彷徨う屍

半道海豚

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05-002 救出作戦

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 宗岡千里は恐怖で震えていた。海岸線を北上していて、クルマがパンク。交換できそうなクルマが近くになく、またクルマがあっても最近では動かないことも多くなっていた。
 だから、タイヤを交換するしかない。
 ただのタイヤ交換だが、千里と他の2人はそういった訓練をしていなかった。
 最近は路上に木ぎれや石、建材などが散乱していて、走りにくくなっていた。土砂崩れや陥没、亀裂も放置されたままだ。
 それでも、3人は車内が快適なミニバンを選んでいた。パンクしたタイヤには亀裂ができていて、修理キットではどうすることもできない。
 1人はパンクしたタイヤを外し、2人が交換するためのタイヤを探していた。アルファードは珍しいクルマじゃない。同型を探せばいいだけ。
 だが、実際に探すと見つからない。
 無為に時間を費やしてしまう。

 千里は道路上に正座させられ、両手を後頭部で組まされている。
「ババァじゃないか、こんなのいらない。
 ヤル気がしない」
 中学生くらいの男性が千里を値踏みする。
「だけど、餌には使えるよ」
 20歳少し前に見える女性がそう言った。
「兄貴がガキを犯しに行って、捕まっちまったから、厄介なことになったんだ。
 マヌケなヘンタイがドジ踏んで、俺たちが苦労している」
「そうだけど、餌が見つかったんだから、いいでしょ」
 20歳くらいの男性が戻ってきた。
「この付近にクルマはない。
 もっと、内陸に行かないと見つからないだろうな。
 この餌を連れ帰って、仕切り直しだ」
 千里には“餌”の意味がわからないが、いいことではないはず。危険な何かに使われることは確実。
 助けを呼びたいが、青葉紫乃と南川響子にそれを期待しても無理なことは理解していた。
 そもそも、武器になりそうなものは、包丁くらいしかない。

「あいつ、健介たちを捕まえたヤツらの仲間だ」
 棚田彩葉の証言に、今里瑠理が付け加える。
「女のほうは見てないけど、年上の男はあのときにいた」
 彩葉がスコープを覗く。
 瑠璃は双眼鏡。
「こっちが撃っても見つからない。
 それに、拳銃とサバイバルナイフだけでしょ。この距離なら、滅多にあたらない」
「彩葉、撃って!」
「援護して」
 瑠璃もドットサイト付きコンパウンドクロスボウを構える。

 千里は中学生くらいの少年に息がかかるほど顔を近付けられ、心底不快だった。胸も触られた。身をよじって拒否の意思を示すと、殴られた。そして蹴られる。何度も蹴られる。
「ババァのくせに生意気なんだよ!」
 その声は、彩葉と瑠璃にも聞こえた。

 プン、という弦が跳ねる音がする。
 瞬間、千里を蹴っていた男性の額に矢が刺さる。
 バサッという音とともに、少年が倒れる。
 突然の攻撃で、20歳前後の男女2人がへっぴり腰になり、拳銃の銃口を四方に向ける。
 さすがに撃たない。
 撃てば死人を呼ぶからだ。
「逃げよう」
 男性がそう言うと、女性も同意して、海岸に向かって走って行く。

 千里はゆっくりと身体を起こす。肋骨が痛い。激しく痛む。
 彩葉と瑠璃が駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
 声が女性だが、女性だからといって安心なんかできない。それに、ヒト殺しだ。手にしたクロスボウでヒトを殺した。
 千里は怖かった。
「早く逃げよう。
 ここは危険だから」

 一難去って、また一難。
 千里が連れて行かれてしまった。
 3人の一番大事な約束は、互いが危険に陥ったら助けない、というものだった。それが、生き残る術だと信じている。
 1年前、2年間一緒だった仲間が奇妙なマスクをしたグループに捕まった。彼女を見捨てている。
 ひどい自己嫌悪に陥ったが、だからといって何かができたとは思えない。

