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一旦立ち止まって振り返る
落花②
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あの日もこんな曇天だった。子どもたちに火薬の取り扱いを教えながらも、早く雨が降って、晴れて、この鬱屈した気分までも晴らしてくれないかなと思っていた。
今思えば、あれは予兆だった。普段から天気に何かを願うことはあまりない質だったはずなのだ。願ってどうなることでもないのだから、無駄なことに気を回す余裕などなくて。
でも、あの日だけは。
これからもう二度と晴れ間を拝むことはないと、どこかで予感していたのかもしれなかった。
「――レナ!!」
どくん、と鼓動が大きく打つ。一瞬で喉が干上がり、手足が硬直した。
リエンは知っていた。この光景を。
突然揺れた大地。崩れ落ちる建物。曇天から雨のように降り注ぐ瓦礫。
その落下点に立つ、一人の少年。
「レナ!!」
「レナ!」
叫んだナオも、男どもの隙間から見えていた。あと少しでナオも突破できる。しかし、全身に焦がれそうなほどの灼熱が走ったリエンの方が早かった。
崖に放り出される間際のレナの上着のフードの紐を掴んで、一瞬で手繰り寄せ、走ってきた勢いそのままに思い切り引っ張る。
すると必然、レナと位置が入れ代わることになる。
「ガルダ!!」
ほとんど投げられたレナが、ナオと同じく突破していたガルダに受け止められるのを見て。
ほっとして、ほんのりと笑いそうになった。
でも。
「――あ」
崖から足が浮いていた。
「っこの馬鹿が!!」
ナオは止めかけた足をなんとか踏ん張り、飛ぶように駆けた。レナが進路を邪魔した形になった旦那を追い抜いて、駆ける。
しかし、その女は既にほとんど中空に投げ出されていた。
まるで、あの時のように。
ガツンと、こんなタイミングじゃなくていいのに、何かに頭をぶん殴られた気がした。
レナも同様だった。二人は曇天と瓦礫の崩れる光景を目にしていた。安心安全の印だったシェルターが牙を向いて、多くの命を飲み込もうと口を開けているようだった。そんな、この世にはありえない場所が、被る。絶望しか待っていない夢と――被る?違う。
あれは夢ではない。本当にあったことだった。
「馬鹿なつ!!」
「リエンさま!!」
振り絞った声に、その女が顔を向ける。
とたん、ナオの背筋にぞっと悪寒が走った。
――やめろ。笑うな。頼むから笑うなよ。
助けられなかった後悔なんて、一度で充分なんだ。
遮二無二駆けてると、滞空しているその女の視線が、ナオの後ろに逸れた。ついで表情がくしゃりと歪み、手がこちらに伸びる。ナオも必死に伸ばした。
しかし、わずかに一歩届かず、崖から長い髪を残して消えた。
気づけば踏み込む足に力が入り、崖から飛び出していた。
地面が大きく抉れ、足形を残す。蹴立てられた土砂がガルダの懐やレナの背後に降りかかるが、気にする由もなし。
少女の腕が天に伸ばされているのをようやく掴んでぎゅっと懐に抱きしめたナオは、そのまま、まっ逆さまに崖下へ墜落していった。
☆☆☆
唖然と居竦むレナの目の前で、鮮血が滝のように迸った。
「……レナ、といったか。怖いなら目を瞑っていろ」
氷より冷たい声。断末魔の悲鳴に紛れて、その軽やかな足音や剣が唸る音、肉を切り裂き命を絶つ音が響き渡る。気づけば、誰かが抱き止めてくれた場所で、レナはへたりこんで崖を見下ろしていた。
「あ……ぅぁ……っ」
レナは大きく混乱していた。過呼吸になり、全身がぶるぶる震える。ようやく山賊たちを蹴散らして追いつき、背中を宥めてくれる仲間たちは、レナの震えは崖から落ちかけたことへの恐怖だろうと考え、もう無事だよ、と声をかけた。
しかし違う。違うのだ。
レナはもう「玲奈」を取り戻していた。欠けたものが埋まるようにぴったりと。
「奈積姉……!」
また、助けられた。身を呈して。いつも、いつもぼくは助けられて……!
