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34 同行二人

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 新八は、明け六つに宿を出ると、八王子横山宿に向かった。
 予定では、甲府を発ち、笹子峠に備え駒飼で一泊。二日目は、猿橋まで足を伸ばさず、ふたつ手前の宿場、大月に近い強瀬で、秀全和尚の道場に立ち寄りそこで二泊。翌日早めに出発して、陽が暮れる前に八王子に到着。――というのが旅程である。

 急ぐ旅ではなし、新八の足取りは、のんびりしている。
 甲州道中は、さすがに甲府と江戸を結ぶ往還だけあって、朝っぱらから多くの人びとが、ゆきかっていた。
 柳町をでて、曲尺手をすぎると一里塚があり、道標が見えてきた。
 武田信玄が創建した、甲斐善光寺を示す道標である。
 善光寺の参道の角には茶店があり、多くの旅人で、朝からにぎわいを見せている。

 その茶店の前を、新八がとおりかかると、縁台に腰掛けていた女が立ちあがり、新八に駆けよった。
「お待ちください! あの、永倉さま……お願いがございます」
「あんたは、新家の……」
 女は、すがるような目付きで、新八に話しかける。新家粂太郎の妻おつるだった。どうやら新八を、待ち構えていたようだ。
 菅笠を手に、風呂敷包をたすき掛けに背負い、着物の裾を紐で縛ったその姿は、どう見ても旅支度である。
「わたくし、昨晩、粂太郎に三下り半を、突きつけてきました。永倉さまは、これから八王子横山まで参るとのこと……
よろしかったら、わたくしの道連れに、なっていただけませんでしょうか。お願いいたします」

 おつるが、必死にうったえる。
「おい、ちょっと待ってくれ。いきなり道連れなどと言われても、俺には、俺の都合ってものがだな……」
 あまりに唐突な、おつるのたのみに、新八は戸惑いを隠せない。
「このとおり、お願いいたします。わたくしには、ほかにたよれる者が、誰ひとりいないのです」

 いまにも泣きそうな声で、おつるが形相も必死に頭を下げた。
 街道をゆく人びとが、なにごとかと、新八に非難がましい視線を送りながら通りすぎる。
「おい、勘弁してくれ。わかった……わかったから、頭を上げてくれ。まるで俺が、あんたを、いじめているみたいじゃないか」
「ありがとうございます」
 泣きそうだったのが、まるで嘘のように、おつるの顔が明るくなった。

(くそっ、俺としたことが甘すぎだぜ。なんでこんなことに……)

 昨夜おつるがなぜ、新八の行き先と、出発の時刻を気にかけていたのか、いまさらながらに思いあたり、新八は臍《ほぞ》を噛んだが、後の祭りである。
 しかし一方で、あのような怪しげなが集まっている場所に、おつるが住んでいることに対して、一抹の不安を感じないでもない。
 新八は、これも人助けと、無理やり自分を納得させた。
 ひとつ救いなのは、再び強瀬に滞在する予定だったので、女の足でも、さほど無理のない旅程を組めることだろうか。

 新八とおつるが連れだって歩きはじめると、隣の茶店で一服していた商人ふうの男が、ゆっくりと立ち上がった。
「ここに置いときますよ」
「へい。ありがとうございます」
 小銭を置き、茶店の主人に笑顔で会釈すると、男は、ふたりを尾けはじめた。
 この男、新八が廃屋で見た四人のうちのひとりで、東金とうがねの捨五郎という、御子神の手下だった。
 あのときの、堅気とは思えない剣呑な雰囲気はまるでなく、どう見ても真面目な商人である。
 新八が近くで、まじまじと見たとしても、それとわかることは、決してないであろう。

