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第一章 偽りの皇帝
第十三話
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煌龍帝国では、皇帝と皇后には姓名の他に字がある。
生前の事績への評価に基づく名のことである諡号と近いものだが、字とは簡単に言えば名前の代わりだ。諡号が死後におくられる名なのに対して、字は生前に与えられる。
赤龍だった焔帝の子孫である皇帝や、その妻である皇后の名を民が直接口にすることは不敬にあたる為に、皇帝の即位と皇后の立后の際に与えられる名前である。
例えるなら、初代皇帝である『焔帝』は諡号だ。人を傷つけかねない燃え立つ炎のような激情と力を、人を守る為に使った人物という意味らしく、焔帝の字は神皇だと伝えられている。
治水事業で功績を残し、皇帝に推挙された人物の諡号にしては、なぜ『焔帝』という諡号で水の文字が入っていないのか、煌威には甚だ疑問だった。焔というには伝え聞く事柄から想像すると、なにやら苛烈過ぎる気もするのだ。
まあ、当時の真を知っている人間が付けた諡号なのだから、あながち間違ってはいないのだろうとも思うが。
字ですら神皇と、神々の皇帝を表すものだ。焔帝の強大な力と当時の信仰にも似た求心力は計り知れないということは十分に分かる。
ただ、焔帝の本名は口伝でも書記でも、皇族にさえ伝えられていない為、知られていない。
字は、親が希望を託した名とは違い、その体を表すとも言われている。
煌威の父である現皇帝は貢禹、母である皇后は花姑という字を与えられていた。
皇帝の貢禹という字を付けたのは、煌威から見て祖父の時代に宰相の位に付いていた偉人で、皇后の字は貢禹帝がつけたものだ。皇后の字は野山に花をもたらす神の名からとった名前らしく、本名とは全く違う響きの名前だった。
煌威の母が皇后になって、三十年にはなる。既にあらゆる書記にもその本名は載っていない。唯一、歴代皇后の本名が載る煌龍帝国家系図は、皇宮の書庫で管理され、絶対に外に持ち出されることなど有り得ない状態だった。
なのになぜ、李冰がその名を知っているのか。
「……あ」
予期せぬ事態に感情が高ぶり、言葉もない――。
そんな表情と仕種で、皇后が立ち尽くしている。
うっすらと上気した頬は紅く色づき、少女のような顔だ。はっきり言ってしまえば、皇后の顔ではなく、母親の顔ですらない。女の顔だ。
紅焔は言わずもがなだが、息子である自分ですら初めて見る皇后の表情に、煌威は絶句する。
だが、対して李冰の表情は酷く冷たいものだった。
「…………そうか、そういうことか」
ポツリ、と李冰が呟いた言葉は何かに納得を示すもので、皇后はそこで初めて眉を寄せた。
何故?と。何かが違う、と。おかしい、と。
皇后の表情は、疑問で埋め尽くされている。
事情を知らない煌威から見ても、李冰と皇后に感情の相違があるのは明らかで、皇后が差異を感じても無理からぬことだった。
不安げな皇后の表情に、李冰が嘲笑を向ける。
「突然姿を消した妻を、ずっと探し続けていた自分が馬鹿らしい」
自嘲しながらも、李冰のその瞳の奥に激しい憎悪が燃えるのを見て、皇后は息を呑んだ。顔面を蒼白にして、愕然と李冰を見る皇后の唇は震えている。
「いなくなった妻の忘れ形見だと、大切に育てていた娘を条約に差し出しに来て喪い、その上まさかこんな真実を知ることになろうとはな」
「……っ」
皇后は震える唇を動かしながら、力なく首を振った。はくはくと動く唇は、何かを必死に否定している。
見ている煌威と紅焔のほうが哀れに思えるほど、皇后は悲愴感に溢れていた。思わず手を差し伸べたくなる風情だ。
にも関わらず、李冰は冷めた顔で淡々と続けた。
「邪魔になったのだろう?」
「っ、っ……」
それは意味の分からない言葉だった。
しかし、皇后が必死に首を振っているところを見ると、否定したいらしい言葉だということは分かる。
「いや、最初から腰掛けのつもりだったなら、邪魔も何もないか。すっかり騙された」
「……っ」
「あれが全部演技だったとは、恐れ入ったよ」
「っ!……っ、……」
「愛してると言われ舞い上がっていたわたしは、さぞかし滑稽だっただろう」
「っちが……っ、」
李冰と皇后の応酬は、最初は痴話喧嘩に近いものだった。それだけでも一国の皇后にとっては醜聞であり、失脚に値することであることに違いはないが、段々と怪しくなる雲行きは痴話喧嘩で収まらないものだと告げている。
「あの泣き顔には騙された」
「っち、ちがっ……」
「今回の条約は、過去を精算するには丁度よかったということか? 」
「ちがう……っちが……」
「皇后になったお前に、皇太子と第一皇女の他にも娘がいた等と判明しては困るものな」
「――!!」
聞き捨てならない言葉が李冰から出てきた瞬間、煌威は嫌な予感どころではない明確な直感を覚えた。
皇后が産んだ子供は、煌威と煌凛以外いない筈だった。皇太子である煌威と、第一皇女である煌凛が、皇帝と皇后との子供。つまり皇后の子供は、煌威と煌凛の二人のみ。それが、この国の世間一般的な認識だった。
だが、その認識が李冰の口から語られる言葉で崩れつつあった。
李冰は、憎しみに燃える眼で皇后から視線を煌威に移す。
「いいことを教えてやろう、煌威殿下」
