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17 強瀬村 秀全和尚
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岩殿山は、大月宿の手前、強瀬という集落にあった。
険しい山ではなく、山頂に駱駝の背中のような、ふたつの瘤がある低い山である。
甲州道中を、小仏峠から与世、上野原、犬目、鳥沢と歩き、新八が強瀬に着いたのは、午後遅い刻限だ。
全福寺の境内は、山あいにあるわりには、開放的で明るいが、ひと気がなかった。
新八は、微かに人の声がきこえてくる社務所に向かう。
社務所からは、老成した声と、子どもたちの唱する声が、風に乗って、のんびりと響いてくる。
おそらく素読でも、しているのであろう。
(懐かしいな。師曰く、か……)
当時の日本人の教育水準、識字率の高さは、世界一であった。
職人や棒手振りなど、ロンドンならスラムに暮らし、文字などは、一生縁がないような職業の者ですら、論語を解し、読み本を楽しんでいたのだ。
当然、新八も、幼いころ四書五径を習わされたが、剣術に夢中で、ほとんど覚えていない。
然れどもその気質の禀
或いは齋しき能わず
是をもって皆その性の有する所を知って
これを全うするある能わざるなり
子どもたちが声を揃え、大学を素読する声が、かすかにきこえてくる。
素読というのは、文字通り論語、大学などを素読、つまり意味合いは考えず、読み上げるだけのものであるが、何度も読み返すうちに、ふしぎと、その意味がわかってくるものだ。
人の気質は、一人ひとり異なっているが、誰もが、もって生まれたその性質を、活かせるわけではない……と、いうような意味合いだろうと考えながら、社務所の陛に腰掛け、春の陽射しを浴びるうちに、新八は、いつの間にか、舟を漕ぎだした。
「――――し…もし、……お武家様」
「――ん、ああ……」
「そのような場所で、お休みになっては、風邪を召されますよ……」
起こされて、眼を開くと、五十年配ぐらいだろうか。穏やかな顔の僧侶が立っていた。住職の秀全である。
「はっ、いかん……つい、うとうとしてしまったらしい」
「は、ははは。――春眠不覚暁 處處啼鳥 夜来風雨聲 花落知多少。ですな。
お武家様。先ほどから、拙僧を待たれていたようですが、なにかご用でも……」
「ああ……いけねえ。俺、いや拙者は、武者修行中の松前浪人、永倉新八と申します。じつは……」
と、茶店の婆さんからきいて、わざわざ、やってきたことを説明する。
「おくま婆さんめ。また、あることないこと吹聴しおって。まあ、うどん四人前は事実だが……」
「いや、拙者がうかがいたいのは、うどんではなく……」
「剣術のことですな……こんなところでは、話もできません。まあ、お入りください」
新八は、社務所のなかに通された。
きちんと文机が並べられており、寺子屋として使われているようだ。
壁には、子どもたちの書が飾られ、誰の手になるものか、強瀬の村を描いたへたくそな絵が掛かっていた。
「永倉殿は、武者修行中の身ということでしたな。となると、訊きたいのは、甲府の剣術道場について……でしょうかな」
「はい。おっしゃるとおりです」
「さよう……甲府には、勤番の直参が二百人ほどおる……」
甲府には、そのほかにも、代官所の役人や浪人、近隣の武田遺臣の郷士、剣術好きの百姓などが大勢いるので、その何倍もの剣術道場の、潜在的な需要があった。
なかでも、いちばん流行っているのが、秀全も通う、北辰一刀流の道場で、門弟は、軽く二百人は超えるというから、かなり大きな規模である。