 新八とおつるは、連れだって甲州道中を東にゆく。そのはるか後ろを、捨五郎が続く。
「なあ、おつるさん……あんた、三下り半って言うけど、新家は、あっさり納得したのかい?」
「離縁の話は、以前からすすめておりました……昨晩わたくしが切り出すと、勝手にしろと、それは冷たい態度でございました。
あの男には、人並みの感情きもちなど、欠片もありません」
「まあ、それはもういい。ところで、あんた八王子まで行って、それから先は、どうするつもりなんだ?」
 新八は、こういう男と女の間の話は、苦手なので、話題を逸らした。
「八王子の外れの子安という村の百姓代の家に、弟が養子に入っております。しばらくは、弟の家に身を寄せて、今後の身の振り方を考えます」
「ふうん。まあ、たよる身内がいるならよかった。俺は、いま武者修行中なんだ。だから、あんたに、あんまり関わりあってやれないぜ」

「無事に送り届けていただければ、それでかまいません。きちんと、お礼もさせていただきます」
「いや、俺が引き受けたことだ。礼などいらん」
「でも……」
「おつるさん……こう見えても俺は江戸っ子だ。銭金や損得で、道連れになるわけじゃあない。俺は、俺がそうしたいから、そうするだけだ」
「ありがとうございます」
「いや、だから、その頭を下げるのは、やめてくれねえか。ほら、ひとが見てるじゃないか」

 新八は困りはてるが、まだ訊いておかねばならないことがあった。
「ところで、おつるさん。野口にきいたんだが、新家の野郎は、よく道場を空けて、なにやら、あちこちに出かけてるそうだが、やつは、何をしているんだ?」
「新家は、水戸の攘夷派の者たちといろいろ活動しているようでございますが、女が知るようなことではないと、わたくしには、何も話してくれません……」
「なるほど……たしかに水戸の連中は、攘夷だ、攘夷だ、と大騒ぎらしいからな」
 おつるの様子からは、新家の裏の顔に気付いている気配はなかった。

(どうやら水戸の攘夷を、上手く隠れ蓑にしていやがるな……いや、待てよ。盗賊行為自体が、攘夷運動とからんでいることも考えられる……)

 新八が危惧していたのは、盗賊たちが、おつるを口封じのため、始末しようとすることだったが、いまの話をきくかぎり、おつるが新家たちの正体を、知っているとは思えない。
 とりあえず、安堵に胸を撫で下ろした新八だったが、東金の捨五郎が尾行していることに、まったく気付いてはいない。
 もっとも、捨五郎の変装は、素人が見抜けるような稚拙なものではなかった。
 新八も尾行を警戒して、何度となく後ろを見てはいたが、捨五郎は羽織を裏返し、菅笠を背中に回して頭に手拭いをかぶり、尾行をはじめたときとは、まるで別のいでたちの上に、背中を丸め、背丈や歩みぶりすら違って見えた。

 ふたりは、まだ早い時間に、駒飼宿に着いた。日野本郷・程久保村の山のなかで育ったおつるの脚は、山道に慣れていない新八と、さほどかわらない健脚ぶりだったからだ。
 駒飼宿は、標高千九百十六メートル、甲州道中最大の難所、笹子峠を控え、宿泊する旅人が多い。
 本陣一、脇本陣一。人口二百七十人あまり、旅籠が六軒の小さな宿場だが、甲州道中きっての難所、笹子峠を控え、そこそこにぎわっていた。

 駒飼の名は、往古この地で馬を休ませ、飼葉をあたえたことに、由来すると言われている。
 甲州道中は、小さな宿場が多い上に、その間隔が狭く、たいていの宿場が合宿あいやどといって、ふたつの宿場が、交代で継立の業務を行っており、駒飼の合宿は、鶴瀬宿であった。
 ふたりは『美濃屋』という、小綺麗な旅籠に泊まることにする。
 新八は宿帳に、
『江戸下谷三味線堀・永倉新八、妻つる』
 と、記名した。
 男女ふたり連れの客が、別々の部屋に泊まるのは不自然だし、仮に、新家の一味に狙われたとしたら、ふたりいっしょのほうが、何かと動きやすいからだ。

