上 下
39 / 51

38 香取神道流 逆抜之太刀

しおりを挟む

 新八とおつるは予定どおり、強瀬に二泊すると、朝の七つ発ちで、八王子子安宿に向けて出発した。
 八王子までは、約八里の道のりである。当時、急ぎの旅人は、一日十里を歩いた。山道であることを考慮しても、一日。女連れを想定しても、一日半といった行程だ。
 おつるは、程久保村の山道に慣れており、新八とかわらぬ速さで歩くので、夕方には到着するであろう。
 ふたりの出立を見届けると、捨五郎も旅籠をあとにする。老人の扮装なので歩みは遅い。

 捨五郎は、しばらく新八たちの後を尾けていたが、杉林の続く脇道に逸れた。
 その脇道は、十町ほど先で甲州道中と再び交わっている。捨五郎は、あたりを見回し、ひとがいないことを確認すると、素早く扮装を変えて、合流地点に向かってひた走る。
 すっかり商人の姿になった捨五郎は、甲州道中に戻ると、ちらりと後ろを振り向き、はるか後ろに、新八たちふたりの姿をたしかめると、あとは一度も振り向くことなく、飛ぶような速さで、八王子に向かった。
 行き先はわかっているので、先回りして、あとからくる新八たちを、待ちうけるつもりだった。

 新八は出立以来、いや、昨日から不機嫌におし黙り、おつるとは、ほとんど口をきいていない。
 ふたり連れだっての道中だけに、気詰まりな雰囲気に、おつるはいたたまれず、おろおろしている。
 いまも昼食をどこで摂るのか尋ねたが、ああ、とか、うんとか、生返事がかえってくるばかりで、新八は、ぼんやりとした顔をしていた。

「あ、あの……永倉さま。一昨日の、わたくしの妄《みだ》りがましい行いを、怒ってらっしゃるのですか?」
「――ん、ああ?」
 話をきいていないのか、新八は上の空である。
「永倉さま!」
 思わず大声をだすと、新八は、ようやくおつるに目を向けた。
 新八は、胸を衝かれた。おつるは、目を真っ赤に泣きはらし、涙が頬を伝わっている。
「いや、すまねえ……そんなつもりじゃないんだ」
「では、どうして何をきいても、上の空なのですか」

 新八は、言葉に詰まった。
 御子神との試合が、不可解な引き分けに終わったことに、新八は、こだわっていた。
 しかし、それを上手く説明することができない。新八は、しどろもどろに語りだす。

「一昨日の夕方、全福寺で試合をした……腕前は、五分と五分。激しくうちあって、にらみ合いになった。だが俺は、落ちついていたし、相手の動きの起こりが、はっきりと読めた……」

 さらに、試合を運ぶうちに、御子神の間合いは、寸分の狂いもなく捉えていた。
 そして、御子神が仕掛けた。
 御子神がうちこむ刹那、新八は、間合いを外し、上段から、必殺の一撃をうちおろした。
――が、しかし、新八の竹刀が、御子神をうつと同時に、御子神の竹刀もまた、新八を捉えていたのだ。
「俺の実力が下で、負けたのなら納得できる……
だけど、あのときの経緯いきさつは、どうにも得心がいかねえんだ」
「おっしゃることは、よくわかりませんが、わたくしに怒っていたのでは、ないのですね?」
「おつるさん。あんたに怒っているなんて、とんでもねえ誤解だ。俺が考えているのは、剣術のことだけさ」

 新八のこたえに、おつるは、両手で顔をおさえると、小刻みに震えだした。
「お、おい、たのむよ。こんなところで泣くやつがあるか!」
 新八の狼狽は、頂点に達した。
 おつるの震えが激しくなり、小刻みに肩を揺らす。
「おい、勘弁してくれ、まったくあんたは……」
 新八が、肩を抱くようになだめると、おつるは耐えきれず、ついに、くすくすと笑いだした。
「えっ、なんだ? 笑っているのか? おい、いったいどういう……」
「もうよいのです。わたくしの勘違いでした。永倉さま……どうかお赦しください」

