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第三章 最果ての小石
七
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雨季は湿気との壮絶な攻防戦に見舞われたが、夏になると今度は雑草、虫との仁義なき戦いが幕を上げる。
何日と続く快晴のうちに、クランは数日がかりで衣服と書物を全て虫干しにした。家中の衣という衣、本という本をかき集め、窓を全開にして屋内にも涼しい風を通す。麓とは違ってよく風が吹くこの家の周辺では、クランは夏の暑さをあまり感じたことがなかった。すぐ近くに小川が流れていることもあるし、森の奥へ行けば深く澄んだ水を湛えた湖もあるのだ。水遊びには事欠かない日常で生まれ育ったのである。
ミレは当然のような顔でクランの大仕事を手伝った。家の周りに豪快に敷き布を広げ書物を広げ、高い木の枝や軒先に余すことなく縄を吊るしては衣服を干していくクランに、はじめは呆気にとられたものだったが、クランには全てわかっていただけのことだ。悪天候は当分なく、不届きものがここに訪れることはないと。
あくせく働いた後の昼食は、冷たい水に浸した平麺と塩っからい漬物だけの簡単なものだったが、汗だくの二人にとっては何よりのご馳走だった。ちなみに漬物はライルの手作である。食後の二人は、休憩がてら畑に面する縁側で二つそれぞれの桶に水を張り、足を浸した。そんな時、ミレはこんなことを言った。
「なんか意外だね」
「何がですか?」
この頃のクランは、いちいち邪険にするのも疲れると一種の悟りを開いていた。ミレにとっては無駄のみということもある。しかも手伝われたら礼をするものだとサンナに教えられた。つまりどうしたって勝ち目がないのだった。
ミレがすっと指を指したその先を追うと、日陰に小さな手巾がはたりはたりと風に揺れているのを見つけた。上品な薄い橙色のそれは絹織りだ。
「お嬢さんでもあんなの持ってたんだね。や、馬鹿にしてるとかじゃないんだけど」
クランにもミレの言いたいことはなんとなくわかった。以前「遊びがない」と言われたばかりだ。クランの清貧な日常に似つかわしくない高級品で、実際、クランは丁寧にそれを扱っていた。普段使いはしていないが、時おり眺めてはひのしを当て、虫除けを丹念に行い、色落ちすら気を遣う始末だ。仕事服や父母の遺品も同じくらい大切に扱うが、逆に、それ以外のものにはそこまでのことはしない。
「貰い物です」
「仕事の報酬とは別なんだ?」
「はい」
ふうん、とミレは視線をまた手巾にやった。そう長くない沈黙の後、ミレはがらりと話を変えた。
「あ、そうだ。明日からまた仕事に出なくちゃいけないんだ。片付け手伝えなくてごめんね」
「いえ、おかまいなく」
「代わりにお土産なんか買ってくるよ」
「おかまいなく!」
「どういうのがいいかなあ」
だからどうしてこの人は全く人の話を聞かないのか。クランは内心で盛大にぼやきつつ腰を上げた。
「休憩終わり?」
「ミレさんは休んでいていいです。それこそお仕事であちこちに行ったり来たりしてるばかりで大変でしょう」
「お嬢さん、おれ以外の居候にそんな甘いこと言っちゃ駄目だよ。すぐ付け上がるから。お金を払うならまだしもね。そもそも女の子一人ってところから危ないのに」
「――どう危ないんです?」
どの口がそう言うのかと思いながら告げたそれは、クラン自身も驚くほど冷たく響いた。
ミレの人懐こい容貌もまた、驚愕を形作った。真ん丸に見開かれた瞳にクランの暗い微笑が映り込んでいた。
「……お嬢さん?」
「私はもう一年以上、ずっと一人で、ここで暮らしてきました。自力で解決できる問題の何が危ないんです?」
クランは吐き捨てるように言い残し、さっと自分の桶を持って畑に近づいていった。柄杓で掬い上げてばしゃりばしゃりと水を撒く。荒っぽいその仕草を、ミレが呆然と見ている視線にも気づいていたが、全てを無視した。
二人の間には、高い高い壁が聳えている。ミレがこれまで気づかなかっただけだ。
ただ人は絶対にここを越えられない。
