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12 甲州裏街道 青梅宿

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 新八は、安請け合いしたことを、後悔していた。
 八王子横山宿から青梅宿までは、わずか四里。早発ちすれば昼前には、余裕で着くという話だったが、それが大まちがいだった。
 歩きやすい平坦な道に慣れた江戸っ子の感覚と、山道が当たり前の、このあたりのひとの感覚が、まるでちがっていたのだ。
 横山宿から甲州道中をしばらく西へ。左入さにゅうで北に方角をかえて戸吹村を抜け、きつい栃淵峠を越えて秋川をわたる。油台をすぎると、その先は、途中からひどく荒れた道で難儀した。
 そして多摩川を越えて長い坂道を登り、ようやく青梅の宿場に着いたころには、すっかり昼を回っていた。

 それにしても驚いたのは、青梅宿の活気である。
 新八は、てっきり山あいの静かな宿場を想像していたが、目の前にひろがっているのは、大店が軒を連ね、多くの宿屋が並ぶ、にぎやかな町並みだったからだ。
 文久三年の増減惣寄帳によると、家数四百二十二軒、人口は千八百四十九人。甲州道中の日野宿を上回る規模である。
 現在は、青梅街道と呼ばれている道筋は、当時、青梅道、甲州裏道などと呼ばれていた。
 この道筋は、甲州から大菩薩峠を越えて、武州を結ぶ古道の一部で、発展したきっかけは、元禄十一年の江戸城の改修工事であった。
 青梅宿は、上成木、北小曽木で採れる、江戸城の白壁に使用された、石灰の中継地として栄えた。

 しかし、江戸中期になると、江戸っ子や、武州の人びとの信仰を集めた御嶽神社の宿場として。また、秩父巡礼に向かう道として。
 そして、甲州道中よりも江戸までの距離が二里短いことから、甲州道中の脇往還として利用されるようになった。
 道筋は、酒折宿で甲州道中からわかれ、深い山々を越えて、青梅、箱根ヶ崎、小川、田無、中野を経て、内藤新宿で再び甲州道中と合流する。
 宿場は、木材や、薪炭、名物の織物、青梅縞の集散地として、六斎市が立ち、にぎわいをみせていた。

 目当ての道場は、宿場の東、勝沼町にある成木道との分岐点に近い、斜面に建てられた乗願寺の、門前の畑のなかにあった。
 増田蔵六の質素な道場とはちがい、江戸にあっても見劣りしないであろう、茅葺きだが切妻屋根の見事な造りで、義理の父親、甲州屋の財力がしのばれる。

「――たのもう。拙者、剣術修行にてまかり越した松前浪士、神道無念流・永倉新八と申す。
当道場師範に、一手御教導にあずかりたく、お目通り願いたい」
 道場では、大勢の門人たちが、竹刀を打ちあっている。
 新八が大声で、型どおりの挨拶をのべると、師範席で、門弟たちを見ていた師範が、あわてて駆け寄ってきたが、どこか様子がおかしかった。
「……?」
 新八が、戸惑いをみせていると、
「永倉……おぬし、もしや、永倉の栄治じゃないか?」
「はあ、たしかに拙者、幼名を栄治と申しましたが……」
「俺だよ、俺。なんだよ、忘れちまったのか!? あんだけ可愛がってやったのに、薄情だぞ!」
「も、もしや、あんた……新之助のあんちゃんか」
「そうだよ。おぬしの大先輩の宮藤新之助だ!」

 ここへきて、新八の脳裏に、幼いころの記憶が溢れだした。
 先代の厳しい稽古に泣きべそを浮かべ、それでも涙だけは流さないように耐えている新八を、いつも励ましてくれたのが、十三歳年上の新之助だった。
「なんだよ。新之助あんちゃんだったのかよ。松岡新三郎なんて名前だから、ぜんぜんわからなかったぜ」
「ああ……まあ、俺もいろいろあってな……本名だと、その……いろいろ差し障りがあるんだ。大人なら察しろ」
 この宮藤新之助という男、剣の実力は申し分なかったが、ただひとつ悪い癖があった。
 それは、女にだらしがないことである。
 撃剣館に在籍していたころにも、たびたび女で問題を起こし、先代岡田十松から、何度も叱責をうけていた。
 そして、新八が十二歳のころ、浅草の香具師の女房に手をつけて、刃傷沙汰になり、とうとう江戸を追われる羽目になってしまったのだ。

 新八は、奥の居間に通され、茶をふるまわれた。口にすると、驚くような上等の茶で、羽振りの良さがうかがわれる。
「しかし驚いたな。まさか栄治が武者修行で、俺の道場を訪ねてくるとは……いまは、百合本の師範代か。あいつは、元気でやってるみたいだな」
「俺は、新八ですって。――相変わらず昔の巻物や伝書を集めていて、最近は、講武所の窪田清音師範と、集めたがらくたを自慢しあってますよ」
「わっはっはは! 懐かしいなあ。俺も昔、やつには、さんざん骨董の講釈をきかされたよ」
「ところで、新之助……いや、新三郎さん。俺が今日ここに来たのは……」
 新八は、当初の計画であった、それとなく探る。という方針を、あっさり放棄した。

