13 / 51
12 甲州裏街道 青梅宿
しおりを挟む
新八は、安請け合いしたことを、後悔していた。
八王子横山宿から青梅宿までは、わずか四里。早発ちすれば昼前には、余裕で着くという話だったが、それが大まちがいだった。
歩きやすい平坦な道に慣れた江戸っ子の感覚と、山道が当たり前の、このあたりのひとの感覚が、まるでちがっていたのだ。
横山宿から甲州道中をしばらく西へ。左入で北に方角をかえて戸吹村を抜け、きつい栃淵峠を越えて秋川をわたる。油台をすぎると、その先は、途中からひどく荒れた道で難儀した。
そして多摩川を越えて長い坂道を登り、ようやく青梅の宿場に着いたころには、すっかり昼を回っていた。
それにしても驚いたのは、青梅宿の活気である。
新八は、てっきり山あいの静かな宿場を想像していたが、目の前にひろがっているのは、大店が軒を連ね、多くの宿屋が並ぶ、にぎやかな町並みだったからだ。
文久三年の増減惣寄帳によると、家数四百二十二軒、人口は千八百四十九人。甲州道中の日野宿を上回る規模である。
現在は、青梅街道と呼ばれている道筋は、当時、青梅道、甲州裏道などと呼ばれていた。
この道筋は、甲州から大菩薩峠を越えて、武州を結ぶ古道の一部で、発展したきっかけは、元禄十一年の江戸城の改修工事であった。
青梅宿は、上成木、北小曽木で採れる、江戸城の白壁に使用された、石灰の中継地として栄えた。
しかし、江戸中期になると、江戸っ子や、武州の人びとの信仰を集めた御嶽神社の宿場として。また、秩父巡礼に向かう道として。
そして、甲州道中よりも江戸までの距離が二里短いことから、甲州道中の脇往還として利用されるようになった。
道筋は、酒折宿で甲州道中からわかれ、深い山々を越えて、青梅、箱根ヶ崎、小川、田無、中野を経て、内藤新宿で再び甲州道中と合流する。
宿場は、木材や、薪炭、名物の織物、青梅縞の集散地として、六斎市が立ち、にぎわいをみせていた。
目当ての道場は、宿場の東、勝沼町にある成木道との分岐点に近い、斜面に建てられた乗願寺の、門前の畑のなかにあった。
増田蔵六の質素な道場とはちがい、江戸にあっても見劣りしないであろう、茅葺きだが切妻屋根の見事な造りで、義理の父親、甲州屋の財力がしのばれる。
「――たのもう。拙者、剣術修行にてまかり越した松前浪士、神道無念流・永倉新八と申す。
当道場師範に、一手御教導にあずかりたく、お目通り願いたい」
道場では、大勢の門人たちが、竹刀を打ちあっている。
新八が大声で、型どおりの挨拶をのべると、師範席で、門弟たちを見ていた師範が、あわてて駆け寄ってきたが、どこか様子がおかしかった。
「……?」
新八が、戸惑いをみせていると、
「永倉……おぬし、もしや、永倉の栄治じゃないか?」
「はあ、たしかに拙者、幼名を栄治と申しましたが……」
「俺だよ、俺。なんだよ、忘れちまったのか!? あんだけ可愛がってやったのに、薄情だぞ!」
「も、もしや、あんた……新之助のあんちゃんか」
「そうだよ。おぬしの大先輩の宮藤新之助だ!」
ここへきて、新八の脳裏に、幼いころの記憶が溢れだした。
先代の厳しい稽古に泣きべそを浮かべ、それでも涙だけは流さないように耐えている新八を、いつも励ましてくれたのが、十三歳年上の新之助だった。
「なんだよ。新之助あんちゃんだったのかよ。松岡新三郎なんて名前だから、ぜんぜんわからなかったぜ」
「ああ……まあ、俺もいろいろあってな……本名だと、その……いろいろ差し障りがあるんだ。大人なら察しろ」
この宮藤新之助という男、剣の実力は申し分なかったが、ただひとつ悪い癖があった。
それは、女にだらしがないことである。
撃剣館に在籍していたころにも、たびたび女で問題を起こし、先代岡田十松から、何度も叱責をうけていた。