そこに期待はなく拒絶もない。単純に事実として――経験として、クランは痛いほどに知っていた。
ぎくしゃくした状態は一日以上続き、そのまま、ミレはまた仕事だと旅立っていった。
今度こそ帰ってこないかもしれないとクランは思った。旅が日常のミレは家におくべき私物を一切持たないようにしているらしく、ミレの寝泊まりする部屋はいつも、人の暮らす痕跡が残っていない。夢か幻かと思うほどに。
でも、それでいい。いい加減、無為に心を掻き乱されたくはなかった。苛立ちのあまりミレを傷つけたかもと焦ることも、ミレがいなくなるとほっと息をつく自分を最低だなと思うことも、もう嫌だった。
ただ人が恐れる通りの、どこまでも血も涙もない人間になれたら、どれほど楽だろう。
(風向きが変わった……今晩は曇り、明日はまた晴れ……でも湿気が戻ってくる)
仕事なら悩まずにこなせるのに、と思いつつ、すっからかんの地下蔵を掃除して虫除けを焚き、棚の具合を確認してから書物を仕舞い直す。庭先から何度も往復してすぐに汗だくになった。
干している時に、あまり使わない書物に痛んでいるものをいくつか発見したので、その修復もこれからだ。クラン一人なら別に全部記憶しているからいいのだけれども、両親から譲り受けた家の中のものをそのまま朽ちさせるのは、嫌だった。
五往目、もう少しだと自分に発破をかけていたクランは、ふと固まった。
庭先で風にはためく夥しいほどの布は、全てクランが使っているわけではない。九割方が遺品だ。そのうち、真っ白で丈夫な麻布に、向こうに立つ人の影がくっきりと描かれていた。
依頼か、と思って捲っていた袖を下ろし、裳裾も整えた。経験則でこの時期の依頼は少ないことを知っていたが、本来人の生死に関わることなので絶対はない。だからといって、まさか正面ではなく裏に来られるとは思っていなかったが。
ただ人は送り人を頑なに怖がって、依頼でも家の中に腰を落ち着けることなく玄関先でやっと応答できるくらいなので、裏の庭に人が来るのは珍しかった。ミレは除く。それに、クランも、玄関の門や扉に頼る部分があったのだろう、それがなく開け放たれた裏庭から勝手に私生活を覗かれているようで、ささくれた気分がぶり返してきた。
「申し訳ありません、表に回ってきて頂けますか」
「あ、いや、その……」
クランが声をかけたからか、人影がとたんにまごつきだした。
聞き覚えのある声に、自ずと表情が険しくなった。
「でしたら、この場でご用を伺います」
日暮れが近い。風が強くなってきており、一層大きく布がはためいた。その向こうにいる人の顔が見える。三年前にクランに助けられ、クランを化け物と喧伝し、今もってなお恐れ憎む少年。
魂送りの時にも一挙手一投足まで散々に睨み付けられたが、構うことなく無視し、久しぶりに大泣きしたあとも素知らぬ態度で応対してやった。魂送りに燃え上がった美しい炎――ディルの後悔と、ディダの憎悪は決して交わらないと、わかっていた。
そういえば親子で気まずい顔をしてたな、と思い出した。恐ろしい送り人がみっともなく泣き顔を晒していたのは滑稽に見えたのだろうか。どうでもいいけど。クラン自身は、送り人の誇りを損なう真似をしたとは思わないから。
「……そ、その」
「はい」
布越しでなく直接に目が合って、ディダはさらに動揺したようだが、逆に肚を決めたようでもあった。耳を赤くし、クランを睨み付けて宣戦布告のように言った。
「父さんに言われて……差し入れを、持ってきた」
* * *
ミレが来なくなったと思ったら、今度はこっちが来るのか。
ディダの三回目のおとないに、クランは内心でげんなりとため息をついた。ちなみに一回目から三回目まで、期間は十日しか空いていない。トウカの森を突っ切れないのでぐるりと回って山を登って来ているはずだが、そんな手間をかけてまで、なぜこうも頻繁に訪ねてくるのか。
(差し入れだけ持ってきて、なんのつもり)