その他にも、神道無念流、甲源一刀流、直心影流、心形刀流、などの剣術道場に、田宮流、長谷川英心流などの居合。気楽流、天神真楊流などの柔術と、多くの道場がある。とのことだった。
「拙者は、神道無念流、岡田十松門人なのですが、甲府にある当流の道場は、どういった……」
「師範は、新家なにがしとか申したの……たしか、三代目戸賀先熊太郎の門人じゃ」
戸賀先熊太郎は、神道無念流の流祖・福井兵衛門の門人。初代は武州に道場を構えていたが、三代目は、水戸藩に仕えたため、江戸から水戸に移住して弘道館師範役。
安政五年、再び江戸に出て、小石川舟河原橋畔に移転した。慶応元年没。
「なるほど。戸賀先師範の門人なら、腕にまちがいは、なさそうですね」
「ふむ。しかし、腕前はともかく、あそこの道場は、門人がいかんよ。荒くれ者が集まって、どうにもガラが悪い」
「ははあ……話によると甲州は、無頼の徒が多いとききましたが、まことでしたか」
「不本意だが、隠してもしかたない。真実の話じゃ。悪いことは言わん。あそこに行くのは、やめなされ」
やめろと言われても、そこに行くのが目的だ。とも言えず、新八は、話題を逸らすことにした。
「はあ。なるほど、よくわかりました……ところで、なぜご住職は、剣術の修行をなさっておられるのでしょうか?」
「剣禅一如……などと言っても、納得せぬだろうな」
「禅で強くなるなら、坊主は、みな達人だ……とは、俺の師匠の口癖です」
ふたりが揃って笑う。
秀全は、ふと、真面目な顔になり、
「拙僧が剣術をする理由……それは、未練にほかならない」
と、新八に言った。
「未練……で、ございますか」
「さよう。拙僧は、大身の直参旗本の家に生まれた……じゃが、齢《よわい》七歳にして、出家にだされたのじゃ」
「七歳で出家……」
「もちろん、まだ幼子に出家の意味など、わかろうはずもない。では、なぜ出家させられたのか……
それは、出家せねば、拙僧の命が危うかったからじゃ」
秀全が続ける。
「父は、千五百石と大身の旗本じゃが、特に目立つところもない、ごく普通の役方(文官。武官は番方)であった。
父がまだ、家督を継いで間もないころ、妻を迎えたが、そのとき母は、すでに腹に拙僧を宿していた。父は、それを承知で嫁に迎えたのじゃ……」
秀全の母親は、隣に住んでいた御家人の娘で、父とは幼なじみであった。
それが、さる大名家に行儀見習いにでたとき、藩主の手がついた。
当時の感覚ならば、大名家の藩主の手がついた。というのは、ある意味、慶事といってよい。
運がよければ、我が子が次期藩主に……などということが、ないとは、いえないからだ。
しかし、その娘にとって、懐妊は、災い以外の何物でもなかった。
懐妊ともなれば、側室になることが通例である。
実際に、そういう話も持ちあがっていたが、藩主の正室がそれを許さなかった。
正室は、さる大藩から、家格の低い家に輿入れしており、その経緯が、誇りをひどく傷つけていたのだ。
やたらに、プライドだけは高い正室が、自分以外の血筋の者が、藩を継ぐのは許せない、という理由で、娘は、三百両の手切れ金とともに、放逐されてしまった。
「――けっ、ひでえ話だ。どんな高貴なお血筋か知らねえが、金でなんとかなると思ってやがる。何様のつもりだ!」
新八は、本気で怒っている。この男、曲がったこと、卑怯なことが大嫌いなのだ。
「娘が放りだされた時点で、この話は、終わりのはずじゃった。ところが……」
正室は、現在でいうところの不妊症であった。いくら努力しても、体質的に、子どもができないのだ。
そこで、正室の連れてきた家来から、
「実家である大藩の親類から養子を迎えて……」
という、話が持ちあがったが、納得できないのが藩主の家臣たちだった。