そして、新八が十二歳のころ、浅草の香具師の女房に手をつけて、刃傷沙汰になり、とうとう江戸を追われる羽目になってしまったのだ。
新八は、奥の居間に通され、茶をふるまわれた。口にすると、驚くような上等の茶で、羽振りの良さがうかがわれる。
「しかし驚いたな。まさか栄治が武者修行で、俺の道場を訪ねてくるとは……いまは、百合本の師範代か。あいつは、元気でやってるみたいだな」
「俺は、新八ですって。――相変わらず昔の巻物や伝書を集めていて、最近は、講武所の窪田清音師範と、集めたがらくたを自慢しあってますよ」
「わっはっはは! 懐かしいなあ。俺も昔、やつには、さんざん骨董の講釈をきかされたよ」
「ところで、新之助……いや、新三郎さん。俺が今日ここに来たのは……」
新八は、当初の計画であった、それとなく探る。という方針を、あっさり放棄した。
昔馴染みとわかった以上、無意味だし、だいいち新八は、嘘やはかりごとが大嫌いなのだ。
新八の話をきくうちに、新三郎の顔がみるみる青ざめた。
「な、なんだと……あの作田が、一刀のもとに斬られたとな。信じられん……」
「用心棒の作田をご存知なのですか!?」
「ご存知もなにも、やつは、俺が道場を開いてすぐに、この道場に、半年も居候しておったのだ」
これには、新八も驚いた。
「そりゃあ、まことですか」
「しかし……あの作田が、一合で斬られたとなると、おまえの疑問は、一気に解消だな」
「どういう意味ですか?」
「ふふん。我が道場に、作田を一撃で倒せるものなど、ひとりもおらん!」
新三郎が自慢気に言いきった。
新八は、――それは、少しも自慢にならないだろ!
という、言葉を呑みこんだ。
「おまえ、いま俺のことを、馬鹿にしたな」
「いや、新之助……新三郎あんちゃんを馬鹿にするなんて、とんでもねえ」
「まあきけ。いいか……ここは江戸じゃないし、俺の門弟のほとんどが、百姓か町人で、二本差しなんて、数えるほどしかいねえ。
――なにも、絶対的な強さを求めるだけが、剣術のすべてじゃないと俺は思うぜ」
「俺は、強くなければ、剣術ではないと思います」
新八は、新三郎の言葉には納得できず、思わず鋭い眼差しで睨みつけた。
新三郎は、ゆっくりと茶を飲みほすと、可笑しそうに笑った。
「おめえは、ガキのころから、かわらねえなあ……」
「俺は……」
「なあ、栄治……おめえは、まだ若い。わからないのは無理もねえ……だがな、ひとはそれぞれ、剣術も強さの意味も、ひとそれぞれだ」
「しかし……」
「どうだ。久しぶりに、やってみるか」
新三郎は、立ちあがると、道場に向かった。
門弟の稽古を中止させると、竹刀をとり、ふたりは向かいあう。
新八は落胆していた。
かつて撃剣館で修行していたころ、兄弟子、新三郎の剣は凄まじかった。
師匠の岡田十松や、百合本と竹刀をあわせ、打ちあうさまは、まさに鬼神のような迫力で、見ているだけで、幼い新八の肌は粟だったものだ。
(――それがどうだ)
いま、新八の前で竹刀を構える新三郎には、隙こそないものの、増田蔵六に感じたような威圧感が、まるでない。
(こんな山奥で、百姓ばかり相手に稽古していると、あの凄かったあんちゃんが、こんなに腑抜けになるものなのか……)
新八は、早く勝負を終わらせるため、先の先を狙って、鋭い突きを放った。
――刹那、新三郎が体をかえながら、ふわりと籠手を打った。
(――なにっ!)
軽い音をたて、新三郎の竹刀は、新八の右籠手を捉えていた。
(な、そんな、ばかな……)
二本目……。
今度は要心して、攻めこむのはやめ、正眼に構えて様子を見る。
相変わらず新三郎からは、闘気が感じられない。
新八は、戦法を変えて、竹刀を大上段に構えなおす。
その身体から、激しい殺気がほとばしった。
(蔵六師範から直伝の気組を、見せてやろうじゃねえか!)