 わけもわからず、新八が呆気にとられていると、
「お騒がせいたしました。もう大丈夫です。さあ、八王子までは、あとひと息。永倉さま。急ぎましょう」
「おい、なんだよ、ちゃんと説明してくれなきゃ、わかんないぜ」
 新八の言葉を、きいているのか、いないのか、おつるは、さっさと歩きだす。
「ちぇ、これだから女はめんどくせぇ……」
 ぶつぶつ言いながら、新八は、あわてておつるの後を追った。

 甲州道中を西から来ると、八王子千人町で、陣場道(案下道)と合流している。その追分をすぎると、そこは八木宿である。
 追分の近くにある茶店では、堅気の商人の姿をした捨五郎が、のんびりとお茶を飲んでいた。
 千人町は、千人同心の組屋敷が並ぶ、城下町ではない宿場には珍しい、武家屋敷の町並みが続く。
 八木宿の外れの茶店からは、千人町が見渡せる。夕方なので、甲州方面に向かう者は、農夫など近隣の者ばかりで、旅人は少ない。
 それとは反対に捨五郎の前を、横山宿方面に向かう旅人が通りすぎてゆく。

 茶店に腰を落ちつけて半刻あまり。ようやく待ちびとがあらわれ、捨五郎は、残ったお茶を飲みほした。
「はて……?」
 捨五郎は、ふたりの様子に、違和感を覚えた。
 朝方、大月で見かけたときは、なにやらぎくしゃくして見えたふたりが、まるで本物の夫婦のような雰囲気なのだ。
 といっても、仲睦まじく語りあっているわけでもなく、悠々と歩む新八の後ろを、おつるが黙々と歩いているだけである。
 首をかしげながら、捨五郎は、再びふたりに先行して、目的地の子安村に向かって歩きだした。

 子安宿は、八王子の中心部である横山宿の南側にあった。八王子十五宿のひとつに数えられてはいるが、すぐに甲州道中から外れるため、場末の雰囲気が漂っている。
 甲州道中をはずれると、町屋は野猿峠に向かう小野路道沿いにあるだけで、家並みの裏には、広々とした田畑が広がっている。
 地名が、子安村にかわった先の、山田川のほとりにある荒物屋で道を尋ねると、捨五郎は、百姓代の村松家に向かう。
 村松家は、わりと大きな茅葺きの家だったが、くたびれたように軒が傾き、破れた障子を不器用に修復しているところをみると、あまり裕福ではなさそうだ。

 捨五郎は、道をはさんだ反対側にある、うち棄てられた物置小屋に、素早く忍びこみ、新八とおつるの到着を待った。
 ほどなくして、ふたりがあらわれ、なにやら話していたが、新八が踵を返すと、おつるは、深々と頭を下げた。

(なんだ……あっさりしたもんだな。できていると思ったのは、俺の勘違いか……)

 おつるが家のなかに入ったことをたしかめると、捨五郎の役目は終わった。あとの始末は、祐天の子分がつけるだろう。
 捨五郎は、物置小屋を出て、来た道を引き返し、甲府に向かって歩きだした。
 陽は傾き、西の空が赤く染まっていた。じきに木戸が閉まる。今夜は八王子か小仏宿に泊まるしかなさそうだった。

 新八は、村松家をあとにして、八木宿の名主宅に立ち寄り、経緯を説明すると、千人町の増田蔵六の道場へ足を向ける。上野宿の刻の鐘が、七つを知らせ鳴り響いていた。
 蔵六の道場は、門人が畑仕事を終えてからはじまる。新八が玄関に入ると、日暮れ刻にも関わらず、竹刀をうちあう音や気合い声が、にぎやかに響いていた。
「おおっ、新八。早かったな。もう甲府から戻ったのか」
 蔵六が、にこやかに新八を出迎えた。
「師範。またお世話になります」
 冴えない新八の顔色に、蔵六が怪訝な表情を浮かべる。
「ふん……なにやら悩んでいるようじゃな。まあよい。足をすすいだら、奥の六畳に来なさい」
 ぶっきらぼうに、そう言い残すと、蔵六は踵を返し、奥の客間に向かった。