初回、仕事の報酬をもらうのとは別なので要らないと突っぱねると、どうせこのままにしておくと腐るからと押しつけられた。村の作物らしい青菜は炎天下のせいでくたびれていた。背負っていた籠から取り出した時にディダ自身が気まずそうな顔になっていたが、「採れたてだから」と結局はクランに差し出した。確かに葉の形はしおしおしているが、瑞々しい色合いではある。思わず受け取ってしまったのは、ディダが「こんなもので申し訳ないが」という態度だったからだ。化け物には腐れかけのものや食べられたかわからないものがいいだろう、という雰囲気ではなかった。かといって報復を恐れている様子もない。
普通に、人様にあげるものとしてどうかと悩んでいる風だったので、拍子抜けしてしまったのかもしれなかった。その日はそのまま別れ、二回目は前回の反省を活かしたのか(そんなものいらないのに)、塩漬けの根菜を持ってこられた。三回目の今日は、緑と赤い糸の絡んだ髪紐。なぜ急にそうなった。
そろそろライルに相談した方がいいかもしれないと真剣に思った。何がしたいのかさっぱりわからない。
「何度も言いますが、必要ありません」
「その髪、垂れ下がってるけど、邪魔じゃないのか」
「はい」
ディダは三回も訪ねると恐ろしい送り人への緊張がほとんど抜けたようで、適当に頷いたクランに、呆れたような顔になった。同時にちょっぴり痛そうに眉を下げた。
「迷惑だったか?」
それが本当に気まずそうな声であり態度だったので、クランは即答できなかった。……ああ、だからこんな自分の弱さが嫌なのだ。人を傷つけることが今でも怖いなんて。
「……一体、なんなんですか。あなたは私を嫌っているし、恨んでいるし、憎んでいるでしょう。依頼もないのにこんなものをもらういわれはありませんし、装飾品は特に私には必要ありません」
「……それは……」
ディダは言葉に詰まり、目を逸らした。玄関先でのやり取りだったが、彼はそのあとしばらく黙ったままなので、さっさと帰ってくれないかなとクランは考え始めた。そのまま二度と来ないでいい。依頼じゃない限り。最近、いつ来るのかと警戒しきりで、気疲れしていた。
「……あ、あんただって」
「はい?」
「……なんで、ディルを……弟を儀式にあげたとき、泣いたんだ」
クランの顔が歪んだ。
「泣いてはいけませんか」
「違う、そう、じゃ、なくて……」
「血も涙もない人殺しで、人の死を生活の糧にする烏の娘だと、あなた方が思っていることは知っています。ええ、面と向かってはじめに言ってきたのはあなたです。それも覚えてますよ」
「そ、それは」
「私は、あの子の死を惜しいと思った。けれども覆らない定めなのだから、泣いてでも、魂を送りました。なぜ、泣いてはいけないのですか。私が泣くことがそんなにおかしかったですか」
クランが詰め寄ったわけではないのに、ディダが青い顔で後ずさった。今、自分はどんな顔をしているのか気になって、でもそれよりも視界が滲んだことの方が問題だった。屈辱と怒りのせい。
抑えなくては。常に泰然としてあれ。冷静であれ。深呼吸をして瞬きを三回くらいすると、視界は明瞭になった。
クランはにっこりと笑った。三回分の来訪で縮まっていたはずの距離がぽっくりと空けられたことなんて、どうでもよかった。
「――お帰りください。そして、依頼でない限り、ここには来ないでください。私は送り人。そして、あなたは普通の……普通の、人間なんですから」
逃げ出すように去っていくディダの姿をその場で見送り、影も見えなくなるほど遠ざかって、やっと息をついた時。
「やっほー、ただいま、お嬢さん」
背中から声をかけられてクランは飛び上がった。
「ミレさん!?」
「ごめん、裏の庭の方から上がった。なんか玄関口でもめてる雰囲気だったから、おれはいない方がいいかと思って。あ、でも何か起こったときのために待機はしてたよ」
「た――待機って」
クランはディダに放った言葉を思い出し、全身から血の気を引かせた。
血も涙もない人殺し。そう言った。
「おれもこれまで、二人、殺したことあるよ」
「……え?」
「仕事上ね、仕方なく。ほんとなら何もかも捨てて逃げるべきだったんだけど、逃げ場を塞がれて。でもおれには仕事があった。絶対に届けなきゃいけない荷物を背負ってた。そんな時はなりふり構っちゃいられない。だから、殺した」
これまでのほほんのんびりしているのが常だったミレの表情が、このときは厳しく引き締まっていた。それは――見覚えがある。父やライルも、時々こんな顔をした。こんな顔で、嫌なことを全部飲み込んで、振り返らずに進んでいった。己の誇りを貫く道へ。