「おつるさん。最初に断っておくが、いっしょの部屋にしたのは、万が一の用心のためだ。ふたりの間には、そこの屏風を立てるから、安心して休んでくれ」
 新八が、部屋の隅に飾られた屏風を指す。
「いろいろ心遣いありがとうございます。わたくし、このご恩は、生涯忘れません」
 おつるが潤んだ目で、新八を見つめ頭を下げる。
「よせやい、ご恩なんてほどのもんじゃあない。困ったときには、相見互いだ」
「それにしても、あんたのようなひとが、なぜ新家の嫁になんかなったんだ?」
「はい。それは……わたくしの父は、程久保村に住む千人同心でございました。ご存知かと思いますが、千人同心は、普段は百姓を、なりわいとしております。
六年前のことでございます。うちの畑が猪に荒らされ、ひどい被害を受けました……」

 おつるの父、榛名正平は妻を亡くしたあと、長男の正太とともに、麦を育てていた。しかし、その年は、猪の被害で作物が収穫できず、金貸しから借金を背負うことになった。
 しかも、間が悪いことに、翌年は、千人同心の重要な任務である「日光火の番」の勤番が、正平の所属する組に回ってきた。

 日光火の番は、要するに日光東照宮の警備の役目である。
 千人同心の組が半年交代で行う任務で、このときばかりは、両刀をたばさみ百姓から武士にかわる晴れ舞台だが、それが回ってくることは、めったにない。
 正平は、つくづく運がなかったといえるだろう。
 というのも、重要な任務だけに、幕府から役料はつくが、それは、かかる費用のすべてをまかなえるほどではなく、多くの費用は、同心の持ち出しになってしまうのだ。しかも、そのあいだは、畑の手入れは他人まかせにせねばならない。
 正平は、かなりの借金を背負ったまま、日光へと旅立った。
 残された、正太、おつる、正吉の三人兄弟のうち、末っ子の正吉は、ひと減らしのため、子安村に、養子にだされた。
 長男の正太は、日銭を稼ぐため、八王子横山宿におもむき、稼ぎのよい人足仕事を探すことにした。

 父が日光に行って、二ヶ月目のことである。
 正太は、一日一分の高給にひかれ、台風で決壊した、玉川上水の土手普請の工事に雇われた。
 玉川上水は、江戸の民にとっては、なくてはならない重要な水源なので、一日も早い復旧がのぞまれ、いきおい、その負担は、普請に従事する人足にのしかかる。
 重労働の作業は、よほどの荒天以外は続けられ、それが悲劇につながった。

 連日の雨で地盤が揺るんでいたところに、無理な作業を続けたので、土手の一部が崩壊したのだ。
 運悪く現場に居合わせた正太は、土砂に巻きこまれ、あっけなく命を落とした。
 半年の勤番から戻った正平は、心労のあまり病の床につき、あとを追うように、亡くなってしまった。
 残ったのは、莫大な借金だけである。

 おつるは、やむなく千人同心株を売却し、とりあえず借金だけは、なくなったが、蓄えなどあろうはずもなく、親戚のつてをたより、甲府の高級料理屋の女中の職についた。
 仕事の給金は、年に五両と、たいしたことはなかったが、客の心付けが期待できるからだ。
 おつるは、いつか千人同心株を買い戻して、榛名家を再興しようと夢を抱いたが、三年間休みなく働いても、給金を含めて貯まった金は、二十五両にすぎなかった。

 そんなとき、客として店にあらわれたのが、新家粂太郎である。
 新家は、神道無念流免許皆伝。水戸の名家の出身で、学問もあり、その上、気品漂うたいへんな美男でもあった。
 おつるは、歯の浮くような台詞で口説く新家に、たちまち熱を上げ、身体を許す関係になり、ぜひとも妻に……。
 という言葉に、榛名家の再興などは、すっかり忘れて、あっさりと飛びついた。

「思えばそれが間違いでございました……粂太郎は、妻がほしかったのではなく、という事実がほしかったのです」

 現代では中年男性どころか、中年女性が独身主義者でも、誰も気にしないが、当時は一定の年齢の男性が妻帯していないのは、ある意味、社会的信用に関わることであった。
 新家は、名家出身の穏やかな性格の道場主、という表の顔を完璧にするため、妻帯するのが最善と判断したのだ。
「それにしたって、そいつは凝りすぎじゃあねえのか?」
 新八の疑問は、もっともだが、三十路で独身の武芸者よりも、妻帯している武芸者のほうが、道場を貸すほうも、安心感があるのは、まちがいないだろう。