 千里は、家屋と林の間に潜んだ。
「大丈夫ですか?」
 顔にペイントした女性に尋ねられる。
「胸がすごく痛い」
 瑠璃が胸の脇を触る。
「痛い!」
「肋骨が折れているのかも」
 彩葉が「どうしたらいいの?」と呟くと、千里が「サラシのような長い布で巻けば固定できる……」と告げる。
 瑠璃が「サラシって何?」と尋ね、彩葉が「浴衣の帯みたいなものだよ」と。
 会話から、2人が相当に若いことがわかる。
「私、宗岡千里、35歳」
「あっ、私は棚田彩葉、18歳」
「私は今里瑠理、16歳です」
 千里が思った通り、若かった。
 彩葉が説明する。
「あいつら、私たちの仲間を拉致ったんだ。
 まだ生きているかわかんないけど、何とかして助けないとと思って追ってきた」
 それは、千里たちのグループとは真逆のルールだった。
 瑠璃が「1人殺った。そして、あなたを助けた」と微笑む。
「助けてくれて、ありがとう」
 彩葉が「宗岡さんを助けたんじゃない。あいつらに、損害を与えたんだ。だから、感謝はいらないよ」と。

 青葉紫乃と南川響子は、顔を見合わせる。
 2人同時に「どうする?」と言い合う。宗岡千里は粗暴な3人に捕らえられたが、その後助けられた。
 助けられたのではなく、もっと粗暴なグループに捕らえられたのかもしれない。1人を矢で射貫いたのだから。
 だが、3人の約束を履行すべきか迷っていた。捕らえられたと判断できないからだ。
 だから、千里が連れて行かれた方向に向かっていた。少し離れていて、見失ってしまった。

「このままじゃ、遠くには行けない。
 船にも戻れない」
 彩葉の意見に、瑠璃が同意する。
「すっごく、痛いみたいだし。
 サラシを探さないと。このままじゃ動けないよね」

 彩葉が「様子がヘンだよ、あの2人?」と指さす。道路脇をウロウロする2人の女性がいる。
 千里は咄嗟に判断できなかった。紫乃と響子が見逃されたほうがいいのかとも思う。
 彩葉が「向こうは気付いていない。やり過ごそう」と言い、瑠璃が頷く。この判断を聞いて、千里が「私の仲間なの。私を探しているのかも」と。
 瑠璃が身を伏せて、林に沿いながら紫乃と響子に近付いていく。
 紫乃と響子は、瑠璃に3メートルまで接近されてようやく気付く。
 2人は怯え抱き合う。
 瑠璃が「怖がらないで、仲間はこっちよ」と手招きする。
 千里にサラシを巻く紫乃の手際はとんでもなくよかった。彩葉には素人だとは思えなかった。
「おばさんたち、何者?」
 3人とも答えない。
 医療関係者だと伝えれば、捕らえられる。捕らえられたら、医療関係者だと伝える。そうすれば、荒事から解放される。
 3人がゾンビ事変後に学んだことだ。

「5人でまとまって動いていたら、すぐに見つかってしまう。
 隠れ家を探そう」
 彩葉がそう提案する。反対はない。

 5人は細い砂利道に入り込み、緩やかな坂を上った家に目をつける。
 ここは国分兼広と市丸翔愛・莉愛姉妹が潜んでいた家だった。

「偵察に行くとしても、数日間活動できる、目立たない拠点がいる」
 榊原杏奈の言葉に、兼広が「いい家がある。狭い砂利道の奥にあり、目立たないことは確実。それに、その家にはハスラーがある。俺の判断だが、ジャンプスターターがあれば動くようになる。キーは玄関の下駄箱の上だ」と答える。
 杏奈は同行者として、兼広、真藤瑛太、鮫島凛子を指名する。
 死人で溢れる4号以東なので、飛行機を使うことにする。農道に着陸し、飛行機は帰る。操縦は薬師昌子。

 昌子はとんでもない着陸を見せた。空中でエンジンを切り、滑空で降りたのだ。
 風を切る音だけで、それ以外は、杏奈、兼広、瑛太、凛子の悲鳴だ。
「墜落するんだと思った」
 兼広が泣きべそをかいている。杏奈は茫然自失の面持ち。瑛太は少しだがチビってしまった。凛子は恥ずかしくも放屁した。
 力を合わせて十字路でセスナ260の方向を転換し、4人は海岸方向に向かう。
 しばらくして、昌子が離陸する。

 瑛太は不公平な荷物分担にやや不愉快だった。何しろ、無線だけでなく、カールグスタフ無反動砲を背負わされているのだ。
 凛子が選ばれたのは、軍用自動小銃を所持しているから。瑛太は、無線と無反動砲の運搬係。自衛の武器は拳銃だけ。

