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4 構武所頭取 窪田清音
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太吉は、下谷小島町の市兵衛長屋の狭い部屋で、もう六日もごろごろしていた。
あの男に斬られた傷口は、ようやく薄皮が張り、動かなければ、痛むこともなくなった。
「ちぇ、すっかり筋を覚えちまった……」
読み本を放り投げると、太吉は寝返りをうった。
「おう。太吉はいるかい?」
新八の大きな声がきこえた。
「いるに決まってらあ。この傷で、どこに行けってんだ」
「はははっ、ちげえねえ。ほれっ、土産だ」
無遠慮にあがりこんだ新八が、鳥越神社の茶店の饅頭の包みを放った。
太吉の大好物である。
「ありがとよ。こう、毎日朝から晩までごろごろしてたら、身体にカビが生えちまう。明日から仕事にでるよ」
「そうか。そりゃよかった。ところで、おまえに斬りつけた男だが……」
「八つぁん……それなんだが、もういいよ。おいらは、別に恨んじゃあいねえ。喧嘩で怪我するのは、お互い様。当たり前のことだ」
「まあ、おまえがそう言うならしかたねえが……俺は、そいつが使った技に興味があるんだ」
「ふふっ、八つあんらしいね。技というより、あの野郎に蹴りをくれたとき、しまった……って、すぐに思ったぜ」
太吉が自嘲気味に言った。
「どういうことだい?」
「素人は、ああいうときは、ばたばたと忙しなく動くだろ。でも、やつはちがった。ほとんど動かず、それでいて、素早く体をかえやがった」
「ふうむ、体捌きか……」
「おいらも市ちゃんから、柔のいろはぐらいは、習ったからわかる……彼奴は素人じゃねぇ」
「なるほど……ところで、そいつの言葉尻が……」
「そのことさ。あれは、絶対に江戸っ子じゃねえ。だが、どっかで聞いたようなしゃべり方だった」
「どこできいたのか、覚えてないのか?」
新八がせっつくと、太吉は、にやりと笑った。
「さっき思い出したぜ。おいらの従姉妹が、在所の郷士に嫁いだとき、その家から旦那が挨拶にきたんだが……
あのしゃべり方は、そんときの旦那の言葉とそっくりだった」
「その在所ってのは、どこだ?」
「武州の多摩郡、柴崎村だ」
「おい、それじゃあわからん。 柴崎村って、いったい、どこいらへんにあるんだ?」
「甲州道中の、府中宿のちょっと先のほうだ」
柴崎村は、多摩川の左岸。現在の立川市にある多摩モノレール『柴崎体育館駅』の付近である。
「田舎者にしては、やけに身なりが垢抜けてやがった。商売で江戸には、馴染みがあるんじゃねえかな」
「なるほど、まるっきりの山出しじゃあねえってわけか……」
「気障りだったが、悪いやつじゃなかった。妙に憎めねえんだ……
傷を見た医者が言ってたが、あとちょっと横を斬られてたら、一生足を引きずってたってよ。つまり、おいらの今後を考えて、手加減しやがった……ってことさ」
「そいつは、ますます素人じゃねえな。一度そいつに会ってみてえな」
「はははっ、やっぱり八っつあんは、剣術が頭から離れないね」
新八は、しばらく太吉と馬鹿話をすると、市兵衛長屋をあとにして、亀沢町に向かった。
ところが道場に入ると、百合本の姿が見えない。
「おい。師範は部屋かい?」
新八は、型を使っていた弟子にきいた。
「はい。講武所の男谷下総守さまと窪田清音さまがいらしたので、接待しております」
「な、なんだと!!」
新八の声が裏返った。
男谷下総守信友は、講武所頭取。勝海舟の叔父にあたり、直心影流の当代名人。その名を知らぬ剣客は、江戸にはひとりもいないであろう。
「こいつは、しくじった」
新八は、あわてて挨拶に向かった。
居間に入ると、三人は、古い巻物のようなものを広げ、なにやら話しこんでいる。