「それと……あの、言いにくいのですが、新家には衆道の趣味があり、こっそりと陰間茶屋にも足を運んでおりました」
「けっ、あきれた野郎だ。てめえの陰間趣味を隠すために、おつるさんを、利用しやがったのか」
 新八の怒りに、火が点いた。
「おつるさん。俺は、なにがなんでも、あんたを無事に子安村まで送っていくぜ。もし、新家の一味が襲ってきやがったら、返り討ちにしてやる」
「ありがとうございます。まさか、そのようなことは、起きないとは思いますが、永倉さまのお気持ちに、感謝いたします」

 威勢よく請け合った新八だったが、床につくと、どうしても眠ることができず、悶々とした夜を、すごす羽目になった。
 もちろん、その原因はおつるである。
 ふたりが眠る布団の間には、新八が立てた屏風があり、おつるの寝姿を見ることはできない。
 しかし、おつるが眠る向きをかえるときの、布団が擦れる音。新八同様、寝つけないのか、ときおりきこえる艶かしい吐息。
 そして、なによりも成熟した人妻の甘やかな匂いが、新八を惑乱していた。

 江戸にいたころ新八は、宇八郎に誘われて、根岸や深川の岡場所で、よく遊んでいたので、女に対してなわけではない。
 しかし、当時の遊び人というのは、地女(素人女性のこと)と遊ぶことを、蔑むのが当たり前で、数々の女性と寝た新八も、素人の、ましてや、人妻の真横で寝るなど、考えたこともなかったし、未曾有の経験といってよかった。
 その上、健康な男子が、二十歳前の盛りのついた時期に、武者修行に出て、二ヶ月以上禁欲生活をおくっているのだ。

(くそっ、頭がどうにかなりそうだぜ……)

 布団のなかで悶々と、一刻あまりがすぎたとき……。
「あの……永倉さま。そちらに行ってもよろしいでしょうか?」
「えっ、いや。それは……」
 返答を待たず、おつるが膝立ちになり、新八の枕元にいざりよる。
「ちょっ、おつるさん。早まった真似をするんじゃねえ」
 寝間着姿のおつるの身体が、仄かな行灯の明かりに、うっすらと浮かびあがり、柔らかい身体が新八に押しつけられた。
 おつるの身体から、麝香のような甘い香りが立ちあがり、新八の鼻腔をくすぐる。
 新八の身体に、突き抜けるような欲情が疾った。
「うおーーっ!」
 ひと声叫ぶと、新八は、枕元の刀掛けから太刀を掴み、障子を開いて、窓から飛びだした。
「えっ、ここは二階……」
 おつるが、呆然とつぶやいた。

 新八は、刀を掴んだまま宙を舞い、くるりと一回転して、着地の勢いを殺し、見事に中庭に降りたった。
 おつるは、ぽかんと口を開けたまま硬直している。

 おつるが呆然と見下ろしていると……。
新八は刀を抜き、蔵六から伝授された中伝の陰韜いんとうの型から、晴眼剣、早足剣、虎逢剣、龍尾剣を、次々と繰り出しはじめた。

「龍尾ハ真ナリ、兵ニ曰ク、常山ノ蛇成其首ヲ撃時ハ尾至、其尾ヲ撃時ハ首至リ、其中ヲ撃時ハ首尾トモニ至ルノ業ナリ……」
 蔵六から口伝された天然理心流極意の歌である。
 口伝というのは、信用された者にしか伝えない、いわば流儀の最高機密といえる。新八は、よほど蔵六に、気にいられたにちがいない。

 月明かりに、新八の振る剣が、きらきらと反射して、なにかの舞いでも見ているかのようで、虚仮にされたことも忘れ、おつるが見とれている。
 最初は怒りと羞恥。ついで、クスクスと笑っていたおつるだが、あまりに夢中で剣を振るう新八を見ているうちに、どういうわけか、目尻に涙を浮かべていた。
「新八さんのばか……大好き」

 それから一刻あまり、新八は剣を振り続けた。せっかく入浴したのに、寝間着は、汗でびっしょりと濡れていた。
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