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人の雑踏のざわめきは一枚戸を隔てた向こう側。今、目の前では白い湯気がほわほわと立ち上っている。
薄い茶色の皮を半分に割れば、さらに湯気がもわっと飛んで、野菜と肉の旨みが匂いとなって鼻腔を攻撃してくる。
もう待てない。鶇璃が甘じょっぱいだろう餡に食らいつこうとしたら、すっと饅頭が遠ざかっていった。
「鶇璃。よだれしまって」
鶇璃の鼻先が、漉晶の小さな指で弾かれた。数ヵ月前まで慣れない人体をもてあましがちだった竜の漉晶は、今や内職して金を稼げるくらいには器用になった。人の数えで言うと百歳を越えているはずの鶇璃の、赤ん坊のような手つきとは比べ物にならない。
といっても、鶇璃は元は餓鬼であったゆえに理性がない期間が長すぎたし、人体を効率的に扱うにも人の暮らしを知らなさすぎた。そして人として生きようという意欲もないのだから、異種族の社会勉強に熱心な人間初心者・漉晶にすら人間度で追い抜かれている。
漉晶と比べて鶇璃が上にあるものといえば、人体の見た目の年齢(ただしどちらも子ども)と食い意地くらいのものだ。つまり、立場的にも漉晶の方が上。
「鶇璃は前菜がまだだろう。これまで何度も腹を壊してるのに、学習しないな」
「お腹空いた」
「わかっているから、ほら、お食べ」
しかし、漉晶は自らを鶇璃の餌と称している。片手に饅頭を持って、もう片方の腕を鶇璃の口元に差し出した。鶇璃は手を添えることなく、筒のような袖から覗く肌にがぶりと噛みついた。
すぐに、ごくりと喉が上下した。ごく、ごく、ごく、とまるで水を飲むように漉晶の血を吸っていく。鶇璃にとっては、お預けにされた饅頭よりも、他の何物よりも勝る極上の餌だ。うっとりと黒い瞳がとろけていくのを、吸血されている真っ最中の漉晶も、目を細めて見守っていた。
血と一緒に、竜の生命の根源である霊力も鶇璃に食われてゆく。生まれ持っていたためこれまで気づかなかったが、漉晶の体内に渦巻く莫大すぎる霊力は、数百年の長きに渡り、漉晶の内部を害していたのだ。それが、鶇璃の吸血によって、手枷足枷が外されたような解放感を味わえる。持続時間はおよそ一日。一晩経てば再生される霊力を毎日鶇璃に吸収してもらっている。
鶇璃の方も、吸血鬼のくせにほとんどの生き物の血に体が拒絶反応を示す彼女にとって、漉晶の血は唯一の食糧であり、大好物だという。しかも漉晶の霊力の影響か、餓鬼由来の永遠に続く飢渇が一時的に収まり、他の血や肉も食べられるようになる。
(うまくできているものだ。私にとっての毒が、鶇璃にとっての薬として働くとは)
噛まれた痕が鶇璃の口内でぺろりと舐められた感触がした。血が止まってきたのだろう。惜しむように執拗に舐めとられると、くすぐったさと危機感で背筋が粟立つ。神に仕える第一の臣獣であっても隙あらば補食しようとするとは、鶇璃の貪欲さには、神も戦慄することだろう。
「鶇璃、そこまでだ」
「……ふぁら」
「饅頭がいらないのか?」
腕が食い千切られる前に、視界に入るように饅頭をちらつかせると、鶇璃は跳ねるように漉晶の腕から顔を上げ、饅頭に噛みついてきた。鶇のようなまだらな白黒の髪が遅れてざあっと浮き上がる。
鶇璃の食いついた饅頭からぱっと手を離した漉晶は、取っておいたもう半分の饅頭に、鶇璃と同じようにぱくついた。
人間と違って、竜の食事は霞だけで事足りるが、鶇璃の旅に同行するようになってから、漉晶は人間の食べ物に興味を持つようになっていた。特に、目を輝かせて口をせっせと動かす鶇璃を見ながらの食事はとても愉しい。身も心も満たされた気分になる。これが「美味しい」というものなのだろう。
「んむ。鹿の肉が使われているな。芹の茎もいい歯応えだし、出汁が染みている。今度の屋台も当たりだ」
「美味しい」
「そうだな」
ちなみに、漉晶の血を飲まずにものを食えば嘔吐するとわかっているのにいつも食いついてくる食欲の奴隷である鶇璃の、吸血含めた食事に対する感想は「美味しい」か「不味い」かの二択である。漉晶の血とその直後の食事は「美味しい」一択。食糧冥利に尽きる。
一日に一回の吸血行為は、お互いにとって利点しかないし、むしろ必須な行為だ。だが、少なくとも漉晶は、己の事情よりも、鶇璃の満たされた顔が見たいと食糧に志願したのが本音だった。
「えー……お前、一目惚れしたの?吸血鬼もどきに?竜なのに?矜持は一体どこへ?」
天山の外苑、東嶺を守護するのが竜一族なら、人間が唯一住めるある程度安静な北嶺を治めるのは玄武である。その族長直々のお出ましとあって、漉晶は突然の来客にも関わらず、態度を改まって御前に控えていた。他種族とはいえ、漉晶は雑兵、玄武の族長は将軍だ。そのために当然尽くすべき礼儀を、玄武自らが「ああ、いーよいーよ面倒だし」と言って台無しにしたが。