「おお、永倉か。男谷信友先生と窪田清音先生だ」
先日、百合本が今戸神社の骨董市で、深甚流剣術の古い伝書を入手した噂を聞きつけ、窪田がそれを見るために訪れ、男谷は、たまたま行きあったので、ついでに挨拶によったようだ。
窪田も講武所頭取で、兵学、軍学、剣術、槍術、居合術など、あらゆる武芸に達しているだけではなく、武芸の古伝の研究もしており、その参考に、この伝書を見に立ちよったという。
「深甚流、ですか……?」
新八がつぶやくと、
「深甚流は、加賀国能美郡深草村の山崎甚四郎、またの名を深草甚四郎が起こした流儀じゃ。かの塚原卜伝と試合い、槍では勝ちを得るも剣では敗れ、その卜伝より新当流を学び、自らの工夫を加え……」
窪田が滔々と語りだした。
そのあまりの熱中ぶりに、男谷も百合本もあきれ顔だ。
もとより新八は、難しい話が苦手なので、はなはだ困りはてた。
「窪田先生、師範代も揃ったことだし、ひとつ、先生の田宮流居合術の真髄を披露してみてはいかがでしょうか」
男谷がそう窪田に提案し、新八は、胸を撫で下ろした。
「そうだな。では、皆にご披露しようかの」
どうやら窪田がその気になり、立ちあがる。百合本と新八が、男谷の助け船に、軽く手を合わせて感謝した。
(――しかし、こんなとぼけたオヤジの居合なんて、見られるものなのかね)
いかにも名人の風格を漂わせた、泰然たる物腰の男谷と比べて、窪田は、ころんとした狸のような体型に、愛嬌のある達磨のような人相である。新八が懸念するのも無理はなかった。
道場には、門弟たちがずらりと居並び、咳ひとつもない。
百合本と男谷は、師範席に座り、新八は、門弟たちと同じように床に正座していた。
窪田は、狸面に笑みを浮かべると、口を開いた。
「さて、百合本道場の皆さまがたに、これから田宮流の居合術をご披露するが……」
と、ここで一拍間を入れて続ける。
「――なに。お代を取ろうとは思わねえ」
門弟たちが一斉に笑い、場がなごやかになった。
「近ごろ世間では、お面だ、お胴だと、竹刀踊りだかなんだかわからねえ、剣術ごっこが流行っているが……おっと、この男谷先生は別だよ」
門弟から再びどっと、笑い声があがる。
新八も、つられて笑ってしまうが、果たして大丈夫なのかという、懸念にとらわれた。
「いまから、拙者が真実の剣術をお見せしよう」
そう言ったとたん、眼を伏せる。
顔をあげると、軽口を叩いていたひょうきんな態度が、それまで見せたことがない真剣な表情にかわった。
気のせいか新八には、窪田の背中あたりから、剣気が吹きあがったように思えた。
窪田の居合は、文字通り新八と百合本の門人たちの肝を抜いた。
腰に大刀一本。右足を前に投げだして座る。
その腰が、すうっと、浮いたかと思った刹那、光が一閃したときには、すでに刀は抜かれて、ぴたりと宙に止まっていた。
いつ抜いたのかも、どのように動いたのかも、誰の眼にも止まらない速業だった。
窪田が、いくつかの型を披露すると、ため息とともに、喝采が巻きおこった。
まんざらでもない表情の窪田は、ざわめきが落ちつくと口を開き、
「さて、こうやって俺が居合を見せると、かならずこういうケチをつける馬鹿がいる……」
と、一同を睨めつける。
「――曰く、刀は一本差しにしないし、座ったままで帯刀する奴なぞいるわけがない……と。
馬鹿言っちゃあいけねえ。これは、実際に戦うときの予行演習じゃあねえ。
この型は、刀を右手で抜かない、ということを教えているのだ。じゃあ、右手で抜かなければ、どこで抜くのか?」
そう言って、窪田は、新八をゆび指し、
「師範代。あんた、わかるかい?」
新八が間髪を入れずに答える。
「左半身の開きではないでしょうか」
「偉い! さすが師範代だ。そのとおり。刀は左半身の開きで抜くのだ」
新八が得意げな顔を浮かべる。
「さて、では、なぜ半身で抜く必要があるのか?