 4人は兼広を先頭に、間隔をあけた1列で当面の拠点に向かう。

「本当にこの先に民家があるの?」
 杏奈の問いに兼広が「だからいいんですよ」と微笑んだ。

 兼広が「誰かいる」と小声で伝える。カールグスタフと無線を背負う瑛太がよろける。それを凛子が手で押さえる。凛子はカールグスタフの弾薬を背負っている。
 しゃがむと立ち上がるのに苦労する重量だが、瑛太は身を低くした。
 2人の女性が、ハスラーのボンネットを覗き込んでいる。
「バッテリーが充電できれば、エンジンがかかるけど、電気がなきゃどうにもならないね」
 会話が聞こえる。
 女性がもう1人。3人がこの家にいる。
 杏奈が後退の合図をする。全員がゆっくりと後退る。先客がいる以上、ここは使えない。

「誰!」
 気付かれた。
 女性が、クロスボウを構えて、道に出てきた。凛子が条件反射的に銃を構え、双方にらみ合いになる。
 女性側はもう1人もクロスボウで、狙ってきた。
 杏奈が説明する。
「私たちは、この付近を調べに来ただけ。みなさんに興味はない。
 すぐに立ち去るから、物騒なものは向けないで。こちらも銃口を地面に向けるから」
 凛子が指示されて、銃口を下げる。
 4人がゆっくりと背を見せずに下がる。
 兼広が杏奈に「交渉してもいいですか?」と尋ね、杏奈が「何を?」と呟く。
「クルマの修理と、別の家での滞在です」
 杏奈が「やってみて」と促す。
 兼広が半自動ライフルを瑛太に渡し、手を上げて声をかける。
「そのクルマを直そう。
 その代わり、手前の家を使わせてほしい」

 彩葉はその提案を受け入れたかった。
「あの家には死人がいる。
 無理よ。
 でも、クルマは修理してほしい」
「もう1軒あるんだ。
 そっちを使う」
「じゃぁお願い」
 兼広がジャンプスターターをザックから取り出して、庭に入っていく。
 エンジンがすぐに始動する。

 もう1軒も平屋だった。ただ、こちらの方が開けていて見つかりやすい。
 アルトがカーポートにあり、キーが見つかれば動かせる。キーはたいてい、キッチンか玄関にある。

 4人が家の中に入り、全室を確認する。死人は1体でもいて、気付かなかったなら、必ず犠牲者が出るからだ。風呂場やトイレ、クローゼットや押し入れも確認する。
 兼広が杏奈に「クリアです」と報告し、加えて「彼女たち、ここで何をしているか探ったほうがいいんじゃないですか」と。
 杏奈が「安全そうだから、ただいるだけじゃないの?」と答えるが、兼広はあまり納得していない。
「右に行く狭い道の先に、もう1軒家があるんです。
 彼女たち、そういったことはまだ調べてないんじゃないかと思うんですよね。つまり、ここにたどり着いたばかり。
 しかも、徒歩ですよ」
 杏奈は考える。
「確かに徒歩はヘンよね。
 クルマなら、いくらでも手に入るわけだし。徒歩にこだわる理由がない。
 どこかから、逃げてきた?
 でも、少し様子を見ましょう」

 杏奈たち4人は、河口にあるという船を確認するため徒歩で南に向かう。
 海岸に出たところで、先着だった2人の女性と出会ってしまう。
 意外な展開に、両グループとも少し慌てる。
 進む方向が同じだし、目立たないように林に沿って進んでいく。
 目立たないように行動することは当然だとしても、明らかに全周を警戒している様子だった。当然、杏奈たちも準戦闘モードだ。
 だから、両グループはあまりにも異様だと、互いに思うことになる。

