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見上げた空は・下章
絆の代償
しおりを挟むリエンの最後通牒に、全員がやっと跪いた。さっきまで反抗していたわりに、一度へし折っただけで従順になってくれたので、恐怖政治も悪くないなと思ってしまった。
そう間を置かず、近衛が閉鎖したはずの遠い扉が音もなく開いて、見知った顔を覗かせた。リエンが手を振ると、扉番をしていた騎士がリエンへ礼をして、その者にも頭を下げた。
リエンは唇をむずむずとさせた。だんだんとそれは笑みの形に整えられていく。呆れ笑いや嘲笑ではなく、純粋な歓喜と安堵。
それから、おかしさ。
なんだか「あの日」と似てるようで違うなあと思ったのだ。
今のリエンは王座に登って、糾弾される側ではなくする側になっている。それに一度は乱闘騒ぎが起きかけた(起こした)けれど大人たちのお陰で鎮まり、まさかリエンの発言で全員が大人しく跪いたのだ。数年前からは信じられない現実だ。
その静寂を狙ったかのように、相変わらずのいいタイミングでティオリアが現れて、淡々と彼の主の来臨を告げた。
扉が改めて大きく開き、人影がティオリアを含めて三つ、広間へと足を踏み入れた。
半死半生の貴族たちが末期の呻き声のようなざわつきを見せる。しゃがんだ態勢でヴィーを睨んだりなにかぼそぼそと言ったりしていた。それでも行く手を塞がないのは、ヴィーが「王子」だからだ。少なくともリエンがそうごり押しして釈放させた。ここに至ってそれに抗えば確実に殺されると、鈍い頭でもやっと理解してくれたようで何よりだ。
ヴィーの背後にティオリアとマティスが続く。彼らとワルターはどこまでもヴィーに尽くしてくれたらしいとは聞いている。ヴィーと一緒に牢獄から出て身綺麗にし、ティオリアは投獄と同時に取り上げられたはずの剣を、腰にきちんと佩いていた。体さばきや細かな動作からは鈍っているようには見受けられない。マティスの場合は眼光がものすごく鋭くなっている。特に片眼鏡がついてる方はぎんぎらぎんだ。どんな獄中生活を送ったのだろうと思ったが、その場合、一番気になるのはやっぱりヴィーのことだ。
階段の一番手前で、ベリオルとハロルドとエルサが、周囲と同じようにリエンに跪いたまま微動だにしなかった。ヴィーはその少し後ろに控えめに立ち止まって、リエンを一瞬だけ、藍色の瞳でまっすぐに見つめた。
見るからには、体に厚みがなかった。風が吹けば飛びそうな痩せ具合だが、不健康まではいかないのでまだいいけれども。それから、並んでみないとわからないが、多分髪と一緒に背丈が伸びている。ちなみにリエンの身長はここ数ヵ月ほぼ(全く)伸びなかった。
「――リエン女王陛下、即位おめでとうございます」
リエンは雷を打たれたような衝撃を受けた。
ヴィーが、痩せても麗しさが増すばかりの顔でしれっとリエンが激怒するほど嫌がっていた祝詞を述べたせいではない。これまでリエンには向けなかった、仰々しい作り笑いを浮かべて、跪いたせいでもない。
(声変わりしてる……!)