新八から放たれた殺気が、新三郎に叩きつけられた。
しかし、新三郎は、表情ひとつかえず、それを受け流す。
焦ってここで先に手をだせば、先ほどの二の舞になることは明らかだ。
新八は、機を待った。
やけにゆっくりと、時間だけがすぎてゆく。
新三郎は、動く気配をみせない。
ただ、泰然と、そこに立っているだけである。
(こいつは、いくらやってもキリがねえ……よし、攻め方をかえるか)
そう決心すると、上段の竹刀を下段晴眼にとった。
(――天然理心流・龍尾剣!)
新八は、いたずらに相手に向けていた殺気を封じこめ、気を臍下丹田に沈めた。
「ほう……」
新三郎が、はじめて感情をあらわした。
「やるな……栄治。少しは、成長したようだ」
と、言った瞬間、新三郎は、凄まじい殺気を放ち、唸りをあげて竹刀が振りおろされた。
(これを待ってたぜ!!)
新八の竹刀は、新三郎の竹刀を跳ねあげ、面に向かって、うちこまれる。
(よし! 決まった!)
そう思った瞬間、新八の竹刀は、面をかすり、体をかえた新三郎の竹刀が、ぴしりと新八の胴を薙いだ。
「一本。これまでだ」
新三郎が言った。
新八は、呆然とした表情で、新三郎に目を向ける。
「栄治。やっぱりおまえ、成長したなあ……いまの 龍尾剣には、かなりひやっとしたぜ。構えも気迫も、増田蔵六師範そっくりだ」
「蔵六師範を、ご存知だったんですか……」
「ああ。以前、こてんぱんにやられたことがある」
「ぶっ……あっはっは!」
いきなり新八が笑いだすと、つられたように新三郎も笑った。
「ずるいよ、あんちゃん! これじゃあ、俺が、すっかり間抜け野郎じゃねえか」
「莫迦め、兄弟子に勝てるとでも、思ってやがったか!」
勝ち誇ったように新三郎が言った。
「ところでよ、さっきの盗人の話だが……」
新三郎が唐突に言った。
「なんですか?」
「そいつらは、八王子横山宿をはじめとして、ここいら武州一帯を荒らして回っている……そして、そのなかのひとりが、神道無念流の使い手だった」
「おそらくは……」
「うむ……だったら、やっぱり、この道場にも、やってきているような気がしてならねえ」
「何か思いあたることがあるんですか?」
「ああ。去年の夏ごろ、この青梅宿の商家にも、それらしい盗賊が押しいっていやがるのさ」
「えっ!!」
「そうだ! いいものがある。――栄治、ちょっとこい!」
新三郎は、そう言うと、あわてて奥の部屋にとって返し、新八が続く。何事かと眼を丸くしていると、書棚から三冊の帳面のようなものをとりだした。
「こりゃあ、いったい?」
思わず新八が訊いた。帳面の表紙には『英名録』
と、記されている。
「見てのとおり英名録さ」
「なるほど、その手があったか! あんちゃん、冴えてますね」
「あたりめえよ。これでも、おめえの大先輩だ」
この当時、武者修行をするものは、試合帳と呼ばれる帳面を持ち歩いていた。
武者修行で訪れた道場の名称と、試合をした相手の名前を記した帳面である。試合が行われず、接待だけの場合は、面談と記した。
当然、この道場にも、ここを訪れた剣客の署名した帳面があった。
文化・文政以降、武術の武者修行は、板前、大工などの渡り職人や、無宿渡世人のような、ひとつの生活手段になっていた。
安政六年には、真田玉川(範之介・天然理心流、北辰一刀流)、江川英山(無双刀流)の連名により『武術英名録』なる本まで出版されている。
『武術英名録』は、関八州の剣術道場の場所、流派、氏名を紹介した本で、いわば剣術道場ガイドブックと言ってよいだろう。
ちなみに、『武州 日野宿 天然理心流 土方歳蔵(三)』という名前も掲載されている。
「この帳面には、この道場を訪れたやつ、すべての名前が記されている……もし、盗賊のひとりが、ここに来ていれば、たとえ偽名でも、必ずその名前が出ているはずだ」