「今でも後悔してる。お嬢さんは?」
「……して、ます。しないわけが、ないじゃないですか。でも、でも――仕方なかった!私まで死んじゃったらお母さんがまた泣いちゃう!あの子たちを助けないと私は送り人じゃなくなっちゃう!だから……だから、殺しました」
「そっか」
にっこりと、ミレが笑った。精悍さが吹き飛び、いつもの陽気な笑顔で、絶望的な告白をしたクランを見つめた。
「お嬢さんは立派な送り人なんだ」
クランの欲しかった言葉だった。
全てを知ってなお、与えてくれる言葉。人殺しのクランに恐れずに近づき、触れてくる。送り人の誇りを理解してくれる。ディダと同じ、普通の人なのに。
(……シヅキの、おかげ、なのかしら)
でないと信じられない。けれども、そうだ、ミレは普通の人だけど、届け人でもあるのだった。送り人と臣人の間を取り持つ調停者。だったら……ちょっとは、弱音を言ってもいいのだろうか。普通の人の枠には入らないなら、少しだけ、仮面を持ち上げてもいいだろうか。
「……殺したことは後悔してます。でも、助けたことまで後悔したくはありません。でも何度も、しそうになります」
「さっきの奴?」
「……はい」
「そりゃあ、苦しいね」
「……はい」
苦しかった。辛かった。諦めたふりをしても、失望を重ねても、傷ついて、痛んで、膿んで、同じところにまた傷がついて……延々と繰り返される地獄。
「でも、踏みとどまってるんだね」
「ただ人にも例外がいることを知ってます。たった一人だけだけど」
「ん?二人じゃないの?」
「え?」
「あの絹の手巾の人と、君の幼馴染みがいたって聞いたけど」
「え?」
聞いたって誰にだ、という顔をしたクランに、ミレはいたってあっけらかんに言った。
「そうそう、今回ちょっと帰りが遅くなったのはその辺り調べてたからなんだけど。絹の手巾の人は当たりがついたよ。会いに行く?」
「……えっ?」
何日と続く快晴のうちに、クランは数日がかりで衣服と書物を全て虫干しにした。家中の衣という衣、本という本をかき集め、窓を全開にして屋内にも涼しい風を通す。麓とは違ってよく風が吹くこの家の周辺では、クランは夏の暑さをあまり感じたことがなかった。すぐ近くに小川が流れていることもあるし、森の奥へ行けば深く澄んだ水を湛えた湖もあるのだ。水遊びには事欠かない日常で生まれ育ったのである。
ミレは当然のような顔でクランの大仕事を手伝った。家の周りに豪快に敷き布を広げ書物を広げ、高い木の枝や軒先に余すことなく縄を吊るしては衣服を干していくクランに、はじめは呆気にとられたものだったが、クランには全てわかっていただけのことだ。悪天候は当分なく、不届きものがここに訪れることはないと。
あくせく働いた後の昼食は、冷たい水に浸した平麺と塩っからい漬物だけの簡単なものだったが、汗だくの二人にとっては何よりのご馳走だった。ちなみに漬物はライルの手作である。食後の二人は、休憩がてら畑に面する縁側で二つそれぞれの桶に水を張り、足を浸した。そんな時、ミレはこんなことを言った。
「なんか意外だね」
「何がですか?」
この頃のクランは、いちいち邪険にするのも疲れると一種の悟りを開いていた。ミレにとっては無駄のみということもある。しかも手伝われたら礼をするものだとサンナに教えられた。つまりどうしたって勝ち目がないのだった。
ミレがすっと指を指したその先を追うと、日陰に小さな手巾がはたりはたりと風に揺れているのを見つけた。上品な薄い橙色のそれは絹織りだ。
「お嬢さんでもあんなの持ってたんだね。や、馬鹿にしてるとかじゃないんだけど」
クランにもミレの言いたいことはなんとなくわかった。以前「遊びがない」と言われたばかりだ。クランの清貧な日常に似つかわしくない高級品で、実際、クランは丁寧にそれを扱っていた。普段使いはしていないが、時おり眺めてはひのしを当て、虫除けを丹念に行い、色落ちすら気を遣う始末だ。仕事服や父母の遺品も同じくらい大切に扱うが、逆に、それ以外のものにはそこまでのことはしない。
「貰い物です」