ぼくを拾ってくれた人なのに。ぼくに名前をくれた人なのに。愛して、守って、育んでくれた人なのに。
――たった一人の……。
「お前ら、レナを連れて山を出ろ」
涙でぐちゃぐちゃになり、嗚咽が揺らす耳に、そんな声が聞こえた。それで戻ってきた感じになった。一度抱えあげられ、逞しい腕に背中を優しく叩かれる。
「レナ。安心しろ。二人はちゃんと生きてるさ。おれが迎えにいくんだからな」
「バ、バルト」
そうだ。この世界にはバルトもいた。密林でとっさにレナを放って斬りつけられたはずだけど、顔についたわずかな血は傷が浅いことを主張していた。同時に、二人という単語に思い出したこと。
同じように崖から飛び出したナオ。懐かしい呼称で奈積姉を呼んで、消えていった。
「しかし、バルトさま……」
「『裏殺し』が山賊どもを始末してくれた今が逃げ時だ。おれは先に行っちまった『裏殺し』を追いかけて、ナオを回収してくる」
「ぼ、ぼくも、行きたい。行く」
「お前はゆっくり休め。今足手まといはいらん」
「……っ」
「ならおれが行きます。レナ、安心しな。ナオがいつでも無駄に運が強いの知ってるだろ?お姫さまも、ナオが一緒なら大丈夫」
キーランがまるで陽だまりのように微笑んで、頭を撫でてくれた。それで、ようやく喉の奥に空気が届いた気がした。反対に、涙はさらに量を増した。以前掴み取れなかった手。膝をついて失意に暮れていた大きな後ろ姿を、まざまざと思い出していた。
「……ナ、ナオ、間に合った、の……?」
「抱きしめてたから、あれならナオの運の方が勝つよ。幸運と悪運は紙一重ってね!」
「あいつはとことん王女が相手だと言うのを失念してるんじゃないか」
「あははっ!ありそうですね!あいつたまにアホですもん!」
にやりと言ったバルトの言葉にキーランが大声で笑う。そして、またくしゃりと頭を撫でられた。
「じゃな。行ってくる」
レナは他の仲間の手に預けられた。二人が二言三言言いおき、片手を挨拶代わりに上げて駆け出していくのを、ただ見守るしか、なかった。
☆☆☆
……ぴちょん、と雫が頬に落ちた感触で、リエンは意識を取り戻した。同時に全身に襲いかかる苦痛に呻いたが、何かに拘束されて体の自由が利かない。
視界に広がるのは繁茂する下草の集まり。少し目線を動かせば、薄暗い森の風景が目に入った。
(……ええと……?)
何があったんだっけと思い、また顔に水滴が当たる。今度は数ヵ所。すんと鼻をひくつかせれば、妙に生臭い臭いを感じた。雨の匂いだ。首を動かしたら、鼻先が触れそうな距離に誰かの顔があった。
「ナオっ……つぅ」
拘束されたように感じていたのは、ナオに抱きしめられているからだと気づいた。ナオの重みと全身の痛みが体の動きを妨げている。しかし、雨なら早くここから動かないといけない。崖から転落して、この位置もよくわかっていないのに、今体調を崩すわけにはいかなかった。
なんとかナオの下から這い出て、全身を確認する。……珍しく運が働いたらしい。全身打撲と浅い擦り傷切り傷だけ。ほっとして、まだ気絶しているらしいナオに振り返って、さあっと青ざめた。
ナオの片腕が酷く腫れ、片足の足首が奇妙にねじ曲がっている。さらにリエンよりもよっぽど擦り傷などが多い。手の爪が剥げて血が流れてしまっているのもわかった。横向きに倒れているその懐に、リエンは収まっていたのだ。
なぜリエンに比べて重傷なのか、考えなくてもわかる。
運とかいう話じゃなかった。
上を見上げたが、常緑樹の葉が生い茂って空が見えない。しかしよく見ると、所々で枝が無惨に折れているのを見つけた。
そうしているうちにも、体に冷たい雨が打ち付けられる。
雨が本降りになろうとしていた。
ざあざあとしとどに打ち付ける雨の中、リエンはナオを担いで森をさ迷った。ナオの左腕と右足は、ワンピースの裾や腰帯を裂いて作った即席の包帯と、まっすぐした木の枝を添え木にして固定している。
奈音ならば利き腕も利き足も骨折していない方だ。ナオもそうであればいいと、それを心の支えにして、リエンは薄暗い森をゆっくりと歩いていった。
寒さを感じる余裕もなかったが、背中になんとかおぶったナオの体温が、異様に高く感じることだけが気がかりだった。
(お願い……死なないで……)
声に出していたかもしれない。それもどうでもよかった。
ナオはまだ、目を覚まさない。
進む方向が正しいのかもわからない。夜ではないことは確かだが、方角がわかるような手がかりは、何一つとしてリエンの手元にはなかった。とりあえず雨宿りができる場所があれば、それでいい。
足もとがぬかるみ、前髪から垂れる雫が視界をさらに妨げた。苔や草に滑って何度も転んだ。その度にリエンは泥に汚れたが、ナオだけはなんとしてでも庇った。
そして、転ぶ度に心が挫けそうになる。今日だけでも何度も修羅場を潜り抜けて、溜まりに溜まった疲労で手足が震えていた。体はぼろぼろだった。心も引き裂かれかけている。
歩いていても、転んでいても、同じひどい後悔が襲いかかってくる。……落ちる寸前に、手を伸ばさなかったら。ナオは止まっていたかもしれなかった。姉さまがなおに手を伸ばさなかったように。
……これが姉さまは嫌だったのだ。対等な誰かなんて必要ない。私なんかのために、誰も命を捧げる必要なんてないのだ。助けてって、望んだ端からみんな死んでゆく……私の価値はその程度でしかないと、世界が訴えかけているような。
「ごめん……ごめんね、ナオ。ごめんね……」
泣いていたかもしれない。様々な感覚が麻痺してよくわからない。不明瞭な視界、慣れない森の中。誰かを背負うなんて「リエン」には生まれてはじめてで、でもそんなのは関係ない。
「奈積」が助けられるなら。もう惜しまない。受け入れよう、認めよう。だから。
――姉さま。姉さま、私の半身。
どうか。どうか。助けて。
ナオを、私の仲間を。
私を助けてくれた、この人を。
「……っ」
べしゃっと、また転んだ。数えてないが、これで二桁はいった気がする。
これまでと同じようにナオの下敷きになった。もがくように腕を立てて起き上がろうとすると、手がぬかるみに滑って、また頭から水溜まりに突っ込んだ。口と鼻から泥水が入って咳き込み、やがて、苦笑いが込み上げるようになった。
(……散々だ……)
薄暗い雨の世界に、一人で置き去りになった気分だった。
……もう、充分に頑張った気がした。
とうとう手足に力が入らなくなった。末端の感覚がない。背中のナオの重さも、熱も感じなくなっていたことに、今さら気づいた。
人を一人担いで、みっともなくとも、何度も転びながらも、ここまで歩ききったのだ。
もういいだろう。疲れた。
ずっと昔から、こうして人知れず死にたいと思っていたのだ。奈積の頃から、ずっと、ずっと。怜が死んで、瘡蓋が一向に治らず血が滲む心を抱えて。
いつまで生きていけばいいのか、毎日目が覚める度に絶望した長い日々よ。
「……あ、はは……」
ナオの体の下でもぞもぞ動いて仰向けになり、ナオの顔を胸に抱えた。見上げると、やはり空は見えない。最期くらい見たいのにいつもこうだ。
顔が大粒の雨に晒されて、泥が少しずつ頬を伝って流れ落ちていく。死に水まではじめから用意されているとは、なんとも便利な。
……結局、この世界も私を殺したかったらしい。
でも、ナオだけは殺させない。あの世界で何度も傷ついてきたのを知っている。この世界での苦労も多少は察している。
第一、ナオには帰るべき場所があるのだ。
(……レナも、一人にできないしね……)
この世界で、よもや出会えるとは思ってもみなかった同胞たち。
出会えただけで本望だ。
熱を分けるように抱きしめて、目を閉じた。ごめんね、と唇だけで呟く。ナオの濡れそぼった尻尾のような髪を撫でながら、ごめんね、と何度も。気が遠くなってきた。
『――リエンさま』
幻の声が聞こえたと思うと、閉じた瞼の裏に、ぽつんと幻の人が立っていた。何度も何度も会いたいと思い描いた姉さまではなく、水仙の紋がついた大剣をもつ青年。でも不満には思わなかった。誰かの粋な計らいにますます笑ったくらいだ。
一緒に死んでくれると誓ってくれたのは、こんなひどい雨の日だったね。私なんかと一緒に、荒んだ道を歩いてくれると誓ってくれた人。私なんかのために、全部を捨てていいなんて言ってくれた人。
『風邪を引きますよ』
『絶対に、お傍を離れることはありません』
『一緒に頑張りましょう』
傘を差しかけてくれてありがとう。
抱きしめてくれてありがとう。
欲しかった言葉を言ってくれて、ありがとう。
私、とてもとても、嬉しかったのよ。涙がこぼれるほどの幸福を、あなたが初めてくれたのよ。怜も、姉さまもくれなかった共に歩く未来を。
でも、もういい。
言ってくれただけで充分だから。たくさん長生きしてね。
私のために死ぬなんて、そんな馬鹿なことしなくていいから。誰かが死ぬ姿を見るのは、ひどく辛くて重いことだから。
『お願いです。死なないでください』
(ごめんね。先に逝くね)
遺してごめんね、ガルダ。
今思えば、あれは予兆だった。普段から天気に何かを願うことはあまりない質だったはずなのだ。願ってどうなることでもないのだから、無駄なことに気を回す余裕などなくて。
でも、あの日だけは。
これからもう二度と晴れ間を拝むことはないと、どこかで予感していたのかもしれなかった。
「――レナ!!」
どくん、と鼓動が大きく打つ。一瞬で喉が干上がり、手足が硬直した。
リエンは知っていた。この光景を。
突然揺れた大地。崩れ落ちる建物。曇天から雨のように降り注ぐ瓦礫。
その落下点に立つ、一人の少年。
「レナ!!」
「レナ!」
叫んだナオも、男どもの隙間から見えていた。あと少しでナオも突破できる。しかし、全身に焦がれそうなほどの灼熱が走ったリエンの方が早かった。
崖に放り出される間際のレナの上着のフードの紐を掴んで、一瞬で手繰り寄せ、走ってきた勢いそのままに思い切り引っ張る。
すると必然、レナと位置が入れ代わることになる。
「ガルダ!!」
ほとんど投げられたレナが、ナオと同じく突破していたガルダに受け止められるのを見て。
ほっとして、ほんのりと笑いそうになった。
でも。
「――あ」
崖から足が浮いていた。
「っこの馬鹿が!!」
ナオは止めかけた足をなんとか踏ん張り、飛ぶように駆けた。レナが進路を邪魔した形になった旦那を追い抜いて、駆ける。
しかし、その女は既にほとんど中空に投げ出されていた。
まるで、あの時のように。
ガツンと、こんなタイミングじゃなくていいのに、何かに頭をぶん殴られた気がした。
レナも同様だった。二人は曇天と瓦礫の崩れる光景を目にしていた。安心安全の印だったシェルターが牙を向いて、多くの命を飲み込もうと口を開けているようだった。そんな、この世にはありえない場所が、被る。絶望しか待っていない夢と――被る?違う。
あれは夢ではない。本当にあったことだった。
「馬鹿なつ!!」
「リエンさま!!」
振り絞った声に、その女が顔を向ける。
とたん、ナオの背筋にぞっと悪寒が走った。
――やめろ。笑うな。頼むから笑うなよ。
助けられなかった後悔なんて、一度で充分なんだ。
遮二無二駆けてると、滞空しているその女の視線が、ナオの後ろに逸れた。ついで表情がくしゃりと歪み、手がこちらに伸びる。ナオも必死に伸ばした。
しかし、わずかに一歩届かず、崖から長い髪を残して消えた。
気づけば踏み込む足に力が入り、崖から飛び出していた。
地面が大きく抉れ、足形を残す。蹴立てられた土砂がガルダの懐やレナの背後に降りかかるが、気にする由もなし。
少女の腕が天に伸ばされているのをようやく掴んでぎゅっと懐に抱きしめたナオは、そのまま、まっ逆さまに崖下へ墜落していった。
☆☆☆
唖然と居竦むレナの目の前で、鮮血が滝のように迸った。
「……レナ、といったか。怖いなら目を瞑っていろ」
氷より冷たい声。断末魔の悲鳴に紛れて、その軽やかな足音や剣が唸る音、肉を切り裂き命を絶つ音が響き渡る。気づけば、誰かが抱き止めてくれた場所で、レナはへたりこんで崖を見下ろしていた。
「あ……ぅぁ……っ」
レナは大きく混乱していた。過呼吸になり、全身がぶるぶる震える。ようやく山賊たちを蹴散らして追いつき、背中を宥めてくれる仲間たちは、レナの震えは崖から落ちかけたことへの恐怖だろうと考え、もう無事だよ、と声をかけた。
しかし違う。違うのだ。
レナはもう「玲奈」を取り戻していた。欠けたものが埋まるようにぴったりと。
「奈積姉……!」
また、助けられた。身を呈して。いつも、いつもぼくは助けられて……!
ぼくを拾ってくれた人なのに。ぼくに名前をくれた人なのに。愛して、守って、育んでくれた人なのに。
――たった一人の……。
「お前ら、レナを連れて山を出ろ」
涙でぐちゃぐちゃになり、嗚咽が揺らす耳に、そんな声が聞こえた。それで戻ってきた感じになった。一度抱えあげられ、逞しい腕に背中を優しく叩かれる。
「レナ。安心しろ。二人はちゃんと生きてるさ。おれが迎えにいくんだからな」
「バ、バルト」
そうだ。この世界にはバルトもいた。密林でとっさにレナを放って斬りつけられたはずだけど、顔についたわずかな血は傷が浅いことを主張していた。同時に、二人という単語に思い出したこと。
同じように崖から飛び出したナオ。懐かしい呼称で奈積姉を呼んで、消えていった。
「しかし、バルトさま……」
「『裏殺し』が山賊どもを始末してくれた今が逃げ時だ。おれは先に行っちまった『裏殺し』を追いかけて、ナオを回収してくる」
「ぼ、ぼくも、行きたい。行く」
「お前はゆっくり休め。今足手まといはいらん」
「……っ」
「ならおれが行きます。レナ、安心しな。ナオがいつでも無駄に運が強いの知ってるだろ?お姫さまも、ナオが一緒なら大丈夫」
キーランがまるで陽だまりのように微笑んで、頭を撫でてくれた。それで、ようやく喉の奥に空気が届いた気がした。反対に、涙はさらに量を増した。以前掴み取れなかった手。膝をついて失意に暮れていた大きな後ろ姿を、まざまざと思い出していた。
「……ナ、ナオ、間に合った、の……?」
「抱きしめてたから、あれならナオの運の方が勝つよ。幸運と悪運は紙一重ってね!」
「あいつはとことん王女が相手だと言うのを失念してるんじゃないか」
「あははっ!ありそうですね!あいつたまにアホですもん!」
にやりと言ったバルトの言葉にキーランが大声で笑う。そして、またくしゃりと頭を撫でられた。
「じゃな。行ってくる」
レナは他の仲間の手に預けられた。二人が二言三言言いおき、片手を挨拶代わりに上げて駆け出していくのを、ただ見守るしか、なかった。
☆☆☆
……ぴちょん、と雫が頬に落ちた感触で、リエンは意識を取り戻した。同時に全身に襲いかかる苦痛に呻いたが、何かに拘束されて体の自由が利かない。
視界に広がるのは繁茂する下草の集まり。少し目線を動かせば、薄暗い森の風景が目に入った。
(……ええと……?)
何があったんだっけと思い、また顔に水滴が当たる。今度は数ヵ所。すんと鼻をひくつかせれば、妙に生臭い臭いを感じた。雨の匂いだ。首を動かしたら、鼻先が触れそうな距離に誰かの顔があった。
「ナオっ……つぅ」
拘束されたように感じていたのは、ナオに抱きしめられているからだと気づいた。ナオの重みと全身の痛みが体の動きを妨げている。しかし、雨なら早くここから動かないといけない。崖から転落して、この位置もよくわかっていないのに、今体調を崩すわけにはいかなかった。
なんとかナオの下から這い出て、全身を確認する。……珍しく運が働いたらしい。全身打撲と浅い擦り傷切り傷だけ。ほっとして、まだ気絶しているらしいナオに振り返って、さあっと青ざめた。
ナオの片腕が酷く腫れ、片足の足首が奇妙にねじ曲がっている。さらにリエンよりもよっぽど擦り傷などが多い。手の爪が剥げて血が流れてしまっているのもわかった。横向きに倒れているその懐に、リエンは収まっていたのだ。
なぜリエンに比べて重傷なのか、考えなくてもわかる。
運とかいう話じゃなかった。
上を見上げたが、常緑樹の葉が生い茂って空が見えない。しかしよく見ると、所々で枝が無惨に折れているのを見つけた。
そうしているうちにも、体に冷たい雨が打ち付けられる。
雨が本降りになろうとしていた。
ざあざあとしとどに打ち付ける雨の中、リエンはナオを担いで森をさ迷った。ナオの左腕と右足は、ワンピースの裾や腰帯を裂いて作った即席の包帯と、まっすぐした木の枝を添え木にして固定している。
奈音ならば利き腕も利き足も骨折していない方だ。ナオもそうであればいいと、それを心の支えにして、リエンは薄暗い森をゆっくりと歩いていった。
寒さを感じる余裕もなかったが、背中になんとかおぶったナオの体温が、異様に高く感じることだけが気がかりだった。
(お願い……死なないで……)
声に出していたかもしれない。それもどうでもよかった。
ナオはまだ、目を覚まさない。
進む方向が正しいのかもわからない。夜ではないことは確かだが、方角がわかるような手がかりは、何一つとしてリエンの手元にはなかった。とりあえず雨宿りができる場所があれば、それでいい。
足もとがぬかるみ、前髪から垂れる雫が視界をさらに妨げた。苔や草に滑って何度も転んだ。その度にリエンは泥に汚れたが、ナオだけはなんとしてでも庇った。
そして、転ぶ度に心が挫けそうになる。今日だけでも何度も修羅場を潜り抜けて、溜まりに溜まった疲労で手足が震えていた。体はぼろぼろだった。心も引き裂かれかけている。
歩いていても、転んでいても、同じひどい後悔が襲いかかってくる。……落ちる寸前に、手を伸ばさなかったら。ナオは止まっていたかもしれなかった。姉さまがなおに手を伸ばさなかったように。
……これが姉さまは嫌だったのだ。対等な誰かなんて必要ない。私なんかのために、誰も命を捧げる必要なんてないのだ。助けてって、望んだ端からみんな死んでゆく……私の価値はその程度でしかないと、世界が訴えかけているような。
「ごめん……ごめんね、ナオ。ごめんね……」
泣いていたかもしれない。様々な感覚が麻痺してよくわからない。不明瞭な視界、慣れない森の中。誰かを背負うなんて「リエン」には生まれてはじめてで、でもそんなのは関係ない。
「奈積」が助けられるなら。もう惜しまない。受け入れよう、認めよう。だから。
――姉さま。姉さま、私の半身。
どうか。どうか。助けて。
ナオを、私の仲間を。
私を助けてくれた、この人を。
「……っ」
べしゃっと、また転んだ。数えてないが、これで二桁はいった気がする。
これまでと同じようにナオの下敷きになった。もがくように腕を立てて起き上がろうとすると、手がぬかるみに滑って、また頭から水溜まりに突っ込んだ。口と鼻から泥水が入って咳き込み、やがて、苦笑いが込み上げるようになった。
(……散々だ……)
薄暗い雨の世界に、一人で置き去りになった気分だった。
……もう、充分に頑張った気がした。
とうとう手足に力が入らなくなった。末端の感覚がない。背中のナオの重さも、熱も感じなくなっていたことに、今さら気づいた。
人を一人担いで、みっともなくとも、何度も転びながらも、ここまで歩ききったのだ。
もういいだろう。疲れた。
ずっと昔から、こうして人知れず死にたいと思っていたのだ。奈積の頃から、ずっと、ずっと。怜が死んで、瘡蓋が一向に治らず血が滲む心を抱えて。
いつまで生きていけばいいのか、毎日目が覚める度に絶望した長い日々よ。
「……あ、はは……」
ナオの体の下でもぞもぞ動いて仰向けになり、ナオの顔を胸に抱えた。見上げると、やはり空は見えない。最期くらい見たいのにいつもこうだ。
顔が大粒の雨に晒されて、泥が少しずつ頬を伝って流れ落ちていく。死に水まではじめから用意されているとは、なんとも便利な。
……結局、この世界も私を殺したかったらしい。
でも、ナオだけは殺させない。あの世界で何度も傷ついてきたのを知っている。この世界での苦労も多少は察している。
第一、ナオには帰るべき場所があるのだ。
(……レナも、一人にできないしね……)
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出会えただけで本望だ。
熱を分けるように抱きしめて、目を閉じた。ごめんね、と唇だけで呟く。ナオの濡れそぼった尻尾のような髪を撫でながら、ごめんね、と何度も。気が遠くなってきた。
『――リエンさま』
幻の声が聞こえたと思うと、閉じた瞼の裏に、ぽつんと幻の人が立っていた。何度も何度も会いたいと思い描いた姉さまではなく、水仙の紋がついた大剣をもつ青年。でも不満には思わなかった。誰かの粋な計らいにますます笑ったくらいだ。
一緒に死んでくれると誓ってくれたのは、こんなひどい雨の日だったね。私なんかと一緒に、荒んだ道を歩いてくれると誓ってくれた人。私なんかのために、全部を捨てていいなんて言ってくれた人。
『風邪を引きますよ』
『絶対に、お傍を離れることはありません』
『一緒に頑張りましょう』
傘を差しかけてくれてありがとう。
抱きしめてくれてありがとう。
欲しかった言葉を言ってくれて、ありがとう。
私、とてもとても、嬉しかったのよ。涙がこぼれるほどの幸福を、あなたが初めてくれたのよ。怜も、姉さまもくれなかった共に歩く未来を。
でも、もういい。
言ってくれただけで充分だから。たくさん長生きしてね。
私のために死ぬなんて、そんな馬鹿なことしなくていいから。誰かが死ぬ姿を見るのは、ひどく辛くて重いことだから。
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