「でも、何百人って数の、名前と顔を、いちいち覚えているんですか?」
「おいおい、栄治。ちったあ、頭を使えよ……
いいか。盗賊が跋扈しはじめたのは、三年前からだから、まず、それ以前は省略できる。そして、神道無念流以外の修行者も外す。さらに、だ。作田ほどの男を斬ったやつだ。そんな腕前のやつは、なかなかいない」
「なるほど……」
「そうやって、条件に合わないやつを除けて、残ったやつが、怪しいってわけさ」
そう言うと、新三郎は、帳面をめくりだし、怪しいやつを見つけるたびに、紙に書きだしていった。
「あっ、あんちゃん。そいつは外して大丈夫だ」
「この野郎は、相当な腕前だったぞ。さんざんてこずらされて、あやうく勝ったはずだ」
「強いはずです……そいつは、練兵館の塾頭ですよ」
「なるほどな。どおりで」
新三郎が、桂小五郎という名前に、線を引いた。
半刻もしないうちに、三年ぶんのリストアップが終了した。残った名前は、八人だった。
「ずいぶんと減ったなあ……」
思わず新八が口にだすと、
「昨今、腕の立つやつは、なかなかいないってことさ」
新三郎が嘆いた。残った名前は……。
* 稲村雄一郎 信濃高遠 郷士
* 漆原信作 相模下九沢村 郷士
* 前川伊三郎 武蔵忍 藩士
* 森岡清一郎 武蔵川越 浪人
* 新家粂太郎 常陸水戸 浪人
* 磐田克五郎 下野宇都宮 郷士
* 尾高新五郎 武蔵下手計村 郷士
* 藤村順之介 武蔵江戸 旗本
の、八名だった。
「こいつらは、かなり強かったから、いまでもはっきり覚えてる。下手計村の尾高殿とは勝負がつかず、引き分けた。だが、尾高殿は、豪農一族で分限者だから、外してよいだろう」
「あんちゃん……この藤村さんも外して大丈夫だ。この方は、練兵館の高弟で、二百五十石の旗本です。以前、うちの道場で試合をしたことがある」
「栄治。おまえ、負けただろ」
「俺は、新八ですって。――えっ、なぜわかったんですか!?」
「三本やって、一本取られた……かなりの遣い手だった。おまえごときの、歯が立つ相手ではない」
「いや、いまなら、そう簡単には負けませんよ」
「負けず嫌いめ。やっぱり、おまえは、昔とぜんぜんかわらねえなあ」
新三郎が大笑いしながら言った。
八王子横山宿から青梅宿までは、わずか四里。早発ちすれば昼前には、余裕で着くという話だったが、それが大まちがいだった。
歩きやすい平坦な道に慣れた江戸っ子の感覚と、山道が当たり前の、このあたりのひとの感覚が、まるでちがっていたのだ。
横山宿から甲州道中をしばらく西へ。左入で北に方角をかえて戸吹村を抜け、きつい栃淵峠を越えて秋川をわたる。油台をすぎると、その先は、途中からひどく荒れた道で難儀した。
そして多摩川を越えて長い坂道を登り、ようやく青梅の宿場に着いたころには、すっかり昼を回っていた。
それにしても驚いたのは、青梅宿の活気である。
新八は、てっきり山あいの静かな宿場を想像していたが、目の前にひろがっているのは、大店が軒を連ね、多くの宿屋が並ぶ、にぎやかな町並みだったからだ。
文久三年の増減惣寄帳によると、家数四百二十二軒、人口は千八百四十九人。甲州道中の日野宿を上回る規模である。
現在は、青梅街道と呼ばれている道筋は、当時、青梅道、甲州裏道などと呼ばれていた。
この道筋は、甲州から大菩薩峠を越えて、武州を結ぶ古道の一部で、発展したきっかけは、元禄十一年の江戸城の改修工事であった。
青梅宿は、上成木、北小曽木で採れる、江戸城の白壁に使用された、石灰の中継地として栄えた。
しかし、江戸中期になると、江戸っ子や、武州の人びとの信仰を集めた御嶽神社の宿場として。また、秩父巡礼に向かう道として。
そして、甲州道中よりも江戸までの距離が二里短いことから、甲州道中の脇往還として利用されるようになった。