「仕事の報酬とは別なんだ?」
「はい」
ふうん、とミレは視線をまた手巾にやった。そう長くない沈黙の後、ミレはがらりと話を変えた。
「あ、そうだ。明日からまた仕事に出なくちゃいけないんだ。片付け手伝えなくてごめんね」
「いえ、おかまいなく」
「代わりにお土産なんか買ってくるよ」
「おかまいなく!」
「どういうのがいいかなあ」
だからどうしてこの人は全く人の話を聞かないのか。クランは内心で盛大にぼやきつつ腰を上げた。
「休憩終わり?」
「ミレさんは休んでいていいです。それこそお仕事であちこちに行ったり来たりしてるばかりで大変でしょう」
「お嬢さん、おれ以外の居候にそんな甘いこと言っちゃ駄目だよ。すぐ付け上がるから。お金を払うならまだしもね。そもそも女の子一人ってところから危ないのに」
「――どう危ないんです?」
どの口がそう言うのかと思いながら告げたそれは、クラン自身も驚くほど冷たく響いた。
ミレの人懐こい容貌もまた、驚愕を形作った。真ん丸に見開かれた瞳にクランの暗い微笑が映り込んでいた。
「……お嬢さん?」
「私はもう一年以上、ずっと一人で、ここで暮らしてきました。自力で解決できる問題の何が危ないんです?」
クランは吐き捨てるように言い残し、さっと自分の桶を持って畑に近づいていった。柄杓で掬い上げてばしゃりばしゃりと水を撒く。荒っぽいその仕草を、ミレが呆然と見ている視線にも気づいていたが、全てを無視した。
二人の間には、高い高い壁が聳えている。ミレがこれまで気づかなかっただけだ。
ただ人は絶対にここを越えられない。
そこに期待はなく拒絶もない。単純に事実として――経験として、クランは痛いほどに知っていた。
ぎくしゃくした状態は一日以上続き、そのまま、ミレはまた仕事だと旅立っていった。
今度こそ帰ってこないかもしれないとクランは思った。旅が日常のミレは家におくべき私物を一切持たないようにしているらしく、ミレの寝泊まりする部屋はいつも、人の暮らす痕跡が残っていない。夢か幻かと思うほどに。
でも、それでいい。いい加減、無為に心を掻き乱されたくはなかった。苛立ちのあまりミレを傷つけたかもと焦ることも、ミレがいなくなるとほっと息をつく自分を最低だなと思うことも、もう嫌だった。
ただ人が恐れる通りの、どこまでも血も涙もない人間になれたら、どれほど楽だろう。
(風向きが変わった……今晩は曇り、明日はまた晴れ……でも湿気が戻ってくる)
仕事なら悩まずにこなせるのに、と思いつつ、すっからかんの地下蔵を掃除して虫除けを焚き、棚の具合を確認してから書物を仕舞い直す。庭先から何度も往復してすぐに汗だくになった。
干している時に、あまり使わない書物に痛んでいるものをいくつか発見したので、その修復もこれからだ。クラン一人なら別に全部記憶しているからいいのだけれども、両親から譲り受けた家の中のものをそのまま朽ちさせるのは、嫌だった。
五往目、もう少しだと自分に発破をかけていたクランは、ふと固まった。
庭先で風にはためく夥しいほどの布は、全てクランが使っているわけではない。九割方が遺品だ。そのうち、真っ白で丈夫な麻布に、向こうに立つ人の影がくっきりと描かれていた。
依頼か、と思って捲っていた袖を下ろし、裳裾も整えた。経験則でこの時期の依頼は少ないことを知っていたが、本来人の生死に関わることなので絶対はない。だからといって、まさか正面ではなく裏に来られるとは思っていなかったが。
ただ人は送り人を頑なに怖がって、依頼でも家の中に腰を落ち着けることなく玄関先でやっと応答できるくらいなので、裏の庭に人が来るのは珍しかった。ミレは除く。それに、クランも、玄関の門や扉に頼る部分があったのだろう、それがなく開け放たれた裏庭から勝手に私生活を覗かれているようで、ささくれた気分がぶり返してきた。
「申し訳ありません、表に回ってきて頂けますか」
「あ、いや、その……」
クランが声をかけたからか、人影がとたんにまごつきだした。
聞き覚えのある声に、自ずと表情が険しくなった。
「でしたら、この場でご用を伺います」
日暮れが近い。風が強くなってきており、一層大きく布がはためいた。その向こうにいる人の顔が見える。三年前にクランに助けられ、クランを化け物と喧伝し、今もってなお恐れ憎む少年。
