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氷華の剣・下

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領地では臣下モードのヒルダ、一人称は「私」でお送りします。
流血シーンあり。
ーーー



「そうやって他力本願だから、ヒルダはお前に心を預けなかった」

 なにを、ととっさに反論しかけて、二人分の炯々とした眼差しに口を縫い止められた。声が出ずとも反発は伝わり、踵が床を削るように音を鳴らした。

「これだけの時間があったのに、骨折を完治させるだけの時間があったのに。まだ反省の一つもできないの?」

 傷を負わせた者の言うことではない、とは、我が身のために言わない方がよさそうだ。

「……ヒルディアさまと私の婚約については、完全に私の不徳の致すところです。が、領地の窮状と私個人のことは、問題点が違います」

 耳の横を風切り音が走った。直後に壁に何かがぶつかって砕ける音がして、恐る恐る振り返ると、床に細い物体と細かい破片が落ちていた。インクが壁紙にべっとり張り付いており、ぽたぽたと黒い雫が滴り落ちていく。
 ますます青ざめたナジェルに、恐ろしく美しい兄妹が問いかけた。

「どこが、どう違うの?あんたはスートライトうちの家臣でしかないくせに、降嫁する直系の姫を、どう扱ったんだっけ?」
「そこまで己に自信があるのなら、一つ、聞かせてもらおうか。私とアデルに刺客を差し向けた者の懐に戻れと言うお前は、私が死ぬことを願っているのかな?」

 ナジェルは愕然とした。刺客?あれほど、ヒルダの存在を忘れてまでも、名を呼んで求めていた兄妹に。

「シド、ニーナ、片付けはしなくていい。どうせこの部屋は改装予定だ。それより、私は何回殺されかけたかな」
「かしこまりました。暗殺については、セシルさまの前まで来られず私どもで対処できた分を合わせれば、五度になります」
「アデルは?構わないから言ってごらん」
「……アデライトお嬢さまは、二度です」
「え、私、あの他にもあったの?」
「あったようだね。学園の事件より前だろう。その結果があれだと思えば、処理が甘いと言いたいところだが……まあ、領地とは比べるまでもなく及第点だ」
「申し訳ありません」
「あの事件以降は皆無だろう?だったらいいさ」

 己の命の危機を数えて笑うセシルと、身柄を狙われていたと知っても「私が無事だったんだから、ニーナは優秀よ」と己の侍女に可憐に笑いかけるアデル。ヒルダには内緒だよなんて、いたずらっ子のように兄妹口を揃えて、側付きに念を押している。
 ありえないと、よほど叫びたかった。嘘を言うな、ふざけている場合ではないと。しかし。

「可哀想な娘」をあっさり勘当したのに、本当にありえないのか?

 疑問の答えは、帰り着いた領地の足元に、簡単に転がっていた。
 ここまで一族は狂っていたのかと、ナジェルは呆然として、とある館に軟禁された。ナジェルは両親に種馬にと売られ、買われてしまったらしい。お前が望んだ娘だろうと恩着せがましく嘲る表情で父が言う。それは幸いだと買い手が冷酷に笑う。

「子さえ孕めば、その子をセシルかアデライトの隠し子としてしまえばよいのだ。ヒルディアは一度勘当なぞしてしまった以上、外聞が悪いでな。当主にはしてやれんが、その父にはなれるぞ」

 喜べと祝ぐが、その父になりうる者は数え切れないほどいるだろう。ナジェルはただ、一番はじめに売られたから優先的にその立場にいるだけで。
 そして、なにより一番の犠牲になるのが、とっくにスートライトとは縁を切ったヒルダなのだ。

 あまりに悍ましい話を帰還早々知らされ、反論しようとしたら即座に軟禁だ。ヒルダが連れてこられるまでここにいろと、ずっとナジェルは一室に閉じ込められている。

(――ヒルディアさまは、きっと大丈夫だ。セシルさまたちがいるし、公爵家も嫡男が出張るほどだ。きっと守ってくれる)