答えは簡単。右手の力で抜いては遅いし、だいいち動きの起こりが丸見えだ。
心得のあるやつが相手なら、抜いたとたんに斬られちまう」
ここで窪田は、にやりと笑い、
「こうやって半身で抜けるようになると、こんなこともできる」
と、言って新八を手招きで呼び寄せ、
「さて師範代には、俺の刀の柄頭を、押さえつけてもらおう」
新八が、窪田の刀の柄に手をかけると、窪田は、うんうん唸りながら、刀を抜こうとして果たせない。
滑稽な演技に、門人たちが一斉に笑う。
「こうやって柄を取られちまったら、相撲取りの力でも、右手じゃ抜けやしねえ。――が、しかし、半身で抜けば」
窪田は、なめらかな動作で、すらりと刀を抜いた。
柄頭を押さえつけていた新八が、体勢を崩し、たたらを踏む。
切っ先は、新八の喉元で、ぴたりと止まっていた。
それを見た門人から、再び喝采が巻き起こった。
「窪田先生、本日は素晴らしい表演。まことにありがとうございました。
門人一同、よい勉強になりました」
窪田と男谷を見送り、百合本が挨拶すると、新八も頭を下げる。
男谷は終始、穏やかな微笑を浮かべていた。
窪田は、新八と帰る方向が同じなので、連れだって歩きだした。
ふたりが両国橋にさしかかると、窪田が口を開いた。
「おまえさんは、ついこないだ免許皆伝を授かったそうだな」
「はっ。おかげさまを持ちまして……」
「おい、新八さん」
不意に窪田が、新八に向き直る。
「わしが見るかぎり、おまえさんには才がある。いずれ剣で身を立てるつもりと見た……だから、老婆心ながら言っておこう。
よいか。免許皆伝とは、その流儀の技を身につけた……という、だけにすぎない。それは、言い換えれば、今から自分自身の修行が始まったということだ」
「はっ」
「そう畏まるな。雇われ師範が悪いとは言わねえが、もっと広く世間を見ろ。それはきっと、おまえさんの糧になるだろう。小さくまとまるなよ……」
窪田は、にやりと笑い、新八の背中を叩いた。
新八は、自然とありがたい気持ちになり、再び窪田に頭を下げた。
亀沢町の百合本道場がある路地の出口に、一軒の蕎麦屋があった。
まだ時分どきではないが、客の出入りが多い。
どうやら繁盛している店のようだが、窓際の席でふたりの男が粘っている。
店主は、なにか言いたげだが、いかにも柄が悪そうな御家人ふうの風体に恐れをなし、黙って迷惑そうな視線を送っていた。
「おい。山口、やつが出てきたぞ」
前澤があわてて立ち上がるのを、山口が手で制した。
「早まるな。どうやら今日は間が悪い……取りやめだ」
「ば、ばか。なに言ってる。臆したのか?」
「連れの男をよく見ろ」
「なんだ。狸面の冴えない親爺じゃないか」
「窪田清音だ」
「窪田……? ――講武所頭取の窪田清音か!」
「相手が悪い。俺たちが束でかかっても敵う相手ではない」
「くそっ!」
男たちの、なにやら揉めている剣呑な様子を見て、蕎麦屋の親爺は、顔を青くした。
「なに、あわてることはない……機会などいくらでもあるさ」
山口は、ゆっくりと杯をあけた。
あの男に斬られた傷口は、ようやく薄皮が張り、動かなければ、痛むこともなくなった。
「ちぇ、すっかり筋を覚えちまった……」
読み本を放り投げると、太吉は寝返りをうった。
「おう。太吉はいるかい?」
新八の大きな声がきこえた。
「いるに決まってらあ。この傷で、どこに行けってんだ」
「はははっ、ちげえねえ。ほれっ、土産だ」
無遠慮にあがりこんだ新八が、鳥越神社の茶店の饅頭の包みを放った。
太吉の大好物である。
「ありがとよ。こう、毎日朝から晩までごろごろしてたら、身体にカビが生えちまう。明日から仕事にでるよ」
「そうか。そりゃよかった。ところで、おまえに斬りつけた男だが……」
「八つぁん……それなんだが、もういいよ。おいらは、別に恨んじゃあいねえ。喧嘩で怪我するのは、お互い様。当たり前のことだ」
「まあ、おまえがそう言うならしかたねえが……俺は、そいつが使った技に興味があるんだ」
「ふふっ、八つあんらしいね。技というより、あの野郎に蹴りをくれたとき、しまった……って、すぐに思ったぜ」
太吉が自嘲気味に言った。
「どういうことだい?」
「素人は、ああいうときは、ばたばたと忙しなく動くだろ。でも、やつはちがった。ほとんど動かず、それでいて、素早く体をかえやがった」
「ふうむ、体捌きか……」
「おいらも市ちゃんから、柔のいろはぐらいは、習ったからわかる……彼奴は素人じゃねぇ」
「なるほど……ところで、そいつの言葉尻が……」
「そのことさ。あれは、絶対に江戸っ子じゃねえ。だが、どっかで聞いたようなしゃべり方だった」
「どこできいたのか、覚えてないのか?」
新八がせっつくと、太吉は、にやりと笑った。
「さっき思い出したぜ。おいらの従姉妹が、在所の郷士に嫁いだとき、その家から旦那が挨拶にきたんだが……
あのしゃべり方は、そんときの旦那の言葉とそっくりだった」
「その在所ってのは、どこだ?」
「武州の多摩郡、柴崎村だ」
「おい、それじゃあわからん。 柴崎村って、いったい、どこいらへんにあるんだ?」
「甲州道中の、府中宿のちょっと先のほうだ」
柴崎村は、多摩川の左岸。現在の立川市にある多摩モノレール『柴崎体育館駅』の付近である。