 にらみ合うように不自然すぎる沈黙のあと、棚田彩葉が声を絞り出す。
「なぜ……」
 榊原杏奈が答える。
「私たちは、ある船から逃げた女の子を助けた。その子によれば、その船には2人がまだ捕らえられていると。
 救助を要請されたけど、状況がわからないので偵察に来た」
「その2人って、男、女?」
「若い男性2人と聞いている。
 1人は大柄で、1人は小柄」
「それ、たぶん私たちの仲間。
 私たち、仲間を助けるために、その船、小型のフェリーなんだけど、追ってきたんだ」
「どこから?」
「下田から。
 ゾンビに圧迫されて、伊豆の先端まで逃げて、進退窮まったところで、救援のフェリーが下田港に入ったと聞いたから、迂闊にも姿を現してしまった……。
 何だかおかしい、って気付いたときは手遅れで、私と瑠璃を逃がすだけで精一杯。健介と陸翔が捕まちゃった」
 榊原杏奈が「翔愛ちゃんの証言と一致する点が多いね。どうやら、あなたたちと私たちの目標は同じようね」と。
「まぁ、とりあえず、その船を偵察しましょう」

「全長50メートルくらいかな。
 内湾用の船ね。
 沿岸でも、太平洋を航行するような船じゃないかな」
 杏奈がフェリーを値踏みする。
 彩葉が「私たちも釣り船で追いかけてきたんだ。一応、湾外に出る船だけど」と応じる。
 杏奈が「あなたが操船できるのね?」と尋ね、彩葉が「父親の影響で」と答える。
 さらに、フェリーの情報を伝える。
「下田に上陸したとき、あいつらは重油を探していた。
 たぶん燃料が足りないんだ。下田にもあったかもしれないけど、小型船が多いから、どうかな。私たちの船は軽油だから、トラックからでも調達できる」
 杏奈が感心する。
「なるほどねぇ、よく考えて追ってきたんだ」
 彩葉が「でも、ここから逃げられてしまうと、まかれちゃうかも。ここから北の海岸線は複雑で、隠れる場所が多いから」と唇を噛む。
 杏奈はごく簡単に「じゃぁ、動けないようにしちゃいましょう」と。

「マジですか!」
 瑛太が驚く。
 兼広はオロオロ。
「HEAT弾、とってくれる~?」
 凛子が躊躇いながら渡す。
 彩葉、瑠璃は、何が始まるのか理解していない。
「大丈夫、心配しない。
 船のエンジンなんて、船体の後部にあるものなんだから。
 吃水より上なら、沈没しないし……」
 3人は“沈没”と聞いて顔を見合わす。
 杏奈がカールグスタフ無反動砲を担ぐ。
「全員離れて」
 5人が、左右に散開する。

 対戦車榴弾が船体最後部に命中。少しの炎を見せたあと、黒煙を吐き出す。
 6人は、その場から離れ、船の監視を続けることにする。

「何だ?」
 健介の問いに、陸翔が「爆発みたいだけど」と。しかし、意外なほど揺れなかった。
 2人に考えられることは1つ。彩葉と瑠璃が襲ってきた。

 彩葉と兼広がフェリーの見張りとして残り、杏奈たちは隠れ家に戻る。

 宗岡千里、青葉紫乃、南川響子の3人は、彩葉たちがいない隙に逃げ出す算段をしていた。
 だが、千里の胸の痛みがひどく、彼女から「私を置いていって」と言われたが決断できずにいた。
 彼女たちのルールでは、こういった場合は見捨てることになっている。
 響子が「私、医師なのに」と唇を噛むと、紫乃が「外科じゃないでしょ。それに、設備がないんだから、医師でも何もできないよ」と。
 紫乃が「私だって、サラシを巻くことくらいしかできない……」と。
「私なんて、それさえ思いつかなかった。
 紫乃さんが民家でサラシを見つけたとき、ザックに入れた理由さえわからなかったよ。そんな何に使っていたかわからない布、どうするのって……」

 紫乃と響子が千里を見捨てる決断に手間取っている間に、今里瑠理と杏奈たちが戻ってきてしまった。
 紫乃と響子が唇を噛む。

 杏奈が尋ねる。
「あちらの女性、怪我をしているの?」
 紫乃が説明する。雰囲気的に彼女がグループのリーダーらしい。
「若い男の人と女の人に襲われて、胸を蹴られたんです。
 たぶん、肋骨が折れています」
 杏奈が考える。
「私たちの拠点には、レントゲンならあるけど……。
 どうします?」
 紫乃が驚く。
「病院?」
 杏奈が「病院というほどじゃないけど、基本的な設備はありますよ」と答える。
 千里が「そこまでは、どうやって……」と質問し、杏奈が「飛行機か、ヘリコプターで行くしかないですね」と答える。
 千里が「痛くてたまらないんです」と伝えると、杏奈が「飛行機なら30分ですよ」と勧める。
「行きます。
 飛行機に乗せてください」
 千里が泣き出した。

