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Capture03
03-001 助けを呼ぶ声
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真藤瑛太は杖に頼れば歩けるようになっていた。死亡せず、ゾンビにもならなかったが、ワクチンの副反応からは逃れられなかった。
手足のしびれが残り、右足の麻痺がひどく、杖を手放せなかった。
そんな状態だから、高原から外部に出る仕事ができず、通信室で、無線の傍受に従事している。
言語の障害はなく、自覚する限りにおいて記憶力の低下や記憶の欠如はない。
鮎村この実は専修学校に通うことになった。同時に、理学、農学、薬学、獣医学の研究者の助手になった。この状況でも生き残るための研究が行われていて、彼女には先進的で意義ある仕事が与えられた。
鰍沢可奈と沙奈の姉妹は、毎日学校に行く。目下の要求は「自転車がほしい」だ。高原内の移動には老若・性別関係なく自転車が重宝されているのだが、残念ながら2人の専用自転車がない。
2人は、どうしてもほしいのだ。だが、瑛太の状態では、どうすることもできないことは理解している。
瑛太は仕事から帰ると、沈みがちだった。この実が心配すると、瑛太は「1人や数人で頑張っているヒトたちがたくさんいるんだ。無線からの助けを求める声を聞いていると、自分の無力さが耐えられなくなる」と告げる。
桜の花が完全に散ると、ようやく瑛太は杖なしでも歩けるようになった。走れはしないが、歩いている限りでは他者の目には異常を感じない。
瑛太と同じように、ゾンビに噛まれたが生き残った椋木陽人と彼の家族とは懇意になった。年齢が近いこともあるが、彼の家族とはいい関係だ。
高原は無線封止している。高原から電波を発することはない。所在を知られないためだが、厳冬期に新潟方面から移動してきた生存者グループを警戒していた。
指導者は通称阿修羅大佐。自衛官、海上保安官、警察官等ではなく、軍事思想家と名乗っている。
平たく言えば、ミリオタらしい。
このグループがかなり凶暴で、猪苗代湖周辺を活動域にしていた宗教グループのいくつかを壊滅させている。
この宗教グループもひどく粗暴なのだが、ミリオタらしく組織的・合理的に攻めるようだ。宗教グループの元構成員を取り込んでいて、猪苗代湖北岸では最大勢力に成長している。
厄介な集団で、高原を狙っている様子が、無線傍受からわかる。会津若松から猪苗代湖周辺を拠点にしていた暴力的宗教グループから、高原の情報を得て、攻略を考えているらしい。
だから、高原は無線封止を徹底している。
無線室の責任者は、元航空予備自衛官の夷隅謙也だった。瑛太にとっては父親のような年齢の人物だが、意見等は伝えやすかった。
「夷隅さん。
これ、傍受した通信を文字起こししたんですけど……」
夷隅謙也は、瑛太が差し出した数枚のレポート用紙を無言で受け取る。
「シントク、ってどこ?」
「たぶん、北海道のどこかです」
「なぜ?」
「ここ、オカダマとか、チトセとかの地名が出てきます。キタヒロシマは、広島県ではなく、北海道の北広島市ではないかと」
「う~ん。
何人くらい、生き残っているの?」
「12人」
「断言したね」
「はい。
確実に4人は成人、それ以外は未成年かなぁ。小さい子もいるみたいです」
「均質なグループじゃないけど、家族?」
「違うと思います。
どうも、偶然できたグループなんじゃないかと」
「その12人がレブンという場所に移動するんだね?」
「そうです。
先遣の2人が安全を確認したとか」
「先乗りが2人かぁ。
少ないけど……」
「飛行機で行ったみたいです」
「飛行機?
なぜ、わかるの?」
「レブンは……」
瑛太がレポート用紙に“礼文”と書く。
「礼文?
礼文島かぁ。
閉鎖された空港があるね。
そこに?」
「シントクは……」
同様に“新得”と書く。
「それはどこ?」
「北海道のど真ん中です」
「その新得から礼文まで飛んだ?
なぜわかる?」
「新得から礼文まで、1時間40分くらいで移動しています。
飛行機以外ないでしょう」
「ヘリもないな」
「なぜです?」
「飛べる大型ヘリが残っているとは思えない。
小型のヘリだと、往復するには燃料が足りないからね」
「空港で補給できませんか?」
「閉鎖中の空港だぞ。
それに、礼文は島だ。
島に逃げるって言う選択は確かにありだけど、閉じ込められる可能性もあるからね。
島に死人〈しにびと〉がいる場合、どうするか?
共存はないけど、駆除しきれるものか?
できないだろうねぇ」
瑛太たちは、彷徨う屍を死人、悪しき生存者を生人〈いきびと〉と呼んでいたが、この呼称が高原に受け入れられていた。
「利尻島は?
利尻島にも空港、ありますよね」
「う~ん。
どうかな?