「田舎者にしては、やけに身なりが垢抜けてやがった。商売で江戸には、馴染みがあるんじゃねえかな」
「なるほど、まるっきりの山出しじゃあねえってわけか……」
「気障りだったが、悪いやつじゃなかった。妙に憎めねえんだ……
傷を見た医者が言ってたが、あとちょっと横を斬られてたら、一生足を引きずってたってよ。つまり、おいらの今後を考えて、手加減しやがった……ってことさ」
「そいつは、ますます素人じゃねえな。一度そいつに会ってみてえな」
「はははっ、やっぱり八っつあんは、剣術が頭から離れないね」
新八は、しばらく太吉と馬鹿話をすると、市兵衛長屋をあとにして、亀沢町に向かった。
ところが道場に入ると、百合本の姿が見えない。
「おい。師範は部屋かい?」
新八は、型を使っていた弟子にきいた。
「はい。講武所の男谷下総守さまと窪田清音さまがいらしたので、接待しております」
「な、なんだと!!」
新八の声が裏返った。
男谷下総守信友は、講武所頭取。勝海舟の叔父にあたり、直心影流の当代名人。その名を知らぬ剣客は、江戸にはひとりもいないであろう。
「こいつは、しくじった」
新八は、あわてて挨拶に向かった。
居間に入ると、三人は、古い巻物のようなものを広げ、なにやら話しこんでいる。
「おお、永倉か。男谷信友先生と窪田清音先生だ」
先日、百合本が今戸神社の骨董市で、深甚流剣術の古い伝書を入手した噂を聞きつけ、窪田がそれを見るために訪れ、男谷は、たまたま行きあったので、ついでに挨拶によったようだ。
窪田も講武所頭取で、兵学、軍学、剣術、槍術、居合術など、あらゆる武芸に達しているだけではなく、武芸の古伝の研究もしており、その参考に、この伝書を見に立ちよったという。
「深甚流、ですか……?」
新八がつぶやくと、
「深甚流は、加賀国能美郡深草村の山崎甚四郎、またの名を深草甚四郎が起こした流儀じゃ。かの塚原卜伝と試合い、槍では勝ちを得るも剣では敗れ、その卜伝より新当流を学び、自らの工夫を加え……」
窪田が滔々と語りだした。
そのあまりの熱中ぶりに、男谷も百合本もあきれ顔だ。
もとより新八は、難しい話が苦手なので、はなはだ困りはてた。
「窪田先生、師範代も揃ったことだし、ひとつ、先生の田宮流居合術の真髄を披露してみてはいかがでしょうか」
男谷がそう窪田に提案し、新八は、胸を撫で下ろした。
「そうだな。では、皆にご披露しようかの」
どうやら窪田がその気になり、立ちあがる。百合本と新八が、男谷の助け船に、軽く手を合わせて感謝した。
(――しかし、こんなとぼけたオヤジの居合なんて、見られるものなのかね)
いかにも名人の風格を漂わせた、泰然たる物腰の男谷と比べて、窪田は、ころんとした狸のような体型に、愛嬌のある達磨のような人相である。新八が懸念するのも無理はなかった。
道場には、門弟たちがずらりと居並び、咳ひとつもない。
百合本と男谷は、師範席に座り、新八は、門弟たちと同じように床に正座していた。
窪田は、狸面に笑みを浮かべると、口を開いた。
「さて、百合本道場の皆さまがたに、これから田宮流の居合術をご披露するが……」
と、ここで一拍間を入れて続ける。
「――なに。お代を取ろうとは思わねえ」
門弟たちが一斉に笑い、場がなごやかになった。
「近ごろ世間では、お面だ、お胴だと、竹刀踊りだかなんだかわからねえ、剣術ごっこが流行っているが……おっと、この男谷先生は別だよ」
門弟から再びどっと、笑い声があがる。
新八も、つられて笑ってしまうが、果たして大丈夫なのかという、懸念にとらわれた。
「いまから、拙者が真実の剣術をお見せしよう」
そう言ったとたん、眼を伏せる。
顔をあげると、軽口を叩いていたひょうきんな態度が、それまで見せたことがない真剣な表情にかわった。
気のせいか新八には、窪田の背中あたりから、剣気が吹きあがったように思えた。
窪田の居合は、文字通り新八と百合本の門人たちの肝を抜いた。
腰に大刀一本。右足を前に投げだして座る。
その腰が、すうっと、浮いたかと思った刹那、光が一閃したときには、すでに刀は抜かれて、ぴたりと宙に止まっていた。
いつ抜いたのかも、どのように動いたのかも、誰の眼にも止まらない速業だった。
窪田が、いくつかの型を披露すると、ため息とともに、喝采が巻きおこった。
まんざらでもない表情の窪田は、ざわめきが落ちつくと口を開き、
「さて、こうやって俺が居合を見せると、かならずこういうケチをつける馬鹿がいる……」
と、一同を睨めつける。
「――曰く、刀は一本差しにしないし、座ったままで帯刀する奴なぞいるわけがない……と。
馬鹿言っちゃあいけねえ。これは、実際に戦うときの予行演習じゃあねえ。
この型は、刀を右手で抜かない、ということを教えているのだ。じゃあ、右手で抜かなければ、どこで抜くのか?」
そう言って、窪田は、新八をゆび指し、
「師範代。あんた、わかるかい?」
新八が間髪を入れずに答える。
「左半身の開きではないでしょうか」
「偉い! さすが師範代だ。そのとおり。刀は左半身の開きで抜くのだ」
新八が得意げな顔を浮かべる。
「さて、では、なぜ半身で抜く必要があるのか?