道筋は、酒折宿で甲州道中からわかれ、深い山々を越えて、青梅、箱根ヶ崎、小川、田無、中野を経て、内藤新宿で再び甲州道中と合流する。
宿場は、木材や、薪炭、名物の織物、青梅縞の集散地として、六斎市が立ち、にぎわいをみせていた。
目当ての道場は、宿場の東、勝沼町にある成木道との分岐点に近い、斜面に建てられた乗願寺の、門前の畑のなかにあった。
増田蔵六の質素な道場とはちがい、江戸にあっても見劣りしないであろう、茅葺きだが切妻屋根の見事な造りで、義理の父親、甲州屋の財力がしのばれる。
「――たのもう。拙者、剣術修行にてまかり越した松前浪士、神道無念流・永倉新八と申す。
当道場師範に、一手御教導にあずかりたく、お目通り願いたい」
道場では、大勢の門人たちが、竹刀を打ちあっている。
新八が大声で、型どおりの挨拶をのべると、師範席で、門弟たちを見ていた師範が、あわてて駆け寄ってきたが、どこか様子がおかしかった。
「……?」
新八が、戸惑いをみせていると、
「永倉……おぬし、もしや、永倉の栄治じゃないか?」
「はあ、たしかに拙者、幼名を栄治と申しましたが……」
「俺だよ、俺。なんだよ、忘れちまったのか!? あんだけ可愛がってやったのに、薄情だぞ!」
「も、もしや、あんた……新之助のあんちゃんか」
「そうだよ。おぬしの大先輩の宮藤新之助だ!」
ここへきて、新八の脳裏に、幼いころの記憶が溢れだした。
先代の厳しい稽古に泣きべそを浮かべ、それでも涙だけは流さないように耐えている新八を、いつも励ましてくれたのが、十三歳年上の新之助だった。
「なんだよ。新之助あんちゃんだったのかよ。松岡新三郎なんて名前だから、ぜんぜんわからなかったぜ」
「ああ……まあ、俺もいろいろあってな……本名だと、その……いろいろ差し障りがあるんだ。大人なら察しろ」
この宮藤新之助という男、剣の実力は申し分なかったが、ただひとつ悪い癖があった。
それは、女にだらしがないことである。
撃剣館に在籍していたころにも、たびたび女で問題を起こし、先代岡田十松から、何度も叱責をうけていた。
そして、新八が十二歳のころ、浅草の香具師の女房に手をつけて、刃傷沙汰になり、とうとう江戸を追われる羽目になってしまったのだ。
新八は、奥の居間に通され、茶をふるまわれた。口にすると、驚くような上等の茶で、羽振りの良さがうかがわれる。
「しかし驚いたな。まさか栄治が武者修行で、俺の道場を訪ねてくるとは……いまは、百合本の師範代か。あいつは、元気でやってるみたいだな」
「俺は、新八ですって。――相変わらず昔の巻物や伝書を集めていて、最近は、講武所の窪田清音師範と、集めたがらくたを自慢しあってますよ」
「わっはっはは! 懐かしいなあ。俺も昔、やつには、さんざん骨董の講釈をきかされたよ」
「ところで、新之助……いや、新三郎さん。俺が今日ここに来たのは……」
新八は、当初の計画であった、それとなく探る。という方針を、あっさり放棄した。
昔馴染みとわかった以上、無意味だし、だいいち新八は、嘘やはかりごとが大嫌いなのだ。
新八の話をきくうちに、新三郎の顔がみるみる青ざめた。
「な、なんだと……あの作田が、一刀のもとに斬られたとな。信じられん……」
「用心棒の作田をご存知なのですか!?」
「ご存知もなにも、やつは、俺が道場を開いてすぐに、この道場に、半年も居候しておったのだ」
これには、新八も驚いた。
「そりゃあ、まことですか」
「しかし……あの作田が、一合で斬られたとなると、おまえの疑問は、一気に解消だな」
「どういう意味ですか?」
「ふふん。我が道場に、作田を一撃で倒せるものなど、ひとりもおらん!」
新三郎が自慢気に言いきった。
新八は、――それは、少しも自慢にならないだろ!