いまの飛行機は軽飛行機以外はターボジェットかターボプロップだよ。ヘリはターボシャフト。
つまり、燃料はケロシン系。航空ガソリンがあるのかも疑問だね」
「でも、こっちの空港にはあるんでしょ?」
「あぁ、飛行学校があったからね。軽飛行機とロビンソンヘリが航空ガソリンだ」
「自動車用のハイオクじゃダメなんですか?」
「航空ガソリンは有鉛なんだ。
自動車用ハイオクは無鉛だから、使えない。
ターボプロップ機なら別。軽油にちょびっとガソリンを混ぜてやれば使える」
「空港ならフェンスに囲まれていますよね」
「たぶん……」
「ならば、しばらくは大丈夫でしょ。
ターミナルビルとかもあるだろうし、通信用のアンテナくらいは残っているかもしれないから……」
「まぁ、立て籠もるにはいいかもしれないけど、じり貧だぞ」
「でも、しばらくは落ち着けるから、次の一手を考える余裕が生まれるかも……」
「真藤くんは、前向きだな。
だけど、追い詰められた感は否めないぞ」
この意見に、瑛太は賛成だった。礼文島に移動したら、その先がない。大陸に渡るか、サハリンに向かうか、それとも物資欲しさに危険を承知で死人が多い札幌や函館に行くか。
未知の危険と、既知の危険のどちらが怖いかだ。
この頃から、瑛太は北海道の12人グループを注視するようになった。
久米昭人は、礼文空港の荒涼とした風景に安堵していた。
見渡す限り、どこにも死人がいないからだ。
「どう思う?」
相棒の薬師昌子が微笑む。
「動く骸〈むくろ〉がいないなら、どこでも天国だよ」
昌子も同感だが、追い詰められた感はぬぐえなかった。
「とうとう北の果てまで逃げちゃったね」
「だけど、しばらくは、いられる」
「礼文島の人口を調べてみたんだけど、2500人くらいだったみたい」
「と言うことは、2500体の骸がいるわけか?」
「観光客がいたとすれば、もっとかな」
「駆除は不可能だな」
「12対2500じゃ、勝負にならないね」
昭人は昌子に現実を突き付けられ、気落ちした。だが、空から見る限り、骸の姿はなかった。もし、礼文島の島民が北海道や利尻島に避難したならば、ゾンビ事変の直後に無人島になった可能性がある。
そうであれば理想的だが、骸が屋内に封じられているなら、建物の劣化に伴って屋外に出てくる。
そうなり始めると、厄介だ。
対応策は、逃げるしかない。この2年間、そうやって生き延びてきた。
昭人と昌子はゾンビ事変勃発時、千歳にある航空高校の生徒になるはずだった。
昭人はカナダで20時間、昌子はオーストラリアで15時間の軽飛行機の操縦経験があり、離着陸の経験もあった。
親の仕事の関係で日本に戻ってきたが、2人は空への憧れが強かった。
2人は同じ学校の生徒になるはずだったが、入学前なので互いに面識はなかった。2人が出会ったのは偶然で、ゾンビ事変の1カ月後に物資調達で入ったコンビニ内だった。
以後、2人は一緒にいる。
そして、逃げ回る乗り物に、千歳空港に残置されていたセスナ172Sを使っていた。
北海道には、函館、奥尻、丘珠(札幌)、新千歳、帯広、釧路、旭川、中標津、女満別、紋別、稚内、利尻の12空港がある。
2人は、これら空港を移動しながら逃げ回っていた。
その途中で偶然、上空から未知の滑走路を見つける。これが、帯広近郊にある新得町農道離着陸場だった。
安全そうなので、着陸する。
安川恭三は、ゾンビ事変の3年前に航空会社を退職していた。定期航路を飛ぶ旅客機パイロットだったが、心を病んでしまった。
彼はひどい人間不信に陥っていた。
彼には他の航空会社に勤める妻と、2人の子がいた。妻には恭三と結婚する以前から、親しい男性がいた。彼女が勤める航空会社の幹部社員だった。
不倫の関係である。
彼女が恭三と結婚した理由は、安定的な不倫関係を築くために、その幹部社員が妻に結婚を命じたからだった。
恭三が妻の不倫に気付いたのは、衝撃的な目撃からだった。
体調不良で帰宅し、自室で寝ていると、玄関ドアが開く音がする。
妻が帰ってくる予定はない。恭三は不審に思い、自室のドアを少し開ける。
妻と2人の男性。50歳代と30歳代くらい。
50歳代の男性が妻とキスし、30歳代の男性が背後から妻の胸を触る。
妻はまったく拒否していない。完全に受け入れている。
これが、玄関先で行われた。
恭三は2人の男性と面識があった。1人は妻が勤務する航空会社の幹部社員で、30歳代の男性は50歳代男性の秘書だ。
体調不良もあって怒りの制御ができなかった。
素振りに使っている黒檀の木刀をクローゼットから取り出すと、妻の背後にいる50歳代男性の頭部に1撃、倒れ込むと顔面に3撃。30歳代男性の喉に突きをお見舞いし、玄関ドアを背に倒れると頭部に2撃を与える。
さらに30歳代男性の口内に、渾身の力で突きを放つ。
それから、警察に電話する。
妻は放心状態。
50歳代男性は顔面の修復が難しいほどの骨折で、頭蓋も割れていた。
30歳代の男性も頭蓋が割れ、喉が裂け、口頭が潰れた。
恭三は「妻が襲われていたので、無我夢中だった」との証言を崩さなかった。罪には問われたが、情状を酌量され執行猶予だった。剣道の経験がないことも有利に働いた。
その後のDNA検査で、2人の子は50歳代男性の子で、恭三とは親子関係がなかった。
妻は、勤めていた航空会社を退職した。表向きは依願退職だが、実質は解雇だった。
恭三の10年間の結婚生活は、実態としては何もなかった。無意味な10年間だった。
罪に問われたこと、心を病んだこと、その他諸々から縁もゆかりもない北海道の新得町に移り住み、あることに没頭した。
ビーチクラフトT-34メンター練習機のレストアだ。