李冰は歌うように軽やかな声音で、呪詛のような言葉を吐いた。
「今回殺されたわたしの娘は……貴方の、姉だ」
生前の事績への評価に基づく名のことである諡号と近いものだが、字とは簡単に言えば名前の代わりだ。諡号が死後におくられる名なのに対して、字は生前に与えられる。
赤龍だった焔帝の子孫である皇帝や、その妻である皇后の名を民が直接口にすることは不敬にあたる為に、皇帝の即位と皇后の立后の際に与えられる名前である。
例えるなら、初代皇帝である『焔帝』は諡号だ。人を傷つけかねない燃え立つ炎のような激情と力を、人を守る為に使った人物という意味らしく、焔帝の字は神皇だと伝えられている。
治水事業で功績を残し、皇帝に推挙された人物の諡号にしては、なぜ『焔帝』という諡号で水の文字が入っていないのか、煌威には甚だ疑問だった。焔というには伝え聞く事柄から想像すると、なにやら苛烈過ぎる気もするのだ。
まあ、当時の真を知っている人間が付けた諡号なのだから、あながち間違ってはいないのだろうとも思うが。
字ですら神皇と、神々の皇帝を表すものだ。焔帝の強大な力と当時の信仰にも似た求心力は計り知れないということは十分に分かる。
ただ、焔帝の本名は口伝でも書記でも、皇族にさえ伝えられていない為、知られていない。
字は、親が希望を託した名とは違い、その体を表すとも言われている。
煌威の父である現皇帝は貢禹、母である皇后は花姑という字を与えられていた。
皇帝の貢禹という字を付けたのは、煌威から見て祖父の時代に宰相の位に付いていた偉人で、皇后の字は貢禹帝がつけたものだ。皇后の字は野山に花をもたらす神の名からとった名前らしく、本名とは全く違う響きの名前だった。
煌威の母が皇后になって、三十年にはなる。既にあらゆる書記にもその本名は載っていない。唯一、歴代皇后の本名が載る煌龍帝国家系図は、皇宮の書庫で管理され、絶対に外に持ち出されることなど有り得ない状態だった。
なのになぜ、李冰がその名を知っているのか。
「……あ」
予期せぬ事態に感情が高ぶり、言葉もない――。
そんな表情と仕種で、皇后が立ち尽くしている。
うっすらと上気した頬は紅く色づき、少女のような顔だ。はっきり言ってしまえば、皇后の顔ではなく、母親の顔ですらない。女の顔だ。
紅焔は言わずもがなだが、息子である自分ですら初めて見る皇后の表情に、煌威は絶句する。
だが、対して李冰の表情は酷く冷たいものだった。
「…………そうか、そういうことか」
ポツリ、と李冰が呟いた言葉は何かに納得を示すもので、皇后はそこで初めて眉を寄せた。
何故?と。何かが違う、と。おかしい、と。
皇后の表情は、疑問で埋め尽くされている。
事情を知らない煌威から見ても、李冰と皇后に感情の相違があるのは明らかで、皇后が差異を感じても無理からぬことだった。
不安げな皇后の表情に、李冰が嘲笑を向ける。
「突然姿を消した妻を、ずっと探し続けていた自分が馬鹿らしい」
自嘲しながらも、李冰のその瞳の奥に激しい憎悪が燃えるのを見て、皇后は息を呑んだ。顔面を蒼白にして、愕然と李冰を見る皇后の唇は震えている。
「いなくなった妻の忘れ形見だと、大切に育てていた娘を条約に差し出しに来て喪い、その上まさかこんな真実を知ることになろうとはな」
「……っ」
皇后は震える唇を動かしながら、力なく首を振った。はくはくと動く唇は、何かを必死に否定している。
見ている煌威と紅焔のほうが哀れに思えるほど、皇后は悲愴感に溢れていた。思わず手を差し伸べたくなる風情だ。
にも関わらず、李冰は冷めた顔で淡々と続けた。
「邪魔になったのだろう?」
「っ、っ……」
それは意味の分からない言葉だった。
しかし、皇后が必死に首を振っているところを見ると、否定したいらしい言葉だということは分かる。
「いや、最初から腰掛けのつもりだったなら、邪魔も何もないか。すっかり騙された」
「……っ」
「あれが全部演技だったとは、恐れ入ったよ」
「っ!……っ、……」
「愛してると言われ舞い上がっていたわたしは、さぞかし滑稽だっただろう」
「っちが……っ、」
李冰と皇后の応酬は、最初は痴話喧嘩に近いものだった。それだけでも一国の皇后にとっては醜聞であり、失脚に値することであることに違いはないが、段々と怪しくなる雲行きは痴話喧嘩で収まらないものだと告げている。
「あの泣き顔には騙された」
「っち、ちがっ……」
「今回の条約は、過去を精算するには丁度よかったということか? 」
「ちがう……っちが……」
「皇后になったお前に、皇太子と第一皇女の他にも娘がいた等と判明しては困るものな」
「――!!」
聞き捨てならない言葉が李冰から出てきた瞬間、煌威は嫌な予感どころではない明確な直感を覚えた。
皇后が産んだ子供は、煌威と煌凛以外いない筈だった。皇太子である煌威と、第一皇女である煌凛が、皇帝と皇后との子供。つまり皇后の子供は、煌威と煌凛の二人のみ。それが、この国の世間一般的な認識だった。
だが、その認識が李冰の口から語られる言葉で崩れつつあった。
李冰は、憎しみに燃える眼で皇后から視線を煌威に移す。
「いいことを教えてやろう、煌威殿下」
李冰は歌うように軽やかな声音で、呪詛のような言葉を吐いた。
「今回殺されたわたしの娘は……貴方の、姉だ」
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