孤独な王女

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一旦立ち止まって振り返る

禁句

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 全く想像だにしていなかった返答に、ナオは一旦口を開き、また閉じた。

「恩、人?」

 あの女が?
 この世の風景とも思えない荒れ果てた場所に佇んで、絶望に心をずたずたに引き裂かれていた、あの女が?

「比喩とかじゃなくて?」
「全くの現実で。レナ、あなたもそうでしょう。玲奈って名前は、姉さまがつけてくれたんでしょう」
「……あ、そう、だ。そんなこともあった……けど……え?でも、待って。あれは夢で」
「そうだ、夢のはずだろ。現実にいたわけがない。あいつはあそこで死んだ」
「そしてこの世界にたどり着いた」

 さらりと引き継がれた言葉によって、聞いていた三人が混乱の谷間へ突き落とされた。
 犯人のリィはただ、満面の笑みで二人の少年を見つめている。緑の瞳がかつてなくきらきらと輝いていた。

「私は姉さまがいたからここまで生きてこられた。姉さまがいなかったら、虐待で死んでたか、飢え死にしてたか、謀略にはまって死んでいた。だから、命の恩人なの。姉さまを知るあなたたちに出会えて、本当に嬉しいの。私の中だけで消えないことが証明できる。確かに存在してた。姉さまの生きざまを知ってくれている……」

 うきうきと弾む声は、ガルダがこれまで聞いたことがないものを持っていた。まだ状況をのみ込めていないものの、心は疎外感にうちひしがれている。
 この方の全部を知っているとは到底思ってこなかったが、それでも、思い知らされるものがあるようだった。

(この方は、こんな顔をできるのだ……)

 父や弟にも見せてこなかった、一滴の濁りもない愛情と憧憬と。なんの陰りもない表情は、まるで幼子のように周囲を魅了する。
 しかし、はたとガルダは我に返った。

「消えた、というのは……」
「……いなくなったから。私の中に置いていった記憶以外に、跡形もなく」

 やっぱり言葉を理解できないガルダが辛うじて想像できたのは、霞のように存在がつかめない、顔の見えない女だった。強がりを言い、強者を気取り、ほとんどのことをうまく立ち回るのでたちが悪い。死ぬ前に苦笑してそれを受け入れた光景は、ナオたちの口伝てなのにあっさりと想像できた。
 気づけば「あなたのようですね」と口にしていた。

「あなたのその死に対して無防備な生き方は、その女性のせいなんですね」
「――何て言った、今」

 とたん、リィは瞳を鈍く光らせ、従者を見上げたのである。その眼光にはガルダが思わず身を引くほどの迫力がこもっていた。

「姉さまの、せい?まるで悪いみたいな言い方、やめてくれる」

 ガルダはためらい、唾を飲み込み、それでも……それでもと、強く拳を握りしめた。

「……訂正、しません」
「ガルダ」

 地を這う声でも、もう怯まない。ここでないと、もう、言えないとしか思えなかった。
 まっすぐに見返すと、リィも意外にもたじろぐ雰囲気だったので、なおさら気持ちを後押しした。

「――あなたはよすがにする人を間違っている。聞く限りでは高潔でおおらかな女性なんでしょうが、あなたは倣わなくていいところを倣っていると、気づけていないんですか。――遺された側のくせに、どうしてあなたは周りの人間も同じだということを、学ばないんですか」

 がたん、と音がなった。
 椅子を蹴立てて立ち上がった少女は、憤激で顔を真っ赤に染めていた。同時に肩で大きく喘いでいたが、それでも言葉は出てこなかった。それは、ガルダの言い分を認めているわけではない――リィは心の中で念じた。
 違う。違う。ただ、これは突っ込みどころが多すぎるだけで、ガルダの言い分のどれ一つとっても、正しくなくて――。

「つまり、なんだ。こいつもあの女みたいだってのか」

 ナオは背もたれにふんぞり返って足を組み、冷ややかにリィを見上げていた。記憶に残るあの黒い目で、あの態度で。奈積を日がな咎めていたあの頃のように。

 隣のレナも「苦労してるんだね」とガルダを痛ましく見つめている。

 リィには理解できなかった。なんで、なんで。そんな言葉ばかりが頭で渦を巻いている。

「……ま、周りも、同じって、なに?助けてくれたのは姉さまだけだった。私を見つけて、庇ってくれて、名前を教えてくれたのは姉さまだった。みんなはずっと笑って、ただ見てただけだったのよ。泣いてる私を抱きしめてくれて、慰めてくれて、いてもいいよって……そう、言ってくれたのは、姉さまだけで」
そうなのか?あんたのとこの王女さまやそこの旦那は、あんたのことをちっとも思いやってないのか」
「じゃあ姉さまを否定しろって言うの!?」

 リィは、心の一番柔らかいところを――誰にも触ることを許さなかった部分を、ためらいなく、この懐かしい匂いをもつ少年に切り開かれ、暴かれるように感じた。

 事実、ナオは疑問なほどぎらぎらと瞳に怒りを滾らせ、きっぱりと言い切った。

「あの女は最後、助けようとしたおれらを振り返って笑った。最後まで自分が不幸なのに酔いしれて、死んでった。自分が遺す側になるとか全然考えてねえ。何の助けにもならないそんな死に様はな――って言うんだ」

 直後、ナオは顔面を殴り飛ばされていた。










 聞くからに痛い音だった。骨まで折れたような物騒な音に、店中がしんと静まり返る。
 その注目の先に、胸ぐらを掴まれ立たされる少年と、拳を握り振り下ろした態勢の少年がいた。
 驚くのは客たちばかりではない。ガルダとレナでさえも、その目にも止まらぬ早業にぎょっとしていた。

 殴られ顔を逸らせていたナオはといえば、頬骨をも折るような衝撃に、よろめきもしなかった。ただ横を向いた首をゆっくりと戻していく。
 それを見つめるリィの唇は震え、瞳は涙がこぼれそうなほどに潤んでいた。

「――撤回、しろ。今すぐに」

 憎悪に似た憤怒に、ナオは嘲笑でもって応えた。

「やなこった」

 再び襲いかかる拳をナオは右手で受け止めた。そのまま腕を捻り上げようとすると、少女の体がふわりと浮き、眼前に蹴りが迫る。それを首を軽く曲げて回避した後、わずかも態勢を変えることなく、掴んだままの腕を力任せに窓の方に引っ張った。
 反応が遅れたリィの足が、乗っかっていたテーブルから浮いたかと思うとあっさり振り回されて窓に背中から衝突し、突き破った。

 バリンと砕けた音が響き、ガラスの破片があちこちに飛び散った。店から放り出された人影に通行人たちが驚いて悲鳴をあげる。

「…………」

 受け身を取って地べたに四つん這いになっていたリィは、ゆうらりと立ち上がった。砂とガラスの欠片がぱらばらとこぼれ落ちていく。割った窓から少年が悠然と足を踏み出したのを、乱れ落ちる前髪の向こうからじっと見つめていた。

 対する少年も、こちらも怒りのあまり表情を消していた。殴られた頬を左腕で拭いながら、ぺっと血の混じった唾を道端に吐き捨てる。
 そうして尻尾のように髪をしならせて大股に歩み寄っていたが――直後、体を伏せた。
 頭があった位置を鋭い音が通りすぎ、店内の壁に当たってさらに悲鳴が弾ける。漆喰の破片が落ちるそこにめり込んでいるのは、リィの手から放たれた、親指の爪ほどの大きさの小石である。

 しかし、リィの理性の箍は、どこまでも外れていた。
 可憐な唇の奥から発する咆哮すら、人間の口から漏れたものとは思えない血に惑い狂う獣のそれだった。

 唇を舐め、瞳を獰猛な色に染め、身を低く屈め。

 一瞬後。
 身構えるナオの喉元へ飛びかかった。









☆☆☆














 広い往来での突然の乱闘騒ぎに悲鳴を上げていた人々は、徐々に興奮の声を上げるようになった。裏社会と近しいこの街の住民たちには、抗争やなんだかんだで見慣れている光景でもあったのだ。しかも今回の華は年若い少年たちだ。この年頃の少年たちが力をもて余して騒ぐのは世の常であったし、若々しい力をぶつけ合う姿はいい見世物にもなるのだった。ただ、時たまなにかが飛来してくるが、それは俊敏に駆け回る青年によって全て打ち落とされていた。

 そうしてガルダは、今度も空気を裂くように飛ぶ礫を大剣で叩き落とした。二人を止めに入りたいのに、戦うすべのない物見高い人々が邪魔だった。
 しかし、同時に止められるわけがないとも思っていた。今まさに取っ組み合っている二人を振り返ると、ますますその思いは強くなる。

(あれが……あの方の本気なのだ)

 子ども同士というより、獣と獣が食らい合うように見えた。小型の草食動物ではない。鋭い牙と爪を持つ、爆発的なエネルギーを小さな体に押し込めた肉食獣である。
 ウェズの子息と対峙していた時も、ガルダと城で試合をしていた時も、あれでも大人しく枠にはまっていた方なのだ。
 掴み合い、殴り、蹴り、時たま離れれば投擲し、また接近しては地面に揉んどり打つ。牙の代わりにリィは短剣を閃かせ、爪の代わりにナオは鉛玉を振るう。
 その身のこなしや足さばきはやはり野生の勘働きのように本能的で、見ていたガルダですら、ややもすると目で追いきれなかった。
 ナオが痩せた体に似合わぬ豪腕でリィを投げた。リィは空中で身を捻って上空から反撃する。地面に降り立ってからでさえ一度も止まらず、足を刈るように下から襲いかかり、ナオはそれを跳躍してかわしたと思えば踵落としを繰り出した。

 そんな調子だから、乱闘というにはあまりにも実力が伯仲していて、まるで一種の催し物のようにも思えてくる。ガルダがそう思うのだから、中心にいる二人も決着のつかなさに苛立っていた。それぞれ決定的な打撃がないのは遠慮とか手加減とかそういうものではない。
 お互いに本能で大怪我になりそうな攻撃を回避しつつ、罵倒(時折意味不明)を織り混ぜるという中々に高度な技を見せてさえいた。

「取り消せっつってんだろうが鉄砲馬鹿!!」
「はっ、ほざけよチビクソ女!!」

 先にまた爆発したのはリィの方だった。リィはナオの顔面めがけて鋭く短剣を投げ放った。どころか避ける予想地点にも石を投じる二段構えだ。無傷で回避は不可能、しかし鉛玉以外丸腰のナオはためらわなかった。猫のようにしなやかに空中で体勢を変え、悉くをかわしていった。
 そして、ナオの背後に、空気を切り裂いて短剣が飛んでいく。目まぐるしく入れ替わる二人の立ち位置に翻弄されていたガルダは追いつかない。野次馬の一角が、目の前に迫る鈍光を放つ刃に悲鳴をあげた。

 ――カァンッ。

 甲高い音とともに横から弾き上げられた短剣が、くるくると回って落下していく。
 それを無造作に掌で掴み取ったのは、これまで端で見ていたはずのレナだった。
 いつの間に自分の身長より遥かに長い棒を片手に持って、レナは「下がって」と青ざめる大人たちに告げた。その拍子にフードが落ち、白いひと房の髪と色違いの双眸が露になった。
 レナはそのまま、短剣を地面に放り捨てて両手で棒を持ち直した。太すぎて片手では扱いにくいのだ。
 適度に力を抜いて構え、見物客たちのものとは別の熱を胸に抱えながら、ぴたりと二人の喧嘩から目を離さなかった。それは、露払いのためだけではない。
 意外だったのだ。ナオがあそこで喧嘩に乗ったことも、そのあとの手加減のないぶつかり合いも、あの少女の激昂具合も。
 同時に、当然のようにその出来事を受け止めている自分も。
 慣れたように体が勝手に動き、飛び火を対処していた己さえも、驚きの対象だった。

(どうして――)

 不意に名前を呼ばれた気がして振り返ると、バルトの顔が見物客の向こうから見えた。大男は人混みを押し分けてこちらにまっすぐやって来た。

「バルト、どうしたの」
「往来で喧嘩と賭け事が始まったって聞いたからな。確かめるつもりで来たんだが、やっぱり、ナオか。あいつは騒動を呼ばなきゃ気が済まんのか」

 大きな手で背中を撫でられた。急に現実に引き戻されたように感じて、レナはほっと息をついた。
 バルトはレナのその様子に気づかず、目を細めて二人の戦いの行く末を見つめた。ひらりひらりと一瞬も止まることなく舞う赤毛の長髪は、ナオの黒髪と対称的に目を引く鮮やかさだった。見たところ、裏町の荒事連中が一目置く遊撃手たるナオと互角に打ち合い、負けていない。
 明らかにただ者ではない。

「相手は……誰だ」
「リィ。『赤毛の悪魔』」
「……そりゃあ……」

 絶句しているバルトを、レナは一生懸命に胸をそらせて見上げた。

「止めないであげて。じゃれあってるだけだから」
「……あそこまで暴れておいてじゃれあってるって、お前、意外に大物かよ」

 バルトの後ろからアスガロが呆れ声を上げながら現れ、噛みつき合う二頭の獣をちらりと見やった。

「でも、間に入るのには相当覚悟がいることは確かだな、あれ。別の意味で」
「あそこの『裏殺し』は介入できないか」
「見たとこ流れ弾で手一杯だよなぁ……。気が済むまで賭けて待つか。バルト、レナ、どっちが勝つと思う?」
「アスガロ……さすが、金儲けの機会を逃さないね……」

 さすがに呆れたレナは、今度は礫が飛んで来るのを見つけて長柄を無造作に振るった。リーチが長いと足を動かさずに済むので楽だ。ふとその向こうでガルダが見定めるように視線を送っているのに気づいて、困ったように笑っておく。
 バルトとアスガロも、驚きに染めて幼い少年を見下ろした。どこでそんな技を身につけたのか、これまで二人が目にしたことがないレナの姿だった。

「ああ――でも、そんなに悠長にしてる暇は、ないのかな」

 レナが遠くを見据えるように目を細めた。大人びたその様子に、バルトたちがまた違和感を感じながらも視線を追う。
 ガルダや遠巻きにしていた見物客も気づいたらしく、めいめいにその方向を向いていた。

「憲兵が来たぞ!!」

 誰かが叫んだ声に、張り詰めた熱気が破られた。



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