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挨拶

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 その部屋に足を踏み入れた瞬間、淀んだ空気を肌に感じて顔をしかめた。
 カルロスはこの部屋の主に簡単に挨拶を告げるだけのつもりだったが、相手は長話をするつもりだったのか、先回りして人払いされている。仕方なくカルロスは部屋の中に足を進めた。

「窓を開けますよ」

 返事を待たずカーテンを開け、差し込む眩い春の日差しにさらに顔をしかめながら、窓の鍵を外した。下段を上部に持ち上げれば、風でカーテンがぶわりとめくれ上がる。思ったよりも強い風に驚きつつも、濡れた布が肌にまとわりつくような不快さが一気に吹き飛ばされ、気分は多少よくなった。

「こんな陰気臭くなるまで待つくらいなら、はじめから私を呼びつけておけばいいでしょう、父上。カビが生えますよ」
「生えてたまるか」

 光に追いやられたような暗がりから、嗄れた、しかし力強い声が返ってきた。ベッドに身を起こすカルロスの父、イサーク・ドゥオール侯爵は、燦々たる窓辺から歩み寄ってくるカルロスを見上げ、「式はいつだ」と問いかけた。

「本人は二ヶ月後とか主張していますが、周囲は大反対ですよ。せめて半年は待てって揉めてます。正式な日取りが決まればお知らせしますよ」
「そうか」

 カルロスは寝台の側に椅子を引っ張ってきて腰かけた。別れの挨拶だけのつもりだったが、父に話があるのなら聞くくらいはする。父は長男が結婚して数年経った今も候爵として辣腕を振るう。しかし、時々季節などの些細な変化で寝込むようになってもおり、老いに身が蝕まれているのは確かだった。今このときのように。

「アルハイド子爵は知っているのか」

 父の容態を観察していた、カルロス本来の気質を顕す瞳の柔らかな色が、固く凍りついた。
 なにを、とは言葉にせずともわかっている。人払いはこのためだったらしい。カルロスは吐き捨てるように言った。

「知らないでしょう。私は言っていませんし、彼女にもそういう素振りはありません。なぜです?」
「何度か、城で言葉を交わしたことがある。変わった性質を持っているが、礼儀正しい、誠実な娘だ。婿の家に顔を見せないようには思えなかったが……お前、無理やり置いてきたわけではあるまいな?」
「彼女が決めたなら、私が置いていこうとしても無駄ですよ。むしろ私を置き去りくらい簡単にしますね」
「ほう。いや、確かにそのような気性だったな」
「今回は、あなたの体調が悪いのを口実に、私だけで来ました。主目的も荷物の引き取りですし。婚前の挨拶は別日にしますよ。……延びに延びて結婚式当日になるかもしれませんが、悪しからず」
「だらしがないぞ」
「それが私の売りなので。聞いてくださいよ、私の夜遊びは妻公認なんだそうです」
「……寛大だな。というより、お前はあの前評判でどうして見初められたんだ」
「どこがいいのか尋ねたら『顔』と即答でした」
「…………」

 返事に窮する父という珍しい光景を見たカルロスは、口角に笑みを刻みつつ肩を竦めた。

「ついでに、親族関連で煩わしくなさそうだと思っていそうですね。一門のあのあしらいっぷりを見るに。一応尋ねますが、父上は、私の結婚に際し何かお望みは?」
「なぜ娘ならともかく息子の結婚に親が首を突っ込まねばならん」

 父の口癖が条件反射のように炸裂した。
 カルロスはこの父は変わり者の部類に入るなのだと、放蕩するようになってから気づいた。あいにく今代のドゥオール家は女児に恵まれなかったが、親類の息女を持つ家から請われれば縁談を整えてやるくらい甲斐甲斐しいくせに、本家のカルロスと兄は放任されていた。兄が次期候爵として独自の判断で縁談を持ってきたら、それをそのまま承諾したりといった具合だ。さらには今もこうして、カルロスの結婚にも一切介入しないと宣言している。
 国有数の名家として、これでいいのかと思わなくもない。が、楽でいいのは確かだ。

「……まあ、うまくやってるのなら、それでいいが」

 カルロスが兄の結婚当時について回顧しているうちに、父は無理やり納得したらしい。いや、納得しようとした一瞬でまた不安がよぎったらしく、神妙な顔でカルロスを見上げた。

「……うまくやっているのだな?」
「それなりに。私の趣味にも大らかです」
「そうか、アルハイドは最古の一門だからな。宝の山か」
「兄の形見だとかで丸ごと譲られかけましたがね」
「それは止めろ」
「止めました。借りて、満足したら返しましたよ。いずれは領地の本館に収蔵されている品々もこの手にできたらいいとは思います。借りるという意味で」