これでは、実質的に乗っ取りである。家内が真っ二つに割れて、事態は、あわや、お家騒動の様相を呈してきた。
このとき、一躍脚光を浴びたのが、放逐された娘が産んだ子どもだった。
反側室派は、娘の子どもを、神輿に担ごうとしていた。
「母や、拙僧に、何度も刺客が差しむけられたそうじゃ。一度などは、乳母が危うく大怪我をするところじゃった」
「くそっ、俺がいたら、そんな性根の腐ったやつらは、みんな叩っ斬ってやるんだが……」
新八が、まるで、我がことのように憤慨した。
「拙僧の父は、真面目で善良な人間じゃったが、しょせん役方。暴力に対抗するすべなど、あろうはずもない」
「それで出家を……」
「うむ。僧籍に入ってしまえば、家督を継ぐことなぞ、できない相談じゃからな」
「それが、どう未練なんです?」
「もし、そのような騒動に、巻き込まれなかったらば、いまごろ拙僧は、直参旗本だったかもしれぬ……」
「しかし、それだけで、そんなにも武士になりたい……などと、思うものなのでしょうか?」
「いや、拙僧が武士に憧れを抱いたのは、そのあとの話じゃ」
「……?」
秀全は、出家のため、浅草今戸の潮江院という寺に入ることになった。落語家の初代・三笑亭可楽の墓所があることで知られる寺だ。
しかし、そういった事情を知らぬ正室派のものが、ひそかに刺客を放っていた。
父は、そのため、昔からの知り合いを、用心棒に雇った。
潮江院に入ってしまえば、秀全の出家が明らかになり、襲撃も熄むだろうが、それまでは、ひとときたりとも、油断はできなかったからだ。
浅草今戸は、今戸焼きなどで知られているように、江戸の郊外である。
待乳山聖天宮が見えてくるころには、田や畑ばかりで、あちこちに雑木林などがあり、刺客が襲いかかるには、絶好の場所だった。
父の友人の用心棒は、三十年配の無口な男で、着物には、継ぎなどがあたっているが、精悍な表情のせいか、貧乏臭くは見えない。
歩みぶりには、まったく油断が感じられず、手を引かれる秀全は、刺客が怖いなどとは、少しも思わなかった。
ふたりが、今戸橋の近くまできたときだった。
道ばたの松並木の下藪から、抜刀した屈強な浪人が三人、ふたりの前に立ちふさがった。
「この子は、これから出家するところだ。おぬしらが斬ったりせずとも、お家の跡を継ぐことはない。さあ、わかったら、刀を引きなさい!」
「すまぬな……我らは、ただ、雇い主に従うだけ。そこもとらの事情を考慮する権限はない」
「愚かな……」
先頭の浪人が、正眼に構えた刀を突きこんだ。
同時に、ひとりが後ろに回りこみ、退路を絶つ。
そのとき秀全は、用心棒の腰間から、一筋の閃光が煌めくのを見た。
先頭の浪人が、崩れ落ちた。
次の瞬間、抜きあげた刀が、きらり、きらりと閃き、ひと息のあいだに、残りのふたりが倒れる。
それは、まるで、名人の舞いのような、優雅で美しい動きだった。
三人を、斬ってたおした用心棒は、息ひとつ乱しておらず、
「さあ、ゆこう……潮江院は、もう目の前だ」
と、秀全の手を引いた。
秀全は、山門をくぐり、境内に入る。潮江院のなかでは、住職が待っていた。
用心棒は、秀全の手を離し、
「世の中は、なんと理不尽な。だが、親を恨むでないぞ。――よいか。強く生きるのだ」
そう言うと、踵を返して歩み去ってゆく。
秀全は、わけもなく涙が溢れる霞む目で、いつまでもその姿を見送っていた。
斎藤秀全。後の一諾斎である。
一諾斎は、甲陽鎮武隊として、甲州に向かう土方歳三に協力を請われ、僧籍を捨て新選組に参加。
流山、宇都宮、会津と転戦し、仙台にて、松本捨助とともに出頭。明治初年を、市村鉄之介とともに、佐藤彦五郎宅で過ごし、晩年は、多摩の地で教育に尽力し、尊敬を集めた。彼の創立した小学校は、いまも多摩の地に残る。