答えは簡単。右手の力で抜いては遅いし、だいいち動きの起こりが丸見えだ。
心得のあるやつが相手なら、抜いたとたんに斬られちまう」
ここで窪田は、にやりと笑い、
「こうやって半身で抜けるようになると、こんなこともできる」
と、言って新八を手招きで呼び寄せ、
「さて師範代には、俺の刀の柄頭を、押さえつけてもらおう」
新八が、窪田の刀の柄に手をかけると、窪田は、うんうん唸りながら、刀を抜こうとして果たせない。
滑稽な演技に、門人たちが一斉に笑う。
「こうやって柄を取られちまったら、相撲取りの力でも、右手じゃ抜けやしねえ。――が、しかし、半身で抜けば」
窪田は、なめらかな動作で、すらりと刀を抜いた。
柄頭を押さえつけていた新八が、体勢を崩し、たたらを踏む。
切っ先は、新八の喉元で、ぴたりと止まっていた。
それを見た門人から、再び喝采が巻き起こった。
「窪田先生、本日は素晴らしい表演。まことにありがとうございました。
門人一同、よい勉強になりました」
窪田と男谷を見送り、百合本が挨拶すると、新八も頭を下げる。
男谷は終始、穏やかな微笑を浮かべていた。
窪田は、新八と帰る方向が同じなので、連れだって歩きだした。
ふたりが両国橋にさしかかると、窪田が口を開いた。
「おまえさんは、ついこないだ免許皆伝を授かったそうだな」
「はっ。おかげさまを持ちまして……」
「おい、新八さん」
不意に窪田が、新八に向き直る。
「わしが見るかぎり、おまえさんには才がある。いずれ剣で身を立てるつもりと見た……だから、老婆心ながら言っておこう。
よいか。免許皆伝とは、その流儀の技を身につけた……という、だけにすぎない。それは、言い換えれば、今から自分自身の修行が始まったということだ」
「はっ」
「そう畏まるな。雇われ師範が悪いとは言わねえが、もっと広く世間を見ろ。それはきっと、おまえさんの糧になるだろう。小さくまとまるなよ……」
窪田は、にやりと笑い、新八の背中を叩いた。
新八は、自然とありがたい気持ちになり、再び窪田に頭を下げた。
亀沢町の百合本道場がある路地の出口に、一軒の蕎麦屋があった。
まだ時分どきではないが、客の出入りが多い。
どうやら繁盛している店のようだが、窓際の席でふたりの男が粘っている。
店主は、なにか言いたげだが、いかにも柄が悪そうな御家人ふうの風体に恐れをなし、黙って迷惑そうな視線を送っていた。
「おい。山口、やつが出てきたぞ」
前澤があわてて立ち上がるのを、山口が手で制した。
「早まるな。どうやら今日は間が悪い……取りやめだ」
「ば、ばか。なに言ってる。臆したのか?」
「連れの男をよく見ろ」
「なんだ。狸面の冴えない親爺じゃないか」
「窪田清音だ」
「窪田……? ――講武所頭取の窪田清音か!」
「相手が悪い。俺たちが束でかかっても敵う相手ではない」
「くそっ!」
男たちの、なにやら揉めている剣呑な様子を見て、蕎麦屋の親爺は、顔を青くした。
「なに、あわてることはない……機会などいくらでもあるさ」
山口は、ゆっくりと杯をあけた。
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