魂送りの時にも一挙手一投足まで散々に睨み付けられたが、構うことなく無視し、久しぶりに大泣きしたあとも素知らぬ態度で応対してやった。魂送りに燃え上がった美しい炎――ディルの後悔と、ディダの憎悪は決して交わらないと、わかっていた。
そういえば親子で気まずい顔をしてたな、と思い出した。恐ろしい送り人がみっともなく泣き顔を晒していたのは滑稽に見えたのだろうか。どうでもいいけど。クラン自身は、送り人の誇りを損なう真似をしたとは思わないから。
「……そ、その」
「はい」
布越しでなく直接に目が合って、ディダはさらに動揺したようだが、逆に肚を決めたようでもあった。耳を赤くし、クランを睨み付けて宣戦布告のように言った。
「父さんに言われて……差し入れを、持ってきた」
* * *
ミレが来なくなったと思ったら、今度はこっちが来るのか。
ディダの三回目のおとないに、クランは内心でげんなりとため息をついた。ちなみに一回目から三回目まで、期間は十日しか空いていない。トウカの森を突っ切れないのでぐるりと回って山を登って来ているはずだが、そんな手間をかけてまで、なぜこうも頻繁に訪ねてくるのか。
(差し入れだけ持ってきて、なんのつもり)
初回、仕事の報酬をもらうのとは別なので要らないと突っぱねると、どうせこのままにしておくと腐るからと押しつけられた。村の作物らしい青菜は炎天下のせいでくたびれていた。背負っていた籠から取り出した時にディダ自身が気まずそうな顔になっていたが、「採れたてだから」と結局はクランに差し出した。確かに葉の形はしおしおしているが、瑞々しい色合いではある。思わず受け取ってしまったのは、ディダが「こんなもので申し訳ないが」という態度だったからだ。化け物には腐れかけのものや食べられたかわからないものがいいだろう、という雰囲気ではなかった。かといって報復を恐れている様子もない。
普通に、人様にあげるものとしてどうかと悩んでいる風だったので、拍子抜けしてしまったのかもしれなかった。その日はそのまま別れ、二回目は前回の反省を活かしたのか(そんなものいらないのに)、塩漬けの根菜を持ってこられた。三回目の今日は、緑と赤い糸の絡んだ髪紐。なぜ急にそうなった。
そろそろライルに相談した方がいいかもしれないと真剣に思った。何がしたいのかさっぱりわからない。
「何度も言いますが、必要ありません」
「その髪、垂れ下がってるけど、邪魔じゃないのか」
「はい」
ディダは三回も訪ねると恐ろしい送り人への緊張がほとんど抜けたようで、適当に頷いたクランに、呆れたような顔になった。同時にちょっぴり痛そうに眉を下げた。
「迷惑だったか?」
それが本当に気まずそうな声であり態度だったので、クランは即答できなかった。……ああ、だからこんな自分の弱さが嫌なのだ。人を傷つけることが今でも怖いなんて。
「……一体、なんなんですか。あなたは私を嫌っているし、恨んでいるし、憎んでいるでしょう。依頼もないのにこんなものをもらういわれはありませんし、装飾品は特に私には必要ありません」
「……それは……」
ディダは言葉に詰まり、目を逸らした。玄関先でのやり取りだったが、彼はそのあとしばらく黙ったままなので、さっさと帰ってくれないかなとクランは考え始めた。そのまま二度と来ないでいい。依頼じゃない限り。最近、いつ来るのかと警戒しきりで、気疲れしていた。
「……あ、あんただって」
「はい?」
「……なんで、ディルを……弟を儀式にあげたとき、泣いたんだ」
クランの顔が歪んだ。
「泣いてはいけませんか」
「違う、そう、じゃ、なくて……」
「血も涙もない人殺しで、人の死を生活の糧にする烏の娘だと、あなた方が思っていることは知っています。ええ、面と向かってはじめに言ってきたのはあなたです。それも覚えてますよ」
「そ、それは」
「私は、あの子の死を惜しいと思った。けれども覆らない定めなのだから、泣いてでも、魂を送りました。なぜ、泣いてはいけないのですか。私が泣くことがそんなにおかしかったですか」