恭三は思う。ゾンビ事変がなければ、永遠に人間不信だったはず。
だが、いまは彼を頼る11人がいる。
新得町農道離着陸場は、いまのところは安全だが、すでに動く骸と生ける悪人に見つかっている。
長くはいられない。
無線は使わない。生ける悪人に傍受される危険が高いからだ。
「戻ってきたよ」
秋葉利里は、伏見陽太にそう伝える。陽太が走り、恭三に伝える。
10人が滑走路脇に揃う。
セスナ172Sがプロペラを止める。
車輪止めがされる。
「恭三さん、礼文空港は安全です。
燃料を補給したら、すぐに移動しましょう」
時間がなかった。
新得町農道離着陸場に生存者がいることは、悪しき生存者に知られている。飛行機の爆音は、動く骸を呼ぶ。
セスナ172Sには、パイロットの薬師昌子、歯科医の大城雅美、12歳の秋葉利里、11歳の伏見陽太が乗る。
ビーチクラフトT-34メンターには、パイロットの久米昭人。
デ・ハビランド・カナダDHC-3オッター高翼単発輸送機は安川恭三の操縦で、他の6人と当面必要な物資を積む。
新得町農道離着陸場は放棄しない。しばらくしたら戻ってくるつもりだ。この1000メートル滑走路がある飛行場が、彼らの基幹拠点だ。
ゾンビ事変後、最初の1年間は昭人と昌子は2人きりだった。
紋別から帯広に移動中、偶然、眼下に新得町農道離着陸場を見つける。上空を何度も周回し、安全と判断して降りた。
しかし、この飛行場には安川恭三という超人間嫌いがいた。最初の2カ月間は、3人は言葉さえ交わさなかった。
8歳の高島美佐が奇跡的に1年数カ月間を1人で生き抜き、徒歩で新得町農道離着陸場近くにやって来た。
小宮良一10歳は、自転車で。佐伯明菜15歳はスクーターで。馬越洋平13歳はキックボードで。
その後、1人、2人と追い立てられ、追い詰められるように、新得町農道離着陸場周辺に集まってきた。
その数、12人。
さほどの縁のない12人が、必要に迫られて協力し合うようになる。
動く骸20体ほどに追われ、逃げ場を失った栗岡直美(29歳、建築士)は、8歳の高島美佐に逃げ道を誘導してもらい助かった。
生存者が集まってくることは、安川恭三にとってひどく迷惑だったが、少人数の略奪者たちが近付かなくなるので、そうした利点はあった。
だから、黙認した。
12人が団結するきっかけは、どこにでもいる掠奪が目的の集団が新得町付近に現れたことだった。
10人近いの集団だったが、全員で立ち向かい撃退する。
その後も素っ気ない関係が続いたが、会えば挨拶したり、情報交換をするようになる。そして、徐々にグループとしてまとまっていく。
礼文島に退避を決めたのは、新得町に動く骸の大群が押し寄せてきたからだ。
その理由は、北海道警パトカーのサイレンだった。誰かが故意に鳴らした。パトカーの場所がなかなか特定できず、サイレンを止めることに時間を要してしまった。
止めたのは小さな自動車整備会社を経営していた氏家義彦だった。パトカーの所在地を探し出したのは、13歳の馬越洋平。
彼らは、成人が未成年・若年者を保護してできたグループではない。年齢・性別に関係なく、全員が対等な関係だった。
礼文空港はフェンスと土塁に囲まれていて、敷地内に動く骸の姿は皆無だった。
2003年に休止された空港だが、ゾンビ事変前までは不十分ながらメンテナンスされていた。想像していたほどは荒れていない。
生活は、ターミナルビルですることになる。
高島美佐が「寂しいね」と言うと、秋葉利里が「一緒に来な」と誘う。15歳の佐伯明菜も同調する。
3人は、パイロットである薬師昌子を頼りにしていた。彼女をリーダーだとの思いもある。
13歳の馬越洋平、11歳の伏見健太、10歳の小宮良一も3人組になる。彼らは、パイロットの久米昭人に一目置いている。
成人の4人は、バラバラ。凶暴な変人でベテランパイロットの安川恭三。美人歯科医の大城雅美。家族全員を失い塞ぎ気味の氏家義彦。陽気だが、ときどき泣いている建築士の栗岡直美。
若年者8人よりも複雑な人生背景を持っている。その分、苦悩が深かった。
大城雅美は、歯科医師になっても極めて順調な人生だった。
人生設計の破綻は結婚後だった。新興のIT企業創業者と結婚したのだが、彼女は完全なトロフィーワイフだった。夫から人格を完全に無視され、夫の付属物として扱われることになる。
極限のモラハラを受け、疲弊していく。
結婚前は歯科医師を続けることに賛成していた夫だが、結婚後は毎日「辞めろ」と責め立てられた。
どうにかして離婚しようと策を考えていたが、外面が極めていい夫の本性を他者に示すことはほぼ不可能だった。それでも、ハラスメントの証拠を集め続けていた。
そんなとき、ゾンビ事変が起こる。
彼女は夫よりも早く自宅に帰り、必要なものをまとめ、夫のことなど考えずに、さっさと避難する。
この行動に後悔はないが、少しのうしろめたさがあった。その感情が肥大化している。
氏家義彦は、家族との北海道旅行中にゾンビ事変に遭遇した。
彼はごく常識人で、律儀にルールを守る。ゾンビ事変発生時、彼と家族は札幌のホテルにいた。
テレビは繰り返し「外に出ないでください。屋内で待機してください」を繰り返していて、避難したがっていた妻子の意見に反対し続けた。
「政府の指示通りにしよう」
彼は何度もそう言った。
結果、ホテル内でゾンビが発生すると、瞬く間に感染が広がった。そして、妻子はその餌食となり、彼にはどうすることもできなかった。
独自判断で避難しても同じ結果だったかもしれないが、頑なに“政府の指示”に固執したことが妻子の死につながったことは確かだ。
妻と2人の子が「お父さん助けて!」と叫ぶ声と、あの時の顔が忘れられない。