 何度も自分に言い聞かせる。それ以外、今の自分にできることはないのだという事実に打ちのめされながら。
 監視を振りほどくだけの武力もなく、周囲を欺くほどの弁舌もない。外へ連絡を取ろうにも、協力に足る誰の顔も名前も思い浮かばない。想い人のためになにも手を尽くすことができず、無事を祈るだけで日にちを過ごす。なんという無様。
 この醜態が、ナジェルの短くはない半生で積み上げてきたものだった。
 情けなさすぎて今すぐ死にたくなる。だがナジェルが首を括ったところで、種馬はずらりと軒を連ねている状態だ。ヒルダの危機であることになんら変わりはない。八方塞がりだが、その半分以上は己で掘った墓穴に嵌まっているせいだ。
 他力本願とはこのことかと今更に思い知った。

(なんとかしてくれる、ではなくて、私たちがなんとかするべきだった)

 思い返せばシド・ユスティリアもニーナ・サルヴァンも、一年ほど前に会ったときとは顔つきが違っていた。彼らは及第点とセシルが言ったことも思い出す。領地は落第。
 ナジェルがするべきだったのは、セシルへ窮状を訴えることではなく、ナジェルの精一杯で踏ん張り、足掻くことだった。本当にどうにもならなくなるまで。
 なんの実績もなくなにも労しようとすらしない臣下に、主君が信頼を置くわけがない。セシルとアデルはそもそもの忠節すら疑っていたのだから、放置は当然の仕置きだったのだ。
 しかもヒルダの勘当が事の発端だと、ナジェルはよくよくわかっていたはずだったのに。平凡な……ナジェルたちとある意味同じ立場の娘が、影響を与えていたことを理解していたはずなのに。ナジェルのように気づく者を探すこともせずにいたから、結果、こうして孤立しきっている。

 それでも、今からでも遅くても。脳みそを捻り潰すほど考えて考えて考えて、考え続けなければ。
 閉じ込められているから、反省と後悔と、打開策を模索する時間だけなら山ほどある。館から抜け出すだけでは当然駄目で、むしろナジェルがこの場にいてこそ楔になることができれば……。

 うまい口実も浮かばず、とりあえず出入りする使用人から手懐けようとしても、成果は程遠い。閉ざされた扉を内側から恨めしく睨んでいたら、唐突に、檻が吹き飛んだ。
 新しい風が吹き込み、釘打たれた窓に跳ね返って渦を巻いた。

「――ここにいましたか、ナジェル・サーヴェさま。のこのこ王都に出てくるところもそうでしたけど、どうしてこうも簡単に囚われの身になって、ここに居座ってるんです?」

 荒れた短い髪。薄汚れ、赤いしみもところどころに付けた騎士服。抜き身の武骨な剣身が鈍く光っている。
 それでもナジェルには見間違いようがなかった。来てほしくないと願ったはずの人が、明らかに想像からかけ離れた帰還の仕方をして、目の前に仁王立ちしている。

「……な、なぜ……」
「彼らのお望み通りに、私が来てあげたんですよ。さっさと立ってください。火を付けなきゃいけないんですから」
「火!?」
「見せしめです」

 ナジェルはヒルダの背後に二人の男の姿を見た。領兵や、はたまた傭兵といった様子ではない。ヒルダはその戸惑いを察して「陛下からお借りしました」と、さらりと言った。意味がわからない。

「あくまでご観覧下さるだけで、仕事は私一人のものです。というわけで、本当に時間がないし、邪魔なんですけど」
「……なぜ、あなたが……陛下とは……」
「祖父や他の主だった面々はもう始末しています。また捕らえられることはないので、安心して外に出てください。――さっさと立て」

 厳然たる命令にナジェルはのろのろと従った。
 今、この館の主であるスートライト前当主を始末したと言った。他の主だった面々……ヒルダを取り戻そうと画策した者たちも、全てを。
 ヒルダの風体から怒涛の展開に至るまで、全てに驚愕しすぎてこんがらがったナジェルは、真っ先に変なことを納得した。ヒルダは、領内の人間関係を詳細に網羅している。どこを突けば残った者が大人しくなるかという勘所まで。ナジェルが躓いた部分をなんの困難もなく踏み越えた。
 これが、いずれ夫婦となり「至宝」の臣下に降るはずだった、ヒルダとナジェルの差だった。