クランが詰め寄ったわけではないのに、ディダが青い顔で後ずさった。今、自分はどんな顔をしているのか気になって、でもそれよりも視界が滲んだことの方が問題だった。屈辱と怒りのせい。
抑えなくては。常に泰然としてあれ。冷静であれ。深呼吸をして瞬きを三回くらいすると、視界は明瞭になった。
クランはにっこりと笑った。三回分の来訪で縮まっていたはずの距離がぽっくりと空けられたことなんて、どうでもよかった。
「――お帰りください。そして、依頼でない限り、ここには来ないでください。私は送り人。そして、あなたは普通の……普通の、人間なんですから」
逃げ出すように去っていくディダの姿をその場で見送り、影も見えなくなるほど遠ざかって、やっと息をついた時。
「やっほー、ただいま、お嬢さん」
背中から声をかけられてクランは飛び上がった。
「ミレさん!?」
「ごめん、裏の庭の方から上がった。なんか玄関口でもめてる雰囲気だったから、おれはいない方がいいかと思って。あ、でも何か起こったときのために待機はしてたよ」
「た――待機って」
クランはディダに放った言葉を思い出し、全身から血の気を引かせた。
血も涙もない人殺し。そう言った。
「おれもこれまで、二人、殺したことあるよ」
「……え?」
「仕事上ね、仕方なく。ほんとなら何もかも捨てて逃げるべきだったんだけど、逃げ場を塞がれて。でもおれには仕事があった。絶対に届けなきゃいけない荷物を背負ってた。そんな時はなりふり構っちゃいられない。だから、殺した」
これまでのほほんのんびりしているのが常だったミレの表情が、このときは厳しく引き締まっていた。それは――見覚えがある。父やライルも、時々こんな顔をした。こんな顔で、嫌なことを全部飲み込んで、振り返らずに進んでいった。己の誇りを貫く道へ。
「今でも後悔してる。お嬢さんは?」
「……して、ます。しないわけが、ないじゃないですか。でも、でも――仕方なかった!私まで死んじゃったらお母さんがまた泣いちゃう!あの子たちを助けないと私は送り人じゃなくなっちゃう!だから……だから、殺しました」
「そっか」
にっこりと、ミレが笑った。精悍さが吹き飛び、いつもの陽気な笑顔で、絶望的な告白をしたクランを見つめた。
「お嬢さんは立派な送り人なんだ」
クランの欲しかった言葉だった。
全てを知ってなお、与えてくれる言葉。人殺しのクランに恐れずに近づき、触れてくる。送り人の誇りを理解してくれる。ディダと同じ、普通の人なのに。
(……シヅキの、おかげ、なのかしら)
でないと信じられない。けれども、そうだ、ミレは普通の人だけど、届け人でもあるのだった。送り人と臣人の間を取り持つ調停者。だったら……ちょっとは、弱音を言ってもいいのだろうか。普通の人の枠には入らないなら、少しだけ、仮面を持ち上げてもいいだろうか。
「……殺したことは後悔してます。でも、助けたことまで後悔したくはありません。でも何度も、しそうになります」
「さっきの奴?」
「……はい」
「そりゃあ、苦しいね」
「……はい」
苦しかった。辛かった。諦めたふりをしても、失望を重ねても、傷ついて、痛んで、膿んで、同じところにまた傷がついて……延々と繰り返される地獄。
「でも、踏みとどまってるんだね」
「ただ人にも例外がいることを知ってます。たった一人だけだけど」
「ん?二人じゃないの?」
「え?」
「あの絹の手巾の人と、君の幼馴染みがいたって聞いたけど」
「え?」
聞いたって誰にだ、という顔をしたクランに、ミレはいたってあっけらかんに言った。
「そうそう、今回ちょっと帰りが遅くなったのはその辺り調べてたからなんだけど。絹の手巾の人は当たりがついたよ。会いに行く?」
「……えっ?」
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まだまだエルランドと共に茶葉や薬草の『研究』を続けたいファンヌは、エルランドと共にベロテニア王国へと向かうのだが――。
※表紙イラストはタイトルから「お絵描きばりぐっどくん」に作成してもらいました。
※完結しました
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