新選組に参加したのは、齢五十六。最後に彼は、立派な武士になったのだ。
険しい山ではなく、山頂に駱駝の背中のような、ふたつの瘤がある低い山である。
甲州道中を、小仏峠から与世、上野原、犬目、鳥沢と歩き、新八が強瀬に着いたのは、午後遅い刻限だ。
全福寺の境内は、山あいにあるわりには、開放的で明るいが、ひと気がなかった。
新八は、微かに人の声がきこえてくる社務所に向かう。
社務所からは、老成した声と、子どもたちの唱する声が、風に乗って、のんびりと響いてくる。
おそらく素読でも、しているのであろう。
(懐かしいな。師曰く、か……)
当時の日本人の教育水準、識字率の高さは、世界一であった。
職人や棒手振りなど、ロンドンならスラムに暮らし、文字などは、一生縁がないような職業の者ですら、論語を解し、読み本を楽しんでいたのだ。
当然、新八も、幼いころ四書五径を習わされたが、剣術に夢中で、ほとんど覚えていない。
然れどもその気質の禀
或いは齋しき能わず
是をもって皆その性の有する所を知って
これを全うするある能わざるなり
子どもたちが声を揃え、大学を素読する声が、かすかにきこえてくる。
素読というのは、文字通り論語、大学などを素読、つまり意味合いは考えず、読み上げるだけのものであるが、何度も読み返すうちに、ふしぎと、その意味がわかってくるものだ。
人の気質は、一人ひとり異なっているが、誰もが、もって生まれたその性質を、活かせるわけではない……と、いうような意味合いだろうと考えながら、社務所の陛に腰掛け、春の陽射しを浴びるうちに、新八は、いつの間にか、舟を漕ぎだした。
「――――し…もし、……お武家様」
「――ん、ああ……」
「そのような場所で、お休みになっては、風邪を召されますよ……」
起こされて、眼を開くと、五十年配ぐらいだろうか。穏やかな顔の僧侶が立っていた。住職の秀全である。
「はっ、いかん……つい、うとうとしてしまったらしい」
「は、ははは。――春眠不覚暁 處處啼鳥 夜来風雨聲 花落知多少。ですな。
お武家様。先ほどから、拙僧を待たれていたようですが、なにかご用でも……」
「ああ……いけねえ。俺、いや拙者は、武者修行中の松前浪人、永倉新八と申します。じつは……」
と、茶店の婆さんからきいて、わざわざ、やってきたことを説明する。
「おくま婆さんめ。また、あることないこと吹聴しおって。まあ、うどん四人前は事実だが……」
「いや、拙者がうかがいたいのは、うどんではなく……」
「剣術のことですな……こんなところでは、話もできません。まあ、お入りください」
新八は、社務所のなかに通された。
きちんと文机が並べられており、寺子屋として使われているようだ。
壁には、子どもたちの書が飾られ、誰の手になるものか、強瀬の村を描いたへたくそな絵が掛かっていた。
「永倉殿は、武者修行中の身ということでしたな。となると、訊きたいのは、甲府の剣術道場について……でしょうかな」
「はい。おっしゃるとおりです」
「さよう……甲府には、勤番の直参が二百人ほどおる……」
甲府には、そのほかにも、代官所の役人や浪人、近隣の武田遺臣の郷士、剣術好きの百姓などが大勢いるので、その何倍もの剣術道場の、潜在的な需要があった。
なかでも、いちばん流行っているのが、秀全も通う、北辰一刀流の道場で、門弟は、軽く二百人は超えるというから、かなり大きな規模である。
その他にも、神道無念流、甲源一刀流、直心影流、心形刀流、などの剣術道場に、田宮流、長谷川英心流などの居合。気楽流、天神真楊流などの柔術と、多くの道場がある。とのことだった。