 杏奈は千里のためにヘリコプターの派遣を要請。
 彼らが降り立った農道に、要請から1時間後にヘリコプターが着陸。千里だけを乗せて、高原に向かった。

「あれは、棚田さんの仲間か?」
「違う。
 健介でも陸翔でもない」
「見たことは?」
「健介を殴り倒した男に似ている。
 うん、そっくり」
「殺しちゃっていいか?」
「どうぞ」
 兼広が狙撃。
 銃声が思いの外、川面に反響する。
 大柄な男が倒れる。
「棚田さん、ここは危険になった。
 移動するぞ」

 兼広が狙撃したのは、堂上家の次男だった。これで堂上家当主直系の男子は、両目を潰され、頭蓋頭頂が割れた長男だけになった。

「陸翔、いまのは銃声?」
「みたいだな」
「誰かが殺られた?」
「かもしれないな」
 健介がボロボロの身体で椅子に縛られている長男に、微笑みながら「おまえの一家の誰かが、また死んだみたいだな」と告げる。
 強気だった長男は、船体の激しい揺れと爆発音、そして今回の銃声で、明らかに動揺し始める。
 陸翔が「何か言えよ、ボケ!」と渾身のパンチを繰り出す。
 長男が椅子ごとゆっくり倒れる。
「こいつの面、健介並みに固いぞ」
「みたいだな、俺のへなちょこパンチじゃ効いていないようだし」

 割れた窓から筒が差し込まれる。健介が咄嗟につかむ。そしてひねってから引っ張る。女性の「ぎゃ」との悲鳴が聞こえ、鋼鉄に何かがぶつかる音がした。
 割れた窓に人の顔が見える。健介が、その顔に向けて奪った散弾銃を発射する。
 散弾が凄惨な光景を作る。
 健介が大柄な男を銃床で小突く。
「おい、あれは誰だ」
 泣き声で「わからない。父上の側室だと思うけど……」と答える。
 陸翔が「側室って何だ?」と尋ねると、健介が「愛人のことだよ」と教える。
 この2人、見かけとは異なり、健介が知略派、陸翔が武闘派だった。

 当主の堂上は、かなりの焦燥を感じている。
 長男は捕らえられ、次男は上甲板上で狙撃され、長女と次女は無事だが、彼の愛人は船内に捕らえている捕虜に射殺された。三男は弓矢で射殺されている。
 この河口に停泊したとき、家族8人全員が揃っていたが、数日で3人が死んでしまった。下賤の輩が高貴な血を引く堂上一族を殺めるなど、許されることではない。
 その許されざる行いが、堂々と行われている。これは、正さなければならない。
 幸いにも嫡男たる長男は生存しているし、若い女性を捕らえて子を産ませれば、堂上家の血統は守られる。
 押し込まれてはいるが、打つ手は山ほどある。それに所詮は下賤の血。どう足掻いても、高貴な血に勝てるはずがない。

 健介と陸翔は、水なしで何日も耐えていた。もちろん、捕虜にしている長男も水を飲んでいない。
 長男にひどく殴られた健介は消耗しているが、陸翔にサンドバッグ以上に痛めつけられた長男のほうが厳しい状態だ。

 堂上家当主の愛人の遺体が引きずられていく。それを割れた窓越しに見る。陸翔は、手足でも見えたら、残り1発を撃つつもりだった。
 しかし、残念だが潰れた顔が動いていくだけだった。
 健介と陸翔は、長男を人質にして籠城している。彼らがいる殺風景な8畳間ほどの広さの部屋は、雑品倉庫のようだった。
 掃除用具や洗剤、舫い綱のような太いロープもある。だが、武器になるようなものは何もない。
 幸運にもドアの2カ所に内鍵があるが、あまり頑丈には思えない。それでも、立て籠もりには一定の効果がある。
 ドアは防水ハッチではなく、よくある鋼板製。
 脱出は考えていない。鋼板製の頑丈なドアを道具なしで壊せるとは思えない。しかも、ドアは外開き。体当たりをしても、開くわけがない。この部屋で、渇きと飢えで殺される。
 長男を道ずれに「死んでやる」と、2人は覚悟を決めていた。