「ヒルディアさま……」

 ナジェルははじめから間違えたのだ。想い人が婚約者となった事実に満足して、己を磨くこともしなければ、ヒルダの不遇を悟りながらなんら手を打たなかった。ナジェルが大切にするだけでも少しは変わったかもしれなかったのに。ヒルダがスートライト直系としてまっすぐに立つ様に感嘆しながら、その魅力を誰にも知られなければ奪われないから、なんて甘ったれたことを考えて。
 ヒルダがそう在るために培った全てを、ナジェルの無為が粉々にして、踏み躙ったのだ。

「あなたのご両親も手討ちにしました。恨みたいならどうぞ。今ここであなたも焼いて差し上げます」
「恨みはありません」

 とっさに言ったナジェルにヒルダは少しだけ目を見開いた。しかし、表情はいつまでも冷然としていて。「そうですか」と淡々と返してきた。
 どうでもいいのだ、ヒルダにとって。今なお打ちのめされる余裕がある自分の恋心に絶望する。ナジェルを生かすのは、今後の領地の楔の一つになればと思ってのこと。素の「至宝」の姿――その冷酷で、苛烈で、ヒルダ以外に見せる恐ろしいほどの非情さを身を持って知る者は希少だから。
 それでもヒルダに余分な血を被せずにいたいと思うこの気持ちは、ある意味狂気の一種だろう。ヒルダから漂う濃厚な血の香りに、完全に頭が麻痺していた。

「私はこれから本邸に向かいます」

 外に出て、ようやく血の匂いが薄れた。燃え上がる館を背にしたヒルダの髪まで燃えているように見えた。冷酷で、苛烈で。ヒルダもあの二人と同じ血を分けたきょうだいだった。なぜそれを呼び止めたのか、ナジェルは自分でもわからない。だが、ヒルダが答えを持っていた。

「あなたはお好きなように」

 ヒルダにはそんなつもりはなかったのだろう。余計なことをしても無駄だと釘を刺すようなもので。だが、ナジェルは、「今度こそやってみせろ」と聞いた気がした。
 もう間に合わなくても、手遅れでも。
 臣下になり損なった今のナジェルでも、できることを。

 ヒルダが馬を駆って飛び出してゆく。轟々と燃えゆく館を背に跪拝して見送るナジェルの長く伸びる影を、ヒルダに続いた国王の騎士二人がわずかに振り返って見留め、ヒルダへ視線を戻した。

 誰もが焦がれるほどまっすぐに伸びる背筋は一瞬たりとも振り返らず、暗くなりゆく道を、無謀なほどためらいなく駆けていた。








☆☆☆








 先代当主、ヒルダの祖父の隠居先は、本邸から目と鼻の先にある。次期当主に嫡男が生まれたとあって、第一線を勇退したのだ。健康に不安があったわけでもなく、ただ新しい当主に遠慮する形で居を別に構えた格好だ。祖父は孫をよく館に招いたので、ヒルダと兄妹は何度も遊びに出かけた。日帰りどころか、歩きでも数時間の距離だ。
 一時間ぶっ通しで走れば辿り着く。
 だから、ヒルダが館から入念に生きた人間を排し、火を付け、本邸に到着した頃には、あえて見逃した使用人らが館の変事を本邸にもたらしていたのだ。そろそろ火事のことも伝わっていれば上出来だ。……いや、なにもよくない。

「これはないわ」

 情報収集やらなんやらで人の出入りが活発化するのはヒルダの狙ったところだが、まさか、完全な部外者どころか館を襲った賊まで門を素通りさせるとは。これも国王に報告されるんだろうなと、背後の近衛騎士の視線を感じながら遠い目をした。スートライトはどれだけ恥を晒せばいいのか。ある意味では国王でよかった。他の貴族よりはましだ。ましなだけでなにも解決しないが。