「座れ」
 新八が客間に入ると、いきなり蔵六が言った。
 蔵六の前に座ると。大きな素焼きの猪口を突きだし徳利から、なみなみと酒を注ぐ。
「呑め」
 言われるままに、新八は、一気に酒をのみほした。
「おまえ、負けたな」
「――!! なぜそれを……」
「ばかめ。おまえのその面を見れば一目瞭然じゃ……話してみろ」
「はっ」

 頭を下げると、新八は試合の経過を、こと細かく説明した。話が最後の段にさしかかると、
「ふうむ……」
 猪口を手に、蔵六が考えこむ素振りを見せ、しばらく天井を見あげていたが、一気に酒をあおり口をひらいた。
「新八……おまえは、なぜ相打ちになったと考えておる?」
「正直、わかりません。俺は、試合の途中で、たしかにやつの間合いを、見切ったはずです……最後の攻撃の起こりも、はっきりと読んでいました。
でも、届くはずのない、やつの竹刀は、したたかに俺の胴を捉えていたんです」

 新八が珍しく消えいるような声でそう話すと、蔵六は、いきなり笑いだした。
「はははっ、おい新八。試合は、竹刀でやったのであろう。ならば、くよくよする必要はない」
「どういう意味でしょうか」
「その御子神とかいうやつ。勝ちをあせったのじゃ。いや……違うな。己が負けるのが、耐えられなかったのじゃ」
「竹刀でも棒っきれでも、気組を持って戦えば、それは真剣と同じ……それを教えてくれたのは、師範じゃないですか」

 蔵六の言葉に、新八が反発した。
「勘違いするな。そうではない。おそらくやつは、同じ相手には、二度と使えぬ技を使ったのじゃ……
新陰流の九箇之太刀。あるいは、香取神道流の逆抜之太刀と同じような技をな」
「……?」
「新八。我が流祖、近藤内蔵助は、いかなる流派を修行して、天然理心流を創ったか、知っておろう」
「天真正伝香取神道流です」
「そうじゃ。その香取神道流には、逆抜之太刀という技がある」

 蔵六は、そう言って立ちあがると、刀をとり腰に差す。新八は、怪訝な表情でそれを見つめた。
「刀を差して、おまえも立つのじゃ」
言われたとおり、新八が刀を腰に差して、蔵六の前に立った。蔵六は、うなずくと、わずかに腰を落とし、
「よく見ておれ」
 と、言った。
 蔵六は、だらりと両手を拡げ、刀を抜く右手をぶらぶらさせるが、柄に手をかける素振りは、まったく見せない。
 新八が戸惑いを見せていると……。

 蔵六は、右手を柄に伸ばすことなく、一瞬で刀を抜き、気付いたときには、新八の脇に、ぴたりと刀がつけられていた。
「えっ、――いったいどうやって!?」
「これが、香取神道流・逆抜之太刀。常識で考えると、刀は右手で抜くものじゃ……
ところが逆抜之太刀は、左手で柄をとり、鍔を回しながら、そのまま左手で抜く」

 馬上でもないかぎり、刀は刃を上に、つまり、反りを上に向けて差している。
 この差し方だと刀を抜き、抜いた刀の軌道は、いったん上に向かい、そこから斬り下ろさねば、相手を斬ることはできない。

 逆抜之太刀は、右手を使わず、左手で抜きながら鍔を回し、あとから右手を添えることで、斬り下ろす工程を省き、上に向ける動作だけで、相手を斬ることができた。
「そやつが使った技がこれ、というわけではない。じゃが、こうした奇手を使えるのは、一度だけ。真剣勝負なら、一度でじゅうぶんだからの」
「……?」
「わしは、その試合を見てはおらぬ。だからそやつが、どのような技を使ったのか……などは、わかるはずもない。
じゃが、おまえと同格の相手が、おまえには、見えない技を使った……
手が伸びるか、あるいは妖術使いでもないかぎり、常識の裏をかいた技を使った。と、考えるしかなかろう」
「しかし俺は、その技が、どのようなものなのか、看てとることができませんでした」
「じゃが、相手にそういう技があることはわかった。これが真剣勝負ならば、看てとれなかったおまえの負けじゃ。
しかし、竹刀の勝負には次がある。看てとれなかったとしても、そういう技がある……と、あらかじめ知っておれば、それを想定して、戦えばよいだけの話じゃ」
「なるほど……」
「つまり、やつは、手の内を見せてしまったのじゃ。よほどあせっていたに、ちがいない」