「拙者は、神道無念流、岡田十松門人なのですが、甲府にある当流の道場は、どういった……」
「師範は、新家なにがしとか申したの……たしか、三代目戸賀先熊太郎の門人じゃ」
戸賀先熊太郎は、神道無念流の流祖・福井兵衛門の門人。初代は武州に道場を構えていたが、三代目は、水戸藩に仕えたため、江戸から水戸に移住して弘道館師範役。
安政五年、再び江戸に出て、小石川舟河原橋畔に移転した。慶応元年没。
「なるほど。戸賀先師範の門人なら、腕にまちがいは、なさそうですね」
「ふむ。しかし、腕前はともかく、あそこの道場は、門人がいかんよ。荒くれ者が集まって、どうにもガラが悪い」
「ははあ……話によると甲州は、無頼の徒が多いとききましたが、まことでしたか」
「不本意だが、隠してもしかたない。真実の話じゃ。悪いことは言わん。あそこに行くのは、やめなされ」
やめろと言われても、そこに行くのが目的だ。とも言えず、新八は、話題を逸らすことにした。
「はあ。なるほど、よくわかりました……ところで、なぜご住職は、剣術の修行をなさっておられるのでしょうか?」
「剣禅一如……などと言っても、納得せぬだろうな」
「禅で強くなるなら、坊主は、みな達人だ……とは、俺の師匠の口癖です」
ふたりが揃って笑う。
秀全は、ふと、真面目な顔になり、
「拙僧が剣術をする理由……それは、未練にほかならない」
と、新八に言った。
「未練……で、ございますか」
「さよう。拙僧は、大身の直参旗本の家に生まれた……じゃが、齢《よわい》七歳にして、出家にだされたのじゃ」
「七歳で出家……」
「もちろん、まだ幼子に出家の意味など、わかろうはずもない。では、なぜ出家させられたのか……
それは、出家せねば、拙僧の命が危うかったからじゃ」
秀全が続ける。
「父は、千五百石と大身の旗本じゃが、特に目立つところもない、ごく普通の役方(文官。武官は番方)であった。
父がまだ、家督を継いで間もないころ、妻を迎えたが、そのとき母は、すでに腹に拙僧を宿していた。父は、それを承知で嫁に迎えたのじゃ……」
秀全の母親は、隣に住んでいた御家人の娘で、父とは幼なじみであった。
それが、さる大名家に行儀見習いにでたとき、藩主の手がついた。
当時の感覚ならば、大名家の藩主の手がついた。というのは、ある意味、慶事といってよい。
運がよければ、我が子が次期藩主に……などということが、ないとは、いえないからだ。
しかし、その娘にとって、懐妊は、災い以外の何物でもなかった。
懐妊ともなれば、側室になることが通例である。
実際に、そういう話も持ちあがっていたが、藩主の正室がそれを許さなかった。
正室は、さる大藩から、家格の低い家に輿入れしており、その経緯が、誇りをひどく傷つけていたのだ。
やたらに、プライドだけは高い正室が、自分以外の血筋の者が、藩を継ぐのは許せない、という理由で、娘は、三百両の手切れ金とともに、放逐されてしまった。
「――けっ、ひでえ話だ。どんな高貴なお血筋か知らねえが、金でなんとかなると思ってやがる。何様のつもりだ!」
新八は、本気で怒っている。この男、曲がったこと、卑怯なことが大嫌いなのだ。
「娘が放りだされた時点で、この話は、終わりのはずじゃった。ところが……」
正室は、現在でいうところの不妊症であった。いくら努力しても、体質的に、子どもができないのだ。
そこで、正室の連れてきた家来から、
「実家である大藩の親類から養子を迎えて……」
という、話が持ちあがったが、納得できないのが藩主の家臣たちだった。
これでは、実質的に乗っ取りである。家内が真っ二つに割れて、事態は、あわや、お家騒動の様相を呈してきた。
このとき、一躍脚光を浴びたのが、放逐された娘が産んだ子どもだった。