 堂上家当主は、何らかの火砲で攻撃されたことに驚いていた。彼は船には詳しい。元海上自衛官だが、ゾンビ事変以前に退職している。理由は判然としないが、任官以前から対人関係でのトラブルを頻発させていた。
 立場的強者には徹底的に弱く、弱者には信じられないほど高圧的だった。
 その立場の基準が独特で、彼にとっては家柄・血筋がすべてだった。
 ゾンビ事変以後は、幼い子供を捕らえて生き餌とし、死人が子供を襲っている隙に物資を調達するという行為で生き延びてきた。
 だが、火砲で攻撃され、船はひどく損傷してしまった。喫水線の直上に大きな穴があき、2基あるエンジンの1基が完全に破壊された。
 穴を塞がないと、この船では移動できないが、周囲を偵察したものの付近の港には代替船がない。
 どうすべきか思案している。
 嫡男たる長男は、助けられなければそれも仕方ない。若い女性を捕らえて、子を産ませれば解決する問題だからだ。
 問題は彼の妻で、長男の救出に固執している。
 どちらにしても、簡単には移動できなくなった。
 下賤な輩に行動を邪魔されて、堂上家当主は噴火するような強い怒りを感じている。

 紫乃と響子は、年齢が近い杏奈に彼女たちとは異質なものを感じている。だから、心を許そうとは思えない。
 ゾンビ事変以後、世界は変わり、価値観が変わり、ヒトの生命の価値も変わった。

 スカイパークでは、航空ガソリンの備蓄量をいつも気にしている。
 その点、ライカミング製水平対向4気筒エンジンは自動車用無鉛ハイオクで稼働するので、このエンジンを搭載するセスナ172SやロビンソンR22ヘリコプターは使用頻度が高くなる。

 杏奈が紫乃と響子に提案する。
「もし、よければだけど……。
 私たちの拠点まで、飛行機で向かったら?」
 紫乃と響子が警戒する。
 杏奈が続ける。
「このままだと、たぶん、戦闘になる……。
 相手の戦力がわからないし、あの大きさの船を動かしているのだから、5人、10人ではないかもしれない……。
 だから、ここを立ち去ったほうがいいと思う。軽自動車があるから、使ってもいいし、一時的に私たちの拠点に移ってもいい……。
 判断は任せたいけど、この一帯は危険になる。流れ弾にでもあたったら、たいへんよぉ~」
 紫乃と響子にとっての問題は、千里だった。紫乃は千里を見捨てなければならない非常事態だと認識しているが、響子は違う。千里は捕らわれたわけではない、と。
 実際、持ち物を調べられたわけでも、何かを奪われたわけでもない。
 杏奈が続ける。
「もし、クルマで去るなら、レーションだけど、食糧を提供しましょう」
 響子が確認する。
「みなさんの拠点に行っても、拘束はされないのですね」
「そうする理由がありません」
「私たちには価値がない……?」
「そういう意味ではありません。
 私たちは、他の生存者を支援しようとも考えていないし、支援を求めてきた生存者に手を差し伸べない選択をしないということです」
 ここで、今里瑠理が尋ねる。
「じゃぁ、私たちに協力してくれる理由は?」
「協力はしていません。
 たまたま、目的が似ているだけです」
 響子が「私は千里さんが心配なので、みなさんの拠点に行きます」と断言する。
 紫乃が「それはダメ。行ったら何をされるかわからない」と反対する。
 響子が「彼みたいな若い人に、私みたいなおばさんに価値があると思う?」と。
 彼とは真藤瑛太のことだ。
「いやいや、大人の魅力ってヤツがあるでしょ。髪の毛汚いけど……」
 瑛太の余計な一言で、場が白ける。実際、紫乃と響子の衣服はかなり汚れていた。

 響子の決断に紫乃が引きずられる。紫乃には1人で生き抜く自信がないからだ。
 杏奈は、2人の回収のためにセスナ172Sの派遣を依頼する。

 紫乃と響子は、白を基調にした美しい軽飛行機が飛んできたことに少し驚く。
 しかも、パイロットは若い女性だった。
 2人の飛行は、わずか20分ほどで終わった。上空から、飛行場と小さな村が見えた。
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