という、言葉を呑みこんだ。
「おまえ、いま俺のことを、馬鹿にしたな」
「いや、新之助……新三郎あんちゃんを馬鹿にするなんて、とんでもねえ」
「まあきけ。いいか……ここは江戸じゃないし、俺の門弟のほとんどが、百姓か町人で、二本差しなんて、数えるほどしかいねえ。
――なにも、絶対的な強さを求めるだけが、剣術のすべてじゃないと俺は思うぜ」
「俺は、強くなければ、剣術ではないと思います」
新八は、新三郎の言葉には納得できず、思わず鋭い眼差しで睨みつけた。
新三郎は、ゆっくりと茶を飲みほすと、可笑しそうに笑った。
「おめえは、ガキのころから、かわらねえなあ……」
「俺は……」
「なあ、栄治……おめえは、まだ若い。わからないのは無理もねえ……だがな、ひとはそれぞれ、剣術も強さの意味も、ひとそれぞれだ」
「しかし……」
「どうだ。久しぶりに、やってみるか」
新三郎は、立ちあがると、道場に向かった。
門弟の稽古を中止させると、竹刀をとり、ふたりは向かいあう。
新八は落胆していた。
かつて撃剣館で修行していたころ、兄弟子、新三郎の剣は凄まじかった。
師匠の岡田十松や、百合本と竹刀をあわせ、打ちあうさまは、まさに鬼神のような迫力で、見ているだけで、幼い新八の肌は粟だったものだ。
(――それがどうだ)
いま、新八の前で竹刀を構える新三郎には、隙こそないものの、増田蔵六に感じたような威圧感が、まるでない。
(こんな山奥で、百姓ばかり相手に稽古していると、あの凄かったあんちゃんが、こんなに腑抜けになるものなのか……)
新八は、早く勝負を終わらせるため、先の先を狙って、鋭い突きを放った。
――刹那、新三郎が体をかえながら、ふわりと籠手を打った。
(――なにっ!)
軽い音をたて、新三郎の竹刀は、新八の右籠手を捉えていた。
(な、そんな、ばかな……)
二本目……。
今度は要心して、攻めこむのはやめ、正眼に構えて様子を見る。
相変わらず新三郎からは、闘気が感じられない。
新八は、戦法を変えて、竹刀を大上段に構えなおす。
その身体から、激しい殺気がほとばしった。
(蔵六師範から直伝の気組を、見せてやろうじゃねえか!)
新八から放たれた殺気が、新三郎に叩きつけられた。
しかし、新三郎は、表情ひとつかえず、それを受け流す。
焦ってここで先に手をだせば、先ほどの二の舞になることは明らかだ。
新八は、機を待った。
やけにゆっくりと、時間だけがすぎてゆく。
新三郎は、動く気配をみせない。
ただ、泰然と、そこに立っているだけである。
(こいつは、いくらやってもキリがねえ……よし、攻め方をかえるか)
そう決心すると、上段の竹刀を下段晴眼にとった。
(――天然理心流・龍尾剣!)
新八は、いたずらに相手に向けていた殺気を封じこめ、気を臍下丹田に沈めた。
「ほう……」
新三郎が、はじめて感情をあらわした。
「やるな……栄治。少しは、成長したようだ」
と、言った瞬間、新三郎は、凄まじい殺気を放ち、唸りをあげて竹刀が振りおろされた。
(これを待ってたぜ!!)
新八の竹刀は、新三郎の竹刀を跳ねあげ、面に向かって、うちこまれる。
(よし! 決まった!)