 昔馴染みとわかった以上、無意味だし、だいいち新八は、嘘やはかりごとが大嫌いなのだ。
 新八の話をきくうちに、新三郎の顔がみるみる青ざめた。
「な、なんだと……あの作田が、一刀のもとに斬られたとな。信じられん……」
「用心棒の作田をご存知なのですか!?」
「ご存知もなにも、やつは、俺が道場を開いてすぐに、この道場に、半年も居候しておったのだ」
 これには、新八も驚いた。
「そりゃあ、まことですか」
「しかし……あの作田が、一合で斬られたとなると、おまえの疑問は、一気に解消だな」
「どういう意味ですか?」
「ふふん。我が道場に、作田を一撃で倒せるものなど、ひとりもおらん!」
 新三郎が自慢気に言いきった。
 新八は、――それは、少しも自慢にならないだろ!
 という、言葉を呑みこんだ。
「おまえ、いま俺のことを、馬鹿にしたな」
「いや、新之助……新三郎あんちゃんを馬鹿にするなんて、とんでもねえ」
「まあきけ。いいか……ここは江戸じゃないし、俺の門弟のほとんどが、百姓か町人で、二本差しなんて、数えるほどしかいねえ。
――なにも、絶対的な強さを求めるだけが、剣術のすべてじゃないと俺は思うぜ」
「俺は、強くなければ、剣術ではないと思います」

 新八は、新三郎の言葉には納得できず、思わず鋭い眼差しで睨みつけた。
 新三郎は、ゆっくりと茶を飲みほすと、可笑しそうに笑った。
「おめえは、ガキのころから、かわらねえなあ……」
「俺は……」
「なあ、栄治……おめえは、まだ若い。わからないのは無理もねえ……だがな、ひとはそれぞれ、剣術も強さの意味も、ひとそれぞれだ」
「しかし……」
「どうだ。久しぶりに、やってみるか」
 新三郎は、立ちあがると、道場に向かった。
 門弟の稽古を中止させると、竹刀をとり、ふたりは向かいあう。

 新八は落胆していた。
 かつて撃剣館で修行していたころ、兄弟子、新三郎の剣は凄まじかった。
 師匠の岡田十松や、百合本と竹刀をあわせ、打ちあうさまは、まさに鬼神のような迫力で、見ているだけで、幼い新八の肌は粟だったものだ。

(――それがどうだ)

 いま、新八の前で竹刀を構える新三郎には、隙こそないものの、増田蔵六に感じたような威圧感が、まるでない。

(こんな山奥で、百姓ばかり相手に稽古していると、あの凄かったあんちゃんが、こんなに腑抜けになるものなのか……)

 新八は、早く勝負を終わらせるため、先の先を狙って、鋭い突きを放った。
――刹那、新三郎が体をかえながら、ふわりと籠手を打った。

(――なにっ!)

 軽い音をたて、新三郎の竹刀は、新八の右籠手を捉えていた。

(な、そんな、ばかな……)

 二本目……。
 今度は要心して、攻めこむのはやめ、正眼に構えて様子を見る。
 相変わらず新三郎からは、闘気が感じられない。
 新八は、戦法を変えて、竹刀を大上段に構えなおす。
 その身体から、激しい殺気がほとばしった。

(蔵六師範から直伝の気組を、見せてやろうじゃねえか!)

 新八から放たれた殺気が、新三郎に叩きつけられた。
 しかし、新三郎は、表情ひとつかえず、それを受け流す。
 焦ってここで先に手をだせば、先ほどの二の舞になることは明らかだ。
 新八は、機を待った。
 やけにゆっくりと、時間だけがすぎてゆく。
 新三郎は、動く気配をみせない。
 ただ、泰然と、そこに立っているだけである。

(こいつは、いくらやってもキリがねえ……よし、攻め方をかえるか)

 そう決心すると、上段の竹刀を下段晴眼にとった。

(――天然理心流・龍尾剣!)

 新八は、いたずらに相手に向けていた殺気を封じこめ、気を臍下丹田に沈めた。
「ほう……」
 新三郎が、はじめて感情をあらわした。
「やるな……栄治。少しは、成長したようだ」
 と、言った瞬間、新三郎は、凄まじい殺気を放ち、唸りをあげて竹刀が振りおろされた。

(これを待ってたぜ!!)

 新八の竹刀は、新三郎の竹刀を跳ねあげ、面に向かって、うちこまれる。

(よし! 決まった!)