やや掠れた声は以前よりも低い。喋りにくいだろうにそんな様子をおくびにも出さず、しっとりと微笑んでいるばかり。飴をあげる約束だったのに、すっぽかした。
どうしてヴィーとの約束はしょっちゅう反古になるのだろう。喉は痛くなかっただろうか。というか今も痛くないのだろうか。
「陛下?」
ヴィーがわざとらしく首をかしげて問うてきたので我に返った。
「ありがとう、ヴィオレット」
まるで不公平だと言いたげなどよめきが起きたがリエンは気にしなかった。公平以外の何物でもないのだと理解できない方が頭がおかしい。
リエンはこいこいと手招きした。ヴィーは変わらない笑顔のまま一礼して立ち上がって、エルサたちの脇を通りすぎ、促されるままに階段に足をかけた。大公らはヴィーに目礼して階段下に下りていって、入れ替わりにヴィーがそこに立つ。けれどもリエンにとっては不満でしかない距離だ。もう一度こいこいとすると、はじめてヴィーが呆れたような、照れたような苦笑を浮かべた。容貌がどことなく大人びても、やっぱり中身は変わらない。
「陛下、私があなたのお側に寄ってもよろしいのですか?」
「たった一人の大事な弟をつまはじきにする趣味など持ち合わせていない」
「私は、弟ではないのかもしれないのですよ?」
「『かもしれない』なら私がそうだと言えばどちらかは確定になるわね。あなたは私の弟。後宮にいた頃からずっと絆を育んできた、大事な家族だ」
なんだその超理論は、という顔を隅の式部官がしていた。ヴィーは明らかな泣き笑いの顔になって、「ありがとうございます」と頭を下げた。
「ネフィルさまは、お元気でしたか」
「今頃、生き生きとシュバルツの王子と渡り合っている。ああ、そういえばそのネフィルから伝言があるんだった。『仕方ないから墓参りに招待してやる。いじけず生意気してろ』って」
「……墓参り?」
「そう。ネフィルの墓参り」
「えっ、生きてるんですよね?」
「生きてるよ。遠い未来の、死んだ後の話だよ」
「なにそれ……」
素で呟いたヴィーが一向に王座に近寄らないので、リエンは焦れた。
「ヴィオレット」
王冠を置いて階段を下りて、二段分の距離を開けて、目を伏せていたヴィーの名を呼ぶ。緩やかな段差とはいえ、二段分の高さでちょうど目方が合うことにまたもや衝撃を受けた。とんでもない伸び率じゃないかと思っていると、ヴィーがその視線に気づいて、同じように驚いて、最後ににやっと笑った。してやったりと言いたげな得意気な笑みにも、幼さがもうほとんどなくなっていた。
(玲奈には追い越されなかったのに!)
というか、奈積は子どもたちが成長しきる前に死んでしまった、という方が正しい。それを考えたら嬉しいけれど、やっぱり悔しい。しかし今さら一段登り直すのは格好悪すぎる。
左手にぶらりと携えていた王仗を横向きにして、腕にまとわりつくマントの裾を払いながらヴィーの前に突き出した。
「拒否は許さない。誰の拒絶も認めない。あなたは私の弟。私の後継者。その才を尽くすに足る地位を、今ここに与えよう」
「……それは、ご命令ですか?」
「そうよ。ヴィオレット。あなたに王太子の称号を授ける」
前置きだけは丁寧につけたものの、相変わらずのスパッとした宣言に、ベリオルが跪いて顔を伏せたまま、器用に額に手を当てていた。だがその他は文句は出ていない。出したくても命が惜しいのだろうが、出ていないならないも同然である。
ヴィーは、リエンがなにをするかわかっていただろうに、なぜか困惑したように王仗を見つめ、受け取ろうとしなかった。
「ヴィオレット?」
「……私を慈しんでくださる陛下のお心には深く感謝しておりますが、私では陛下のお側に侍るには力不足です。どうか、ご再考をお願いします」
「……私が、あなたを哀れんで、王太子にさせようとしていると思ってるの?」
ひんやりした声に周囲がびくついた。
リエンは己への同情を許さない。哀れむだけで手を差し伸べないその無責任な情動は、リエンを惨めにするだけだったからだ。檻に閉じ込め、常に飢えた獣に気まぐれに餌を与え、檻から出すでも餌を毎日やるでもなく過ごさせる。それを屈辱と呼ぶのだと姉さまが教えてくれたので、リエンはいつまでも気高くいられた。