そう思った瞬間、新八の竹刀は、面をかすり、体をかえた新三郎の竹刀が、ぴしりと新八の胴を薙いだ。
「一本。これまでだ」
新三郎が言った。
新八は、呆然とした表情で、新三郎に目を向ける。
「栄治。やっぱりおまえ、成長したなあ……いまの 龍尾剣には、かなりひやっとしたぜ。構えも気迫も、増田蔵六師範そっくりだ」
「蔵六師範を、ご存知だったんですか……」
「ああ。以前、こてんぱんにやられたことがある」
「ぶっ……あっはっは!」
いきなり新八が笑いだすと、つられたように新三郎も笑った。
「ずるいよ、あんちゃん! これじゃあ、俺が、すっかり間抜け野郎じゃねえか」
「莫迦め、兄弟子に勝てるとでも、思ってやがったか!」
勝ち誇ったように新三郎が言った。
「ところでよ、さっきの盗人の話だが……」
新三郎が唐突に言った。
「なんですか?」
「そいつらは、八王子横山宿をはじめとして、ここいら武州一帯を荒らして回っている……そして、そのなかのひとりが、神道無念流の使い手だった」
「おそらくは……」
「うむ……だったら、やっぱり、この道場にも、やってきているような気がしてならねえ」
「何か思いあたることがあるんですか?」
「ああ。去年の夏ごろ、この青梅宿の商家にも、それらしい盗賊が押しいっていやがるのさ」
「えっ!!」
「そうだ! いいものがある。――栄治、ちょっとこい!」
新三郎は、そう言うと、あわてて奥の部屋にとって返し、新八が続く。何事かと眼を丸くしていると、書棚から三冊の帳面のようなものをとりだした。
「こりゃあ、いったい?」
思わず新八が訊いた。帳面の表紙には『英名録』
と、記されている。
「見てのとおり英名録さ」
「なるほど、その手があったか! あんちゃん、冴えてますね」
「あたりめえよ。これでも、おめえの大先輩だ」
この当時、武者修行をするものは、試合帳と呼ばれる帳面を持ち歩いていた。
武者修行で訪れた道場の名称と、試合をした相手の名前を記した帳面である。試合が行われず、接待だけの場合は、面談と記した。
当然、この道場にも、ここを訪れた剣客の署名した帳面があった。
文化・文政以降、武術の武者修行は、板前、大工などの渡り職人や、無宿渡世人のような、ひとつの生活手段になっていた。
安政六年には、真田玉川(範之介・天然理心流、北辰一刀流)、江川英山(無双刀流)の連名により『武術英名録』なる本まで出版されている。
『武術英名録』は、関八州の剣術道場の場所、流派、氏名を紹介した本で、いわば剣術道場ガイドブックと言ってよいだろう。
ちなみに、『武州 日野宿 天然理心流 土方歳蔵(三)』という名前も掲載されている。
「この帳面には、この道場を訪れたやつ、すべての名前が記されている……もし、盗賊のひとりが、ここに来ていれば、たとえ偽名でも、必ずその名前が出ているはずだ」
「でも、何百人って数の、名前と顔を、いちいち覚えているんですか?」
「おいおい、栄治。ちったあ、頭を使えよ……
いいか。盗賊が跋扈しはじめたのは、三年前からだから、まず、それ以前は省略できる。そして、神道無念流以外の修行者も外す。さらに、だ。作田ほどの男を斬ったやつだ。そんな腕前のやつは、なかなかいない」
「なるほど……」
「そうやって、条件に合わないやつを除けて、残ったやつが、怪しいってわけさ」
そう言うと、新三郎は、帳面をめくりだし、怪しいやつを見つけるたびに、紙に書きだしていった。
「あっ、あんちゃん。そいつは外して大丈夫だ」
「この野郎は、相当な腕前だったぞ。さんざんてこずらされて、あやうく勝ったはずだ」
「強いはずです……そいつは、練兵館の塾頭ですよ」
「なるほどな。どおりで」
新三郎が、桂小五郎という名前に、線を引いた。
半刻もしないうちに、三年ぶんのリストアップが終了した。残った名前は、八人だった。
「ずいぶんと減ったなあ……」
思わず新八が口にだすと、
「昨今、腕の立つやつは、なかなかいないってことさ」
新三郎が嘆いた。残った名前は……。
* 稲村雄一郎 信濃高遠 郷士
* 漆原信作 相模下九沢村 郷士
* 前川伊三郎 武蔵忍 藩士
* 森岡清一郎 武蔵川越 浪人
* 新家粂太郎 常陸水戸 浪人
* 磐田克五郎 下野宇都宮 郷士
* 尾高新五郎 武蔵下手計村 郷士
* 藤村順之介 武蔵江戸 旗本
の、八名だった。
「こいつらは、かなり強かったから、いまでもはっきり覚えてる。下手計村の尾高殿とは勝負がつかず、引き分けた。だが、尾高殿は、豪農一族で分限者だから、外してよいだろう」
「あんちゃん……この藤村さんも外して大丈夫だ。この方は、練兵館の高弟で、二百五十石の旗本です。以前、うちの道場で試合をしたことがある」
「栄治。おまえ、負けただろ」
「俺は、新八ですって。――えっ、なぜわかったんですか!?」
「三本やって、一本取られた……かなりの遣い手だった。おまえごときの、歯が立つ相手ではない」
「いや、いまなら、そう簡単には負けませんよ」
「負けず嫌いめ。やっぱり、おまえは、昔とぜんぜんかわらねえなあ」
新三郎が大笑いしながら言った。
0