栗岡直美は建築現場にいた。ゾンビ事変が発生すると、周辺は大混乱に陥った。
両親は他界しており、きょうだいはおらず、親戚とは疎遠、恋人とは別れたばかり。
誰にも頼らず、誰にも頼られない、独りぼっちの避難だった。最初の1年間は、北海道駒ヶ岳の北西にある小さな温泉街にいたが、このときも1人だった。
結局、動く骸に侵入され、ここでも1人で逃げる。北へ、北へと逃げ、気付くと新得町の近くにいた。
ここで、飛行機を運用する昭人と昌子と出会う。
現在の彼女は、単に昭人や昌子にくっついているだけだった。仲間意識は、極めて低い。
それが、生き残る唯一の術だと彼女は信じていた。
12人グループには指導者はいない。だが、実質的に久米昭人が率いている。4人の成人も、17歳の男性未成年者に従っていた。
久米昭人は憂鬱だった。
頼りにしたい4人の大人は、自分のことだけで一杯一杯。幼い子たちへの気遣いなんて皆無。
安川恭三は付き合いにくい変人だが、協力はしてくれる。
大城雅美は男性嫌いで、年齢にかかわらず男性を寄せ付けない。
氏家義彦は何かを頼べば真摯に応じるが、自分からは何もしない。
栗岡直美は何ごとに対しても「私には関わりのないこと」を地でいく一匹狼。
昭人以外の7人の未成年者は、昭人をリーダーと認めている。佐伯明菜は女の子グループをまとめ、馬越洋平は男の子グループを掌握している。
そして、8歳の高島美佐を含めて、生き残りに全力で協力してくれている。
そして、礼文島に移動した。
「レーダーや通信設備が撤去されていたよ」
昌子の報告は、昭人と昌子の想定の範囲内だった。
恭三が「ボス、食い物はどうする?」と問う。
「中心地まで行けば、何か手に入るんじゃないかと……」
「あぁ、氏家さんと一緒に中心部まで行ってみる。
氏家さんがクルマの調達に行っている」
「1人で?」
「いや、栗岡さんと一緒だ」
昌子は、食糧の不足が不安だった。人口が2500人程度の礼文島では多くを期待できない。しかし、ここに逃げ込むしかなかった。
幼い子たちはひもじさになれているし、各自が独自に軽量な保存食を持っている。ある意味、4人の成人よりも準備と心構えができている。
昌子は、短波無線機をターミナルの上に載せられた管制塔に運ぶ。
彼女は、彼女たちの存在を知ってほしくて、毎晩、無線を発信している。
以前は応答してくれることも多かったが、最近は減っている。
動く骸はどこにでもいる。離島や山奥にも。生存者の数と拠点が減り続けている。
昌子には、一縷の希みがあった。真藤瑛太という人物が、動く骸に噛まれたのに死にもせず、転化もしなかったらしい。
鮎村この実という若い女性が助けを求め、ホワイトベースというグループが手助けした。
その無線を傍受していた。
昭人は「サンクチュアリなんてない」と言い切るが、彼女はそれを信じていた。信じたかった。
昌子が物資補給が困難な礼文島への避難を受け入れたのは、ホワイトベースの存在を確認するためだった。
四方が海の礼文島なら、生存者の存在を気にせず、無線を思う存分発信できる。
「ここにいたんだ」
昭人が管制塔に上がってきた。平屋のターミナルビルの上にチョコンと載せたような管制塔だ。
「うん」
「また、無線聴いているの?」
「うん」
「例のヒトたち?」
「待って!
その人たちの通信!
フェンリル隊からホワイトベースへの通信」
「何だか、ウソっぽいよ」
「郡山市内に数万の死人が滞留。
上空から見る限り、福島市内は多くない、って。
飛行機、持ってるのかな?」
「ドローンかもしれないじゃん」
「でも、マイクがプロペラかローターの音を拾っている」
昌子が昭人にヘッドセットを渡す。
昭人が音を聞く。
「雑音じゃないの?」
この件に関する昭人の冷たさに、昌子はいつもガッカリしている。
だから、昭人を無視する。昭人は昌子に拒絶されたことを察し、管制塔から去った。
昭人が去ったことを確認して、昌子は交信を始める。応答がないことは確信している。それでも、聞いてほしかった。
[ホワイトベース、聞こえますか?
私は北海道の北端にいます。
ゾンビと略奪者から逃げ回っています。安全な場所を探しています。
私を助けてください]
昌子は正確な場所を伝えず、「私たち」とは言わなかった。彼女も用心している。
ふくしまスカイパーク(福島市農道離着陸場)は、高原の拠点の1つ。福島空港に死人が入り込んでしまって以降、ここが主用飛行場になっていた。
高原のメンバーが常駐していて、高原では情報秘匿のためにできないことを行っている。
また、ブッシュマスター装輪装甲車を改造して、装甲通信車にしていた。82式指揮通信車は機材を入れ替えており、こちらも装甲通信車として使っている。
スカイパークには、82式指揮通信車、87式偵察警戒車、ピックアップトラック3台が派遣されている。
情報収集目的で、応答することも認められている。真藤瑛太は、応答してみた。
意外なことに応答があった。
[我々はキマイラ隊だ。
北海道は、我々の行動圏外だ。
助けたくても、無理だ]
[あなたたち、ホワイトベース……?]
[そうとも呼ばれている]
[何をしたら、助けてくれる?]
[北海道は行動圏外だ。
どうにもならない]
[私たちが、あなたたちの近くまで行く]
[それだけの行動力があるなら、我々の協力は不要だ]
[ここには、食べ物がないの!
いつまでも、耐えることはできないの!]
[食べ物は、どこにでもある。
探すんだ。
交信はこれまでだ]
[待って、また交信できる?]
[私が担当なら]
[あなたの名前は?]
[ジョニーだ]
[わかった。
ジョニー・ライデン少佐ね]
真藤瑛太は、北海道の生存者と交信したことを夷隅謙也に報告する。
「北海道?