 宝飾品を鑑賞し、可能ならば手入れもするのがカルロスの趣味の一つだ。なんなら食器やカトラリーの類も好む。銀磨きに至っては専任の使用人並みの熟練者だ。数多の金銀宝石を側に置く貴族ゆえの贅沢な趣味であり、同時に地味で女々しくもあり、財宝への執着は卑しくすらある。
 しかし、放任主義なイサークはカルロスの趣味を取り立てて咎めることはしなかった。教養の一端だからと家宝を好きなだけ弄らせ、出入りの宝石商や職人たちとカルロスの交流を妨げることもなく。カルロスは家にも親にも恵まれた。……恵まれてないのは、ごく一部の女運くらいのものだ。
 カルロスにはたったそれだけが致命的だった。趣味を趣味の範囲で嗜み、それとは別の夢を掲げて邁進してきたこれまでの人生を捨てて、放蕩せざるをえなくなったほど。

「……それでは、これ以上長居すると厄介なことになるでしょうから、そろそろ失礼しますよ。これからも変わらず、お体にはお気をつけください」

 せっかく心穏やかにいられたのに、思い出したくもない顔を連想してしまった。こういう時の予感でいいことがあった試しがない。
 父も娘ならばともかく息子に名残惜しいなど思わないだろう。踵を返したカルロスに呼び止める声はない。
 扉を出がけに、ふと思いついて言い足した。

「手紙だけは出していますが、兄上とルーカスにもよろしく伝えておいてください」
「ああ」

 嗄れた返事を聞いてから、扉を閉めた。廊下の曲がり角に、ドゥオール家本領メルゼの家令がひっそりと佇んでいた。カルロスと兄の、幼い頃のお目付け役のじいやでもあった。

「カルロスさま、こちらへ」
「……本当に来てるのか。父の見舞いか?」
「そうでございますが、実は、先日もいらしたばかりでして……」
「ってことは、もうおれの結婚を聞きつけたのか」

 カルロスは舌打ちしながら大股に廊下を進んだ。正面に会いたくない相手がいるなら、裏門から出てしまえばいいのだ。
 自分の生まれ育った家を、影を選んで逃げるように歩き、正面玄関からは棟を跨いで斜め奥の庭に出ると、カルロスの乗ってきた馬と自分の馬の轡を押さえながら、かつてこのメルゼの屋敷にいた頃カルロスに仕えていた従者が待っていた。カルロスの荷物は一頭分で足りるはずだが、従者の馬にもなぜか荷物の膨らみがあった。

「旦那さまから、餞別にとお預かりしたものがございます。このセレスに持たせておりますので、後々にご確認ください」
「ついでに私も餞別の一つです。ってわけで、これからまた従者に復帰しますんで、よろしくお願いします、カルロスさま」
「帰れ」
「ひどいご主人さまだなあ即答ですか」
「セレス、言葉を慎みなさい」
「はいはい、じゃあ、餞別の品らしくしときます」

 気が抜ける笑顔で言ったセレスは、その通りに口を閉じ、にっこりと微笑んだ。有無を言わさぬ笑顔だ。
 カルロスは脱力しながら、一応尋ねるべきことを尋ねた。

「王都だけじゃなく、アルハイド領までついてくる気か?」
「カルロスさまが行くなら、どこにでも。嫁入り道具ならぬ婿入り道具で」
「喋って動く恐怖の道具を持ち歩きたくはない。家族はどうした」
「ちょちょっと縁切ってきました。実家はこれからも変わらず家臣として役立てると、旦那さまが約束してくださいました」
「縁切ってるのもほとんど建前だろうが。アルハイド側はお前をドゥオール家の手先と見るのは間違いないんだぞ。父は何を考えて……」
「カルロスさま、あんまりもたもたしてると見つかりますよ?」
「誰のせいだ」

 家令が咳払いで二人の掛け合いを鎮めた。じいやのお説教一歩手前の合図は幼い頃に二人とも刷り込まれている。
 カルロスは渋々自分の馬に乗った。言い合いなら、道中いくらでもできる。

「カルロス坊ちゃま」

 家令が懐かしい呼称で呼びかけてくる。やめてくれと思いながら見下ろしたカルロスに、じいやはしみじみと微笑み、一礼した。

「ご結婚おめでとうございます。どこへゆかれようと、坊ちゃまの歩む道に幸の多いことを、このじいや、願っておりますぞ」

 早すぎる祝福と祈り。カルロスが二度とこの屋敷に戻ってくるつもりがないのを、家令は悟っているのだった。
 父も知っていたのだろう。だからこその長話。大きすぎる餞別。
 この屋敷には思い出が山ほどある。なにせ生まれ育った場所だ。しかし、嫌なことのたった一滴が全部を黒く染め上げ、灰にした。
 たとえ、いつかレオンと離縁することになったとしても、カルロスはここには帰ってこない。
 カルロスは息を吐くように「ありがとう」と返した。

「今まで世話になった。……父と兄を、よろしく頼む」
「この老いぼれの命ある限り」
「心強いな」

 カルロスは笑った。馬を走らせる。セレスがぴたりと後ろに張り付き、庭を駆け巡って裏門を出た。
 しばらくして振り返り、誰も見ていないとわかっていたが、片手をひらりと振った。


 帰る場所は王都アルハイド邸。
 カルロスの婚約者は、今頃、ディールフィーネとの念願のお出かけを楽しんでいる頃だろうか。
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