(早く終わると思えば好都合だわ。うん)

 本邸に残った用件を済ませれば、あとは帰るだけだ。
 ヒルダはよしと頷いて、開け放たれている本邸の玄関ホールに足を踏み入れた。

「……何者だ!?」

 ……今度は気づけたから褒めておこう。それ以外は完全な大失点だけど。
 ヒルダは己に突きつけられたいくつもの刃先を無視して、正面の階段の上、二階に立って指示を飛ばしていた男を見上げた。ロバート・スートライト。ヒルダの元父親だ。
 当主の前に現れたいかにもな不審者に誰何して牽制するなどどれだけ悠長なんだ。問答無用で取り押さえるべきなのに、危機管理が本当になっていない。それから……仮にも、ここで長年暮らしてきたヒルダに、「何者だ」とは。数人はヒルダの容姿――赤毛と青い瞳に、同じ色彩を持つロバートを振り返っているが、ヒルダだとわかったわけでない。
 ロバートも不意に現れた、自分と血が近しいような何者かを、訝しげに見下ろしていた。記憶を探っているような沈黙を、ヒルダはあえて見守った。両手を体の横にぶら下げて、少し首を傾げる。汗と埃にごわつく髪が頬にかかる。時が止まったような異様な空気が漂っているのは一部で、視界の端では忙しない人影が何度もよぎる。その中の一人がぎょっと目を剥いて、つんのめりながら「ああっ」と叫んだ。

「あいつです!あいつが先代さまのお館を襲ったんです!」
「人を指差すのはどうかと思いますよ」

 一気に緊張が走る中ヒルダが心底呆れて言い放てば、ロバートがやっと思いついたように瞬いた。

「……ヒルディア、か?」
「はい。勘当でこの家を出て以来ですね、ロバート・スートライト侯爵閣下。お見苦しい姿で申し訳ありません」

 目撃者を含めた全員が愕然とした。ヒルディア――「至宝」のもう一人のきょうだい。可もなく不可もなく、大人しく目立たぬ娘。それが実の父親ロバートをはじめとした全員の意見。目立たないのではなく見向きもしなかっただけだと自覚はない。見なくなってわずか数ヶ月、顔と声がなければ全く思い出さなかったほど、存在感は薄い。
 ――目の前の娘が、本当に?

 騎士たちの囲いの中、ヒルダは悠然と歩きはじめた。わかりやすく怯んで、後ずさるところも失点だ。スートライトの縁者とわかっても勘当の時点で赤の他人同然なのに、なぜ腰を引かせているのか。

「平民としてつましく暮らしていたのですが、先代さまに呼び出されたんです。そこで驚くべきことを聞いたのですが、兄上とアデルを殺そうとなさっているとか?直系の血が絶えてしまう前に私の存在を確保しておきたかったようで」
「……な――」
「私はなにも知らされておりませんが、勘当を解かれるおつもりですか?」

 問いかけながらヒルダは確信していた。ヒルダを産み腹にという画策は祖父が中心のもので、父が関わってはいないこと。なにしろ祖父のその企みは、父を侯爵の座から追い落とすことが必然に組み込まれているのだ。己の地位を維持するためにセシルとアデルを欲した父が大人しく認めるわけがない。
 だが、知らないからといって、スートライトの名を負う宗主である以上、責任は首謀者の祖父と同等、もしくはそれ以上。
 赦してやるつもりは毛頭ない。

 周囲はさらなる動揺にざわめいている。ヒルダは父とその側に付いている者たちの反応をつぶさに観察した。ナジェルが関知していなかった以上、父と祖父に共通したセシルの殺害だって、スートライトの総意ではない。使用人や下級文官、騎士たちの半数以上はひたすら驚き、悲鳴か疑念の声を漏らしている。父が救いを求めるように視線をやった相手が父の共犯者。苦々しく、あるいは「馬鹿なことを!」とわざとらしく声を上げてごまかそうとしているのが祖父の息がかかった者。

「あなたが勘当されどれほど身をやつされたのか、私どもには考えも及びません。ですがそのような虚言は、どうあっても見過ごすことはできませんぞ!」
「そ、そうです。勇ましい出で立ちですが、なにかご無理なさってはいませんか。お髪もそのような、なんとおいたわしい……」
「――小指の爪の先ほども考えもしなかったくせに、よくも言った」

 ヒルダは階段を登りながら剣を抜いた。父の前に団長や役持ちの騎士が立ち塞がる。彼らはヒルダの身のこなしを見るや、表情を険しくした。持て余すことなく手に馴染ませた剣の柄。抜く動作にも長年の修練を思わせる滑らかさがあった。丈夫ゆえに重い軍用のブーツを軽やかに鳴らしながら、きざはしを一つずつ越えていく。
 これがあのヒルディアお嬢さまかと思う気持ちは、血の匂いで掻き消された。

「あなた方まで剣を抜く必要はありませんよ」

 不意にヒルダが声をかけたのは、己の背後。ヒルダから数段開けてついてきていた近衛騎士の一人は、眉をひそめて「承服しかねます」と応じた。内心では鞘走るわずかな物音を正しく捉えたヒルダに驚きつつ、そろそろ慣れてきた気分でいる。

「陛下が私どもに命じたのは、貴女が当領になにを成すのか、陛下のお目となって見届けること。必要であれば援助すること。――なによりもまず貴女の身の安全です」
「ご安心ください。兄上とも無傷で帰ってくると約束したんです」
「私どもも仕事です」

 手出しするなと言い張るならそれなりの立ち回りをしろと、この状況でしれっと言った同僚に、もう一人がにやっと笑った。話を聞いている間に、周囲の空気がまた変わったこともきちんと把握していて、さらに決定的な台詞を吐いた。

「我らは此度貴女に貸し与えられた、アイザック陛下の御剣みつるぎです。貴女への侮辱に応じることも陛下はお許しになるでしょう」
「……剣は、兄上がくれたこの一つで十分なんですけど」

 ヒルダは肩越しに二人を見て、ちょっぴり苦笑した。にっこり微笑み返す近衛たちは、抜きかけだった剣を同時に引き抜いている。何気ない動作でも視線を奪う美しさがあるのは、さすが近衛というべきだろうが、血の気の多さは隠せていない。国王はなんという人材をヒルダにつけているのか。
 しかも政に不明というわけでもなかった。無理に張り上げることもなく通る声で、察しよくノリもよく、ヒルダと会話してくれただけで助かる。剣はいらない。切実に。視線を階上に戻せば凍りついたような人々がいて、先ほど声を荒げた祖父派の男が喘ぐように尋ねてきた。

「……ア、アイザック陛下と、おっしゃいましたか、今」
「はい。陛下は兄上を重用してくださっているので。兄上の危難に憂慮なさって、事の次第を質す役を兄上から仰せつかった私のために、護衛として近衛の方々を貸して頂いたのです」

 最愛の兄妹さえ目的のために使うヒルダは、国王だから、近衛だからと遠慮などしない。
 セシルの次期侯爵の地位は国王の認めるところであり、援助も惜しまないという証明。後ろ暗いことがありまくる面々の表情は見物だった。ヒルダが一歩一歩近づくたびに、ひと塊に後ずさっていく。逃げ道を探すように視線を泳がす者、近衛騎士を凝視する者、ヒルダに声をかけようとしてもかける言葉なく、口を開け閉めする者、様々だ。ただひたすら厳しい表情の者もいる。

「エルドレッド・セリアン騎士団長。そういうわけで、閣下の前にいられると邪魔なのです。下がってもらっても?」
「……問い質すためならば剣は不要です。お話しのためならお部屋も用意させましょう。ここで急く必要は」
「いたわしく身をやつした私の口から出た言葉では、まだよく理解できませんでしたか?」
「お嬢さま、どうか」
「私は兄上の妹ではありますが、もうこの家からは勘当されています。どうぞそのままお呼びくだされば」
「こちらからも色々と伺いたいことがあるのです。旦那さま、そうでしょう」
「なるほど、勘当を解く気もないのに呼び戻すのは、閣下も先代も同じ意志でしたか」
「っ……」

 失言したと顎を引く騎士団長は父側だが、祖父派にも無関係ではない。ヒルダは無表情な猫なで声で、優しく「セリアン卿」と呼んだ。

「私は、あなたにも問いたいことがあったのですよ。しかし今はお遣いの身。兄上と陛下にあまりに余計な時間を取らせるようならば、別に対話にこだわる必要もないのです。『資料』を見ればわかることなので」

 いずれ領主になるはずだったセシルに度を越した憧憬を抱いていたのは騎士団長も共通だ。他と違うのは、ことさらセシルが重用する「落星」への羨望や嫉妬があったこと。
「至宝」の代の騎士団長であることに執着し、「落星」に取って代わられるのではと脅威にも思ったのではないだろうか。そうして企みに加担したならば、今ヒルダが、殊勝にすれば多少は免じてやる意志を見せつけたとしたら……引いた。
 無言で頭を下げて、ヒルダの目の前からどいた。目を丸くする部下たちにも下がれと命じる。守られていた側が慌てて声をかけても、無言のまま首を振るだけ。

(やっと最後の仕上げだわ)

 ヒルダは鼻で軽く息を吐いた。ヒルダの腕では階上の騎士たちを相手取るのは無理だとわかりきっていたから、あえて館のような急襲を選ばなかった。その分、説得という名の脅しと交渉は手間だった。まあでも、表向きはやっぱり「穏便」にしないといけないから。
 館に集まっていた祖父や一門貴族は、による大火事に逃げ遅れて亡くなった。
 本邸の方はどうしようか、とは悩まない。

「それでは、閣下には、不治の病にかかってもらいますね。感染性があり、かつ進行も早い。そんな病に」

 邪魔者なく向き合った父のぶれる視線が、ヒルダの手に持たれた剣を見て、土気色の顔に脂汗を浮かべた。騎士団長を見ては見捨てられたと察すると、土気色に赤みが差した。侯爵である己がこうまでされた屈辱と憤怒。
 次の瞬間、階下の者たちが飛び上がるほどの大喝が響き渡った。

「……ヒルダ!!お前はどうしてそう、市井にくだってもその歪んだ性根は直らなかったか!!」

 もうすぐ来るかなと思っていたので、ヒルダはあからさまには怯えなかった。どうしても肩が強張ったのは失態、だけれど気づかれない程度だったはずなのに、近衛二人がヒルダの両脇から前に出た。刃を閃かせる壁に、ロバートが憤然とヒルダに掴みかかろうとして踏みとどまる。歯軋りは冷静の真反対。ロバートはそれだけヒルダを許せなかった。
 哀れんでいた。見下していた。「至宝」になれなかった分際で。勘当されたくせに――。

「私が、自分から勘当を申し出たことも忘れましたか?」

 父親の剥き出しの感情を浴びたヒルダは、もうとっくに落ち着きを取り戻していた。この人は変わらないんだなと、妙に凪いだ心で思う。きれいな優越感だけ胸に飾って、劣等感は人に押し付けて。歪んだ価値観は記憶も歪ませるらしい。いつヒルダは市井に修行に出たのだろう。しかも帰って来る前提で?
 思わず笑ってしまった。
 遠い過去から手を伸ばしてくる恐怖を微笑みとともに蹴飛ばして、ロバートが埋めなかった距離を詰める。手を握りしめると、柄がぎりっと音を立てる。剣身が鈍く色を変える。

 兄と妹は、ヒルダの成すことを理解した上でここにヒルダを送り出した。
 帰る理由も帰る場所も、ここにはない。

「あなたは、私たち兄妹、全員に捨てられたんですよ」

 逆袈裟の一閃を、噴き出る血が追いかけ、舞い散った。
















 この日、スートライト侯爵ロバートは、原因不明の病によって急逝した。
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