お気に入りに追加
21
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲
俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。
今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。
「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」
その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。
当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!?
姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。
共に
第8回歴史時代小説参加しました!
転娘忍法帖
あきらつかさ
歴史・時代
時は江戸、四代将軍家綱の頃。
小国に仕える忍の息子・巽丸(たつみまる)はある時、侵入した曲者を追った先で、老忍者に謎の秘術を受ける。
どうにか生還したものの、目覚めた時には女の体になっていた。
国に渦巻く陰謀と、師となった忍に預けられた書を狙う者との戦いに翻弄される、ひとりの若忍者の運命は――――
戦国の華と徒花
三田村優希(または南雲天音)
歴史・時代
武田信玄の命令によって、織田信長の妹であるお市の侍女として潜入した忍びの於小夜(おさよ)。
付き従う内にお市に心酔し、武田家を裏切る形となってしまう。
そんな彼女は人並みに恋をし、同じ武田の忍びである小十郎と夫婦になる。
二人を裏切り者と見做し、刺客が送られてくる。小十郎も柴田勝家の足軽頭となっており、刺客に怯えつつも何とか女児を出産し於奈津(おなつ)と命名する。
しかし頭領であり於小夜の叔父でもある新井庄助の命令で、於奈津は母親から引き離され忍びとしての英才教育を受けるために真田家へと送られてしまう。
悲嘆に暮れる於小夜だが、お市と共に悲運へと呑まれていく。
※拙作「異郷の残菊」と繋がりがありますが、単独で読んでも問題がございません
【他サイト掲載:NOVEL DAYS】
不屈の葵
ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む!
これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。
幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。
本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。
家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。
今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。
家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。
笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。
戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。
愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目!
歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』
ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!
思い出乞ひわずらい
水城真以
歴史・時代
――これは、天下人の名を継ぐはずだった者の物語――
ある日、信長の嫡男、奇妙丸と知り合った勝蔵。奇妙丸の努力家な一面に惹かれる。
一方奇妙丸も、媚びへつらわない勝蔵に特別な感情を覚える。
同じく奇妙丸のもとを出入りする勝九朗や於泉と交流し、友情をはぐくんでいくが、ある日を境にその絆が破綻してしまって――。
織田信長の嫡男・信忠と仲間たちの幼少期のお話です。以前公開していた作品が長くなってしまったので、章ごとに区切って加筆修正しながら更新していきたいと思います。
半妖の陰陽師~鬼哭の声を聞け
斑鳩陽菜
歴史・時代
貴族たちがこの世の春を謳歌する平安時代の王都。
妖の血を半分引く青年陰陽師・安倍晴明は、半妖であることに悩みつつ、陰陽師としての務めに励む。
そんな中、内裏では謎の幽鬼(幽霊)騒動が勃発。
その一方では、人が謎の妖に喰われ骨にされて見つかるという怪異が起きる。そしてその側には、青い彼岸花が。
晴明は解決に乗り出すのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる