孤独な王女

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見上げた空は・上章

泥の舟

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「存外しぶといわ」

 レーヴは喉の奥でくつりと笑いを漏らした。
 瀕死のネフィルは予断を許さない状況ではあるがまだ死んではおらず、王女は逃げおおせ、王子は安全面ではこれ以上ないほど堅固な西の塔の中で生き永らえている。
 しかも、たった一人の直系王族の後継者がいなくなった今、王都ではまことしやかにこんな噂が流れていた。

 ――誘拐された王女さまがお戻りになれば、本当は王さまのお子かもしれないのに、王子さまは死んでしまうだろう。

「やれ。この噂のせいで、それ以前の事故死も病死も出来なくなってしまったわ。もしそんなことが起きれば、アルビオンの責任というわけじゃの」

 ネフィルの暗殺は、ルシェル派末端を「影」が唆したことによるものだった。王子の血筋の疑念を糾弾したレーヴの息子を殺せば、それだけで貴族どもの反感を買う。ネフィルがレーヴの実の息子でなかったとしても、それは後で判明したことであり、口封じにと襲われたのは確かなこと……という筋書きだった。
 筆頭公爵としてのネフィルの功績があるからこそ、その死は本当の血筋に関係なく大きな影響を与えるはずだった。
 弱小派閥に成り下がったルシェル派を追い込み、それとは別にここ半年で王子を支持するようになった者共を離反させ、王子を孤立させる。そのつもりだったが、まだネフィルが生きていることで、日和見にあぐらを掻く連中を動かすほどにはならなかった。それでも、風前の灯には違いなかったが。
 こんな状況だ、これから王子が巻き返せるとは、誰も考えていない。それなら早いうちに王女に恩を売ろうとか、次代に我が家の出世をとか、身勝手な欲から王子の暗殺を企む輩が生まれるのは当然だった。

 しかし、ここで流された噂のせいで、他でもないアルビオンが仇敵を守らなくてはならなくなった。

「伯爵の仕業じゃろう、この噂を流したのは」
「王子さまのお血筋が不確かな間の、ほんのわずかな時間稼ぎに過ぎませんよ」

 ハロルドは笑ってない目で穏やかに微笑んだ。

「困るんですよ。今、この状況で王子さままでお亡くなりになってしまっては」
「伯爵は、あの子どもを王子と信じておる?」
「私は厳正なる調査結果を信じます」
「ベリオル殿の調査は捗っておるかね」
「実は行き詰まっています。恐らくは、あなたと同じところで。――なぜ肝心の不貞相手の名前すら挙げられないのに、今回のことを起こしたのかと思えば。どこにも痕跡が残っていなかったからですね?」
「さて、さて……」

 皺ぶいた笑みでごまかされたが、ハロルドとしてはこの古狐の雑談に付き合うためにこの部屋を訪れた訳ではない。苦情を遠慮なく申し立てた。

「先代殿。今や公爵は不在、名代も別邸から出てこないとなれば、抑えはあなた以外にはいませんが。身内の手綱くらいきちんと握ってくれません?ただでさえ補佐が牢に入り職務が煩雑になったというのに、私を過労死させる気ですか?」
「手伝いが必要ならば与えようが」
「結構です、それくらいならさっさと全員で引き揚げて領地に引きこもり直してください」

 笑顔で嫌味をすらすらと言っていくハロルドに、レーヴはまた笑った。

「よく抜かしよるわ。伯爵ぐらいだぞ、私に面と向かってそれを言えるのは」
「長年の鬱憤が溜まっておりましたもので。あなたのご子息――おっと、『元』でしたね、あの方以外、私、あなたの一族はみんな嫌いなんですよ。ついでに『影』も嫌いになりました。よくも私の家の馬屋番に無体を働きましたね」
「それを言うならあの侍女では?脅迫していたというが」
「彼女であれば、大いに褒めますよ。目覚ましい成長具合です」
「王太子殿下を誘拐した者に与すると言うか?」
「王女ですよ?立太子の儀式も執り行っていないのに、地位に関する美称は陛下のご意志に背いた反逆罪です。そちらこそ覚悟なされてはいかがでしょう」
「陛下はまだお目覚めにはなっておらんようだからな、処分はまだ先だ」
「そうですねぇ、そちらも困ったものですよ」

 聞いていた従者たちの方が冷や汗をかく会話である。特にハロルド側の従者は。給仕に働くサームだけは苦笑する雰囲気だった。
 ハロルド・リベルのアルビオン嫌いは、ここ十数年城にいた彼らにとっては有名だった。レーヴと共に領から出てきた一族は、びしばしと鞭を振るうように言葉を扱うハロルドに気圧されている始末。まあ、彼らが一つとて国のことを考えず、一族のための利益誘導しかしようとしないので仕方がないのだが。
 レーヴはそれらを放任している。同族を咎めないし、ハロルドにも言いたいだけ言わせている。楽しんでいる様子でもあった。

「いやはや、我が娘の先見の明は優れておるな。よくも伯爵のような才幹を見出だしたものだ」
「あなたのご息女には確かに並々ならぬお世話になりましたが、あなたに誉められたくはないですね」

 ハロルドは肩を竦めた。アルビオン嫌いの例外はリーナとネフィル、その二人だけ。
 リエンはアルビオンとは完全なる別物としてハロルドは見ていたし、レーヴ自身もその様子だった。

(この古狐は、どこまで王女さまのお力を信じていらっしゃるのやら)

 リエンの、近親者を見抜く目こそ、「巫」に劣らぬ特殊能力だとハロルドは思っているが、口にしたことはない。リエンの生い立ちと心情を思えば自然と口は閉ざされた。なにより命が惜しい。

「お覚悟めされるべきではないでしょうか、王女さまはあなたを絶対に許しませんよ」
「なに、あの方は、ご自分のお立場を、誰よりもわかっていらっしゃるはずだ」
「王女さまがご自身を王に相応しくないとおっしゃっていたような気がしますが……」
「あの方の他に、誰が継げると?」

 継承権第二位と三位の間には断崖ほどの隔たりがある。アーヴィン・クレマンは先々代の国王の血筋であり、嫡流から離れて長いのである。それに高齢でもあり、その子孫となればますます王家の血からは遠退いている。他の大公であるジラール家とシモン家も同じだ。
 アーヴィンよりも血が近しいはずのエルサは王籍から離れて久しく、子もおらず、出産を頼むには高齢だ。跡継ぎを産めずに死なれては、結局アーヴィンの子孫に王冠が転がっていく。

「血筋だけではない。あの予測不能な思考回路に、どこから湧いてくるのかという活力。不撓不屈という言葉はあの方のためにあろうよ。全く……我が娘は己に勝る難物を生んでしまったな」

 手綱を握ろうと思って握れる者ではないと言うレーヴに、ハロルドは黒い瞳をわざとらしく丸めた。

「おや、そんな方を王にと推すのに、支えになる自信がおありではない?」

 暗に、それではなんのために国を引っ掻き回しにきた、と問うているのだ。
 レーヴは感情の読めない微笑で応えた。

「さてな。忠誠心ゆえかの」
「先代殿ならばそんなものを憚らずともよろしいでしょうに」
「伯爵は容赦がないのう」
「恐れ入ります」
 
 好き放題言っているようでいて、ちゃんと相手を測っていたハロルドは、ここらが退き時だと察して会話を切り上げた。核心に迫ればのらりくらりと逃げる古狐は、なんだかんだ駄々漏れなネフィルとは大違いの手強さである。
 この老人がリエンの能力を確信しているなら、ヴィオレットはリエンの帰還の後も生き延びる。リエンの首根っこを押さえるのにヴィオレットを利用できるからだ。血の繋がっていないことを知っていながらこれまで長年愛してきた、その深く重い情を盾にして。
 レーヴがはじめから本当に殺そうとしていたなら、ヴィオレットの父親にアーノルド「かもしれない」という疑いを残す必要はない。適当にでっち上げることも出来たはずだった。

 しかし、それにしても、アルビオンが手を尽くしても真実の父親の正体が不明なのは、なぜなのか……。

(……王女さまが、全部の証拠を消しておしまいになったのかな、やっぱり)

 残された後宮の記録は、穴だらけで資料としての機能すら果たせない。どこにリエンが手を入れたかわかったものではないほどに。
 加えて、後宮に勤めていた者は全員墓の下で永遠に眠っている。

 いつ、あの方は真実を知ったのだろうか。

(いつ……欺瞞の王子を王にしようと決めたのだろう)












 レーヴのいる部屋から引き揚げたハロルドは、ついてくる従者に歩きながら問いかけた。

「――学園はどうなっています?」
「どうもこうも。お通夜の有り様ですよ。到底講義などできはしません。バルフェ侯爵も一時期の閉鎖を検討に入れていらっしゃいます」

 答える声は男性のものにしては高かった。詰め襟長袖の外套を纏うその従者がため息をつくと、変に艶かしい表情になった。その滑らかな肌も華奢な指先も、小柄な体格も、中性的な魅力に溢れている。小造りの顔の中でも睫毛は長く薄灰色の目を縁取り、薄紅色の唇は艶やかだ。髪を長くしてドレスを纏えば、誰もが振り向く美女になるに違いなかった。

「それなら、あなたにはしばらくクレイグの代役で城に勤めてもらいましょう」
「私が……宰相補佐の仕事を?」
「古狐殿がおっしゃったことですが。リーナさまが見出だしたのはあなたがはじめですよ。私はそれに巻き込まれたんです」
「宰相閣下自らが女性を側に登用すると、よろしくないのでは?」

 男装した女従者は慌てて問いかけたが、ハロルドは構わなかった。

「それなら正式に私の側に控えられる身分をお付けしましょうか。結婚式は当分先になりますが」
「――は?」
「いやはや、両家とも親とは縁が切れているので手続きが楽でいいですね。ベリオルさまは絶対に一秒で承認してくださいますし。今度こそ、あなたにも馬車馬のように働いてもらいますよ。一段落したら学園にも素性を明かして研究を続けられるように骨は折りますから心配はいりません」
「……待っ、待ちなさいよハル!そんな申し込みある!?」
「申し込んでないですよ。決定事項です。これで正式に、あなたを振り回され人生に招待できますね!腰かけ断固反対!どっしりと腰を据えて、忙しすぎて辛い日々を夫婦一丸となって乗り越えましょう!」
「嫌よそんな生々しい誓いの言葉!」

 出自と性別を隠して学園で官僚科の教壇に立つ、教師であり研究者でもあるグレイ・ルベイン――クラリス・ゼレスティア元侯爵令嬢は真っ青になって、たった今婚約者となった同窓生に食ってかかったが、この男が気にするわけがない。むしろ晴れやかに笑ってくれやがった。

「リーナさまへのご恩返しにちょうどいいでしょう。せいぜい役立ってもらいますよ」
「……わかったわよ!」

 恩人の名前を出されたら受け入れざるをえなかったクラリスだが、ふと訝しげに婚約者を見つめた。

「あなた、どうするつもり?」
「どう、とは?」
「王女殿下は、このままだと女王におなりになるわ。でも……」
「王子さまとネフィルさまのことですか?」
「そう。どちらとも親しくしていたのでしょう。まるで心配していない様子だけど、愛想が尽きたの?」
「まさか」

 ハロルドは意外そうに言ったが、クラリスが白々しいと思ったのは仕方がない。王子の余命を引き延ばしたが、そこに私情があるなんて見えないほどに、ハロルドは淡々と仕事をこなしているのだ。

「確かに心配ですよ。ですが、そうして立ち止まってる暇はないでしょう?リーナさまの時もそうでした。そんな感情に時間を使えないんですよ、手がかかる方々ばかりなので」
「その中に――お二人も入ってるの?」
「もちろんですよ。大事な、この国の歯車です」

 クラリスはため息をついた。そういえばそうだった。この男、出会った頃からこんな性格だった。これで薄情というわけではないのも、クラリスはよく知っていた。
 アルビオンと丁々発止やり合える下級貴族出身の若者が、平凡な性格なわけがないというだけのことだ。

「陛下とベリオルさまも、歯車なわけね?」
「ええ」
「もちろんあなたも」
「そうです。そしてあなたも、私が組み込みました」
「それじゃあ、王女殿下は?」
「あの方は特別です」
「あら、さっそく浮気?確かにリーナさまにそっくりだものね」
「違いますよ」

 プロポーズでさえ背中でしでかした男が、はじめてクラリスを振り返った。なるほど特別だ、と他人事に感心したクラリスに、ハロルドはなにか言おうとして、すぐに黙った。

「……ちょっと、なんなのその態度」
「いえ、なんでも。あの方は歯車を回す軸です」
「軸?いえそれよりもなにを言いかけたの」
「さあお仕事に向かいましょうか!」

 後ろから嫁を置いて一人でいくな!という叱責が響いてきたが、言及されても困るので、ハロルドはずんずん先を進んでいった。

 ハロルドは、長きに渡りとんでもない真実をひた隠しにしていたリエンのことを恨んではいない。当然、ヴィオレットも、ネフィルもだ。
 それに関する態度は、リエンが帰ってくるまで保留する。

『この国に生まれてよかった』

 誰一人として不遇から助け出さなかったのに、戦争は大嫌いだから、内乱を起こさないでくれてありがとうと、笑顔で言った少女。
 あれほどまでに悔しく、やるせない思いを味わったことは、他にない。
 だからこそ、今この時が、ハロルドにとっての正念場だった。

 やるべきことは山積している。筆頭公爵が不在なので、官僚だけではなく貴族の抑えも必要だし、ヴィオレットの本当の父親の調査も続行し、形だけでも王女捜索の人手を出し、アルビオンを牽制し、他国の動静も見張らなくては。

(リーナさまの時に比べて、クラリスさまの手が増えても、ベリオルさまともども過労死せずに済むかどうかは運かな……)

 死んでしまっては元も子もないので踏ん張るしかないが。
 加えて、リエンのこれまでの様子を考えると、一つ調査項目が増える。

 王の血筋を誰かのものと塗り替えようとしたルシェルの真意がどこにあったのか。
 なぜ正統な血筋の姫を生かし、虐待しつつも殺すことだけはしなかったのか。
 きっと、知っている人はこの世に一人しか残っていないだろうが、調べない理由にはならない。アルビオンより先に知らなくては。

(ベリオルさまが育成中の密偵では、追いつかないかもしれない)

 つくづくアルビオンの持つ「影」とは便利なものである。だが、今さらのようにハロルドは疑問に思った。
 昔からアルビオンの「影」は貴族社会の暗黙の了解として存在していた。諜報暗殺に優れた彼らは長きに渡り恐れられており、伝統慣習のように意識に染み着いているからこそ、これまで全く気にしたことはなかった。

「……どうしてそんな存在が、王家を差し置いて、アルビオンに?」

 王家は当時、それを黙認したのか。なぜ同じような組織を作らなかったのか。
 アルビオンと王家の結び付きは、アーノルドとリーナの婚姻まで、そんなに強くはなく、むしろ疎遠だったはずだ。



 ああこれは確実に過労死する、とハロルドはひしひし感じつつさらに足を速めたが、走って追いかけてきた嫁の飛び蹴りによって床に撃沈した。









 
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