旅人として人の街に潜り込む漉晶と鶇璃に合わせたのか、玄武も人のなりで借りていた宿に現れた。ちなみに現在真夜中一の刻。漉晶は玄武の気配で目覚めたが鶇璃はすやすや眠っている。人間のために抑えているとはいえ、このにじみ出る霊威を感じ取れない鶇璃は神経が図太いのか鈍いのかはっきりしない。いやむしろ、それでこそ鶇璃だ、とも言える。食欲以外には屈っさない姿勢、素晴らしい。
玄武は、どうやら竜と吸血鬼という異色すぎる組み合わせが人間の身なりで嶺内に訪れたので、様子見に来たらしかった。「南のから話には聞いてたけど」と言ったのは、南嶺を治める朱雀のことだろう。漉晶は竜としては半人前以下の落ちこぼれで、修行してこいと東嶺から放り出されて数百年、朱雀の南嶺の片隅に厄介になっていた。鶇璃と出会ったのも南嶺だ。
どう気が向いたか知らないが、朱雀の族長もまた、漉晶に気安くしろと言ってきて、長年の付き合いもあって多少砕けた仲にはなっている。というかなぜ落ちこぼれにあんなに構いつけてきたのか、今更ながら謎である。
「朱雀さまからお話を聞いていたのですか」
「ああ、聞いた。南のは面白がっていたけど、おれはまだそこまでの境地には至れない。竜としてどうなの?」
「悪しきことはしないと誓いますが」
「妖魔を滅するどころか可愛がっておいて?」
「害にならないとわかっています。この娘は大それたことを考えつけない莫迦なんです」
とたん、へらりとしていた玄武の気配が鋭く尖った。
「神帝の御手から堕ちた娘を庇うことは、神帝に叛くこと。害の有無は必要ない。我々は神帝の僕。主の握するものを守護する任を負うおれたちがそこから逸脱すれば、神帝のご威光に障りが出る」
「私は、この娘がいなくては半人前にもなれませんでした。竜としての存在意義にこの娘が必要なんです。朱雀さまにもそう申し上げました」
「――その娘は、生まれてまもなく、父母を食い殺したよ。血の一滴、骨の滓すら残さずね」
「ああ、だから餓鬼になったんですか」
鶇璃はこの玄武の治めるどこかの里で生まれたのだろうとはわかっていた。しかし、玄武も人間から堕落したちっぽけな餓鬼のことに詳しいのはなぜだろう。と思っていたら、さらっとした態度の漉晶に眉を寄せて、玄武は更に言った。
「尽きない欲に動かされるまま人も妖魔も草木も土も食い漁り、果てには仙の片腕を食い千切って貪り尽くした」
これには漉晶も絶句した。人は堕ちれば妖魔となるが、修行して神帝に召し上げられれば仙となる。竜たちのように、直々に神帝に仕えられる栄誉に預かれる存在だ。妖魔にしてやられるなど結構な一大事。当時の漉晶はすでに修行で一族を離れていたはずだが、朱雀からの話でも聞いたことがなかった。
「あいつはその後、堕ちたよ。片腕を食われて霊力をもて余してね。神帝の手にも負えず、仙ではなくなった」
「……玄武さまは今朝方のこともご存じで?」
「冷や冷やしたよ。まさか竜が餓鬼に己の片腕を差し出してるんだから。食ってくれと言ってるようなものだろう」
「吸血鬼でしょう、今は」
「仙の血肉を食らって食あたりを起こして、吸血鬼に似た餓鬼になった、それだけだよ。飢えを満たしたいのに体が受け付けないのなら、むしろ欲望は増している。今は手綱を握れているようだけど、万が一はどうするつもりなんだ?」
「――変わりません」
「なに?」
「私は、竜一族の末裔としての務めをこれから先も果たしていくのみです」
「……話、聞いてた?餓鬼ごときにむざむざ堕とされるくらいなら、今ここで、おれが殺してやってもいいけど」
さすが玄武の族長。ゆらりと漂い始めた霊力で灯火一つだけの空間が歪みはじめた。気づけば本来の姿へ戻ろうとしている玄武の殺気に、漉晶は頭を屈したくなるほど圧されながらも、果敢に言った。
「食われても、堕ちる前に鶇璃を殺して私も死にます」
ぴたりと霊力の噴出が止まった。人の輪郭に戻った玄武は、先ほどの漉晶よりも驚愕に染まった表情で、ただひたすらに絶句していた。
「半人前以下の私が鶇璃をなくしても成長できるならともかく。それができなくなるなら、私の存在ごと消してしまった方がいいでしょう。鶇璃に出会う前の私とて、よく堕ちずにいられたなというほど霊力をもて余していたんですし」
漉晶が竜一族の落ちこぼれなのはそのためだった。竜一族の中でも一等、霊力の扱いが下手くそで、そのくせに、霊力がその身から溢れそうなほど多かった。片腕を失くした仙のように均衡を崩さずにいられたのは、竜の強靭な肉体ゆえだろう。竜の十八番である天候の操作や基本的な技としての他生物への変化すらできず、たったひとり、東嶺から放り出されたのだ。しかもそのあと数百年と修行を重ねても、ほとんど成果はなかった。
それが、鶇璃と出会ってから大きく前進した。
「私の誇りは今や鶇璃と共にあります。鶇璃と共に成長していきたいと思っています。できなければもろとも。その覚悟です」
だから鶇璃に漉晶の肉まで食わせてやってもいいかな、という欲求に耐えているのだ。それに玄武の話で少し幸先がよくなった。完全な吸血鬼じゃないなら、鶇璃にはまだ救いがある。漉晶の霊力を与え続ければ、いつかは真っ当な餓鬼へ、そして人間へと戻れるかもしれない。そうなったときは……。
(そうなった、ときは?)
ん、と漉晶は言葉を飲み込んだ。変な思考が混じった気がする。なにを考えていただろうかと自分の思考を探っていると、玄武が深々とため息をついて立ち上がった。
「その言葉、違えないように」
「認めていただけるのですか?」
「認めるも認めないもない。神帝はなぜこの娘を存じておきながら殺さなかったのか、心底疑問に思っていたけど……多少は理解したよ。けったいな物好きだね」
玄武はひたすら呆れている様子だった。殺気も霧散している。慌てて見送りに立とうとした漉晶の頭をぐしゃりとかき混ぜ、宿から出ていってしまう。
「ああ、そうだ。毎朝美味いもの巡りしているのも知っているけど、明日は西の五番路の角に行ってみるといい。串焼きが絶品という噂だ」
「……ありがとうございます!」
竜に限らず神帝に仕えるものは仙も含めて血肉を食うことはない。雲霞や花の精や月の光など、自然にあるもので足りる生き物なのだ。それなのに、わざわざ人間の食べ物について漉晶に教えてくれたのは、鶇璃のことを受け入れてくれた証だろう。
飢えへの本能が強すぎたゆえに全て生食していた鶇璃は、人間の技能である料理というものを知らなかった。漉晶が人間に混じって代筆の内職で金を稼ぎ、その金で一日一食を買って鶇璃と分け合うのは、全て鶇璃の満ち足りた笑顔を見たいがためだ。いつか漉晶が料理を覚えたら、人間の街を出てこの世のあらゆる食材で鶇璃の腹と舌を満足させる料理を作ってやりたいと思っている。もちろん、竜としての修行も怠らないが。
玄武がいなくなったので、灯りを消して布団に入り直しながら、隣の布団で寝ている鶇璃のぼんやりした輪郭を眺めた。
鶇璃が過去にしでかしたことに驚いたが、やっぱり鶇璃は莫迦なんだなと思う。食欲が強すぎて、妖魔の天敵である仙の血肉を食うって、生物の本能的におかしい。
漉晶の腕を食おうとしたこともだ。漉晶がいなくなればまた未来永劫途方もない飢えに苦しむというのに、すぐに忘れて噛み切ろうとするし。理性は芽生えてきているが、欲望にあっさり負ける程度。打算は一つも身に付いていないのが丸分かりだ。
幸先はいいけれどもけっこうな悪路である。それに加えてもうひとつの不安もある。
(……餓鬼って、食あたり起こすのか……)
万が一漉晶の肉も不味いと言われたら泣くかもしれない。今までよりいっそう気を引き締めようと、心に決めた。
☆☆☆
漉晶の元を訪ねたその足で天山へ昇った玄武は、にやにや笑いの朱雀の出待ちにあった。
「どうだった、漉晶は」
「どうもこうもないよ。転生しても何一つ変わらないらしい。莫迦は吸血鬼よりあいつの方だよ」
「お前は特に、責任に思っていたのにな。報われないな。おれも一緒に報告に行こう」
「その必要はない。玄明、朱響、ご苦労だった」
翻る色鮮やかな襦裙の裾と、凛と響く涼やかな声。玄武と朱雀はその場に改まった。神帝は「この場で聞こう」と笑って、寛ぐように促す。その遥か後ろから応竜が追いかけてきていた。
「神帝、なぜまた仙の一人もお連れにならずほっぽり歩くのですか!」
「東の、そう荒ぶりなさるな。また社殿を壊したいのですか」
応竜にそう言ったのは白虎である。 神帝は「なんだ、結局みんな集まったな」と笑った。さっと神帝の足元に控えた白虎はそのまま神帝の背もたれになり、いまだに息巻いて玉を握りしめる応竜は玄武と朱雀が宥めてやった。漉晶がああも霊力の扱いが下手くそなのは、多分にこの大雑把な族長の影響なのだ。勢い余って、神帝の住まう天山の、一番大きな社殿の屋根を何度も吹っ飛ばすのは応竜だけである。
「――漉晶は、餓鬼の娘と生死を共にする、と」
そうして玄武が説明を終えると、みんなしばらく沈黙した。神帝はやがてゆるりと首を振り、白虎のふかふかの毛並みに深く背中を預けた。
「……なるほど。玄明、ありがとう」
「出過ぎたことをしました」
「いいや、私のために聞いてくれたんだろう。漉晶は思い出してはいなかったか?」
「その兆候はありませんでした。他人事のような顔でしたよ」
「餓鬼を吸血鬼もどきにした張本人だってのに、呑気なもんだぜ」
朱雀が翼を器用にすくめてそう言った。
「思い出しても変わらんでしょう、あの莫迦者は」
「いや、一度決めたことを曲げぬ潔さは認めるべきでしょう」
応竜が長い髭を震わせながら荒く吐き捨てると、白虎がとろんとした金目で穏やかに窘めた。
その通り、漉晶は、元は神帝の側に仕える仙人だった。玄武は特に漉晶の人の生まれを覚えているし、昇仙したときのことも記憶にある。人の生まれの中では最も修行に熱心で、その分、玄武たち霊獣に相当するほどの霊力を身につけた青年だった。可愛がってくれる神帝に忠実に仕え、霊獣と同じように神帝を守り支えることを誇りとした。
それからのち、北嶺を飢饉が襲ったのは、自然の変遷として当然の流れだった。暑い夏が来て寒い冬が来るように。だが、霊力がなく、生き延びられぬ人間は、荒れ狂った。食糧や水を求めて同族を殺し、見捨て、足蹴にし、己の生存本能以外の全てを蔑ろにした。
あの餓鬼はそのはじまりの頃に貧民に人の子として生まれた。まるで人の欲望を凝縮したような、底なしの貪欲な魂を持って。
その欲望に従い、母の乳房をまだ生えていないはずの歯で噛み千切り、乳ではなく血を啜り、それほどまでに飢える我が子のためにと身を差し出した父母をぺろりと平らげ、それでも腹が満たされなかった。
そんな風に餓鬼となった娘を、漉晶は軽蔑していた。人間の浅ましさを疎んじ、その中で生まれてどうしようもなく堕ちてしまった娘を哀れんでもいた。霞を食うだけで生きられるようになればいいのに、なぜ同族同士で殺し合い、ましてやその死体まで食おうとするのか。そこまで突き動かすものはなんなのか。元人間としても、同族の堕落が許せなかったのかもしれない。
漉晶は赤子から少女へ成長しても一切変わらない餓鬼を殺そうとして、殺す前に片腕を千切られた。
そして、飢えに荒んでいた娘の表情が恍惚に蕩けてゆく様を、目の当たりにした。
「一目惚れして、転生してまた一目惚れか。しかもほとんど同じ状況で。すげえなあ」
朱雀がぼやくように嘴を動かすと、玄武は不満げに蛇の頭を頷かせた。神帝は簪で留めた髪の毛先をいじりながら、腕を食われて霊力を荒ぶらせる漉晶を助けに地上へ降りたときのことを思い出した。
『私は、この娘を生かしたい。もっと喜ぶ様が見たいのです』
娘が夢中で己の片腕の骨を噛み砕いて髄をも啜っているというのに、漉晶は神帝をそう言って止めた。仙でなくなると言えば、それでもいいと返す。
『あなたにお仕えできたのは至上の幸福です。ですが、人の営みを、思い出しました。人として満ちることもあったのだと。あの娘も満たしてやりたいのです』
神帝は、娘を殺せなかった。漉晶を見捨てることもできなかった。
できたことといえば、妖魔へと転落する直前に漉晶の魂を掬い上げて、転生させ、前の時代から生きていると誤認させるために偽の記憶を植え付けて応竜の一族に託すこと。それだけ。
その後、見守った娘は、漉晶の血肉とともに取り込んだ霊力が毒となってのたうち回り、薬として作用した霊力の分だけ不老になった。どんなに餓えても死ねない呪いのような体。けれども娘は悲観するだけの思考を持っていないためかわからないが、食欲に忠実であり続けた。いっそ潔いほどに学習しない。血以外は吐くとわかっても食べる、食べる、食べる。その血もとてつもなく不味いらしいからそのせいかもしれない。不味いと言いながらも食べては吐き、それでも「お腹空いた」と言って、各地を巡って体が受け付けられるものを探す長い歳月。けれども一度たりとも出会えず、竜の漉晶の住みかにまで迷い込み、お供として引っ張り出してきた。
「……餓鬼が竜となった漉晶と出会ったのは、運命か」
今なら言えることだが、娘の途方もない食欲を締め付ける呪縛は、恐らく漉晶がかけたものだ。餓鬼となった娘を満たしたい。それも誰かの手ではなく、漉晶自身の手で。その願いが無意識に鎖となって巻き付いたのだろう。竜の漉晶の血と霊力を貪り、唯一美味しいと喜んだのだから、もはや確定だ。
そんなお互いの唯一と、百年と過ぎて、導き合うように再会した。もはや誰にも止められるものではない。
「神帝」
「仕方がない。漉晶がどこまでやり通すか、あの娘がどこまでまともになれるか、見守るしかないだろう。この先万が一、娘が同族を食ったなら、その時は私が直々に手を下す」
「それは北嶺を治める私の仕事です」
「それならば竜の族長として私が負うべきでしょう」
「いいや。これは私のけじめだ。覚悟は、臣下にだけ求めるものではない」
玄武と応竜は黙りこくった。
神帝はするりと立ち上がり、四つの影を見下ろした。
「お前たちは、堕ちてくれるなよ」
漉晶がいなくなってから、哀しみゆえに身近に仙人を寄せ付けなくなった神帝の言葉に、霊獣たちの返す言葉は決まっていた。
「――御意」
更に長い長い歳月の果て。
満ちることを覚え、人間の範疇に収まる食い意地を持ったまだら髪の人間もどきな娘を、呆れ混じりに感嘆した神帝が仙人に召し上げ、一つの竜とともに側に仕えさせるのは、遠い先のお話……。
ーーー
ハロウィンどこ行った。
中華風というわりにほとんど出ない舞台。
余裕ができたら色々掘り下げて書くかもしれません。
霊獣の名前は適当です。
玄武→玄明
朱雀→朱響
応竜→応暉
白虎→白銑
薄い茶色の皮を半分に割れば、さらに湯気がもわっと飛んで、野菜と肉の旨みが匂いとなって鼻腔を攻撃してくる。
もう待てない。鶇璃が甘じょっぱいだろう餡に食らいつこうとしたら、すっと饅頭が遠ざかっていった。
「鶇璃。よだれしまって」
鶇璃の鼻先が、漉晶の小さな指で弾かれた。数ヵ月前まで慣れない人体をもてあましがちだった竜の漉晶は、今や内職して金を稼げるくらいには器用になった。人の数えで言うと百歳を越えているはずの鶇璃の、赤ん坊のような手つきとは比べ物にならない。
といっても、鶇璃は元は餓鬼であったゆえに理性がない期間が長すぎたし、人体を効率的に扱うにも人の暮らしを知らなさすぎた。そして人として生きようという意欲もないのだから、異種族の社会勉強に熱心な人間初心者・漉晶にすら人間度で追い抜かれている。
漉晶と比べて鶇璃が上にあるものといえば、人体の見た目の年齢(ただしどちらも子ども)と食い意地くらいのものだ。つまり、立場的にも漉晶の方が上。
「鶇璃は前菜がまだだろう。これまで何度も腹を壊してるのに、学習しないな」
「お腹空いた」
「わかっているから、ほら、お食べ」
しかし、漉晶は自らを鶇璃の餌と称している。片手に饅頭を持って、もう片方の腕を鶇璃の口元に差し出した。鶇璃は手を添えることなく、筒のような袖から覗く肌にがぶりと噛みついた。
すぐに、ごくりと喉が上下した。ごく、ごく、ごく、とまるで水を飲むように漉晶の血を吸っていく。鶇璃にとっては、お預けにされた饅頭よりも、他の何物よりも勝る極上の餌だ。うっとりと黒い瞳がとろけていくのを、吸血されている真っ最中の漉晶も、目を細めて見守っていた。
血と一緒に、竜の生命の根源である霊力も鶇璃に食われてゆく。生まれ持っていたためこれまで気づかなかったが、漉晶の体内に渦巻く莫大すぎる霊力は、数百年の長きに渡り、漉晶の内部を害していたのだ。それが、鶇璃の吸血によって、手枷足枷が外されたような解放感を味わえる。持続時間はおよそ一日。一晩経てば再生される霊力を毎日鶇璃に吸収してもらっている。
鶇璃の方も、吸血鬼のくせにほとんどの生き物の血に体が拒絶反応を示す彼女にとって、漉晶の血は唯一の食糧であり、大好物だという。しかも漉晶の霊力の影響か、餓鬼由来の永遠に続く飢渇が一時的に収まり、他の血や肉も食べられるようになる。
(うまくできているものだ。私にとっての毒が、鶇璃にとっての薬として働くとは)
噛まれた痕が鶇璃の口内でぺろりと舐められた感触がした。血が止まってきたのだろう。惜しむように執拗に舐めとられると、くすぐったさと危機感で背筋が粟立つ。神に仕える第一の臣獣であっても隙あらば補食しようとするとは、鶇璃の貪欲さには、神も戦慄することだろう。
「鶇璃、そこまでだ」
「……ふぁら」
「饅頭がいらないのか?」
腕が食い千切られる前に、視界に入るように饅頭をちらつかせると、鶇璃は跳ねるように漉晶の腕から顔を上げ、饅頭に噛みついてきた。鶇のようなまだらな白黒の髪が遅れてざあっと浮き上がる。
鶇璃の食いついた饅頭からぱっと手を離した漉晶は、取っておいたもう半分の饅頭に、鶇璃と同じようにぱくついた。
人間と違って、竜の食事は霞だけで事足りるが、鶇璃の旅に同行するようになってから、漉晶は人間の食べ物に興味を持つようになっていた。特に、目を輝かせて口をせっせと動かす鶇璃を見ながらの食事はとても愉しい。身も心も満たされた気分になる。これが「美味しい」というものなのだろう。
「んむ。鹿の肉が使われているな。芹の茎もいい歯応えだし、出汁が染みている。今度の屋台も当たりだ」
「美味しい」
「そうだな」
ちなみに、漉晶の血を飲まずにものを食えば嘔吐するとわかっているのにいつも食いついてくる食欲の奴隷である鶇璃の、吸血含めた食事に対する感想は「美味しい」か「不味い」かの二択である。漉晶の血とその直後の食事は「美味しい」一択。食糧冥利に尽きる。
一日に一回の吸血行為は、お互いにとって利点しかないし、むしろ必須な行為だ。だが、少なくとも漉晶は、己の事情よりも、鶇璃の満たされた顔が見たいと食糧に志願したのが本音だった。
「えー……お前、一目惚れしたの?吸血鬼もどきに?竜なのに?矜持は一体どこへ?」
天山の外苑、東嶺を守護するのが竜一族なら、人間が唯一住めるある程度安静な北嶺を治めるのは玄武である。その族長直々のお出ましとあって、漉晶は突然の来客にも関わらず、態度を改まって御前に控えていた。他種族とはいえ、漉晶は雑兵、玄武の族長は将軍だ。そのために当然尽くすべき礼儀を、玄武自らが「ああ、いーよいーよ面倒だし」と言って台無しにしたが。
旅人として人の街に潜り込む漉晶と鶇璃に合わせたのか、玄武も人のなりで借りていた宿に現れた。ちなみに現在真夜中一の刻。漉晶は玄武の気配で目覚めたが鶇璃はすやすや眠っている。人間のために抑えているとはいえ、このにじみ出る霊威を感じ取れない鶇璃は神経が図太いのか鈍いのかはっきりしない。いやむしろ、それでこそ鶇璃だ、とも言える。食欲以外には屈っさない姿勢、素晴らしい。
玄武は、どうやら竜と吸血鬼という異色すぎる組み合わせが人間の身なりで嶺内に訪れたので、様子見に来たらしかった。「南のから話には聞いてたけど」と言ったのは、南嶺を治める朱雀のことだろう。漉晶は竜としては半人前以下の落ちこぼれで、修行してこいと東嶺から放り出されて数百年、朱雀の南嶺の片隅に厄介になっていた。鶇璃と出会ったのも南嶺だ。
どう気が向いたか知らないが、朱雀の族長もまた、漉晶に気安くしろと言ってきて、長年の付き合いもあって多少砕けた仲にはなっている。というかなぜ落ちこぼれにあんなに構いつけてきたのか、今更ながら謎である。
「朱雀さまからお話を聞いていたのですか」
「ああ、聞いた。南のは面白がっていたけど、おれはまだそこまでの境地には至れない。竜としてどうなの?」
「悪しきことはしないと誓いますが」
「妖魔を滅するどころか可愛がっておいて?」
「害にならないとわかっています。この娘は大それたことを考えつけない莫迦なんです」
とたん、へらりとしていた玄武の気配が鋭く尖った。
「神帝の御手から堕ちた娘を庇うことは、神帝に叛くこと。害の有無は必要ない。我々は神帝の僕。主の握するものを守護する任を負うおれたちがそこから逸脱すれば、神帝のご威光に障りが出る」
「私は、この娘がいなくては半人前にもなれませんでした。竜としての存在意義にこの娘が必要なんです。朱雀さまにもそう申し上げました」
「――その娘は、生まれてまもなく、父母を食い殺したよ。血の一滴、骨の滓すら残さずね」
「ああ、だから餓鬼になったんですか」
鶇璃はこの玄武の治めるどこかの里で生まれたのだろうとはわかっていた。しかし、玄武も人間から堕落したちっぽけな餓鬼のことに詳しいのはなぜだろう。と思っていたら、さらっとした態度の漉晶に眉を寄せて、玄武は更に言った。
「尽きない欲に動かされるまま人も妖魔も草木も土も食い漁り、果てには仙の片腕を食い千切って貪り尽くした」
これには漉晶も絶句した。人は堕ちれば妖魔となるが、修行して神帝に召し上げられれば仙となる。竜たちのように、直々に神帝に仕えられる栄誉に預かれる存在だ。妖魔にしてやられるなど結構な一大事。当時の漉晶はすでに修行で一族を離れていたはずだが、朱雀からの話でも聞いたことがなかった。
「あいつはその後、堕ちたよ。片腕を食われて霊力をもて余してね。神帝の手にも負えず、仙ではなくなった」
「……玄武さまは今朝方のこともご存じで?」
「冷や冷やしたよ。まさか竜が餓鬼に己の片腕を差し出してるんだから。食ってくれと言ってるようなものだろう」
「吸血鬼でしょう、今は」
「仙の血肉を食らって食あたりを起こして、吸血鬼に似た餓鬼になった、それだけだよ。飢えを満たしたいのに体が受け付けないのなら、むしろ欲望は増している。今は手綱を握れているようだけど、万が一はどうするつもりなんだ?」
「――変わりません」
「なに?」
「私は、竜一族の末裔としての務めをこれから先も果たしていくのみです」
「……話、聞いてた?餓鬼ごときにむざむざ堕とされるくらいなら、今ここで、おれが殺してやってもいいけど」
さすが玄武の族長。ゆらりと漂い始めた霊力で灯火一つだけの空間が歪みはじめた。気づけば本来の姿へ戻ろうとしている玄武の殺気に、漉晶は頭を屈したくなるほど圧されながらも、果敢に言った。
「食われても、堕ちる前に鶇璃を殺して私も死にます」
ぴたりと霊力の噴出が止まった。人の輪郭に戻った玄武は、先ほどの漉晶よりも驚愕に染まった表情で、ただひたすらに絶句していた。
「半人前以下の私が鶇璃をなくしても成長できるならともかく。それができなくなるなら、私の存在ごと消してしまった方がいいでしょう。鶇璃に出会う前の私とて、よく堕ちずにいられたなというほど霊力をもて余していたんですし」
漉晶が竜一族の落ちこぼれなのはそのためだった。竜一族の中でも一等、霊力の扱いが下手くそで、そのくせに、霊力がその身から溢れそうなほど多かった。片腕を失くした仙のように均衡を崩さずにいられたのは、竜の強靭な肉体ゆえだろう。竜の十八番である天候の操作や基本的な技としての他生物への変化すらできず、たったひとり、東嶺から放り出されたのだ。しかもそのあと数百年と修行を重ねても、ほとんど成果はなかった。
それが、鶇璃と出会ってから大きく前進した。
「私の誇りは今や鶇璃と共にあります。鶇璃と共に成長していきたいと思っています。できなければもろとも。その覚悟です」
だから鶇璃に漉晶の肉まで食わせてやってもいいかな、という欲求に耐えているのだ。それに玄武の話で少し幸先がよくなった。完全な吸血鬼じゃないなら、鶇璃にはまだ救いがある。漉晶の霊力を与え続ければ、いつかは真っ当な餓鬼へ、そして人間へと戻れるかもしれない。そうなったときは……。
(そうなった、ときは?)
ん、と漉晶は言葉を飲み込んだ。変な思考が混じった気がする。なにを考えていただろうかと自分の思考を探っていると、玄武が深々とため息をついて立ち上がった。
「その言葉、違えないように」
「認めていただけるのですか?」
「認めるも認めないもない。神帝はなぜこの娘を存じておきながら殺さなかったのか、心底疑問に思っていたけど……多少は理解したよ。けったいな物好きだね」
玄武はひたすら呆れている様子だった。殺気も霧散している。慌てて見送りに立とうとした漉晶の頭をぐしゃりとかき混ぜ、宿から出ていってしまう。
「ああ、そうだ。毎朝美味いもの巡りしているのも知っているけど、明日は西の五番路の角に行ってみるといい。串焼きが絶品という噂だ」
「……ありがとうございます!」
竜に限らず神帝に仕えるものは仙も含めて血肉を食うことはない。雲霞や花の精や月の光など、自然にあるもので足りる生き物なのだ。それなのに、わざわざ人間の食べ物について漉晶に教えてくれたのは、鶇璃のことを受け入れてくれた証だろう。
飢えへの本能が強すぎたゆえに全て生食していた鶇璃は、人間の技能である料理というものを知らなかった。漉晶が人間に混じって代筆の内職で金を稼ぎ、その金で一日一食を買って鶇璃と分け合うのは、全て鶇璃の満ち足りた笑顔を見たいがためだ。いつか漉晶が料理を覚えたら、人間の街を出てこの世のあらゆる食材で鶇璃の腹と舌を満足させる料理を作ってやりたいと思っている。もちろん、竜としての修行も怠らないが。
玄武がいなくなったので、灯りを消して布団に入り直しながら、隣の布団で寝ている鶇璃のぼんやりした輪郭を眺めた。
鶇璃が過去にしでかしたことに驚いたが、やっぱり鶇璃は莫迦なんだなと思う。食欲が強すぎて、妖魔の天敵である仙の血肉を食うって、生物の本能的におかしい。
漉晶の腕を食おうとしたこともだ。漉晶がいなくなればまた未来永劫途方もない飢えに苦しむというのに、すぐに忘れて噛み切ろうとするし。理性は芽生えてきているが、欲望にあっさり負ける程度。打算は一つも身に付いていないのが丸分かりだ。
幸先はいいけれどもけっこうな悪路である。それに加えてもうひとつの不安もある。
(……餓鬼って、食あたり起こすのか……)
万が一漉晶の肉も不味いと言われたら泣くかもしれない。今までよりいっそう気を引き締めようと、心に決めた。
☆☆☆
漉晶の元を訪ねたその足で天山へ昇った玄武は、にやにや笑いの朱雀の出待ちにあった。
「どうだった、漉晶は」
「どうもこうもないよ。転生しても何一つ変わらないらしい。莫迦は吸血鬼よりあいつの方だよ」
「お前は特に、責任に思っていたのにな。報われないな。おれも一緒に報告に行こう」
「その必要はない。玄明、朱響、ご苦労だった」
翻る色鮮やかな襦裙の裾と、凛と響く涼やかな声。玄武と朱雀はその場に改まった。神帝は「この場で聞こう」と笑って、寛ぐように促す。その遥か後ろから応竜が追いかけてきていた。
「神帝、なぜまた仙の一人もお連れにならずほっぽり歩くのですか!」
「東の、そう荒ぶりなさるな。また社殿を壊したいのですか」
応竜にそう言ったのは白虎である。 神帝は「なんだ、結局みんな集まったな」と笑った。さっと神帝の足元に控えた白虎はそのまま神帝の背もたれになり、いまだに息巻いて玉を握りしめる応竜は玄武と朱雀が宥めてやった。漉晶がああも霊力の扱いが下手くそなのは、多分にこの大雑把な族長の影響なのだ。勢い余って、神帝の住まう天山の、一番大きな社殿の屋根を何度も吹っ飛ばすのは応竜だけである。
「――漉晶は、餓鬼の娘と生死を共にする、と」
そうして玄武が説明を終えると、みんなしばらく沈黙した。神帝はやがてゆるりと首を振り、白虎のふかふかの毛並みに深く背中を預けた。
「……なるほど。玄明、ありがとう」
「出過ぎたことをしました」
「いいや、私のために聞いてくれたんだろう。漉晶は思い出してはいなかったか?」
「その兆候はありませんでした。他人事のような顔でしたよ」
「餓鬼を吸血鬼もどきにした張本人だってのに、呑気なもんだぜ」
朱雀が翼を器用にすくめてそう言った。
「思い出しても変わらんでしょう、あの莫迦者は」
「いや、一度決めたことを曲げぬ潔さは認めるべきでしょう」
応竜が長い髭を震わせながら荒く吐き捨てると、白虎がとろんとした金目で穏やかに窘めた。
その通り、漉晶は、元は神帝の側に仕える仙人だった。玄武は特に漉晶の人の生まれを覚えているし、昇仙したときのことも記憶にある。人の生まれの中では最も修行に熱心で、その分、玄武たち霊獣に相当するほどの霊力を身につけた青年だった。可愛がってくれる神帝に忠実に仕え、霊獣と同じように神帝を守り支えることを誇りとした。
それからのち、北嶺を飢饉が襲ったのは、自然の変遷として当然の流れだった。暑い夏が来て寒い冬が来るように。だが、霊力がなく、生き延びられぬ人間は、荒れ狂った。食糧や水を求めて同族を殺し、見捨て、足蹴にし、己の生存本能以外の全てを蔑ろにした。
あの餓鬼はそのはじまりの頃に貧民に人の子として生まれた。まるで人の欲望を凝縮したような、底なしの貪欲な魂を持って。
その欲望に従い、母の乳房をまだ生えていないはずの歯で噛み千切り、乳ではなく血を啜り、それほどまでに飢える我が子のためにと身を差し出した父母をぺろりと平らげ、それでも腹が満たされなかった。
そんな風に餓鬼となった娘を、漉晶は軽蔑していた。人間の浅ましさを疎んじ、その中で生まれてどうしようもなく堕ちてしまった娘を哀れんでもいた。霞を食うだけで生きられるようになればいいのに、なぜ同族同士で殺し合い、ましてやその死体まで食おうとするのか。そこまで突き動かすものはなんなのか。元人間としても、同族の堕落が許せなかったのかもしれない。
漉晶は赤子から少女へ成長しても一切変わらない餓鬼を殺そうとして、殺す前に片腕を千切られた。
そして、飢えに荒んでいた娘の表情が恍惚に蕩けてゆく様を、目の当たりにした。
「一目惚れして、転生してまた一目惚れか。しかもほとんど同じ状況で。すげえなあ」
朱雀がぼやくように嘴を動かすと、玄武は不満げに蛇の頭を頷かせた。神帝は簪で留めた髪の毛先をいじりながら、腕を食われて霊力を荒ぶらせる漉晶を助けに地上へ降りたときのことを思い出した。
『私は、この娘を生かしたい。もっと喜ぶ様が見たいのです』
娘が夢中で己の片腕の骨を噛み砕いて髄をも啜っているというのに、漉晶は神帝をそう言って止めた。仙でなくなると言えば、それでもいいと返す。
『あなたにお仕えできたのは至上の幸福です。ですが、人の営みを、思い出しました。人として満ちることもあったのだと。あの娘も満たしてやりたいのです』
神帝は、娘を殺せなかった。漉晶を見捨てることもできなかった。
できたことといえば、妖魔へと転落する直前に漉晶の魂を掬い上げて、転生させ、前の時代から生きていると誤認させるために偽の記憶を植え付けて応竜の一族に託すこと。それだけ。
その後、見守った娘は、漉晶の血肉とともに取り込んだ霊力が毒となってのたうち回り、薬として作用した霊力の分だけ不老になった。どんなに餓えても死ねない呪いのような体。けれども娘は悲観するだけの思考を持っていないためかわからないが、食欲に忠実であり続けた。いっそ潔いほどに学習しない。血以外は吐くとわかっても食べる、食べる、食べる。その血もとてつもなく不味いらしいからそのせいかもしれない。不味いと言いながらも食べては吐き、それでも「お腹空いた」と言って、各地を巡って体が受け付けられるものを探す長い歳月。けれども一度たりとも出会えず、竜の漉晶の住みかにまで迷い込み、お供として引っ張り出してきた。
「……餓鬼が竜となった漉晶と出会ったのは、運命か」
今なら言えることだが、娘の途方もない食欲を締め付ける呪縛は、恐らく漉晶がかけたものだ。餓鬼となった娘を満たしたい。それも誰かの手ではなく、漉晶自身の手で。その願いが無意識に鎖となって巻き付いたのだろう。竜の漉晶の血と霊力を貪り、唯一美味しいと喜んだのだから、もはや確定だ。
そんなお互いの唯一と、百年と過ぎて、導き合うように再会した。もはや誰にも止められるものではない。
「神帝」
「仕方がない。漉晶がどこまでやり通すか、あの娘がどこまでまともになれるか、見守るしかないだろう。この先万が一、娘が同族を食ったなら、その時は私が直々に手を下す」
「それは北嶺を治める私の仕事です」
「それならば竜の族長として私が負うべきでしょう」
「いいや。これは私のけじめだ。覚悟は、臣下にだけ求めるものではない」
玄武と応竜は黙りこくった。
神帝はするりと立ち上がり、四つの影を見下ろした。
「お前たちは、堕ちてくれるなよ」
漉晶がいなくなってから、哀しみゆえに身近に仙人を寄せ付けなくなった神帝の言葉に、霊獣たちの返す言葉は決まっていた。
「――御意」
更に長い長い歳月の果て。
満ちることを覚え、人間の範疇に収まる食い意地を持ったまだら髪の人間もどきな娘を、呆れ混じりに感嘆した神帝が仙人に召し上げ、一つの竜とともに側に仕えさせるのは、遠い先のお話……。
ーーー
ハロウィンどこ行った。
中華風というわりにほとんど出ない舞台。
余裕ができたら色々掘り下げて書くかもしれません。
霊獣の名前は適当です。
玄武→玄明
朱雀→朱響
応竜→応暉
白虎→白銑
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★↑例の如く恐ろしく省略してます。
★6月21日投稿開始、完結は6月23日です。
★コメントの返信は遅いです。
♡注意事項~この話を読む前に~♡
※異世界を舞台にした創作話です。時代設定なし、史実に基づいた話ではありません。リアルな世界の常識と混同されないようお願いします。
※心拍数や血圧の上昇、高血糖、アドレナリンの過剰分泌に責任はおえません。
※外道な作者の妄想で作られたガチなフィクションの上、ご都合主義です。
※架空のお話です。現実世界の話ではありません。登場人物、場所全て架空です。
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