 蔵六のおかげで、少し気が楽にはなったが、はたして御子神と真剣でわたりあったとき、その技をかわせるのか、一抹の不安は拭えなかった。
「心配するな。おまえは、わしが鍛えてやる」
 新八の不安を見抜いたように、蔵六が言った。
「わしには、おそらくだ、という答えがあるが、決めつけるのは危ない。じゃから一言だけ言っておく。そやつの技は、間合いに関係しておる。新八……間合いを考えろ」 
 新八は黙って頭を下げた。
 

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲

俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。 今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。 「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」 その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。 当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!? 姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。 共に 第8回歴史時代小説参加しました!

転娘忍法帖

あきらつかさ
歴史・時代
時は江戸、四代将軍家綱の頃。 小国に仕える忍の息子・巽丸(たつみまる)はある時、侵入した曲者を追った先で、老忍者に謎の秘術を受ける。 どうにか生還したものの、目覚めた時には女の体になっていた。 国に渦巻く陰謀と、師となった忍に預けられた書を狙う者との戦いに翻弄される、ひとりの若忍者の運命は――――

戦国の華と徒花

三田村優希(または南雲天音)
歴史・時代
武田信玄の命令によって、織田信長の妹であるお市の侍女として潜入した忍びの於小夜(おさよ)。 付き従う内にお市に心酔し、武田家を裏切る形となってしまう。 そんな彼女は人並みに恋をし、同じ武田の忍びである小十郎と夫婦になる。 二人を裏切り者と見做し、刺客が送られてくる。小十郎も柴田勝家の足軽頭となっており、刺客に怯えつつも何とか女児を出産し於奈津(おなつ)と命名する。 しかし頭領であり於小夜の叔父でもある新井庄助の命令で、於奈津は母親から引き離され忍びとしての英才教育を受けるために真田家へと送られてしまう。 悲嘆に暮れる於小夜だが、お市と共に悲運へと呑まれていく。 ※拙作「異郷の残菊」と繋がりがありますが、単独で読んでも問題がございません 【他サイト掲載:NOVEL DAYS】

不屈の葵

ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む! これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。 幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。 本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。 家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。 今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。 家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。 笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。 戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。 愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目! 歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』 ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!

思い出乞ひわずらい

水城真以
歴史・時代
――これは、天下人の名を継ぐはずだった者の物語―― ある日、信長の嫡男、奇妙丸と知り合った勝蔵。奇妙丸の努力家な一面に惹かれる。 一方奇妙丸も、媚びへつらわない勝蔵に特別な感情を覚える。 同じく奇妙丸のもとを出入りする勝九朗や於泉と交流し、友情をはぐくんでいくが、ある日を境にその絆が破綻してしまって――。 織田信長の嫡男・信忠と仲間たちの幼少期のお話です。以前公開していた作品が長くなってしまったので、章ごとに区切って加筆修正しながら更新していきたいと思います。

半妖の陰陽師~鬼哭の声を聞け

斑鳩陽菜
歴史・時代
 貴族たちがこの世の春を謳歌する平安時代の王都。  妖の血を半分引く青年陰陽師・安倍晴明は、半妖であることに悩みつつ、陰陽師としての務めに励む。  そんな中、内裏では謎の幽鬼(幽霊)騒動が勃発。  その一方では、人が謎の妖に喰われ骨にされて見つかるという怪異が起きる。そしてその側には、青い彼岸花が。  晴明は解決に乗り出すのだが……。

明治不忍蓮華往生

No.37304
歴史・時代
明治十一年。 不忍池のほとりに閃く白刃がふたつ。 何故に、彼らは刃を向け合うのか──?

処理中です...