反側室派は、娘の子どもを、神輿に担ごうとしていた。
「母や、拙僧に、何度も刺客が差しむけられたそうじゃ。一度などは、乳母が危うく大怪我をするところじゃった」
「くそっ、俺がいたら、そんな性根の腐ったやつらは、みんな叩っ斬ってやるんだが……」
新八が、まるで、我がことのように憤慨した。
「拙僧の父は、真面目で善良な人間じゃったが、しょせん役方。暴力に対抗するすべなど、あろうはずもない」
「それで出家を……」
「うむ。僧籍に入ってしまえば、家督を継ぐことなぞ、できない相談じゃからな」
「それが、どう未練なんです?」
「もし、そのような騒動に、巻き込まれなかったらば、いまごろ拙僧は、直参旗本だったかもしれぬ……」
「しかし、それだけで、そんなにも武士になりたい……などと、思うものなのでしょうか?」
「いや、拙僧が武士に憧れを抱いたのは、そのあとの話じゃ」
「……?」
秀全は、出家のため、浅草今戸の潮江院という寺に入ることになった。落語家の初代・三笑亭可楽の墓所があることで知られる寺だ。
しかし、そういった事情を知らぬ正室派のものが、ひそかに刺客を放っていた。
父は、そのため、昔からの知り合いを、用心棒に雇った。
潮江院に入ってしまえば、秀全の出家が明らかになり、襲撃も熄むだろうが、それまでは、ひとときたりとも、油断はできなかったからだ。
浅草今戸は、今戸焼きなどで知られているように、江戸の郊外である。
待乳山聖天宮が見えてくるころには、田や畑ばかりで、あちこちに雑木林などがあり、刺客が襲いかかるには、絶好の場所だった。
父の友人の用心棒は、三十年配の無口な男で、着物には、継ぎなどがあたっているが、精悍な表情のせいか、貧乏臭くは見えない。
歩みぶりには、まったく油断が感じられず、手を引かれる秀全は、刺客が怖いなどとは、少しも思わなかった。
ふたりが、今戸橋の近くまできたときだった。
道ばたの松並木の下藪から、抜刀した屈強な浪人が三人、ふたりの前に立ちふさがった。
「この子は、これから出家するところだ。おぬしらが斬ったりせずとも、お家の跡を継ぐことはない。さあ、わかったら、刀を引きなさい!」
「すまぬな……我らは、ただ、雇い主に従うだけ。そこもとらの事情を考慮する権限はない」
「愚かな……」
先頭の浪人が、正眼に構えた刀を突きこんだ。
同時に、ひとりが後ろに回りこみ、退路を絶つ。
そのとき秀全は、用心棒の腰間から、一筋の閃光が煌めくのを見た。
先頭の浪人が、崩れ落ちた。
次の瞬間、抜きあげた刀が、きらり、きらりと閃き、ひと息のあいだに、残りのふたりが倒れる。
それは、まるで、名人の舞いのような、優雅で美しい動きだった。
三人を、斬ってたおした用心棒は、息ひとつ乱しておらず、
「さあ、ゆこう……潮江院は、もう目の前だ」
と、秀全の手を引いた。
秀全は、山門をくぐり、境内に入る。潮江院のなかでは、住職が待っていた。
用心棒は、秀全の手を離し、
「世の中は、なんと理不尽な。だが、親を恨むでないぞ。――よいか。強く生きるのだ」
そう言うと、踵を返して歩み去ってゆく。
秀全は、わけもなく涙が溢れる霞む目で、いつまでもその姿を見送っていた。
斎藤秀全。後の一諾斎である。
一諾斎は、甲陽鎮武隊として、甲州に向かう土方歳三に協力を請われ、僧籍を捨て新選組に参加。
流山、宇都宮、会津と転戦し、仙台にて、松本捨助とともに出頭。明治初年を、市村鉄之介とともに、佐藤彦五郎宅で過ごし、晩年は、多摩の地で教育に尽力し、尊敬を集めた。彼の創立した小学校は、いまも多摩の地に残る。
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