そんなリエンにとって、今のヴィーの発言は、間違いなく侮辱に値した。
「この私が、そんな低俗な真似をするとでも?」
「では、違うのですか?」
ヴィーは怯まずしれっと言い返してきた。リエンの逆鱗に触れたように、ヴィーの気にも障ったのだろう。基本的に柔和な性格のくせに、リエンの弟へ向ける気遣いもやりすぎだと真っ向から不満をぶつけて叩き伏せてくるくらい、ヴィーだって気位が高い。リエンは怒りをほどくように笑った。
「……私が背中を預けられるのに、あなた以上に信頼できる相手はいない。この理由じゃ不満?」
「陛下のお言葉はありがたいですが、一度投獄された私を引き立てれば、陛下の負担になると申し上げているのです」
「その遠慮こそ私にしてみれば不満なんだけど」
「遠慮ではなく、事実です。臣下、民衆の納得の得られない強引な手法では、陛下のお情けだとみなが囁くでしょう。引いては陛下のお力を削いでしまうことにも繋がりかねません。私はそのようなご温情を欲しているわけではありません」
「へえ?」
石から削り出され象篏があちこちに施された杖の先端が床を突くと、ゴツンと鳴った。重いなりに音が不穏だ。思わず心配そうに床に目をやるヴィーを、さっさと受け取らないからだと睨み付けた。
「自信がないの?」
「自信?」
「私の弟は、自分の名誉を自力で晴らすことさえできない軟弱者だったのかしら」
「……陛下」
「命令よ」
リエンはヴィーの呆然とした声に己の声を被せた。
「私の足を引っ張らないようにせっせと働きなさい」
自信がないならどうやってでも押し付けてやろう。ヴィーはリエンの弟だし、リエンのできないことをやってのける能力があるし、意地だって持っている。下らない事実だけでヴィーが繋いできた絆は絶てない。リエンが絶たせやしない。そう決めたのだ。
「ヴィオレット」と呼ぶと、ヴィーは数度口を開け閉めして、やがて、やれやれと肩を竦めてため息をついた。この状況で何様かこの弟は。
「……仕方ありませんね」
「ねえわりと女王に向かって失礼じゃない?」
「罰を与えるというならご自由に。それで、その王仗、下さるのですか、下さらないのですか?」
「あげるから、嫌というほど働かせてやる」
「女王陛下のお心のままに」
ヴィーがまた跪いて両手を掌を上にして持ち上げたので、再び横向きにした杖をその両手に載せた。意外な重さに少し姿勢が崩れたヴィーに、リエンは鼻で笑ってやった。
☆☆☆
「よし、ヴィー。陛下呼びやめて。それヴィーに呼ばれるの、予想以上に気持ち悪かった」
玉座の間でするべきことを終え解散させたあと、王さまの執務室に呼び集めた面々の前でのリエンの第一声がこれだった。
ヴィーは額に手を当てて勢いよくため息をついて、他の面々は苦笑して姉弟のやり取りを見守る体勢になった。
「……あのですね、陛下」
「なに?」
「血筋に疑いのある私を、陛下の伴侶候補と見なす者もいるんですよ。これまでのように軽々にお呼びするわけにはいきませんし、陛下もお改めください」
リエンは首を傾げた。
「ヴィーは私と結婚したいわけ?」
エルサがぼそっと「情緒が欠片もありませんわね」と呟くのが聞こえた。ハロルドはうつむいてぷるぷる震えている。ベリオルは全力で首を扉の方向に向けていて、マティスはあらんかぎりの力で気配を消している。三大公は見世物を楽しむような顔をしていた。
「あのですね、陛下」
「なに?」
「私が結婚したいと言ったらするんですか」
「しないけど」
リエンのさらっとした返答に、ヴィーはなぜか怯んだようだった。
「ヴィーはしたいの?」
リエンがもう一度問うと、長い長い沈黙のあと、ヴィーは渋々と答えた。
「……リィと一緒にいられるなら、それもいいかなとは思ったけど」
「けど?」
「ぼくはリィのお婿さんにはなりたくない」
「甘えられなくなるもんね」
茶化すように言ったリエンを、ヴィーは真剣に睨み下ろした。声変わりと同じように、この身長差にもいつか慣れていくのだろうか。
「ぼく、怒ってるんだからね」
「……うん、ごめん」
「仕方ないってわかってはいる。ぼくなんかよりリィの方が大変だったのも。けど、傷ついたし、寂しかったし、苦しかった。リィの痛みを思うだけで息もできないくらい。それでも、やっぱり、リィはぼくのたった一人の姉なんだ」
ヴィーはそっとリエンの手を取った。細い指すらリエンのものより長い。これまで長年握り合わせてきた手がリエンの手を大きく包み込んでいて、ますますリエンは何とも言えない気持ちになりながら弟を見上げた。
「ぼくはね、あなたが望めば結婚だってするよ。嫌だけど。ものすごく嫌だけど」
「ものすごく」
「それくらい嫌だけど、最後にはどうしたってリィを選ぶ。選びたくないけど選ぶ。ぼくの『覚醒』のきっかけはリィだから。ぼくはリィのために今のぼくになったから」
「……ヴィー、あなた」
「父上に、教えてもらった。やっぱりリィも知ってたんだ」
「私だって気づいたのは最近よ。他に、王さまには何を教えられた?」
「アルビオンの『影』の成り立ちとか、ぼくたちのご先祖さまの暴走事例」
この言い様だと、ヴィーはきっと自分の実の父親のことも知っているか、少なくとも察しがついている。この面子でも明言しないのは、盗聴を恐れてのことだろう。知らず知らず固唾を飲んでいたリエンは、ゆっくりと息を吐き出した。
「リィを喪ったら多分ぼくはぼくでいられなくなる。だけどね、だからって、リィ以外が全部無価値なわけじゃない。リィのためだけに全部を捨ててしまいたくない。それにリィに負い目を一生引きずるのも嫌だ。だから結婚したくない。最終手段の中でも箪笥の一番下の引き出しの一番奥にしまっておいてほしいくらい嫌だ」
「地味に嫌な具体例ね。わかりやすいけど」
「色々ね、牢屋にいる間に考えて、悩んで、さっきまでもずっと迷ってたけど、ぼくが一番ぼくでいられるのはリィの弟って立場なんだって思ったから。その立場を守るためなら何でもする。――そういうわけで、陛下、諦めてくださいね」
「ん?あっ、こら、私が望むならって言うなら今ものすごく望んでるから折れなさいよ!ヴィー!」
嫌な予感がしたリエンが引き抜こうとした手をぎゅっと握り、ヴィーが跪いて手の甲に口付けてきた。
「ヴィー!」
「陛下は賢いのでおわかりですね、大切な弟をどのように扱えばいいか」
「姉に脅しをかけるな!」
「態度を改めるのは、陛下が結婚相手を捕まえてきた後に考えます」
リエンにとってみればそれは一生無理と同義であった。子が産めないのに伴侶を求めるのは無駄なだけで、むしろ煩わしい。ヴィーや他の面々はリエンが子を産めば継承権はそちらが優先されると思って、血筋の怪しいヴィーの立太子を承諾したのだろうが、リエンの描く未来ではヴィーが国王になるのは確定事項だ。反対勢力はこれから生かさず殺さず徹底的に痛め付けていく所存である。アルダとの戦争すら利用して。
唯一、リエンの王としての身体的欠陥を知るユゥがここにいれば味方になってくれたはずなのに、と迂闊に文句も言えず歯をぎりぎり鳴らしていると、やたらと勘がいいヴィーがじっと見つめてきた。
「ところで陛下、他に重大な隠し事はありませんか?」
リエンはごまかしと腹いせをかねて、ヴィーの両頬をつまんで思いっきり引っ張ることにした。
(……そういえば結婚問題があったんだった)
みょんみょんと肉が少なくなった頬をつねりながら内心で舌打ちした。お見合い攻撃をさばくのは、容易いけれども面倒くさい。しかも王となったからにはこれまでのように人を遠ざけ人から遠ざかるばかりではいられない。秘密がばれる可能性がむくむくと膨らんでいる。特に職業柄その辺りに敏感なタバサとヒュレムには、今のうちに口封じのネタを考えておかないといけないだろう。
やっぱりとてつもなく面倒くさい。
ユゥ、早く帰ってきてほしい。
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