どう考えても無理だな」
「そうなんですが、彼女、相手は女性で、彼女はここまで来るって言っていました」
「ここを北海道内と勘違いしているんじゃないのか?」
「たぶん……」
「いまや、50キロ移動するんだって、生命がけだ」
謙也の言葉は、その通りだ。横須賀から羽鳥湖までやって来た瑛太たちが、ある種、英雄視される理由がこれだ。
瑛太は北海道グループが気になっていた。助けを求める声の多くは弱々しいが、北海道の女性の声は力強く、自信に満ちていた。
何となく、瑛太たちに似ていると感じる。機会があれば、また交信しようと思っていた。
手足のしびれが残り、右足の麻痺がひどく、杖を手放せなかった。
そんな状態だから、高原から外部に出る仕事ができず、通信室で、無線の傍受に従事している。
言語の障害はなく、自覚する限りにおいて記憶力の低下や記憶の欠如はない。
鮎村この実は専修学校に通うことになった。同時に、理学、農学、薬学、獣医学の研究者の助手になった。この状況でも生き残るための研究が行われていて、彼女には先進的で意義ある仕事が与えられた。
鰍沢可奈と沙奈の姉妹は、毎日学校に行く。目下の要求は「自転車がほしい」だ。高原内の移動には老若・性別関係なく自転車が重宝されているのだが、残念ながら2人の専用自転車がない。
2人は、どうしてもほしいのだ。だが、瑛太の状態では、どうすることもできないことは理解している。
瑛太は仕事から帰ると、沈みがちだった。この実が心配すると、瑛太は「1人や数人で頑張っているヒトたちがたくさんいるんだ。無線からの助けを求める声を聞いていると、自分の無力さが耐えられなくなる」と告げる。
桜の花が完全に散ると、ようやく瑛太は杖なしでも歩けるようになった。走れはしないが、歩いている限りでは他者の目には異常を感じない。
瑛太と同じように、ゾンビに噛まれたが生き残った椋木陽人と彼の家族とは懇意になった。年齢が近いこともあるが、彼の家族とはいい関係だ。
高原は無線封止している。高原から電波を発することはない。所在を知られないためだが、厳冬期に新潟方面から移動してきた生存者グループを警戒していた。
指導者は通称阿修羅大佐。自衛官、海上保安官、警察官等ではなく、軍事思想家と名乗っている。
平たく言えば、ミリオタらしい。
このグループがかなり凶暴で、猪苗代湖周辺を活動域にしていた宗教グループのいくつかを壊滅させている。
この宗教グループもひどく粗暴なのだが、ミリオタらしく組織的・合理的に攻めるようだ。宗教グループの元構成員を取り込んでいて、猪苗代湖北岸では最大勢力に成長している。
厄介な集団で、高原を狙っている様子が、無線傍受からわかる。会津若松から猪苗代湖周辺を拠点にしていた暴力的宗教グループから、高原の情報を得て、攻略を考えているらしい。
だから、高原は無線封止を徹底している。
無線室の責任者は、元航空予備自衛官の夷隅謙也だった。瑛太にとっては父親のような年齢の人物だが、意見等は伝えやすかった。
「夷隅さん。
これ、傍受した通信を文字起こししたんですけど……」
夷隅謙也は、瑛太が差し出した数枚のレポート用紙を無言で受け取る。
「シントク、ってどこ?」
「たぶん、北海道のどこかです」
「なぜ?」
「ここ、オカダマとか、チトセとかの地名が出てきます。キタヒロシマは、広島県ではなく、北海道の北広島市ではないかと」
「う~ん。
何人くらい、生き残っているの?」
「12人」
「断言したね」
「はい。
確実に4人は成人、それ以外は未成年かなぁ。小さい子もいるみたいです」
「均質なグループじゃないけど、家族?」
「違うと思います。
どうも、偶然できたグループなんじゃないかと」
「その12人がレブンという場所に移動するんだね?」
「そうです。
先遣の2人が安全を確認したとか」
「先乗りが2人かぁ。
少ないけど……」
「飛行機で行ったみたいです」
「飛行機?
なぜ、わかるの?」
「レブンは……」
瑛太がレポート用紙に“礼文”と書く。
「礼文?
礼文島かぁ。
閉鎖された空港があるね。
そこに?」
「シントクは……」
同様に“新得”と書く。
「それはどこ?」
「北海道のど真ん中です」
「その新得から礼文まで飛んだ?
なぜわかる?」
「新得から礼文まで、1時間40分くらいで移動しています。
飛行機以外ないでしょう」
「ヘリもないな」
「なぜです?」
「飛べる大型ヘリが残っているとは思えない。
小型のヘリだと、往復するには燃料が足りないからね」
「空港で補給できませんか?」
「閉鎖中の空港だぞ。
それに、礼文は島だ。
島に逃げるって言う選択は確かにありだけど、閉じ込められる可能性もあるからね。
島に死人〈しにびと〉がいる場合、どうするか?
共存はないけど、駆除しきれるものか?
できないだろうねぇ」
瑛太たちは、彷徨う屍を死人、悪しき生存者を生人〈いきびと〉と呼んでいたが、この呼称が高原に受け入れられていた。
「利尻島は?
利尻島にも空港、ありますよね」
「う~ん。
どうかな?
いまの飛行機は軽飛行機以外はターボジェットかターボプロップだよ。ヘリはターボシャフト。
つまり、燃料はケロシン系。航空ガソリンがあるのかも疑問だね」
「でも、こっちの空港にはあるんでしょ?」
「あぁ、飛行学校があったからね。軽飛行機とロビンソンヘリが航空ガソリンだ」
「自動車用のハイオクじゃダメなんですか?」
「航空ガソリンは有鉛なんだ。
自動車用ハイオクは無鉛だから、使えない。
ターボプロップ機なら別。軽油にちょびっとガソリンを混ぜてやれば使える」
「空港ならフェンスに囲まれていますよね」
「たぶん……」
「ならば、しばらくは大丈夫でしょ。
ターミナルビルとかもあるだろうし、通信用のアンテナくらいは残っているかもしれないから……」
「まぁ、立て籠もるにはいいかもしれないけど、じり貧だぞ」
「でも、しばらくは落ち着けるから、次の一手を考える余裕が生まれるかも……」
「真藤くんは、前向きだな。
だけど、追い詰められた感は否めないぞ」
この意見に、瑛太は賛成だった。礼文島に移動したら、その先がない。大陸に渡るか、サハリンに向かうか、それとも物資欲しさに危険を承知で死人が多い札幌や函館に行くか。
未知の危険と、既知の危険のどちらが怖いかだ。
この頃から、瑛太は北海道の12人グループを注視するようになった。
久米昭人は、礼文空港の荒涼とした風景に安堵していた。
見渡す限り、どこにも死人がいないからだ。
「どう思う?」
相棒の薬師昌子が微笑む。
「動く骸〈むくろ〉がいないなら、どこでも天国だよ」
昌子も同感だが、追い詰められた感はぬぐえなかった。
「とうとう北の果てまで逃げちゃったね」
「だけど、しばらくは、いられる」
「礼文島の人口を調べてみたんだけど、2500人くらいだったみたい」
「と言うことは、2500体の骸がいるわけか?」
「観光客がいたとすれば、もっとかな」
「駆除は不可能だな」
「12対2500じゃ、勝負にならないね」
昭人は昌子に現実を突き付けられ、気落ちした。だが、空から見る限り、骸の姿はなかった。もし、礼文島の島民が北海道や利尻島に避難したならば、ゾンビ事変の直後に無人島になった可能性がある。
そうであれば理想的だが、骸が屋内に封じられているなら、建物の劣化に伴って屋外に出てくる。
そうなり始めると、厄介だ。
対応策は、逃げるしかない。この2年間、そうやって生き延びてきた。
昭人と昌子はゾンビ事変勃発時、千歳にある航空高校の生徒になるはずだった。
昭人はカナダで20時間、昌子はオーストラリアで15時間の軽飛行機の操縦経験があり、離着陸の経験もあった。
親の仕事の関係で日本に戻ってきたが、2人は空への憧れが強かった。
2人は同じ学校の生徒になるはずだったが、入学前なので互いに面識はなかった。2人が出会ったのは偶然で、ゾンビ事変の1カ月後に物資調達で入ったコンビニ内だった。
以後、2人は一緒にいる。
そして、逃げ回る乗り物に、千歳空港に残置されていたセスナ172Sを使っていた。
北海道には、函館、奥尻、丘珠(札幌)、新千歳、帯広、釧路、旭川、中標津、女満別、紋別、稚内、利尻の12空港がある。
2人は、これら空港を移動しながら逃げ回っていた。
その途中で偶然、上空から未知の滑走路を見つける。これが、帯広近郊にある新得町農道離着陸場だった。
安全そうなので、着陸する。
安川恭三は、ゾンビ事変の3年前に航空会社を退職していた。定期航路を飛ぶ旅客機パイロットだったが、心を病んでしまった。
彼はひどい人間不信に陥っていた。
彼には他の航空会社に勤める妻と、2人の子がいた。妻には恭三と結婚する以前から、親しい男性がいた。彼女が勤める航空会社の幹部社員だった。
不倫の関係である。
彼女が恭三と結婚した理由は、安定的な不倫関係を築くために、その幹部社員が妻に結婚を命じたからだった。
恭三が妻の不倫に気付いたのは、衝撃的な目撃からだった。
体調不良で帰宅し、自室で寝ていると、玄関ドアが開く音がする。
妻が帰ってくる予定はない。恭三は不審に思い、自室のドアを少し開ける。
妻と2人の男性。50歳代と30歳代くらい。
50歳代の男性が妻とキスし、30歳代の男性が背後から妻の胸を触る。
妻はまったく拒否していない。完全に受け入れている。
これが、玄関先で行われた。
恭三は2人の男性と面識があった。1人は妻が勤務する航空会社の幹部社員で、30歳代の男性は50歳代男性の秘書だ。
体調不良もあって怒りの制御ができなかった。
素振りに使っている黒檀の木刀をクローゼットから取り出すと、妻の背後にいる50歳代男性の頭部に1撃、倒れ込むと顔面に3撃。30歳代男性の喉に突きをお見舞いし、玄関ドアを背に倒れると頭部に2撃を与える。
さらに30歳代男性の口内に、渾身の力で突きを放つ。
それから、警察に電話する。
妻は放心状態。
50歳代男性は顔面の修復が難しいほどの骨折で、頭蓋も割れていた。
30歳代の男性も頭蓋が割れ、喉が裂け、口頭が潰れた。
恭三は「妻が襲われていたので、無我夢中だった」との証言を崩さなかった。罪には問われたが、情状を酌量され執行猶予だった。剣道の経験がないことも有利に働いた。
その後のDNA検査で、2人の子は50歳代男性の子で、恭三とは親子関係がなかった。
妻は、勤めていた航空会社を退職した。表向きは依願退職だが、実質は解雇だった。
恭三の10年間の結婚生活は、実態としては何もなかった。無意味な10年間だった。
罪に問われたこと、心を病んだこと、その他諸々から縁もゆかりもない北海道の新得町に移り住み、あることに没頭した。
ビーチクラフトT-34メンター練習機のレストアだ。
恭三は思う。ゾンビ事変がなければ、永遠に人間不信だったはず。
だが、いまは彼を頼る11人がいる。
新得町農道離着陸場は、いまのところは安全だが、すでに動く骸と生ける悪人に見つかっている。
長くはいられない。
無線は使わない。生ける悪人に傍受される危険が高いからだ。
「戻ってきたよ」
秋葉利里は、伏見陽太にそう伝える。陽太が走り、恭三に伝える。
10人が滑走路脇に揃う。
セスナ172Sがプロペラを止める。
車輪止めがされる。
「恭三さん、礼文空港は安全です。
燃料を補給したら、すぐに移動しましょう」
時間がなかった。
新得町農道離着陸場に生存者がいることは、悪しき生存者に知られている。飛行機の爆音は、動く骸を呼ぶ。
セスナ172Sには、パイロットの薬師昌子、歯科医の大城雅美、12歳の秋葉利里、11歳の伏見陽太が乗る。
ビーチクラフトT-34メンターには、パイロットの久米昭人。
デ・ハビランド・カナダDHC-3オッター高翼単発輸送機は安川恭三の操縦で、他の6人と当面必要な物資を積む。
新得町農道離着陸場は放棄しない。しばらくしたら戻ってくるつもりだ。この1000メートル滑走路がある飛行場が、彼らの基幹拠点だ。
ゾンビ事変後、最初の1年間は昭人と昌子は2人きりだった。
紋別から帯広に移動中、偶然、眼下に新得町農道離着陸場を見つける。上空を何度も周回し、安全と判断して降りた。
しかし、この飛行場には安川恭三という超人間嫌いがいた。最初の2カ月間は、3人は言葉さえ交わさなかった。
8歳の高島美佐が奇跡的に1年数カ月間を1人で生き抜き、徒歩で新得町農道離着陸場近くにやって来た。
小宮良一10歳は、自転車で。佐伯明菜15歳はスクーターで。馬越洋平13歳はキックボードで。
その後、1人、2人と追い立てられ、追い詰められるように、新得町農道離着陸場周辺に集まってきた。
その数、12人。
さほどの縁のない12人が、必要に迫られて協力し合うようになる。
動く骸20体ほどに追われ、逃げ場を失った栗岡直美(29歳、建築士)は、8歳の高島美佐に逃げ道を誘導してもらい助かった。
生存者が集まってくることは、安川恭三にとってひどく迷惑だったが、少人数の略奪者たちが近付かなくなるので、そうした利点はあった。
だから、黙認した。
12人が団結するきっかけは、どこにでもいる掠奪が目的の集団が新得町付近に現れたことだった。
10人近いの集団だったが、全員で立ち向かい撃退する。
その後も素っ気ない関係が続いたが、会えば挨拶したり、情報交換をするようになる。そして、徐々にグループとしてまとまっていく。
礼文島に退避を決めたのは、新得町に動く骸の大群が押し寄せてきたからだ。
その理由は、北海道警パトカーのサイレンだった。誰かが故意に鳴らした。パトカーの場所がなかなか特定できず、サイレンを止めることに時間を要してしまった。
止めたのは小さな自動車整備会社を経営していた氏家義彦だった。パトカーの所在地を探し出したのは、13歳の馬越洋平。
彼らは、成人が未成年・若年者を保護してできたグループではない。年齢・性別に関係なく、全員が対等な関係だった。
礼文空港はフェンスと土塁に囲まれていて、敷地内に動く骸の姿は皆無だった。
2003年に休止された空港だが、ゾンビ事変前までは不十分ながらメンテナンスされていた。想像していたほどは荒れていない。
生活は、ターミナルビルですることになる。
高島美佐が「寂しいね」と言うと、秋葉利里が「一緒に来な」と誘う。15歳の佐伯明菜も同調する。
3人は、パイロットである薬師昌子を頼りにしていた。彼女をリーダーだとの思いもある。
13歳の馬越洋平、11歳の伏見健太、10歳の小宮良一も3人組になる。彼らは、パイロットの久米昭人に一目置いている。
成人の4人は、バラバラ。凶暴な変人でベテランパイロットの安川恭三。美人歯科医の大城雅美。家族全員を失い塞ぎ気味の氏家義彦。陽気だが、ときどき泣いている建築士の栗岡直美。
若年者8人よりも複雑な人生背景を持っている。その分、苦悩が深かった。
大城雅美は、歯科医師になっても極めて順調な人生だった。
人生設計の破綻は結婚後だった。新興のIT企業創業者と結婚したのだが、彼女は完全なトロフィーワイフだった。夫から人格を完全に無視され、夫の付属物として扱われることになる。
極限のモラハラを受け、疲弊していく。
結婚前は歯科医師を続けることに賛成していた夫だが、結婚後は毎日「辞めろ」と責め立てられた。
どうにかして離婚しようと策を考えていたが、外面が極めていい夫の本性を他者に示すことはほぼ不可能だった。それでも、ハラスメントの証拠を集め続けていた。
そんなとき、ゾンビ事変が起こる。
彼女は夫よりも早く自宅に帰り、必要なものをまとめ、夫のことなど考えずに、さっさと避難する。
この行動に後悔はないが、少しのうしろめたさがあった。その感情が肥大化している。
氏家義彦は、家族との北海道旅行中にゾンビ事変に遭遇した。
彼はごく常識人で、律儀にルールを守る。ゾンビ事変発生時、彼と家族は札幌のホテルにいた。
テレビは繰り返し「外に出ないでください。屋内で待機してください」を繰り返していて、避難したがっていた妻子の意見に反対し続けた。
「政府の指示通りにしよう」
彼は何度もそう言った。
結果、ホテル内でゾンビが発生すると、瞬く間に感染が広がった。そして、妻子はその餌食となり、彼にはどうすることもできなかった。
独自判断で避難しても同じ結果だったかもしれないが、頑なに“政府の指示”に固執したことが妻子の死につながったことは確かだ。
妻と2人の子が「お父さん助けて!」と叫ぶ声と、あの時の顔が忘れられない。
栗岡直美は建築現場にいた。ゾンビ事変が発生すると、周辺は大混乱に陥った。
両親は他界しており、きょうだいはおらず、親戚とは疎遠、恋人とは別れたばかり。
誰にも頼らず、誰にも頼られない、独りぼっちの避難だった。最初の1年間は、北海道駒ヶ岳の北西にある小さな温泉街にいたが、このときも1人だった。
結局、動く骸に侵入され、ここでも1人で逃げる。北へ、北へと逃げ、気付くと新得町の近くにいた。
ここで、飛行機を運用する昭人と昌子と出会う。