 そう思った瞬間、新八の竹刀は、面をかすり、体をかえた新三郎の竹刀が、ぴしりと新八の胴を薙いだ。
「一本。これまでだ」
 新三郎が言った。

 新八は、呆然とした表情で、新三郎に目を向ける。
「栄治。やっぱりおまえ、成長したなあ……いまの 龍尾剣には、かなりひやっとしたぜ。構えも気迫も、増田蔵六師範そっくりだ」
「蔵六師範を、ご存知だったんですか……」
「ああ。以前、にやられたことがある」
「ぶっ……あっはっは!」
 いきなり新八が笑いだすと、つられたように新三郎も笑った。
「ずるいよ、あんちゃん! これじゃあ、俺が、すっかり間抜け野郎じゃねえか」
「莫迦め、兄弟子に勝てるとでも、思ってやがったか!」
 勝ち誇ったように新三郎が言った。

「ところでよ、さっきの盗人の話だが……」
 新三郎が唐突に言った。
「なんですか?」
「そいつらは、八王子横山宿をはじめとして、ここいら武州一帯を荒らして回っている……そして、そのなかのひとりが、神道無念流の使い手だった」
「おそらくは……」
「うむ……だったら、やっぱり、この道場にも、やってきているような気がしてならねえ」
「何か思いあたることがあるんですか?」
「ああ。去年の夏ごろ、この青梅宿の商家にも、それらしい盗賊が押しいっていやがるのさ」
「えっ!!」
「そうだ! いいものがある。――栄治、ちょっとこい!」

 新三郎は、そう言うと、あわてて奥の部屋にとって返し、新八が続く。何事かと眼を丸くしていると、書棚から三冊の帳面のようなものをとりだした。
「こりゃあ、いったい?」
 思わず新八が訊いた。帳面の表紙には『英名録』
 と、記されている。
「見てのとおり英名録さ」
「なるほど、その手があったか! あんちゃん、冴えてますね」
「あたりめえよ。これでも、おめえの大先輩だ」

 この当時、武者修行をするものは、試合帳と呼ばれる帳面を持ち歩いていた。
 武者修行で訪れた道場の名称と、試合をした相手の名前を記した帳面である。試合が行われず、接待だけの場合は、面談と記した。
 当然、この道場にも、ここを訪れた剣客の署名した帳面があった。
 文化・文政以降、武術の武者修行は、板前、大工などの渡り職人や、無宿渡世人のような、ひとつの生活手段になっていた。
 安政六年には、真田玉川(範之介・天然理心流、北辰一刀流)、江川英山(無双刀流)の連名により『武術英名録』なる本まで出版されている。
 『武術英名録』は、関八州の剣術道場の場所、流派、氏名を紹介した本で、いわば剣術道場ガイドブックと言ってよいだろう。
 ちなみに、『武州 日野宿 天然理心流 土方歳蔵(三)』という名前も掲載されている。

「この帳面には、この道場を訪れたやつ、すべての名前が記されている……もし、盗賊のひとりが、ここに来ていれば、たとえ偽名でも、必ずその名前が出ているはずだ」
「でも、何百人って数の、名前と顔を、いちいち覚えているんですか?」
「おいおい、栄治。ちったあ、頭を使えよ……
いいか。盗賊が跋扈しはじめたのは、三年前からだから、まず、それ以前は省略できる。そして、神道無念流以外の修行者も外す。さらに、だ。作田ほどの男を斬ったやつだ。そんな腕前のやつは、なかなかいない」
「なるほど……」
「そうやって、条件に合わないやつを除けて、残ったやつが、怪しいってわけさ」
 そう言うと、新三郎は、帳面をめくりだし、怪しいやつを見つけるたびに、紙に書きだしていった。
「あっ、あんちゃん。そいつは外して大丈夫だ」
「この野郎は、相当な腕前だったぞ。さんざんてこずらされて、あやうく勝ったはずだ」
「強いはずです……そいつは、練兵館の塾頭ですよ」
「なるほどな。どおりで」
 新三郎が、という名前に、線を引いた。
 半刻もしないうちに、三年ぶんのリストアップが終了した。残った名前は、八人だった。
「ずいぶんと減ったなあ……」
 思わず新八が口にだすと、
「昨今、腕の立つやつは、なかなかいないってことさ」

 新三郎が嘆いた。残った名前は……。


* 稲村雄一郎 信濃高遠 郷士

* 漆原信作  相模下九沢村 郷士

* 前川伊三郎 武蔵忍 藩士

* 森岡清一郎 武蔵川越 浪人

* 新家粂太郎 常陸水戸 浪人

* 磐田克五郎 下野宇都宮 郷士

* 尾高新五郎 武蔵下手計村 郷士

* 藤村順之介 武蔵江戸 旗本

 の、八名だった。

「こいつらは、かなり強かったから、いまでもはっきり覚えてる。下手計しもてばかり村の尾高殿とは勝負がつかず、引き分けた。だが、尾高殿は、豪農一族で分限者だから、外してよいだろう」
「あんちゃん……この藤村さんも外して大丈夫だ。この方は、練兵館の高弟で、二百五十石の旗本です。以前、うちの道場で試合をしたことがある」
「栄治。おまえ、負けただろ」
「俺は、新八ですって。――えっ、なぜわかったんですか!?」
「三本やって、一本取られた……かなりの遣い手だった。おまえごときの、歯が立つ相手ではない」
「いや、いまなら、そう簡単には負けませんよ」
「負けず嫌いめ。やっぱり、おまえは、昔とぜんぜんかわらねえなあ」
 新三郎が大笑いしながら言った。
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