大好きなお姉ちゃんがいたからです。朝からテンションMAXで、大騒ぎです。
 夫が真琴さんを見てギョッとしています。「真琴! ちゃんと着ろ!」
「えぇ、いいじゃん」
 私が貸したTシャツとショーツだけ。私のいつもの格好です。
「いいじゃん、男はパパしかいないんだし。
 里穂さんだって、同じ格好じゃない」
 物憂げな雰囲気で、頭をかきながら、夫に口答えします。
 娘が「お姉ちゃん、今度、一緒に湖に行こう!」と誘うと、真琴さんは「いいよ、いつ行く」と応じます。
「今度の金曜日出発だよ」
「OK、ハゥ~」
 真琴さんは、見事な大あくびを口に手を添えることなく大公開します。しかも、両手を頭上で組んで、かかとを上げて伸びをします。
 ショーツが丸見え。
「何か履け!」
 夫が怒ります。
「ったく」

 真琴さんは舞との約束を守りました。
 私は、真琴さんには迷惑かなと思っていたのですが、意外とノリノリで娘とあれこれと計画しています。

 山荘に到着。
 真琴さんは「素敵ね。こんなに素敵だなんて思わなかった。パパ、私の部屋はどこ」と。
 夫撃沈。
「私と彼の部屋、作ってね。
 これからは、私も来るから」

 いつもとは違う、山荘の週末が始まりました。

 娘が寝て、夫も私たちの部屋に入り、ダイニングには私と真琴さんが残ります。
 2人とも完全に呑んべぇ状態。
 帰る必要のない居酒屋……。
 燻製がたくさんあるのです。
「里穂さん、この魚の燻製おいしいね」
「鮎よ。
 たくさんあるから、たくさん食べて」
「里穂さんが作ったの?」
「真琴ちゃんのパパ」
「へぇ~」
「上手なのはエッチだけじゃないんだ」
「そんな可哀想なこと言っちゃダメ」
「ヘタよりいいじゃん」
「そうだけど……。
 真琴ちゃん、聞きたいことがあるんだけど……」
「何?」
 ダイニングチェアで両足を抱えている真琴さんが少し身構えます。
「私の不倫、見たよね」
「うん、見た」
「どう思った?」
「ショックだった」
 あぁ、そうだよなと私は落ち込みました。ですが、真琴さんは続けて意外な発言をしたんです。
「あれが大人のエッチだとしたら、私は変態ってことになっちゃう。
 すっごく焦って、ネットでAVとか見たけど、あれって作り物だし、判断の基準がなくて、どうしたらいいのかわからなくて、しばらく悩んじゃった。
 いまでも悩んでる」
 私は反応に困りました。真琴さんは酔っているのか、行儀悪く鶏のささみの燻製の裂いた身を口に咥えたまま話します。
「だって、正常位とバックだけでしょ。あんあの中学生のエッチだよ。
 逆に、里穂さんが心を持っていかれているんじゃないかって不安になった。
 不倫なら、もっとすごいことすると思っていたから……」
 いまから考えるとその通りで、単調な行為を短時間ですますこと以外に、あるとすれば夫を裏切っているという背徳感だけ。
「真琴ちゃんは、どんなことするの?」
「言わない。
 里穂さんに笑われるから」
「笑わないよ」
「里穂さんは?
 誰にも言えないこととかないの?」
「アナル……」
「え?
 どうするの」
 真琴さんが声を潜めます。
 私も小声になります。
「入れられちゃった」
「何を?」
「……」
「ウッソォ~」
「ホント」
「誰に?」
「パパに決まっているでしょ」
「変人の上にヘンタイなんだ。
 パパの顔見られないよ」
「大人はいろいろするの」
 私は完全に酔っているし、真琴さん以外とはこんな話はできないので、羽目を外してしまいました。
「どんな感じ?
 どうやってするの?」
「彼氏に聞けば?」
「聞けるわけないじゃん」

 結局、明け方近くまで話し込み、ダイニングを2つにわける木製パーティションを初めて使い、床に布団を敷いて2人並んで寝ました。

 私と真琴さんは、結局、13時頃まで寝ていました。
 2人がほぼ同時に起きると、真琴さんがカーテンを開けます。窓を開け、シャッターを上げると晩秋の柔らかい木漏れ日が室内に差し込みます。
 夫と娘が落ち葉を集めて、焚き火をしています。
 2人の息が白く、落ち葉で焼いたお芋の香りがしてくるように感じます。

 真琴さんがシャワーを浴びて、ダイニングに戻ってきました。
 私がコーヒーカップを差し出すと「ありがとう」と受け取り、真琴さんが「お姉ちゃん、夕べの話覚えてる?」と尋ねます。
 私はこのとき初めて「お姉ちゃん」と呼ばれましたが、違和感はありませんでした。
「覚えてるよ。
 パパに言っちゃダメだよ」
「言わないよぉ~」
 真琴さんが笑い、私も笑いました。

 娘と真琴さんが四輪バギーをガレージから引き出します。夫が真琴さんに「路上を走るなら、免許証を携帯しろ」と注意し、路上で走らせようとすると、娘が「お姉ちゃん、ズルイ」と。
 真琴さんは周辺を走ってくると、娘と交代で敷地内を走ります。
 素敵なお姉さんです。
 夫が「10畳の部屋、東側に造ろうか?」と問うたので、私が「16畳間を2つに区切ってもいいし」と答えました。
「コンクリートの柱の上に、ユニットのログハウスを建てる構造にして、ログハウスと母屋を渡り廊下風につなぐと、離れみたいになるそうだ。
 相談したら、そう提案してくれた。
 建築費も安上がりだとか。
 どうする?
 検討してみる?」
 私は頷きました。
 夫は娘といたいだろうし、私は妹ができたように感じているし……。

 こんな状況でも楽しめちゃう私たちは、心が強いんじゃないかって思います。

 性接待の被害者の1人で、行方不明だった刈谷陽咲さんを川口幸菜さんと仁科安寿さんが保護しました。
 川口さんは刈谷さんの所在を知っており、彼女の住まいを仁科さんと一緒に訪れたのですが、刈谷さんは川口さんが襲われたことを知っており、恐怖から外出を拒否していました。
 川口さんと仁科さんがどうにか説得し、真白さんの弁護士事務所に連れてきたのは、すでに夕方近くになっていました。

 川口さんも居所を知られたことにショックを受けており、また隠れて暮らすことにも疲れていました。
 川口さんと刈谷さんは、2人で協力し合いながらどうにか生活してきましたが、裕福とは言えず食べていくだけで精一杯の状態でした。
 刈谷さんは、明らかに憔悴しており、また隠れて生きることの辛さなのでしょう、若いのに頭髪には白髪が見えます。
 真白さんの要請もあり、また私自身も当事者なので、真白さんの事務所に向かいました。この日、善波奈々さんは在宅勤務でしたが、彼女も急遽、真白さんの事務所にやって来ました。
 性接待被害者3人、元妻、元不倫相手という、狭間翔一社長と関係のある5人の女性が集まります。

 刈谷陽咲さんは当初、かなり取り乱していました。
「殺されちゃう。
 隠れなきゃ。
 どこに逃げればいいの!」
 などと、大声を出していました。
 ですが、ほかの4人が平然としていることから、徐々に落ち着いてきました。
 そして話し合いが始まります。

 真白さんが口火を切ります。
「まず、情報を共有しましょう。
 里穂さんの夫の娘であり、私の娘でもある真琴が拉致されかけている。
 奈々さん、警察が来たと言ってたね?」
「はい、私と善波さんが再婚したことに圧力をかけようとしたみたいです。
 真白先生のおかげで、子供2人を狭間から善波の姓に変えることができました。
 それに対する報復かもしれません」
「里穂さん、その後、興信所の調査員を名乗る連中はうろついている?」
「いいえ、噂を流されたりはしていません。
 ですが安全のため、娘は不登校生徒のためのオンライン授業を受けています」
「安寿さんはどう?」
「私に対しては、何もありません」
「だけど、気を付けてね」
「はい」
「川口さん、襲われたんでしょ?
 怪我は?」
「腕を切られたけど、自分で縫ったから大丈夫。襲ってきた男がどうなったのか、そっちのほうが気になる」
「怪我させた可能性があるの?」
「顎を鉄の棒で殴ったからね。逃げていく姿が不自然だった」
「襲われたことを警察に知らせた?」
「まさか」
「では、刈谷さんは?」
「怖くて、怖くて……」

 真白さんは少し考えます。
「川口さん、あなたが暴漢に襲われて、抵抗した件だけど、警察に伝えましょう。
 私が弁護士として同行します」
 川口幸菜さんが慌てます。
「弁護士さんをお願いする余裕はない」
「お金のこと?
 それは大丈夫。真琴の父親が払うから」
 私はビックリしますが、ここは真白さんにお任せします。
 真白さんが刈谷さんを見ます。
「刈谷さん。
 事件化できることや、民事でもいいのだけど公にできることはない?
 狭間社長関連ならなおいいんだけど」
 刈谷さんは頭を振って泣いています。
 代わりに川口さんが答えました。
「刈谷さんの勤続期間は8カ月くらいしかないはず。だけど、退職届といった正規の手続きはしていないの。
 失踪したのだから、当然なんだけど。
 で、いつ退職したのか調べたところ、1年6カ月在籍していることになっていた。
 支払われた給与は6カ月分だから、12カ月分が未払いのはず。7カ月目は給与ではなく、アドバンストメディアから200万が振り込まれていたけど、これは給与じゃないよね。
 12カ月分の給与支払いを求めて、何かしたら」
 刈谷さんが「そんなことをしたら、殺されちゃう!」と大声を出します。
 川口さんは理解していました。
「ことを公にすれば、簡単には殺せなくなる。クズどもが疑われるからね。
 弁護士先生に任せてみようよ」

 真白さんが私を見ます。
「里穂さん、2人を雇える?
 2人ともコンピュータのソフト屋さんなんでしょ?」
「……、でも……」
 2人のことを知らないので、何とも答えようがありません。
 奈々さんが「私たちが住んでいた家はどう?
 いいでしょ、里穂さん?
 私は善波さんのマンションに引っ越し済みだから、いまは空き家でしょ」
 私は夫に相談したかったけど、頷くしかありませんでした。

 さらに安寿さんが難題を……。
「会社の有志で、クリスマスパーティをしようかって話し合っているんです。
 真白先生や事務所のみなさんも来ていただけませんか?」
 真白さんが「いいねぇ」と微笑んで、私が知らないことが決まってしまいました。

 12月第1週の金曜日、17時から会社近くのホテルの一番小さい宴会場を借りて、立食形式のクリスマスパーティが開かれました。
 会社内でささやかなパーティを計画していたようですが、どんどん参加者が増えて、ホテルでのパーティになってしまいました。
 予算を計上していなかったので、夫に泣きついて出してもらいました。
 夫がトップの頃は居酒屋で忘年会さえ開かなかったのに、私に交代したら頻繁に飲み会が開かれ、クリスマスパーティに反対する社員はいませんでした。
 2課長の三枝さんは「美穂さん効果だよ」と肯定的ですが、本当にそうなのか少し心配です。

 夫が「パーティには、少し遅れる。舞は1人で電車に乗せるから、駅まで迎えに行ってくれ」と。

 パーティ会場には、グランドピアノがあり、善波さんがホテルの許可を得て、アニソンの演奏を始めます。
 すると、脇坂法律事務所の女性のイソ弁さんが美声を疲労してくれました。
 子供たちが喜び、ケーキバイキングは大盛況で、誰もが楽しい時間を過ごしていました。
 怯えきっていた刈谷陽咲さんは、恐怖を払拭していませんが、外見は落ち着いているように見えます。

 夫がパーティ会場にやって来たのは、パーティがお開きとなった直後でした。
 会場には私と真白さんだけが残っていました。娘は、真琴さんと一緒に私たちのマンションに帰りました。
 私が夫に「遅いよ。何してたの?」と文句を言うと、夫は深刻な顔をします。
「少し前からだが、川口幸菜さんの家族の行方を捜していた」
 私はドキッとします。
 真白さんも同じでした。
「まさか……?」
 夫は真白さんを見ます。
「最悪ではない。
 お子さんは中学生になっていた。
 元旦那はお子さんを育てるため、転職していた。
 2人は彼女に何が起きたのか、まったく知らなかった」
 夫が言葉を切ります。
「俺は、迂闊だった。
 自分が女房の浮気なんてどうでもいいと考えるタイプだから、ほかの男もそう違いはしないだろうと思い込んでいた。
 離婚するにしても、妻の話なり願望なりは当然聞いているものだと考えていた。
 だが、違ったんだ。
 問答無用で離婚を言い渡し、署名捺印した離婚届を郵便で送らせ、提出して終わりだった。離婚協議らしいものは何もなかったようだ。
 慰謝料請求、財産分与、お子さんの親権に関する話し合いはまったくしなかったそうだ。
 当然、川口さんは、ご主人に事情を説明する機会がなかった」
 真白さんが「それで、……」と促します。
「俺は、元旦那とお子さんの身辺を探るためSNSを漁った。元旦那はまったくSNSをやっていなかったが、お子さんのものは見つけた。
 母親のことばかり書かれていた。
 旅行でも、中学の入学式でも、どんなことでも、ママがいたら、と綴っていた。
 俺は耐えられなくなってね。
 迂闊にも、ママは無事だ、と送ったんだ。
 その子から、無事ってどういう意味、ママは危険なの、ママのことを知っているの、ママはどこにいるの、ってね。
 質問攻めだった」
 夫が息を吐きます。
「その子は、賢明だった。
 それと、父親とは異なり、母親を信じていた。ママは浮気なんてしない、ってね。あの会社で何かがあったんだ、とも言っていた。
 勘の鋭い、鋭敏な判断力がある。
 迷惑はかけないから俺と会って話がしたい、と言ってきたんだ。
 俺も甘ちゃんでね。
 中学校近くの公園で会ったよ。
 俺の知り合いの会社で働いている、とだけ教えた。
 それ以上は子供に話すべきじゃないから、それで終わりにするつもりだった。
 その子は、ママは悪い人に捕まっているんじゃないの、おじさんは悪い人たちの仲間なの、って聞いてきたんだ。
 驚いたよ。
 何かを知っているのかと、探ったが、そうではないらしく、単なるカンだった。だが、それはあたっている。実際、それに近い状況だった。
 ママに会わせてほしい、と言われ、俺はママに伝える、と答えた。
 彼は、俺と会ったことを、父親に話した。
 嬉しかったのだと思う。俺が思っている以上に。
 だが、父親は激怒した。
 そして、立腹されている父親に、俺は謝罪するため会っていた。
 喫茶店でね。
 最後は泣いてたよ。
 何も知らなかった、って。そして、離婚に到った経緯を聞いた」
 私は夫に確認したくなりました。
「健昭も私の不倫動画見ているよね。
 腹が立たなかったの?」
「見たよ。
 実際の行為は1時間強、前後の会話を含めても通常1時間程度、長くて1時間30分から最大2時間。動画として押さえたときは2時間で、2時間×カメラ4台×2回の計16時間分を見た。
 これって全部なんだよね。
 おそらく、状況は当事者よりも俺のほうが理解している。だから、里穂がどういう状況にあるのか、正確に把握できた。よって、腹は立たなかった。
 だけど、ごく一部を切り出してみせられたら、それがすべてになる。結果、裏切られた、と俺のような男でも思うかも知れない。
 川口さんの元旦那に送られてきた動画は、1分50秒ほどだったそうだ。
 それじゃぁ、騙されるよ。
 それに、元旦那はあの会社への就職には反対だったそうだ。経営者が胡散臭いって。
 元旦那の反対を押し切って就職したこともあって、キレたそうだ」
 真白さんが核心を突きます。
「何が困っているの?」
 夫が下を向きます。
「元旦那は、謝りたいそうだ。事情を聞くべきだったと。
 お子さんは、母親に会いたいそうだ。
 余計なことをしてしまったが、始末の付け方がわからない」
 真白さんが提案します。
「私が、会ってみるよ。
 その上で、対策を考える」
 夫が俯きます。
「すまない、姐御」

 私は夫に対して、教育する必要を感じています。夫は特殊なんです。その自覚が足りません。

 私と夫が帰宅すると、すでに娘は寝ていました。真琴さんは、お風呂から出て、缶ビールを手にしています。それと、鮎の燻製をオーブンで炙っている最中でした。
 ほとんど、真琴さんの実家化しています。
 最近では、真琴さんは我が家に部屋着を置いています。夫の娘なのだから当然ですけど、私も味方がほしいというか……。
 私と真琴さんがビールで、夫がウーロン茶を飲んでいます。3人ともお風呂上がりです。
 私が夫に「聞きたいことがあるんだけど……」と話を向けます。
 夫が「何かなぁ」と警戒します。
「私が不倫しているのを、なぜ止めなかったの!」
 すると真琴さんも参戦。
「それだよ、パパ。
 何で止めなかったの?」
 夫が即答。
「たまにだし、いいかなって」
 真琴さんが「愛が足りないんだよ、パパは」とちょっと怒ります。
 私が「また私が浮気したらどうする?」と問うと、夫は「一応は調べるけど……」と答え、真琴さんが「だからパパはダメなんだよ。すぐに止めないと」と説教。
 夫が「何で俺が批難されるんだ」と不満を言うので、私が「もう浮気なんてしないけど、もししたら即止める、わかった!」と。
 夫が「いじめられた。寝る」と言って自室に向かいます。
「あとから行くからね」
 私の言葉に夫の背中は無反応。
 真琴さんが泊まるときは、真琴さんが私の部屋に、私は夫の部屋で寝ます。
 明日は土曜日でお休み。今夜は真琴さんと飲むことにしました。真琴さんの彼氏もパーティに来ていましたが、明日は仕事だそうで1人で帰りました。

 夫のベッドに潜り込むと、背を向けている夫がポツリと。
「里穂を傷付けなければ、見逃すつもりだった。
 だが、あのバカ野郎は俺の里穂を追い込もうとした。その瞬間、殺したくなった。冗談抜きで、俺は人を殺せるからね」
 私は夫の背中に抱き付きました。

 善波さんは「年が明けたら、警察は私を任意同行するでしょう。ただ、裁判官は逮捕を許可しないだろうけど、家宅捜査は認めると思うんです。その際、私の自宅のマシンはもとより、会社のすべてを押収しますよ。その前に手を打たないと」と。
 その意見には、夫や真白さんも賛成しています。
 私たちは、年内に反撃しなければなりません。私たちは弱者ですが、同時に戦い方を知っている強者でもあります。
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