現在の彼女は、単に昭人や昌子にくっついているだけだった。仲間意識は、極めて低い。
それが、生き残る唯一の術だと彼女は信じていた。
12人グループには指導者はいない。だが、実質的に久米昭人が率いている。4人の成人も、17歳の男性未成年者に従っていた。
久米昭人は憂鬱だった。
頼りにしたい4人の大人は、自分のことだけで一杯一杯。幼い子たちへの気遣いなんて皆無。
安川恭三は付き合いにくい変人だが、協力はしてくれる。
大城雅美は男性嫌いで、年齢にかかわらず男性を寄せ付けない。
氏家義彦は何かを頼べば真摯に応じるが、自分からは何もしない。
栗岡直美は何ごとに対しても「私には関わりのないこと」を地でいく一匹狼。
昭人以外の7人の未成年者は、昭人をリーダーと認めている。佐伯明菜は女の子グループをまとめ、馬越洋平は男の子グループを掌握している。
そして、8歳の高島美佐を含めて、生き残りに全力で協力してくれている。
そして、礼文島に移動した。
「レーダーや通信設備が撤去されていたよ」
昌子の報告は、昭人と昌子の想定の範囲内だった。
恭三が「ボス、食い物はどうする?」と問う。
「中心地まで行けば、何か手に入るんじゃないかと……」
「あぁ、氏家さんと一緒に中心部まで行ってみる。
氏家さんがクルマの調達に行っている」
「1人で?」
「いや、栗岡さんと一緒だ」
昌子は、食糧の不足が不安だった。人口が2500人程度の礼文島では多くを期待できない。しかし、ここに逃げ込むしかなかった。
幼い子たちはひもじさになれているし、各自が独自に軽量な保存食を持っている。ある意味、4人の成人よりも準備と心構えができている。
昌子は、短波無線機をターミナルの上に載せられた管制塔に運ぶ。
彼女は、彼女たちの存在を知ってほしくて、毎晩、無線を発信している。
以前は応答してくれることも多かったが、最近は減っている。
動く骸はどこにでもいる。離島や山奥にも。生存者の数と拠点が減り続けている。
昌子には、一縷の希みがあった。真藤瑛太という人物が、動く骸に噛まれたのに死にもせず、転化もしなかったらしい。
鮎村この実という若い女性が助けを求め、ホワイトベースというグループが手助けした。
その無線を傍受していた。
昭人は「サンクチュアリなんてない」と言い切るが、彼女はそれを信じていた。信じたかった。
昌子が物資補給が困難な礼文島への避難を受け入れたのは、ホワイトベースの存在を確認するためだった。
四方が海の礼文島なら、生存者の存在を気にせず、無線を思う存分発信できる。
「ここにいたんだ」
昭人が管制塔に上がってきた。平屋のターミナルビルの上にチョコンと載せたような管制塔だ。
「うん」
「また、無線聴いているの?」
「うん」
「例のヒトたち?」
「待って!
その人たちの通信!
フェンリル隊からホワイトベースへの通信」
「何だか、ウソっぽいよ」
「郡山市内に数万の死人が滞留。
上空から見る限り、福島市内は多くない、って。
飛行機、持ってるのかな?」
「ドローンかもしれないじゃん」
「でも、マイクがプロペラかローターの音を拾っている」
昌子が昭人にヘッドセットを渡す。
昭人が音を聞く。
「雑音じゃないの?」
この件に関する昭人の冷たさに、昌子はいつもガッカリしている。
だから、昭人を無視する。昭人は昌子に拒絶されたことを察し、管制塔から去った。
昭人が去ったことを確認して、昌子は交信を始める。応答がないことは確信している。それでも、聞いてほしかった。
[ホワイトベース、聞こえますか?
私は北海道の北端にいます。
ゾンビと略奪者から逃げ回っています。安全な場所を探しています。
私を助けてください]
昌子は正確な場所を伝えず、「私たち」とは言わなかった。彼女も用心している。
ふくしまスカイパーク(福島市農道離着陸場)は、高原の拠点の1つ。福島空港に死人が入り込んでしまって以降、ここが主用飛行場になっていた。
高原のメンバーが常駐していて、高原では情報秘匿のためにできないことを行っている。
また、ブッシュマスター装輪装甲車を改造して、装甲通信車にしていた。82式指揮通信車は機材を入れ替えており、こちらも装甲通信車として使っている。
スカイパークには、82式指揮通信車、87式偵察警戒車、ピックアップトラック3台が派遣されている。
情報収集目的で、応答することも認められている。真藤瑛太は、応答してみた。
意外なことに応答があった。
[我々はキマイラ隊だ。
北海道は、我々の行動圏外だ。
助けたくても、無理だ]
[あなたたち、ホワイトベース……?]
[そうとも呼ばれている]
[何をしたら、助けてくれる?]
[北海道は行動圏外だ。
どうにもならない]
[私たちが、あなたたちの近くまで行く]
[それだけの行動力があるなら、我々の協力は不要だ]
[ここには、食べ物がないの!
いつまでも、耐えることはできないの!]
[食べ物は、どこにでもある。
探すんだ。
交信はこれまでだ]
[待って、また交信できる?]
[私が担当なら]
[あなたの名前は?]
[ジョニーだ]
[わかった。
ジョニー・ライデン少佐ね]
真藤瑛太は、北海道の生存者と交信したことを夷隅謙也に報告する。
「北海道?
どう考えても無理だな」
「そうなんですが、彼女、相手は女性で、彼女はここまで来るって言っていました」
「ここを北海道内と勘違いしているんじゃないのか?」
「たぶん……」
「いまや、50キロ移動するんだって、生命がけだ」
謙也の言葉は、その通りだ。横須賀から羽鳥湖までやって来た瑛太たちが、ある種、英雄視される理由がこれだ。
瑛太は北海道グループが気になっていた。助けを求める声の多くは弱々しいが、北海道の女性の声は力強く、自信に満ちていた。
何となく、瑛太たちに似ていると感じる。機会があれば、また交信しようと思っていた。
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